15:Sine sole sileo.
許さない。絶対に。
手が震えるのは怒りとそれからもう一つ。
怖い。怖い。怖い。
それでもやるんだ。やらなきゃいけない。
“私”は過去を乗り越える。出来る。出来なきゃいけない。
「……許さない!ヴァレスタっ!」
かつてこの世の誰より恐れた兄へ、今こそ牙を剥く。
怖くない。怖くない。
見下された頃の“私”じゃない。背だって伸びた。昔より広い世界を知った。自分の頭で考えられる。“私”の主は“私”自身だ。
要らない。要らない。貴方なんて、“私”の世界に必要ないんだ。
彼がいればいい。それでいい。彼さえいれば、それでいい。それだけで“私”は……世界の誰より幸せだ。
*
兄の怒りは横暴だった。それでも幼い頃のリィナにとってそれはこの世の全て。
彼が横暴だと言うことも、幼い自身は気付けなかった。そんな概念、ここにはなかった。
だからいつも彼の顔色を窺っていた。
2歳年の離れた兄。幼い頃はその年の差は、とても大きなものだった。
背も力も、知識も。すべてが彼に劣っていた。だから見下されるのは当然だった。それがリィナにとってのこの世界。
どうして?なぜ?そんな問いかけは馬鹿げている。理由などあってないようなものなのだ。その理由はリィナ自身がどうこう出来るものではなかった。
勝手に喋ること。言い返すこと。泣き喚くこと。それも兄の不興を買うのだ。
だから唯耐えるしかない。どうして兄はそんなに自分が憎いのか。それを探る暇があったらもっと上手くやらなきゃならない。
誠心誠意真心込めて、言葉を紡ごう。それが嘘っぱちでも限りなく本当に聞こえるように媚び諂う。そうしなければ痛い目を見るのはリィナなのだ。
でも兄は横暴だ。それが上手くできてもできなくても、気分で妹を殴る、蹴る。唯何となく、気に入らなかった。そんな理由で。
ある時兄はとても怒った。
兄に引き摺られるまま連れて行かれた倉庫倉。放り込まれて一通りの暴力を受けた後、彼はそこから立ち去った。鍵は外から閉められているし、窓は高い場所の明かり取りのみ。子供の身長では絶対に届かない。壁をよじ登っても無理だ。倉庫内の荷物を積み重ねても届くかどうか。最初の何時間は、そんなことばかり考えた。その次は、兄がここへ来たら何と言って詫びればいいか考えた。
そしてそれから数日。もうそんなことは考えられない。頭が回らない。回らない頭でそれを理解するまで更に数日。兄はきっと、ここへは二度と来ないだろうと理解した。
そこで緩やかな足を音を聞く。人のものではない。死神の、だ。
このままでは死ぬ。死んでしまう。殺される。それに恐れ、助けを呼ぶこと数日。
もう恐れさえ失った。よじ登ろうとした壁はあまりに高い。積んだ荷物の上から何度も転倒した。痛くて情けなくて寂しくて、何度も泣いた。それでもやがて理解する。それさえ無意味と。
死への恐怖。それさえ麻痺した今となっては……空っぽの身体に頭に浮かんだ衝動。それは食らうこと。
お腹がすいた。
倉庫の中にあるもの。食べられそうなものはもうほとんど残っていない。
寄りかかり崩れた壁の砂とか岩とか。服とか引っ張られ抜けた髪の毛とか。
口に入る物なら何でも入れてみた。堅すぎるとか噛み切れないとか飲み込めないとか。そんな物以外は何でも一通り。
食べたい衝動を抑え、貴重な食材を腐らせた。どこからやって来るのだろう。それに集り始める虫。それが貴重な餌だった。
飲む込む瞬間の視覚、触覚情報。……気持ち悪い。そんな思いも直に廃れた。動く気配が気味悪いなら動かなくしてから飲み込めばいい。それだけだ。
しかし水分がない。咽が渇いた。水分を得るための手段。泣いたときにそれは自分だと思い至ったが、涙なんてたかが知れている。唾液なんか飲み込んだところで飲んだ気がしない。
ぼーっと見つめた先、目に入ったのは自分の腕だ。噛み付いてみた。血が出た。水だ。
