18:Astra non mentiuntur, sed astrologi bene mentiuntur de astris.
同じなんだと思ってた。
私達は目と髪の色は違うけど、一緒に生まれた。
私達の見た目が全然違うのは、仕方のないことだと思った。でもそれで良かったと思う。
第一に、私は彼が私と同じ外見だったら好きにはならなかったと思う。
私は彼を一人の人間として。他人として認識することは出来ていた。
私と彼は別々の人間。一緒に生まれはしたけれど、私は彼ではないし彼もまた私ではない。
それを私はよく理解していた。けれど本当の意味で私はそれを理解してはいなかったのだ。
あの人はこうすればいいと言っていた。私はエルムちゃんが大好きで。本当に大好きで。
そうすることで、私と彼が幸せになれるのなら、その言葉に逆らう必要なんて何処にもない。
私達は同じ。あの子の幸せが私の幸せ。私の幸せがあの子の幸せ。
だって私達は同じなんだもの。
似てないけれど、反対だけれど、私達は同じ。
それを疑うと言うことを、私は忘れてしまっていた。
*
ここに連れてこられてから。こうして彼の傍に来られたのは何ヶ月ぶりだろう。
ここに来るまでは、毎日顔を合わせていた。朝目を開けて最初に見るのは彼。夜目を閉じる前傍にいるのもやっぱり彼。そんな当たり前のことがここでは当たり前ではなくなって。一人で沢山考えた。
ディジットはどうしているんだろう。きっと心配している。彼女に会いたい。
洛叉はどうしてあんなに悲しそうな顔をしているんだろう。彼とちゃんと話したい。前みたいに。他にもいっぱい。いろんな人のことを考えた。それでも誰より会いたいと思うのは、自分の片割れ……エルムのことだ。
あの黒い髪の人……ヴァレスタには、随分酷いことをいろいろ言われたような気がする。泣けば泣くほどその言葉の棘は鋭くなった。
でも、ある時を境に、彼はとても優しくなった。最初はそれが不気味だった。
アルムの部屋は牢屋から立派な部屋へと移された。そこには洛叉もいて、前みたいに話をしてくれるようになった。
洛叉は言っていた。どうして自分たちがここに連れてこられたかを。彼が言うにはエルムは重い病気にかかっていたのだという。それは一番傍にいたアルムも感染している可能性が高いので、一緒に連れて来られたらしい。その病気が他の人に移るといけないから、それが治るまでディジットには会えないと教えられた。
洛叉は立派なお医者様だ。彼がそういうのならそうなのだろう。頭ごなしにそう受け入れた。弟のために何か出来ることは無いかと彼らに相談した。アルムがそう尋ねたある日、暗い顔をした洛叉がこう言った。
「これは君にしかわからないことだ」
君にしか出来ない。それは強い期待。信じる気持ち。いつも失敗ばかりのアルムは、そんな言葉に強く惹かれる思いがあった。
「君は彼の片割れだ。姿形が違っても、その本質は変わらない。君はこの世の誰より彼に近しく、彼を深く理解することが出来る人間だ」
洛叉の言うことはいつも難しい。アルムが首を傾げると、彼はそれを別の言葉に置き換え理解を促す。洛叉は優しい。優しい人だ。
「彼は毒に冒されている」
その毒は不思議な毒なのだと洛叉は言う。その毒は感情により力を強めるもので、彼が嘘を吐けば吐くほど彼を苦しめ、いずれはエルムを死へと追いやるのだという。
「エルムちゃんが、嘘を吐いている?」
「ああ。エルムは嘘を吐いている」
それは取り返しが付かないとでも言うように、洛叉は落胆の表情。医者である彼に匙を投げられたら、彼はどうなってしまうのだろう。死んでしまうんだろうか。泣きそうな顔で彼を見上げると、洛叉が優しげに微笑んだ。
「だが、アルムはエルムの片割れだ。君には彼の心がわかるだろう?」
「……ええと」
「何も難しい事じゃない。君が思ったことを素直に考えればいい」
「私の、思ったこと?」
「君たちは特別だ。共に生まれた、世界にたった二人の姉弟だろう?君たちはいつでも繋がっている。唯、彼は嘘の病に冒されているだけ。君の心が彼の心だ」
「私が……エルム、ちゃん?」
お医者様でも手を焼く病。それをこの役立たずの失敗ばかりの自分が、自分だけが助けることが出来るのだ。そう強く言い聞かせられた。
自分が彼を必要としているように、彼も自分を必要としているのだとすんなりと理解することが出来た。
「アルム。君は彼が好きだといつも言っていたね」
ああ、そうだ。自分が洛叉を好きなのは、それを否定しないからだ。
今よりもっと昔はエルムだって、それを認めてくれていた。大好きだって言ってくれた。それがどんなに嬉しかったか、彼は知らないんだろう。
それが何時からか、言わなくなった。そしてそれを否定するようになったのだ。
“あのね、姉さん。それはおかしいことなんだよ”
“僕らは姉弟なんだ。姉弟っていうのはね、いつまでも一緒にはいられないし、何時までも一番ではいられないんだ”
どうしてて尋ねると、彼はそういうものなのだと溜息ながらにそう言った。
エルムはいつも難しい話を持ち出して、壁を作る。法律だとか戒律だとか。自分と彼とでは恋をすることも結ばれることもないのだと言う。
同じ言葉を話しているのにそれが理解できなかった。そう決められているから。そんな理由で、彼は……“私の半身”は“私”を否定する。
(だったらその法律を作った人は馬鹿な人)
(だったらその戒律を作った神様は何も知らない人)
本当に本気で誰かを好きになったことがないのだ。だからそんな風に言えるのだ。そう、だから他人事。
(私はエルムちゃんが好き。本当に好き。世界の誰よりも一番好き)
だけど自分が姉だからという理由。そんな理由で、この想いを諦めなければならないのだという。いつか自分以外の誰かを好きになって、手の届かない遠い場所に消えてしまう。奪われてしまう。それを笑って見送るのが“私”の役目なのだと世界がそう言う。
(嫌……嫌だよ………そんなの)
彼は“私”の半身だ。彼を失って、“私”はどうやって生きればいいの?どんな風に歩いていけばいい?