今自分がしていること。食べているのか食べられているのかわからなかった。もしこのままどうなるんだろう。生きられるのか、死んでしまうのか。わからなかった。
ここへ置き去りにする前、兄は言っていた。
「どうしてお前はお前として生まれたのか」
「どうしてお前が生きているのか」
それから「どうして母様を殺したのか」
別に殺したくて殺したわけではない。別に生まれたくて生まれたわけでもない。
だから何と言い返せばいいのか解らなかった。
自分が生まれたのは母親だった女がどこかの男と寝たからで、リィナが兄に叩かれるのはそれが兄の父親とは別の男だったからだ。だけどそれはリィナが望んだことではなかった。
母が命を落としたのは、彼女が不運だったから。まぁそれを言うならリィナが兄に恨まれるのも同じ理由の一言で仕上がってしまうから、別の理由を挙げてみる。
その女は少々遊びすぎたのだ。セネトレア王に娶られたはいい。一番最初に娶った妻を正妻には据えてはいたが、それより先に男児を生めば正妻の座を得られると、その男は多くの女に言い寄った。勿論嘘だ。何かと難癖を付けてその約束を不意にした。
次にその下衆男が言った言葉はこうだ。髪か瞳か、一番見事な王族の色。それを発現させた息子こそが跡継ぎに相応しい。そう議会が言っている、と。
けれどもそのお眼鏡に適う子供は現れない。
そんなことを何度も見ている内にすっかりやる気をなくしたその女は、後宮での生活に嫌気が差した。玉の輿なんて言ってもたかが知れている。数が多すぎる。
おまけに相手は元は商人。金は持ってはいるが、金にがめつい。釣った魚に餌などやらない。娶った女に貢ぐことなどまずなかったのだ。
正妻ともなれば国庫の金をくすねて贅沢生活を送ることも出来るだろうが、妾なんてそんなもの。理想と現実の違いに女は失望した。夢のような豪遊生活だと思って足を踏み入れた城は女達の腹黒い戦いばかりが昼夜問わず繰り広げられる。
そんな面倒なことまでして正妻の座を勝ち取るよりは、そこら辺の適当な男を引っかけて貢がせた方がずっと楽でいい暮らしが出来る。城には高給取りの男も大勢いる。彼らは商人ほど財布の口は堅くない。
セネトレア王は妾一人の浮気を咎めるような男ではない。手に入れ所有することに意味を見出しているだけ。手に入れた女はどうなろうと後はどうでもいいのだ。女はそれを理解していた。
そしていつしか彼女は“知った”。
知識人という立場の男は、それをひけらかす癖を持つ者が多い。女を愚かな生き物だと見下し、自身の知恵を存分に語ることを好む。そういう相手には反論は逆効果。唯耳を傾け、頷き、唯彼を褒め称えればいい。それが好意を引き出すコツだ。
そんな時に、ある知識人が語った言葉が遺伝学。何故議会の満足する跡継ぎが現れないのか。彼はそれを女に教えた。
それは、セネトレア王が真純血ではないからだと。
それは確立。運の問題。けれどそれを突き詰めれば、金か黒かは優性遺伝、劣性遺伝の問題。世界貿易の中心地、セネトレア生まれの人間の多くは混血だ。タロックの血もカーネフェルの血も持っている。優性遺伝で黒髪のタロック人外見の者が多いと言うだけ。
セネトレア王は商人上がり。タロック王族のような外の血を知らない真純血ではない。
そしてセネトレア王ディスクと妻達の間にこれまで生まれた子供。その中にはタロック人の外見の子供もいるし、カーネフェル人の外見の子供もいる。
しかし学のない妾達はそれを不貞の理由とし、相手を蹴落とす手段と用いた。自身を磨くことより相手を蹴落とすことの方が遙かに楽だったから。けれどそれは大きな誤りだとその男は言う。
もし黒髪の王が金髪の遺伝子を持っていないなら、彼との間に金髪の子供は生まれない。相手がカーネフェル人であってもだ。
けれど、金髪の子供がいる。それはつまり、王は持っているのだ。カーネフェルの遺伝子を。結論として、彼は黒髪と金髪の遺伝情報を持っている。だから彼との間にはカーネフェル人が生まれることがある。
だから失敗したのは、そのせいだ。彼女はそう考えた。
彼女自身は真純血ではない。タロック人の遺伝子をA、カーネフェル人の遺伝子をaと仮定し、王はAaのタロック人。彼女自身もAaのタロック人。
髪と目の色。真純血の色の深さをBとして、一般人の色の薄さをbとする。
王族から離れた一般人同士が交わればbb……その色合いは薄れていく。
タロック王族の瞳の赤が深いのは、それがまったく別の遺伝子だからと知識人は仮定した。
本来タロック人の黒目と赤目では、赤目が劣勢。
その前にまず、黒目をCとし赤目をcと仮定する。(カーネフェル人で言うならCは緑目、cは青目ということになる)
一般人はCcなら黒目。CCでも黒目。Cc同士が交わることで四分の一の確立でcc……つまり赤目の子供が生まれる。
タロック王族の赤はCでもcでもない。ここではそれをDと置く。(同様にカーネフェル王家の深青もそれとDと置けるだろう)
D遺伝子は完全優性。支配遺伝子とその男は語ったらしい。
タロック王族の遺伝子はDD。近親婚だからずっとDD。それでも男児が何人か居て、勢力争いに負けた場合、それは妻を外に探しに行くしかない。高位の貴族の娘と結婚したとして……その貴族の家にはD遺伝子が運ばれる。
高位の貴族は真純血。王族を尊び赤目を重んじcc遺伝子を守る。cc同士が夫婦となることで、貴族の家からはCcは淘汰される。よって真純血はccと考えて良い。
ここに王族のDDが現れる。彼と彼女の間に生まれる子供はDc。Dは支配遺伝子。Dの遺伝子を持つ者は、面白いことになる。
D遺伝子は代を重ねる事にその色合いを増すという特性を持つ。
DはCにも勝る、故に支配遺伝子と名付けられた。Dc遺伝子を持つ者は、文字通りその血統を支配する。
まずは第一世代。Dc×CC=DC(深い色、黒目)、DC×Cc=DC(深い色、黒目)、DC×cc=Dc(深い色、赤目)
続く第二世代。DC×DC=DC(深い色、黒目)、DC×Dc=DC(深い色、黒目)、Dc×Dc=Dc(深い色、赤目)
これで表記するならセネトレア王は…外見Aa(黒髪のタロック人)、色合いbb(薄い一般人)。
同条件であるリィナの母では、跡継ぎに見合う子供など産めるはずがなかったのだ。
金稼ぎに夢中になっている商人の国は、金勘定と交渉術以外の学問を知らなかった。
だから彼らは知らなかった。金勘定は不得手でも、毒の王国タロックは人間業の医学だけは世界一。毒を得るための動植物、その毒性を増すための研究から毒性保持のためにと遺伝学の研究も進んでいた。
彼が言うには……結論として、DDでもDCでもDcでもいい。D遺伝子を持つ者と交われば、赤目か黒目かは別として、D遺伝子を持つ子供が生まれる。つまり、瞳も髪も深い色合いになる。それを保証しているのがD遺伝子。
要するにDを持つ真純血のタロック人を引っかければ、跡継ぎに相応しい子供が生まれる。
それを聞いた女は、Dを求めた。その情報は他の妾達の誰も知らない、とっておきの真実だ。
色を深くさせるのがD。
彼女はAabb(別表記ならAaCC或いはAaCc)の黒髪黒目(薄)のタロック人。Dを持つ者。Dさえあれば、世界が変わる。夢にまで見た地位と権力、金と宝石、食べ物、洋服、部屋。欲しいものは何でもこの手の中に。そして彼女は気付く。悪魔の囁き。そう、Dさえあれば。だけど、今更。そんな気もした。彼女にとってそれはもはや罪ではなかった。
Dは色を決定づける遺伝子ではなく、色の色合いを定める遺伝子だ。
別にAA、Aaである必要はない。aaDb(aaDC或いはaaDc)……そこからもDは得られる。