「……っ、うっ……うう」
どんな言葉なら、彼にちゃんと伝わるだろう。
貴方が好きです。大事です。本当に好きなんです。ずっと一緒にいて欲しい。
そんな想いをどうすれば。
おそらくそんな言葉は何処にもないのだ。だからアルムは泣くことしか出来ない。
子供の駄々だ。手に入らないものがある。それが欲しくて欲しくて堪らない。こうして泣いていれば、神様が……それを叶えてくれる。そんな思いで子供はきっと泣くんだろう。
だけど、神様は叶えてくれない。それを自分から取り上げたのが他ならぬその神様なんだ。泣いても何も変わらない。
泣いている自分に、手を差し伸べてくれたのは………赤い瞳の男。ヴァレスタだった。アルムの赤によくにた赤い瞳のその男の目を見ると、これまで見たことがないほど優しく微笑んでいた。
神様かと思った。
だけど彼は神様じゃない。それなら。それなら彼は……彼は悪魔だ。でも、それでも構わなかった。この苦しみから自分を救ってくれるのなら、その人こそが救い主。
そして彼は教えてくれた。この苦しみからの逃げ道を。
エルムの毒を癒し、そして二人が幸せになるための方法を。
*
無音をここまで恐ろしいと感じたことがあっただろうか。アルムは考える。
牢の中には自分だけではない。弟のエルムもいる。でも何を話しかけても彼は何も言わない。別に死んでしまったとかそんなことはなく、何も話したくないだけなのだ。アルムが渡された短剣で付けた傷も今はもう何処にもない。
自分のしたことの何が彼をそこまで怒らせているのかはわからない。けれど自分が彼をとても傷付けてしまったことをアルムは理解する。
何を言ってもたぶん取り返しが付かない。修復が不可能なところまで彼を追いやった。そんな気がした。
彼は暫く牢の天井をじっと見つめていた。それから、両腕で顔を隠して笑いながら泣いていた。くくくとか、はははとか。とても楽しそうには聞こえない笑い方。
無理して笑うというよりも、もう笑うしかないと言うような乾いた笑い方だった。やがてその声は聞こえなくなり、次第に夜が近づいた。
牢の中は肌寒かった。彼は今までこんな場所に一人で置かれていたのか。鼻水をすする。口から漏れる息も僅かに白い。
自分も最初はそうだったのに。この寒さを忘れていた。てっきり慣れたものだと思っていたのに、ちょっと普通の生活を知ればすぐにこう。自分はどうしてこんなに駄目なんだろう。いつも彼がいなければ、一人では満足に何も出来ない。
物心ついた頃からいつもそう、いつも失敗ばかりで泣いていた。そんな自分の傍からは誰もいなくなった。それが悲しくて、また泣いた。
友達と遊んでいても、すぐにみんないなくなる。アルムのドジに愛想を尽かす。
一緒に遊んでくれる人は出会ってすぐにいなくなる。最後に残るのはエルムだけ。彼だけなら一緒に遊んでくれる人はいっぱいいた。ドジなお荷物がいなければ、彼はどこでだってとけ込めた。だけど彼はそうしなかった。いくらどんなに失敗しても、彼が自分に愛想を尽かすことはなかった。
誰かを嫌いになることはきっと簡単なこと。どうでもいい小さなことで喧嘩をしてしまう人達はいる。
だから、誰かを好きになるのも本当は簡単なこと。こんな小さな事でも、本人にとっては嬉しくて嬉しくて……堪らないことだということもある。
彼はいつも隣にいてくれた。仕方ないなと言うように肩をすくめて、苦笑して。たまにはそっぽ向いて。
彼は自分の優しさをそのまま受け入れられない人間で。自分は全然優しい人間ではないと思っているみたいで。いつも前置きのような言い訳と仕草をした後に、傍へと寄ってきてくれる。
アルムはそんな彼の不器用さも好きだった。そう言うときに見せる表情。それはたぶん自分だけのものだ。愛想の良い彼は、他の友達にも父にも母にもそんな顔は見せない。
あの頃の彼は、今より……ずっと楽しそうに笑っていた。お決まりの前置きが終われば、一緒に笑ってくれたのだ。他の人に送る作り物じゃない、心からの笑顔を“私”に。“私”だけに。
それが何時から?何時から変わってしまったのか。
彼は笑ってくれなくなった。それは時を送るにつれて顕著になる。国を出る頃には作り笑いもしなくなり、彼は影に溶けるよう希薄になっていく。
彼が心から笑うなら、きっと誰だって彼を好きになる。きっともっとちゃんと見える。見えない風に扱わないで。彼はちゃんとそこにいる。そう思うのに、同時に違うことを考える。
笑って欲しい。でも笑わないで欲しい。
彼が心から笑うなら、誰かが彼を好きになる。取られてしまう。そんなのは嫌。
今までずっとそれは自分だけの者だったのに、後から現れた癖に、“私”より何も知らない癖に。そんな相手にあの笑顔を奪われてなるものか。
そう、思う心があった。彼はきっとそれを解っていた。だから彼は笑わなくなった。
薄れていく彼。自分にしか見つけられなくなった彼。何処にいても自分だけには見つけられる。ちゃんと見えている。
それは誇らしくもあり……悲しくもあった。
彼にちゃんとした表情が戻ったのは、セネトレアに来てからだ。ディジットの店“影の遊技者”に来てから、彼は怒ったり笑ったりを思い出した。
それはとても嬉しかった。本当に嬉しかったのに。次第にそれだけじゃないことに気付く。
極々稀に、ディジットやアスカには微笑むのに。“私”がドジをしても、笑ってくれない。大きな溜息。冷たい視線を“私”に向けるのだ。大好きだよとそう言っても、はいはいと流される。本気で相手もしてはくれない。“私”の言葉は聞こえているし通じているけど、彼には届いていないのだ。
それが悲しくて泣いていると、ディジットや洛叉が話を聞いてくれた。エルムはこの理由の時はそれを察して近くに来てはくれなかったから。
ディジットは優しかった。大好きだった。大好きなのに、彼女を羨み妬む心があるのは悲しかった。それでもディジットは頭を撫でてくれた。エルムのようにアルムを否定することはせず、「それは素晴らしいことよ」と微笑んだ。
世の中には本当の意味で誰かを好きになることが出来ない人間が沢山いるのだと彼女は言った。
「そんな連中よりアルムはよっぽど世界が見えているわ。ちゃんと相手を真っ直ぐに見て相手を好きになる事が出来る。そしてそう思う自分の心をちゃんと認めてあげられているもの」
ディジットは言った。世の中にはそれを認めることが出来ない人もいるのだと。アルムは思う。どうしてそんな当たり前のことが出来ないのだろう。よくわからなかった。
「でもね、アルム。これだけはちゃんと覚えておいてね」
いつもは静かに話を聞いて、優しく頷いてくれるディジットが、ある時目を見てそう言った。
「アルムはエルムが好きなのよね」
勿論と、こくこく頷く。
「それなら、アルムはエルムの幸せを願ってあげられる心を忘れないで」
「エルムちゃんの……幸せ?」
それなら願ってる。昔みたいに、心から彼が笑って暮らせるようにと何時だって。
しかしディジットは首を振る。
「人の幸せっていうのは人それぞれだから。アルムが幸せだと思うことが、エルムにとっての幸せと同じとは限らないのよ」
穏やかな口調の言葉だったのに、強い衝撃を受けたのを思い出す。同じじゃない。同じじゃない。同じじゃない。
「だからいつもしっかりエルムを見てあげなさい」
誰よりも大好きな彼の幸せを、見誤らないように。
この想いが届いても、破れても、彼の幸せを願える気持ちを忘れないように。
「出来ることなら、貴方達二人の幸せが同じ所にあって欲しいと私は願っているけれど。私はあんたもあの子も大事だからね。あんたら二人が泣くようなことは絶対になって欲しくないのよ」
思い出す。思い出す。思い出した。
そうだ。そうだ。そうだ。
“私”は間違えた。“私”は見誤った。“私”は……“私”は………
*
いつの間にかアルムは眠ってしまっていたらしい。泣いてもいたようだ。目覚めたら僅かに明るい。耳を澄ませば遠くから鳥のさえずりも聞こえてくる。
朝が訪れたのだと知る。そして夜に感じた肌寒さが薄れていることを知る。
ピタリとくっついたままの背中から伝わる温度。布越しでもそれは温かい。
首だけそっとそちらに向ければ、背中合わせに眠っている弟の姿。
それから身体の上には毛布が掛けられていた。寝相の悪い自分が引っ張ったのか、彼は半分以上身体が毛布からはみ出している。
(ごめん……エルムちゃん)
薄着の彼が風邪を引いてはいないか。そっと額に手を当てて……毛布を彼へと戻した。
アルムは自身の過ちに気がついた。好きだ好きだと言いながら、その相手の幸せを考える心を無くしていた。そうだ。自分と彼は、同じではない。
彼を好きなのは自分だけ。彼はアルムを好きではない。嫌いではないにしても……それは同じ意味ではないのだろう。
今なら解る。そんな病気、あるわけないじゃない。だけどあの時はそれを本気で信じていた。エルムが自分を受け入れてくれないのはその毒のせいだ。それが消えたなら、きっと同じ気持ちになってくれる。だって二人は同じはずだもの。そんな都合の良い言葉を鵜呑みにした罰だ。だからきっともう彼が許してくれることはない。
「……っ、……」
同じだから、好きになったわけではないのに。どこで間違えてしまったのだろう。
泣いても結局何も変わらない。神様は何もしてくれない。邪魔以外の、そう何も。
悪魔は所詮、悪魔に過ぎない。人を弄ぶだけ。
だから泣いても無意味だ。そう思うのに、感情の高まりにシンクロするような両目の蛇口は勝手に流れるものなのだ。
何もしないで泣いているだけでは駄目だ。
両手で涙を拭い、アルムは鉄格子へと両手を伸ばす。引っ張ってみよう。どこか一本くらい外せるかもしれない。それが出来ないなら、あの短剣で削って折れないかどうかやってみよう。
そう決意して、触れた先……じゅわと何かが沸騰するような音がした。
「……え?」
目を瞬く。なんだかよくわからない。よくわからないけれど。さっきより広い。鉄格子の間隔が。
もう一度、今度は違う鉄格子に触れてみる。1秒、2秒……何も変わらない。
「あ……!」
指先から垂れた雫。それが鉄格子に伝わった時、再びじゅわという音。そして更に広がる間隔。前回は気がつかなかった。しかし今度はちゃんと見た。
雫が指から離れ、鉄に触れた瞬間、光が輝いた。それは光のように見えたが光ではない。それは数字。キラキラと光り輝くその数、数、数。鉄格子の一本が、砕かれるように飛び散って、その破片が数字に変わる。
よくわからない。よくわからないには違いなかったが、アルムはここから逃げる事ができるということは解った。
「エルムちゃん……!」
振り向いて、彼を揺り起こそうとして……アルムは思い悩んだ。よく分からないが鉄を溶かしたこの手で彼へと触れて問題ないのだろうか?
とりあえず服の裾で拭ってみる。自分の肌に触れてみる。鉄格子に触れてみる。大丈夫だ。でも本当に大丈夫なんだろうか。不安だった。
*
「……うん、言いたいことはいろいろあるけどね。とりあえず姉さん、どうしてもっと早く起こしてくれなかったの?」
エルムは寝起きから重いため息を吐く羽目になった。
一晩眠ったら……大分気持ちも落ち着いた。いろいろ思うところもあるが、まずは目先のことに目を向けることが大事だ。そうすることでしばらくは起きてしまったことを忘れられるような気がする。
「あのね……私の手、危ないかもって思って。どうすればいいのかわからなくて、考えて」
「そっか。それで数時間消費したんだ」
「うん。それで」
「その結果、僕は寝起きに足蹴にされてたわけね」
「手じゃなきゃ大丈夫かなと思って」
「思ったんだ」
「うん」
「そう」
「うん」
「へぇ」
「うん」
これ以上付き合ってもなんの進展もないし妥協するのはいつも自分の役目。普段通り過ぎるやりとりに、またため息を吐きつつ、エルムは遅すぎる脱走を促した。
牢を抜け出した二人は、逃げ道を模索しながら昼でも薄暗い通路を歩く。よくわからないが数術を会得したらしいこの姉はあろう事かあのびくともしなかった鉄格子を粉砕していた。
そう驚くことでもないが、自分にもあったことだ。彼女にもそれが起きるのも、あり得ないことではない。元々自分と姉は混血だ。混血は数術使いの才能に恵まれている。前にディジットの店に顔を出していたトーラにも、自分たちには才能があるとか言われたような気もする。
昨日姉に負わされた傷が塞がっているのは、エルム自身が数術の力に目覚めたからだ。
よく分からない内に、それを発動させて、手足の穴を治療した。多分、泣いていた頃だ。ごちゃ混ぜの感情に飲まれるよう、もう何もかもがわからなくなって、全てを拒絶した。そうすると、痛みも麻痺して……次第に何も感じなくなって………目を開くと傷が癒えていた。
目を開けた先、見える景色が変わっていたのだ。空中に。不思議なものが覗いている。それは数字だ。落書きではない。それは鈍い光を放ちそこにある。それは次第に光を弱め、やがて完全に見えなくなった。姉には何も見えている風ではない。これが自分がやったことなのだとエルムは知った。
数術か。魔法のような力。自分が手に入れるとしたらどんなものだろう。いろいろ思い描いてきたものはある。だけど、こんな地味な力。何の役に立つというのか。
暴力に抗うには丁度いいかもしれないが、殴られたときの痛みそのものを和らげるものではない。後からそれを和らげるだけであり、その瞬間の痛みを自体を回避することは出来ないのだ。
頼りにならない姉は昨日連れてこられた道を覚えているはずもなく、逃げているのか迷っているのかわからないまま湿った臭いの風が通る通路を進む。
耳に神経を集中させて、暗さに慣れた両の瞳で脅えながら一歩一歩を踏み出した。その何歩目だったか。背後から悲鳴。反射的に振り向いたエルムに襲うは鈍痛。
「っ……馬鹿っ!!」
「ご、……ごめん」
どうせそんなことだろうとは思った。諦めている。姉はこういう人間だ。石があれば躓き、段差が在れば転び、何もなくてもずっ転ける。振り向き様に腹部にスライディング頭突きを食らわせられた。頑固な姉らしく、頭は丈夫だった。実に痛い。
いくら骨が丈夫でも、中に入っているのが大した脳味噌ではないのに。まだ小鳥とか蛙とかそこらへんの虫とかの方がちゃんとした脳味噌を持っているに違いない。彼らはちゃんと一人で生きている。とすれば姉の頭蓋の内にあるのは脳ではあるまい。すっかすかの穴あきの失敗作のケーキのスポンジか、賞味期限の切れたプリンか何か。そんな感じのものだろう。だというのに、なんだこの堅固な守りは。
あまりに痛みに、これまでの鬱憤が爆発しかけ、大声で怒鳴りつけそうになる。が、踏みとどまれるだけの冷静さはまだあった。こんなところで大声を出すなんて出来るはずがない。唯でさえ、今の転倒の衝撃音が誰かに聞こえていないとも限らないのだ。
エルムは四方を見回す。これまで通路には監視はいなかった。ここにはあまり人が連れてこられることがない。
しかし安堵を吐く一瞬前に、小さくチャリと鳴った音がある。
それは鎖の音。近づいてくる。前でも後ろでもない。それは横から。横には暗い牢が……
牢の中には繋がれたままの、一人の少女。エルムにはその混血の少女に見覚えがあった。
「埃沙……!!」
「エルム……?」
突然の訪問者には、彼女の方も驚いていた。互いに言葉を失って、牢の内と外で見つめ合う。
「…………誰?」
そんなエルムの背中に突き刺さる、声。アルムの声だ。
姉が首を傾げる。仕草だけなら充分愛らしい部類には入るが、その目は僅かに冷ややかだ。その目に僅かに血の気が引いた。
エルムは姉を自分より精神的には子供だと思っていたし、お世辞でも頭の回転で自分が負けるとは思えない。姉とは名前ばかりで、手の掛かる妹のように認識していた相手だ。
見知った人が違う人間になってしまったようなそんな感覚。それは確かな恐怖でもある。その恐怖は、忘れようと努める記憶を否応なしに呼び起こすのだ。そうだ。昨日の彼女もそうだった。
(怖い……?僕は……僕が、姉さんなんかを?)