aa人には近親婚の風習はない。それは何を意味する?Dだ。Dは手の届かない場所に隔離されていないのだ。保有者は見れば解る。目の色、髪の色。その深さ、色合いで。
aa人の男が減少してきているなんて嘘だ。最近は少なくなってきている。それでも、遡れば数は多い。まだ機能しているのなら中年でも老人でも構わない。深い色を。Dを奪い取れ。
彼女のしたことがあと数年早かったのなら……なるほど、兄はセネトレアを継げたかもしれない。兄弟の内の誰より深い色を発現させられたかもしれない。
けれど彼女は“知らなかった”。時代が、世界が変わること。変えられたこと。
彼女はDを持つ深赤の瞳の男児を産んだ。それは19年……そろそろ20年前の話。
その日彼女が見たものは一体何だったろう。世界が変わる瞬間だ。
信じられなかっただろう。それで彼女はすっかりいかれてしまった。
失敗したのは相手が駄目だった。騙された。Dなど持っていなかったのだ。それをぶつぶつ繰り返しDを求めて男を漁る。その間に生まれたのがリィナ。リィナ自身も母親も、その父親がどんな男だったのかはわからない。母を突き動かしたのはDへの妄執。
そしてその無理な行為が祟って、リィナを生んで暫くし病で逝った。不特定多数の人間との性的接触がその原因だろう。
幼い兄は全てを妹のせいにした。母に愛されない現実も、和解することなく母を失ったという事実も、誰より見事な赤を持ちながら歪められた自らの境遇も。
全てを理解した今のリィナなら彼から受けた虐待の意味も理解できる。しかし幼い頃のリィナにはそれが出来るはずもなく。
唯、与えられたどうしてを考えていた。もう動くことも出来ない。死神はすぐ傍にいる。残された時間、無意味と遠ざけていた問いを見つめることにした。
“どうしてお前はお前として生まれたのか”
“どうしてお前が生きているのか”
それから“どうして母様を殺したのか”……の三つだったか。
上と下のどうしては解る。どうしようもないことだった。それだけ。以上でも以下でもない。だけど……真ん中の問い。それだけが解らない。
(私はどうして生きているんだろう?)
もう何日もお風呂にも入っていない。部屋には様々な異臭が立ちこめている。あと何日?何時間?何秒後?それに腐敗臭が付け加えられる。
女の子がこんな死に方。惨めだなと思う。腕の傷には虫が集り始めた。食らっているのか。食物連鎖が逆転した。食料にしていた虫たちに食らわれている。本当に、惨めだ。
(私は……どうして生きているんだろう?)
誰からも愛されず、必要とされていない人間なのに、どうしてまだここにいるのか?
それは無意味じゃない?
(ああ、そうか)
(だから私は死ぬんだ)
誰からも必要とされていないから、こうして死んでいくんだ。
最初から間違って生まれた。事故みたいな命だから。だからそれは消えるべきだったのだろう。
それを悟ったとき、渇いた笑いが口から漏れた。人間とは不思議な生き物。
もうどうしようもないと悟ると笑うのだ。自分を、世界を。目に映る全ての物事を。
けたけたと薄気味悪く、力なく笑う。
笑っている内にとてもおかしくて、愉快で、楽しくて仕方が無くなった。
何も面白いことなんか無いはずなのに。世界がとても滑稽で仕方がないのだ。
(ああ、くだらない)
こんな所にいたことも。死を恐れていたことも。兄の顔色を窺っていたことも。
何もかもがちっぽけなことに思えた。
何を恐れていたんだろう。死は怖いものじゃない。
死は打たない、蹴らない、殴らない。酷いことを言わないし、髪の毛を引っ張ったりもしない。どこかへ自分を閉じこめることもないし、ご飯を奪ったりもしない。
それは優しいもの。温かいもの。何も痛いことなんかなくなる。悲しいことも辛いこともきっとない。
迎えに来る死神はどんな姿をしているんだろう。怖い顔だろうか?