何も知らない。騙されて。馬鹿な子供。大人達にいいように洗脳されたどうしようもない馬鹿だ。きっと自分のしたことのなにがいけなかったのか。それさえ正確には解っていないのだろう。そんな、馬鹿な女だ。そんな馬鹿な女を、自分は恐れている。
自分が傍にいなければ何も出来ない。失敗ばかり。あの男が混血を一以下と、人以下の存在とそう呼ぶのも彼女に限っては仕方がないと、そう思えるようなこの姉が。
「エルムちゃん……?」
答えないのではなく答えられない。自分の態度が弟を怖がらせている。そんな自身に気がついたのか彼女は一度首を振り、いつも通りを努めようとする。
「姉さん、この子は埃沙。生まれはタロックの混血だ」
以前、同じ牢に入れられたことがある。と言ったら。あのいかれ気味の博士の目的を死ったら、姉がまた恐ろしい形相になりそうだったので、そこはひた隠しにしながら紹介をする。
「……」
「…………」
が、何故か二人は黙り込む。じっと互いを観察するように見つめた後、埃沙が鼻で笑う。それを見て、姉がむっとした表情に変わった。
(…………)
おかしい。いつもならここで、疑問符を浮かべながら首を傾げるはずだ。何も解らない姉は、他人の敵意も悪意もわからない大馬鹿だったはず。
いつも通りを装っていても、やっぱり違う。何かが決定的に違う。隣にいるのが見知った人ではないのがわかり、思わず一歩後ずさる。
「エルムちゃん?」
問いかけてくる声の調子は変わらない。彼女の声だ。それに僅かに安堵した。
そして埃沙のことを考え、ここから彼女を連れ出す方がいいと思った。それを姉に提案するも、彼女は渋る。
「姉さん、ここも壊せる?全部じゃなくていい」
「で、でも……」
「……無駄」
「え?」
渋ったのは姉だけではなかった。
「私はここにいる。牢があっても牢が無くても」
「それは違う。君がここにいるからあの人はここにいるんだ」
「そんなことは関係ないの」
「兄妹なんて所詮他人よ。ただ血が繋がっているだけの他人。その血は鎖。たかがそれだけで……人を苦しめ縛り付ける」
冷ややかなその言葉に息を呑む。そしてそれは背中からもう一つ。こんな所ばかり一緒だった、姉弟揃って。
「それが、貴方の片割れ?」
牢の中の少女。見透かすような透明青の瞳。湖面のように透き通っているのに……それでもそれが風に波紋を作ることはない。無感動なまま、埃沙が呟く。
「私には、もういない」
混血は双子で生まれる。彼女には、いない。それは、彼女が彼を失ったということだ。
「あ……」
遅れるように小さく上がったアルムの声。彼女も気付いたらしい。
欠けずに揃っている双子を見る、埃沙の瞳は冷たい。
「………貴方は私がわかる?わからない。だから貴方も私がわからない」
お前の解るのかと、彼女は説いている。そしてその答えを待つ間もなくそれを否定する。わかるはずがない。私とお前は違う。どちらが幸福で不幸かなんて問わないけれど、その両者は別で異質。故に理解することは出来ないのだと彼女は語る。
「私はあの男を許さない。それだけは確かなこと」
あの男。その言葉から浮かんだ顔は二つある。前後の文脈から察するならおそらくはあの闇医者。それに気付かない姉はそれがあの奴隷商の方だと思ったようだ。
それまで渋っていた彼女が、なんとか鉄格子を壊せないかとそれを引いたり押したりしだしたのは、あの男を恐れる気持ちがあるからか。いや、他人を哀れむ心を思い出したからか。
「行こう、姉さん」
「え、エルムちゃん?」
エルムの言葉にアルムは目を大きく見開く。
「え、え……え?で、でも……!」
「……いいんだ」
強くそう言い渋る姉の手を引くと、彼女はそれ以上の抵抗を止める。唯じっと此方を見ているだけ。此方の決断を待っている。
来た道を振り返ると、通路は長く続き、その向こうは黒。前を向いてもそれは変わらない。どちらに進むのが正解だなんてわからない。唯、後戻りは出来ない。そんな気がするから。
ここは暗い。こんな場所は嫌だ。こんな所にいたらおかしくなりそうだ。既になっているのかもしれない。
(埃沙…………僕と君は確かに違う)
(だけど……僕もあの男は、絶対に許さない)
自分は違う。洛叉とも、埃沙とも。
冷たい目。冷たい目。僕はあんな目をしていない。あんな目で姉さんを見たりはしない。
エルムは自身にそう強く言い聞かせる。
(姉さんは、姉さんなんだ)
何があっても。何をされても。それは絶対に変わらない。揺るぎない。
彼女は家族だ。面倒臭いと思うこともある。離れたいと思うことだって。何度その手を振り払おうと思ったことか。それでも、結局一緒に生きてきた。腐れ縁でも何でも、今更他人と割り切れるような存在ではない。
多くに関心を持てない自分が、どうでもいいと割り切れない数少ない相手だ。
(研究対象?実験動物?僕らはそんなものじゃない)
そうだ。ましてや、金を生むための鶏でもない。どいつもこいつも欲塗れ。自分の欲のためなら他人をどう搾取しても構わない。道具、それ以下。素材か何かだと思っている。
金が欲しい。名誉が欲しい。地位が欲しい。才能が欲しい。賞賛されたい。崇められたい。優位に立ちたい。自分は特別な存在だ。あとの人間は虫螻だ。皆平伏せ。跪け。そして讃えよ。そんな、そんな欲のため。
気持ちが悪い。こんな所、もう嫌だ。
どうしてそんなにお前達は自分が好きでいられるんだ?そこまで勘違いが出来るんだ?鏡を見てみればすぐにわかる。その濁った目。偽りの面。その薄気味悪さ。
計算、計算、計算、計算。騙して、陥れて、そして手にしたものに本当に価値があるのか?
いや、……どうなのだろう。どうして奴らはそこまでする?それはむしろ、その逆ではないのか?自分を好きになりたい。肯定したい。だから、欲が出る。
認めさせたい。世界に自分を。自分が素晴らしい者だと認めさせたい。この世の中を屈服させたい。それは何かへの憎しみのよう。恨んで妬んで……その憎しみで、彼らは復讐をしようとしているのではないか。
嫌いなのは自分ではなくて、この世界。自分が好きになれないような自分を作り生み出した世界を彼らは憎んでいるのかもしれない。
だが、そんなことは今更だ。誰だって最初から自分の全てに満足できるはずがない。だから自分に足りない何か手にするために、それを求める。そもそもそれが間違いだ。
彼らに足りないのは、諦めだ。足掻けば足掻くほど、その姿は浅ましく醜く映る。そしてそうすればそうするほど、迷惑を被るのは他人なのだ。
やりたいことがあるのなら勝手にやればいい。自分だけの世界の中で。
世界はその者一人で成り立っているわけではない。他人を巻き込んだ時点でその者は迷惑以外の何者でもない。求めれば与えられるって?そんな訳があるか。そんなことがあるのなら、今頃誰も祈らず、願わない世界が出来ている。
今も愚かに、この僕も……願うことがある。叶わないから、人は願う。叶うまで何度も願う。だから、人は願うのだ。それはつまり、誰の願いも叶っていないから。
願いというものは愚痴のようなものだ。叶わないことを嘆くための方便だ。努力しても努力しなくても、叶わないものは叶わない。確立の問題ではない。絶対に叶うこと無い願いは無数に存在している。
(帰りたい。昨日の前に。ここに来る前に。生まれる前に)
(やり直したい。普通の家に、普通の子供で普通に生きて死んでいきたい)
いくつものもしも。叶うこと無いそのもしも。
叶わない願いは怒りに変わる。その怒りが動力源になり、人は行動に移す。願いはそのための充電装置みたいなものだ。
誰を罵っていたのか。誰を否定していたのか。何を考えていたのか。それがどうでもよくなって、唯々全てに腹が立つ。
その怒りを歩く力へと変える。怒りは大きな力。それは恐怖を麻痺させる。
もしこの道が間違いであっても、敵が現れても、戦う気力は得られた。八つ当たりでもいい。怒りを力に変えよう。そうすることで時間を稼ぐ。そうすれば、姉は先へと逃げられる。
(姉さんのせいじゃない。姉さんのせいじゃない。姉さんのせいじゃない)
その怒りの中にあっても、その矛先を彼女に向けることがあってはならない。
今すぐにこの手を放り投げてしまいたい。何もかもが煩わしい気持ちの中で、それでも彼女は大事なのだと自分に必死に言い聞かせる。
その時、不意に自分を呼ぶ声。苛立ちのあまり、繋いでいた手に思いの外力が入っていたよう。それに彼女が苦痛を訴える。
「エルムちゃん、手……痛い」
「……っ、ごめん」
思わず手を放し先へと進む。その後ろから遅れて吐いてくる足音。
(何をしてるんだろう、僕は)
もっとしっかりしなくては駄目だ。守るべき彼女を傷付けたら元も子もない。
彼女は一人では何も出来ない。考えることも出来ない。
騙されただけだ。騙されただけだ。彼女をおかしくしたのはこの空間とあの頭の螺子のぶっ飛んだ大人達だ。
早くここから帰るんだ。ここから帰れば、ディジットの所へ戻れば。きっと元通りになる。何もかも。
*
「……なるほど。そういうわけだったか」
埃沙が。あの混血が笑っていたのはこのためか。
牢を前にして、黒髪の男……ヴァレスタが笑う。祭りは明日になりそうだが、前座程度には愉しめそうだ。
本来ならここで砂袋兼埃沙の牢へ戻って試し斬り程度のストレス解消に勤しみたいところだが、今回の非礼はそれを晴らすための標的が他にいた。
牢の中は蛻の殻。面白いことに牢の一部が破損している。その継ぎ目を調べてみるが、削れた後も、焼けこげた後もない。
(数術か。この間まで使える素振りは無かったようだが)
あの王子のお抱えの数術使いがやったと言う線もあるにはあるが、あまりに荒っぽいこの術は、もっと初心者だ。素人目にも違和感が残るようなものは三流以下だ。
ものを壊すのは簡単だ。直すのは難しい。それをよく知るのが一流。そういう奴は簡単には壊さない。大技を使いたがるのは思い上がり。大技を制御できないのが素人。
慎重に、そして温存をする。空気のように自然に。背景のように融け込む。そんな数術使いこそが一流。
故にこれはあの混血達の手によるものだろう。適度な精神的苦痛が効を成したのか。混血はいたぶればいたぶる程数術開花の可能性が増すと、エルフェンバインが言っていた。
あの男は実験を行いたかっただけ。自らの理論を肯定、証明させたいだけの小物だ。
それが成されれば更なる金儲けにも繋がるとこの話を持ち込んだ。此方としては混血など生かしておく道理はないが、商人組合も決してまとまっているとは言えない。もしそれが成功したのなら腐れ貴族側の奴らとの交渉のカードとして所持しておくのも悪くないか。そんな風に考えた。
目先の金のやり取りだけを見ていてはならない。もっと先を見据えて、何が最善かを考える。そのためならば、快く思わない存在を生かしておかなければならない場面も出てくる。
心と脳は別のもの。割り切れる。感情は脳の支配下にある低劣なものだ。自身を従えさせることが出来ないような人間が他者を従えることは出来ないと、ヴァレスタは考える。
利用できるものならば利用するまで。
そもそもあの双子を手にしたのは、あの混血の王子を釣るためだ。彼は既に手中にある。餌は役目を終えた。後から持ち込まれた役目があるにはあるが……例の話がうまく言ったのならば、あの男の方は用済みだ。女の方さえいれば問題はない。向こうもそれはわかっているはず。適当に解体して流すとしよう。あんなゴミでも馬鹿な能無し共には売れるだろう。
この手を煩わせた責を負わせるため、ヴァレスタは牢へ背を向け通路へ戻る。
ここは入り組んでいる。部下からの目撃情報もないから上に上がったと言うことはない。いつ頃牢から脱出したかはわからないが、まだこの地下を彷徨っていることは間違いない。
埃沙の小さな嘲笑。それから那由多。あの元王子の目。気に入らないことばかり。逃げた双子のこともそれに含まれる。
だからこそ、追う。明日はもっと苛立つことだろう。だからこそ今日のストレスは今日の内に解消しておくのが精神衛生上正しい判断。
そう思えばこそ。この面倒な時間もまた愉快なものに変わるのか?……どういたぶってやろうかと薄ら笑いながら歩く気分は悪くない。だがやはり同時に面倒でもある。
かと言って、このまま放置しているわけにもいかない。問題は早期解決に限る。解決した問題もあるにはあるが、そうではないことも多いのだ。
エルフェンバインは学者としては優秀だったが、数術使いとしては思い上がりの三流で、商人としては話にならず、人間としてはそれ以下だ。あれはあまりに自尊心が高く、我が物顔で部下に指図されるのは虫唾が走って仕方がなかった。
(しかし……収穫もあった)
醜く年老いた男が、混血の少年の身体を奪い取ったというその奇っ怪な数術。ロイルから聞かせられた王の話、あれにもこの術が関わっている可能性がある。残念ながらエルフェンバインに口を割らせる前に二度殺されてしまったわけだが……何を好きこのんで純血から混血に成り下がろうと思ったのか。数術という力を求める余り、彼は人間から下ったのだ。学者の考えなど商人の自分には理解できないが、数術が便利だというその一点だけは認めよう。
奴が残した数式はグライドが記憶している。その解析を行えば、万が一那由多王子が王の居場所を割れなくとも、多少時間と手間は掛かるが足跡は辿れるだろう。
(………那由多王子か)
彼の名は、洛叉から引き出した情報に手に入れた。、最近セネトレアを騒がせている殺人鬼は銀色の髪に深紫の瞳。タロックともカーネフェルとも異なるその外見。言うまでもなく混血だ。
その色についての噂くらいは、大分前から上がってはいた。衝動的な殺人だったのだろうか。その時の彼は姿を隠す恰好をしていなかった。もっとも何故か彼は女装をしていたようで、捜査の攪乱は酷かった。男か女かわからない。今日では正体不明の殺人鬼として噂が一人歩きしている節もある。
貴族や商人を殺し、混血や奴隷ばかりを助ける側面から、おそらく彼自身も混血や奴隷……或いはそれに類する社会的弱者だったに違いない。目撃者の殆どが死んでいるか錯乱しているため、外見への情報の信憑性は低かった。だからその色は、噂程度のものだった。
しかし、混血を知る人間からすれば……その色が普通の混血ではないと知れるのだ。これまで多くの奴隷を扱ってきたヴァレスタでも、銀色の髪の奴隷はただの一度も扱っていない。その色は、そうそうそこらにある色ではないのだ。
だから、もしそれが本当ならばその数は限られてくる。ヴァレスタの持つ情報には他の片割れ殺しがどうなったかという情報もある。所謂消去法。それでヴァレスタはそれが隣国タロックで毒殺処刑されたはずの那由多なのではと推測をする。
もし仮に別人であったとしても、その役を演じさせればいい。タロックとの交渉のカードに使える。
(まさか本当に本人だとは思わなかったが……)
処刑したというのは嘘で、他国への情報操作だったのか。それでセネトレアに侵入させて……?そんな風にも考えたが、事情に詳しい洛叉がそれは否定している。
那由多王子はタロック王に処刑された。それは事実だが、運良く彼は助かった。毒が致死量に足らなかったのだ。そこから何があったかは知らないが、彼はセネトレアに流れ着いたのだという。奴隷になっていた時期があり、そのことからセネトレアを憎んでいる。しかしタロックへの憎しみも捨て切れてはいないはず。復讐をちらつかせれば簡単に味方に付くだろうと考えたが、これは些か浅はかだった。
(道具は黙って使われていれば良いと言うのに)
話には聞いていたが、不快な目だ。あの女によく似ている。違うところは、あの女には隙がないがあれには隙があるというところ。
地位も名誉も金も美貌も、何もかもを手にして微笑み全てを嘲笑うあの姫は、全く隙がない。自分が支配される者ではなく支配する側だと生まれながらに理解している。
しかしあの王子は違う。王族としての地位も名誉も今はない。歴史からも抹消された存在だ。奴隷まで落ちぶれて、そこから行き着く果てが殺人鬼。忌まわしいその身分にありながら、あの男の目はあの高飛車な姫と同じだ。
(嫌な、目だ……)
殺人鬼ならば殺人鬼らしく、殺しの快楽に溺れた人殺しの悪魔のような目をしていればいい。それが何だあの男は。自分がさも人間……いや、王か何かだと勘違いしている。命の危機にも微動だにせず、この俺を鼻で笑った。
思い出すだけで、沸々と苛立ちが瞬時に湧き上がる。
「混血風情が……」
道具の癖に、身の程を弁えない者が多い。
躾は厳しくするべきだった、おそらく足りなかったのだろう。脳味噌まで筋肉で出来ているあのロイルのような馬鹿なら操縦しやすいが、ゴミとはいえ多少でも脳があればそうもいかない。甘やかすとすぐに付け上がる。
(一度アルタニア公にご教授願おうか……?新たな領主もなかなかのやり手らしいとの話だ)
溜息の後、重い頭痛に悩まされながら、ヴァレスタは歩みを続けた。
*
「…………」
「…………」
目が合う。闇に光る透明青の瞳と。暫し見つめ合った後、ふっと鼻で笑われた。
「わ、笑いたいなら笑え!……くそっ」
「エルムちゃん……」
歩き疲れたのか、アルムが通路に座り込む。エルムもそうしたい気持ちでいっぱいだったが、ここで座り込んだらもう二度と立ち上がれないような気がして、冷たい石壁に寄りかかるに留める。
何時間歩き続けただろう。何度ここに戻ってきてしまっただろう。
こうやって埃沙の所に出会すのはこれが初めてではなかった。前へ前へと進んできたはずなのに。それが間違いだったのかと曲がっても、反対に進んでも。結局はここへ戻ってきてしまう。
「…………もうすぐ、見つかる」
予言するよう埃沙が小さく呟いた。
「……え?」
「あの男が来た。逃げたの、ばれてるわ」
それは助言か、忠告か。そんな忠告をもらってもどうしろというのか。どうも出来ない。それならそれは唯の嫌味か。
エルムは小さく舌打ちをするが、それが解決の糸口に繋がることはない。
「数術でもかけられてるのか、ここっ……」
埃沙がここにいると言ったのは、それが無駄だと知っていたからなのだろう。ならそれをもっと早く教えてくれと言いたいが、今更それを言ったところで何も変わらない。
「くそっ……どうしろって言うんだよ!!」
怒り任せに壁を叩いた。大声が出た。場所を知られたかも。でも、もう今更だ。
どうせ捕まるのなら、そう思った瞬間。
何かが聞こえた。そう思った。そして次に感じたのは浮遊感。最後に訪れたのは……
「…………痛っ」
瓦礫に突っ伏した衝撃による痛みだった。
瓦礫の山から起き上がろうと身体を起こしたエルムは、驚きのあまり立ち上がり、呆然とした姉の顔を見る。埃沙も似たような表情をしている。
アルムがもたれ掛かっていたはずの壁。苛ついて一発殴った壁。それが跡形もない。
そこには更に地下へと続く階段。そこから黴と腐った水苔のような臭いが漂う。
昔使われていた水路か何かと繋がっているのかもしれない。だとしたら、そこから川に。外に逃げることが出来るのかも。
しかし階段の先はここより更に暗く、その臭いと相まって、薄気味悪さを醸し出す。
時折聞こえる水滴の音が響くのも、恐怖心を煽り出す。
「これ、僕が……?」
誰に言うでもなく呟いた声に、アルムがこくこく頷いた。
まさか拳で殴って壊した?そんなに脆い壁か?試しに片手で瓦礫を殴ってみるが痛いだけ。小さな欠片さえ割れる気配がない。
「それじゃあ……これも数術か」
どうやってこれをやってのけたのか。もう一度どうすれば同じことが出来るのか。皆目見当も付かない。
(って、こんなに大きな音!絶対気付かれた!)