いや、兄の怒った顔に比べればどんな鬼でも悪魔でも、優しく愛らしく感じられる。そう思って、口に微笑が浮かぶ。
そして、死神が現れた。
でもそれは死神というか、破壊神。文字通り、壁をぶっ壊して現れた。
幻覚だろうか。幻聴だろうか。不思議なこともあるものだ。
想像と同じだったのはその色だけ。
闇から生まれたような綺麗な黒。それでも何故だか温かい。それは深夜ではなく心地良い、夕暮れの闇。朝でも昼でもない、行く当てのない魂。それを何処か遠くへ誘ってくれるような優しい色。
でもその色は骸骨が被ったフードではなく、死神の髪と目の色。
彼は恐ろしい骸骨の姿ではなく、……全然違う。子供の姿。
彼が持つのは大きな鎌ではなく、剣。
ガラガラと崩れていく壁の向こう。砂埃に咳き込む、彼。
待ちわびた死神。その第一声……
「…………う゛ぇっ、……何だこの部屋、臭っ」
あまりのデリカシーのない言葉に面食らった。
別にリィナだって好きでこんなところにいるわけではない。
面食らう中、彼と目が合った。その直後に思わず泣き出したのは、彼のせいだ。彼の言葉で自分の惨めさを思い出した。
それに何故か彼は挙動不審に陥った。
「……あ、いや……え……う、その……ごめん。泣いてるってことは、俺が悪いんだよな。悪かった」
謝られると言うことは、リィナにとって初めてだった。いつもは自分が謝る側だったから、その言葉の真意が解らなかった。だから尋ねる。
「どうして……?」
「どんな理由があっても女泣かせる男は最低だって、母ちゃんが言ってた。だから俺の親父は最低だ。ああはなりたくねーもん。だから謝る、ごめん…………許してくれるか?」
恐る恐る此方を見る黒い瞳の少年。それが一瞬いつもの自分と重なった。
だからだ。条件反射で言葉が零れた。
「……許さない」
それはいつも兄が言う言葉。
少年の瞳が見開くのを見て、しまったと思った。そんなことが言いたかったんじゃない。
そう葛藤している間も少年は何度も謝罪の言葉を繰り返す。
「んじゃー……何でもする!これでも……駄目か?」
何でも。死神は神様だろう。その神様が何でもしてくれるという。
目の前の少年は願いを叶えてくれる、何でも出来る凄い存在なのか。その日のリィナは彼をそんな風に思った。
願い事。物語の神様は、願い事を三つ叶えてくれる。そんな話が王道だ。大抵三つ目の事を言う頃には、主人公は堕落していてろくでもない結末になることが多々。
それでも一応聞いてみた。願い事の数は幾つと。
「……三つ?」
「げ……!そんなにやらなきゃいけねーんだ。……いや、俺が悪いんだから、仕方ねーか。ん、わかった。三つな」
少年は頷く。
それを見て、ゆっくり紡いだ言葉。
「……死にたくない」
さっきまでの思いとは矛盾していたが、それがこの時のリィナの正直な気持ちだった。こんな情けない格好では死にたくない。相手が年の近い男の子の外見だったから、急に羞恥を思い出したのだ。
死ぬのは怖くない。それでも恥ずかしいのは嫌だ。生き恥のために人は死ねるが、逆を言えば死に恥のために人は生を選ぶこともある。
死にたくない。最初の願いを聞いた彼は、リィナが死にかけていたことを初めて知ったようだった。死神の癖に変な人だと思った。
「うわ……ひでー怪我!」
やべぇを連呼しながら彼に背負われる。幾ら叩いても開かなかった扉を彼は思いきり蹴り飛ばし、大穴を開けた。凄いと思った。でも神様なんてこんなものかもしれない。そうも思った。
「……連れて行って」
「あ?何処に?」
二つ目の願い事。それに彼が怪訝そうに聞き返す。