ここにいても、おそらく無事では済まない。この先が安全である保証は皆無だが、ここに留まる利点も一つもない。一度逃げると決めたんだ。それなら、まだ諦めるわけにはいかない。
エルムは姉の手を掴むより前に、右手に小さな瓦礫を掴んだ。昨日渡された短剣は、嫌なことを思い出させるような気がして見たくもなかったが、護身用の武器になるかも知れないとも思い一応は懐に忍ばせておいた。それを取り出し姉へと差し出す。
「逃げるよ姉さんっ!」
「え?」
逃げ道を確保できた可能性を得たとしても、それが正しい保証もない。そして時間も迫ってきている。埃沙を助けている暇はない。第一助ける義理もない。
エルムは埃沙を切り捨て、一刻も早い逃亡を図る。
「いいから!早くっ!」
剣を無理矢理受け取らせ、エルムは疲れ切った身体に鞭打って、開けた道へ走り出す。
埃沙を見ていたアルムも、弟が走り出すのを見れば、追わずにはいられない。すぐに足音がついてくる。
震える足で階段を下り、水路へと出る。長らく使われていないのか、水はない。地下牢よりも強く湿り気を帯びた風が頬を撫でるくらいだ。
風が感じられると言うことは、外へと繋がる道があるということ。エルムはそう信じ、耳を澄ませる。
地下牢もそれなりには暗かった。夜目が効いているのか、全く見えないというわけでもない。作られてから長い時が経ち、所々綻びが出来ているのだろう。何処から来るのか解らないが、薄明かりが差し込む場所もある。だからそれを頼りに風の吹く方へ、光差す方へ。一歩一歩前へと進む。
そんな風に歩いていくと……分かれ道へと差し掛かった。
左の道は僅かに明るい。右の道はそれより暗いが、湿り気帯びた風が吹く。
明るさと風が一緒にある道ならば、何も迷わない。そこが出口だ。
しかし、この分かれ道はそれさえ別れている。左は恐らく階段だ。それが外に通じているかはわからない。地下牢か、或いはそれより上の階に出るだけで、根本的解決にはならないかもしれない、一時凌ぎの逃げ道。それが誤りだったとして、またここへ戻ってくることが出来るのか?そもそももう片側が出口だとは思えない。
右の道は、嫌な臭いがする。出来ることなら進みたくない。ここより暗い。そこが出口に通じているはずがない。恐らく水路が溢れそうになった時、一時的に水を溜めておくための場所だろう。
だが、そこは暗い。息を潜めて姿を隠すには丁度いい場所かもしれない。
エルムは悩む。隠れか、逃げか。どちらが正解か。
(…………)
「姉さん、右と左、どっちがいい?」
「右ー!」
鼻が利かない姉は、あっさりと右の道を選ぶ。恐らく利き手がそっちだというそんな感覚からだろう。一般的に利き手は右の者が多い。それなら左。その方がより安全?いや、しかし皆が皆、姉のような単純な考えを持っているとは思えない。あの男は捻くれていそうだから左を選んでくる可能性も強い。
「駄目だ」
エルムはアルムの言葉を一蹴。
洛叉のように、埃沙のように。出来るだけ冷たい目で彼女を見ることを意識しながら言葉を紡ぐ。
「右は僕が行く。姉さんは左に行けよ」
一緒に同じ方向に進むことを前提に考えていたアルムは、暗がりの中で赤い瞳を見開いた。
「え?……エルムちゃん?」
「もう姉さんの子守りは懲り懲りだって言ってるんだ」
それに対し、アルムは心底呆れたような、嫌がる声を出すことに努めた。
鼻が利かない姉は、耳まで遠いというのか。その言葉の意味をすぐには理解できず、もっと突き放すような言葉を口にしなくてはならなくなった。
「僕はもう姉さんなんかと一緒にいたくないんだ。双子?姉弟?嗤わせる。僕と姉さんは他人だろ。たかが一緒に生まれた程度で僕の生き方、僕の死に方、それまで縛り付けるな!」
「え、エルムちゃん……違う、私……そんな、つもりじゃ……」
「それじゃあどんなつもりだったって!?僕は姉さんじゃない!姉さんとは違う!僕は僕だ!僕には僕の考えがあるし、思いがある。それを従えようとした姉さんがどんなつもりだったって言うんだ!?僕は姉さんのそういう所が大っ嫌いだ!僕は姉さんの弟だ。だけど、姉さんの付属品でも所有物でもないんだよ!!」
それは常に考えていたこと。それでも言わずに胸に秘めていたこと。
どうせわかるはずもないと諦めていた。
ここで彼女を逃がすためとはいえ、その禁忌を口にしてしまった。そうしてしまうと、よくわからなくなる。今の言葉は演技なのか。それとも本当に、本心なのか。
演技のつもりだった。それでもそれをこんなにはっきりと、自分の言葉として嘘を感じることなく口にすることが出来るのは、自分自身がそれを認めていると言うことではないのか?本当は、言いたくて堪らなかったんだろう?この傲慢な女に。
アルムの見開かれた瞳から涙が溢れる。女は狡い。その程度で許しを請う。許されると誤解している。泣いた程度で何もかもが思うように運べるのなら、男だって大人だってきっと泣くに違いない。……エルムの脳はそう言っている。
でも長年の習性か、姉に泣かれると困る。負い目のような痛みが棘となって胸を差す。
彼女がこんなになってしまったのは半分以上は、エルムのせいでもある。
一つのことしか見えていなくて、周りに目を配れない。だからいつも失敗ばかり。たぶん聞こえることも聞こえなくし、わかるはずのことがわからないままなのもそのせいなのだ。
そして、その一つって言うのが、この自分のことなのだろうとエルムは自覚した。
姉が一人では何も出来ない愚図鈍娘になってしまったのは、自分が傍にいたからだ。転んでも手は貸さず、泣いても慰めず、放置しているのが一番だったのだ。
そうすればきっと、一人で立ち上がり、立ち直ることを彼女は覚えたはず。それが出来ないでいるのは、他ならぬ自分のせい。
だからこそ、間違えてはならない。今更かもしれないけれど。今更、だからこそ。
「着いてくるなよ。僕はこっちに行くんだ。姉さんが来ると足手まといなんだ。姉さんがいなければ僕はこんなところに来なかった。いつもそうだ。姉さんが一緒にいるから僕まで面倒事に巻き込まれる」
右の道へと一歩踏み出して。振り向かずに姉へと告げる。
「さっさと行けよ!」
大声に脅えたアルムがびくりと肩を揺らす。そしてその言葉に弾かれるよう、立ち上がる。
だが、まだ歩き出そうとはしない。何かを言いたげに、こちらを見ているのが解る。
「こっちへ来たら、僕は姉さんを軽蔑する。大嫌いになる」
静かにそう告げると、僅かな沈黙の後、姉が最後の言葉を背中へ投げた。
「エルムちゃん……、大好きだよ」
無理して笑ったのだろう。声は震えていた。
その言葉を残して、アルムは左の道に駆けていく。一人で。
歩き出せたのだ。
「……そうだ。それでいいんだ。これで、これでいい」
振り返ることもない。一刻も早くこの場から立ち去らなければ。それをエルムが望んでいるのだとそう信じて。
残されたエルムはその分かれ道から離れない。右の壁にもたれ掛かりながら、そこに佇む。
エルムが考えた上での最善が、これだった。
足音は二つ。足音が、一つ多い。
離れていく足音と、近づいてくる足音。エルムは動かない。足音は本来一つであるべきだ。
それでも、足音は二つ。やがて一つは遠離り、聞こえなくなる。代わりに響いて来る足音が一つ。疲労し引き摺るような姉の足音ではない。立派な革靴がコツコツと床を蹴る音。
心臓の鼓動が早まる。空気でわかる。空気が変わった。ピリピリとした緊張感。吸い込む空気に毒でもあるのか、それを吸い込んだ肺がギュウギュウと締め付けられるような痛み。それを恐れて息が出来ない。回数が減る。苦しさに咳き込みそうになる。
「混血の考えることは、私には理解できないな」
その口調から、違う人物を一瞬彷彿させられる。けれど、その人は混血をゴミなどとは呼ばない。鏡を見ながら彼が自身にそう呼びかけることがないように。
水路の向こう。黒い闇から現れたその男。髪はその闇を映したような黒。腰に携えている剣が今は抜き払われるのを待つようその手の中に。
その姿を見た瞬間、体中に震えが走る。暗い瞳の中にはエルムは映らない。深い、深い……深い赤。飲み込み、塗りつぶし、浸食していく血の色だ。
「片割れがそんなに大事か?」
「っ……、お前に何が解る!!」
不愉快と怒り。そんな色が含まれる男の声。
それが自分に向けられることで起こる金縛りのような硬直の中、口だけは何とか動いた。怒りと恐怖に震える手で握りしめた瓦礫が痛い。
それでもせめて一矢報いたい。それが出来なくとも、この会話で少しでも時間を稼がなければならない。
狙われているのはアルムの方だ。いかれた数術使いとこの男が計画していた研究にとって、自分はもう必要のないものだった。一緒に生まれたのに、いつも面倒を引き受けるのは自分の役目。
それを悔やむのは、今更だ。もう諦めのような思いは出来上がっている。人生とは諦めること。受け入れること。そうしなければ、この世はあまりに生き辛い。
エルムにとって世界は常に不平等なものだった。生まれながらに決まっている。奪われる側と、奪う側。どんなに近しく感じていても、二人の関係性は平等ではない。姉弟だってそうなんだ。おそらくどんな人間との繋がりの中にも本当の平等などあり得ないのだ。親子でも、兄弟でも、友人でも、恋人でも。誰かの妥協によりその関係は惰性のように続いていく。
この世界の誰と誰が、本気で物を言い合うことが出来るのか。本心をぶつけ合って、それでもその関係が揺るがずに続いていけるのか。
そんな関係性はありえない。
ディジットが好きだ。だけど何も言えない。怖いんだ。大好きな人にさえ嘘を吐いている。他人なのに弟扱いされて、恋愛対象外という烙印を押されている。
この世界は数字により成り立っているという言葉がある。けれどエルムは違うと思った。
エルムが思うに、この世の万物は嘘だ。この世界は嘘により成立している。
好きだからこそ、その目を恐れて嘘を吐く。
どうでもいいからこそ、面倒だから嘘を吐く。
嫌いだからこそ、陥れるために嘘を吐く。
そんな嘘だらけの世界で、姉は真っ直ぐな言葉を作る。
そんな風になれない自分を疎ましく思い、そしてそんな風な彼女もまた疎ましい。
自分は影だ。彼女の影だ。彼女が穢れなく純真であればあるほど、自分が如何に惨めで小汚い人間かを思い知る。
嘘だらけで言いたいことを何も言えない。息が詰まるような日々。
それはきっと自分が混血でも、奴隷でもなくとも。同じ家に、姉弟としてアルムの傍に生まれたならばそれは同じ事だっただろう。
片割れなんて。混血なんて。埃沙が先に言ったよう、所詮は他人だ。そうだ。一緒に生まれただけの他人だ。それだけならば。
(でも、それだけじゃない!)
憎んでいるかと聞かれたならば、それは確かに憎んでいる。
(でも……それだけじゃない)
憎んでいる。愛しているかと問われれば、愛していないと言い切れる。
それでも好きか嫌いかで問われれば、たぶん答えは出せなくなる。好きでもあるし、嫌いでもある。全てを許すことは出来なくとも、多くを許してしまうのだろう。
それでも憎んでいる心を完全に否定することは出来ない。そしてどんなに願っても、無関心にはなれない相手。
それをそう簡単に言い表せるものでもない。割り切れる者でもない。切り捨てられる相手でもない。これが目の前の男、ヴァレスタには解らない。解るはずもない。彼はエルムではない。何も知らない。だって他人だ。解るはずもないし解りたいとも思っていない。
(僕だってそうだ)
ギリと強く目の前の男を睨み付ける。そうしなければ気迫に飲まれてしまいそうだ。思い出せ。思い出せ。この男にされたこと。この男のせいで起こってしまったこと。その全てが忌まわしい。その全てを怒りに変えろ。
ヴァレスタへの憎しみが、恐怖を僅かに上回る。
「小僧でも、所詮は下劣で低劣な雄に過ぎんと言うことか」
「な、何を!」
ヴァレスタが品定めをするようにエルムを見、そして見下すように汚らわしい者を見るように嘲笑した。
「一度事に及んだ程度で絆されたか?実の姉を相手に?見境無しとは流石はゴミだ。賞賛に値する。ゴミではなく貴様は発情期の野犬か犬畜生か。いや、お前は獣以下だ!奴らだって相手は選ぶだろう」
「お前が、それを……っ……させたんだろう!!」
「常識を知らないお前の姉の愚かさを憎むんだな。情報とは与えられるものではない。そこにあるものだ。それを信じるも信じないも受取手の自由意思だろう?お前の姉は愚かだった。都合の良い情報を真実と信じた。笑えるほど滑稽に」
世間知らずの馬鹿な小娘が、騙され飼い慣らされていく様は圧巻だったと男が笑う。
「自分の頭で考えることを放棄しているからお前達はゴミだと言っている。考えることが出来ない脳など必要在るまい。それならまだ美食家共に食材として売り払った方が有意義だとは思わないか?そうだな。飢饉だというタロックの村里に物々交換でレートを高値で売り込んだ方が喜ばれるかもしれないな。女子供の肉は軟らかくて食いやすいと評判だ」
耳にするのも気味が悪い。嫌悪感を煽る話をペラペラと紡ぐその口。あれが二度と動かなくなればいいのに。
いっそのこと手にした瓦礫を投げつけてやろうか。そう思ったが、下手に動いたら駄目だ。相手の得物は剣だが、此方は瓦礫一つ。数術だってうまく使いこなせていないどころか、どうやって発動させるのかわからないまま。
エルムの額と頬を伝う汗。それを一瞥しながらヴァレスタは優雅な仕草で剣を抜き払う。
「さて。お待ちかねの仕置きの時間だ」
誰も待ってねーよとツッコミを入れたくなったが、そんなのが辞世の句になったら笑えないのでエルムは自重した。
無言をどう解釈したのかされたのか。考えたくないのでその辺りはスルー。相手は不敵な笑みを浮かべながら、小さく息を吐く。
「いつまでも予備パーツの相手などしてはいられん。私もそう暇ではない」
随分長文喋ってるし、充分暇人だと思う。そう思ったのが顔に出たのか、荒い動作で剣を薙ぎ払われる。咄嗟に避けると舌打ちされた。何もあんな荒い動作の一撃でいきなり仕留められるとか思ったんだろうか?だとしたらこいつがどの程度の腕前なのかはわからないが自意識過剰にも程がある。
「………うっ!」
避けたはずだった。だが、痛みが走る。見れば服から赤く滲んだ両腕と腹。その赤を見て、ヴァレスタがにやりとほくそ笑む。
(み、見えなかった……)
ここが暗いから。そんな理由ではなく。
純粋に、早い。一度目の比ではない。ちょっと心の中で皮肉っている内にもう一度やられていた。本当にこの男、性格が悪い。こんなに性格も口も悪いんだから、自意識過剰の馬鹿で剣の腕なんか大したことがないお飾りの頭とかに違いないとか。だったらいいなとか。だったらいいんだけどなとか考えていたが、これは面倒だ。こんな性格の癖に、ちゃんと剣の腕を磨いていて、鍛錬を怠らない人格破綻者がいたとは。傲慢なまでの天上天下唯我独尊っぷりは自分に裏付けされた確固たる自信があるからなのか。
「ぐっ!」
しかし相手は性悪だ。例え賞賛したってこの手は緩めてくれない。悪態を吐く暇も、驚いている暇もないと。
エルムの身体に傷が増えていく。瓦礫を握る手を強め、その痛みに集中することで、他の傷から目を逸らす。
今度は目をしっかり開けて、隙を見つけようとする。それでも駄目だ。もう、斬られている。しかし何かがおかしい。時間がないと言いながら、男は何故致命傷を与えない?
(そうかっ!!)
アルムを連れ戻すのが面倒なのだ。
それに思い当たった時、両足に激痛が走る。
「犬は犬らしく鳴くか吠えるかしてみたらどうだ?」
大声を出せば、それは届くかも知れない。それが聞こえたならば、姉は戻ってきてしまう。
それだけは絶対にあってはならない。どんなに痛み付けられても、大声を出すわけにはいかない。
そう考えながらも、痛みに屈し膝を突くその僅かな時間に、壁に右肩を縫いつけられる。
不意打ちだった。
鋭い剣で打ち抜かれる痛みに絶句した。突然のことで悲鳴さえ上げられなかった。悲鳴が上げられるのは、まだ余裕がある証なのかも知れない。利き手をやられた。手の中に握りしめていた唯一の武器が、音を立てて通路へ落ち……転がり水路へ落ちていく。
(水の……音)
ボシャンという、瓦礫が水路へ落ちた音。まだ、水があったんだと知るが、それが一体何になるだろう。痛みを軽減させるためか、どうでもいい事ばかりを五感は察知する。
それでも完全には無くならない苦痛に顔を歪めると、近くで男が嗤っていた。
「本当に、お前は馬鹿だ。お前にも脳があるとは思えんな」
「………っ、な」
「お前は知らなかったようだが、お前の姉は数術使いだ。生まれながらの。本人が気付いていたかは怪しいが。あれは恰好の研究素材だ。学者共に高く売れるだろうな」
(数術使い?姉さんが?そんな馬鹿な。だって、数術を使えるようになったのは……)
エルムの疑問に答えるように、むしろその無知を嘲笑うようにヴァレスタが言う。
「あれは奇跡の音声数術使いだ。とんでもない使い手だ。私以上の狸だよあれは。あれの音声は全てが数術だ。その矛先がお前だけに向いている。だからこそ、お前には絶大な力を誇る」
(音声、数術?)
聞いたことがない。そもそも一般人の自分は数術学には明るくない。
「どういう意味かと、問いたいか?そのままの意味だ。あれの言葉に嘘はない。だからこそ、それは恐ろしい刃に変わる。お前が何故ここでこんな目に合っているのか?死にかけているのか?そこまでしてあれを守ろうと思うのか?」
それは、彼女が自分の姉だから。そう答える心を悪魔は否定し、切り捨て、踏みつぶす。
「私があれを洗脳したとお前は言ったな。よくよく鏡を見るがいい」
深紅の瞳がじっと此方を見据える。その中にエルムは自分が見えない。暗すぎて、そこには何も見いだせない。
「お前の大好きな片割れは、お前に同じ事をしていたんだ」
くくくと笑いながら、ヴァレスタは剣を捻り、壁へ縫い込まれたエルムの肩の肉をギリギリと抉り出す。
「うあああああああああっ……」
黙っていなければ。そう思う間もなく、口から悲鳴が漏れていた。不意打ちじゃない。目に見えている。抉られているのが見えている。上がる声が余裕なのだとしても、自分の悲鳴に脳が痛覚と結びつけ、その痛みを倍増させている気がしてならない。
何が何だかよく分からなくなってきた。自分が守ろうとしてきた物はなんだったのだろう。痛みに耐え、守るべき価値などあったのだろうか。
それを自分の心だと信じてきたのに。それが数術による洗脳だったと男は言う。その言葉こそ洗脳なのでは、そう思いたい。だけど、死に逝く自分を洗脳する意味はない。こんなところで犬死にする自分に意味はない。価値はない。つまり、それは本当だと言うことだ。
無情な真実により、誤魔化されていた痛みは痛みとして曝かれる。
許されるための涙ではない。自分のこれまでしてきたことの無意味さを痛感して流れる涙だ。怒りでも、悲しみでもなく……深い、空虚だ。
ここまで来ると、いっそ笑えてくる。エルムの心は笑っていた。それに反し、口から漏れる悲鳴。それと他人の者のような感覚を味わう耳。ただ、痛みだけが存在する。それがこの場所に気が遠くなりそうなエルムの意識をつなぎ止めていた。
やがて音が遠のいていく。それでも痛みは消えない。
いや、代わりに何かが聞こえてきた。ゴボゴボという水音だ。それは水面から何かが。息を吹き返し、呼吸を始めたような。その音は溺れ藻掻き苦しんでいる呼吸音のようでもあり、何かを水中で語っているようでもある。
一瞬エルムは自分が水路に放り込まれたのではないかと考えた。しかし右肩の縫いつけられている痛みは健在だ。
やがてゴボゴボという水音は消え、ひたひたと、何者かが歩き出す。近づいてくる。そんな音へと変わる。
それはしきりに何かをブツブツと繰り返している。掠れているその言葉。その単語を何度か聞いて、それが「ミズ」と繰り返しているのが解る。
(……?)
よくわからない。それは何だろう。何も見えない。真っ黒な世界で。声と息づかいだけがここまで届く。
エルムが繰り返される言葉に首を傾げると、その声は切羽詰まったような物へと変わっていった。
それはカタコトの言葉で「助けて」と言っていた。ガラガラの声。掠れた声。水を求めるようにそれは言う。
(ああ、血か)
エルムは理解する。
何度も斬られてダラダラと、無駄に血が流れている。よく分からないけれど、この声の主は咽が渇いているのだろう。
(いいよ。持っていきなよ)
どうでもよかった。今更だった。
どうせ失って困るような物など、自分には何も残されていなかった。
血でも涙でも。それで誰かが潤うのなら、それも悪くないかもしれない。この無価値な生の終わりに、自分の意思で何かを決定することが出来る。それは喜びかも知れない。
エルムはそれを断ることも出来る。だが、そうしなかった。姉以外の誰かのために何かを。それは少しは意味あるものだったのだという自己満足が欲しかっただけなのかもしれない。
(……空っぽだ)
中身がない。音がない。揺すられれば脳だって頭蓋骨にぶつかってカラカラと音を立てるかも知れない。それでも自分は何も聞こえない。あの男が言うように、最初から脳など無くて、自分で考えているつもりで全てを操られていたのかもしれない。
彼女と繋がる赤い糸。それは血縁関係を示す赤。彼女はそれを運命だと信じているが、それは違う。
これはマリオネットの糸だった。エルムは人形だった。そして姉のアルムの人形遊びに付き合わされているだけの玩具だった。
彼女はその一方的なお遊びを、恋だの愛だのだなんて錯覚した。
他に人形がいなかったから。一番言うことを聞く、お気に入りの人形だから愛着が湧いた。人形が勝手にいなくなるのは許せない。人形が勝手に他の子の玩具になるのは許せない。
簡単な話だった。
それを所有者と人形の話に置き換えるなら。