今正に運んでいる最中。それなのに違う場所へ行きたいのかと彼が問う。それは聞けないと彼は医者の元へと急ぐ。
だからそうではないと言い直す。
「貴方のいるところ」
「何だそりゃ……?」
不思議そうな声をあげた後、しばらく考え込み、彼は彼なりに結論を出したらしく、それを了承。小さく解ったと呟いた。
そしてリィナがそれ以上何も言わないと知ると、催促を始める。
「二つじゃん」
「そうだね」
「なんで?」
「なんでかな」
「お前、わけわかんねー」
少年が思いきり吹き出した。けらけらと心底おかしそうに笑っていた。
夕暮れのような暗い色をしているのに、日差しのような笑顔だった。何日かぶりの外の世界。それと同じくらいに、彼が眩しく感じた。
こんな風に笑ってくれる人間をリィナは知らなかった。人とはこんな風にも笑えるのかと、感心した。それがこんなにすぐ傍にあることが信じられない。
(暖かい……)
人の温もり。靴ごしの蹴りでは感じられない温かさ。
こんな風に誰かに近づいたのも、触れたのも初めてだ。人間はこんなに温かい生き物だったんだろうか?
閉じこめられた場所。朝方の寒さ。自分の右手と左手、それを重ね合わせても、さほど暖かくはなかったのに。
まるで今、自分は太陽に触れているようだ。このままくっついていたら燃えて焦げで死んでしまうような気がする。それくらい、暖かい。
それでも冷え切った身体は、それでもいいかとそう語る。
ここは日溜まり。一度その温度を知ってしまったら、もう離れられない。ずっとそこで微睡んでいたいと思う。
「んじゃ、お前が三つ目言うまでは。俺が傍でお前を守る。これで許してくれるよな?」
日差しに心が溶かされて、今度は自分の言いたいことがきちんと言えた。
小さくうんと頷くと、彼はもう一度笑った。
誰かから嘲笑以外の微笑みを向けられる日が来るなんて、夢にも思わなかったから、思わずリィナは涙ぐむ。それに彼がまたあたふたと謝罪の言葉を作り出す。
それを聞いている内に、次第にリィナも笑い出す。声を上げて笑っても、彼は咎めなかった。兄とは違う。勝手に喋っても笑っても、彼は一緒に笑うだけ。太陽の温度で。
*
場所も立場も変わっても、約束通り彼は傍にいてくれた。
彼が死神なんかじゃなくて、普通の……とも呼べない立場だが、歴とした人間であることはすぐに気付いた。それでも良かった。その時初めてリィナは喜んだ。
人として生まれたこと。
だってもし自分が違う何かだったなら、こうして彼と出会っても何も言葉を交わすことは出来なかった。
彼が虫の姿をしていたのなら、リィナはそれを食料としていたかもしれないし、もしリィナがあの壁だったら、彼の登場シーンでご臨終していたはずなのだ。
だからそれは一つの奇跡だ。
彼と同じ言語を話せる、彼と同じ人間であること。それこそがリィナの幸い。
正直そうに見えた彼にも嘘はやはりある。いつも大きな事を言う彼。それは虚勢だ。
彼は強いのではない。強くあろうとしているだけだ。
彼は何もしていない。どうしようもないことなのに。
彼を憎む人間がいる。彼を殺そうとする人間がいる。彼は不器用だから、解って貰えない。本当は誰より優しい人なのに。こんなに温かい人なのに。それに気付けない人間が多いだけ。道具じゃない。駒じゃない。人間だ。彼も、自分も。
誰かの掌の上、使い古され消費されていい命じゃない。
彼が選び取るのなら、どんな道でも構わない。傍にいる、付いて行く。
その道は誰かに命令されて掴む物じゃない。だって世界はこんなに広い。きっと違った生き方をすることが出来る。あの日のように、また彼が心から笑える日が来る。
そしてそれをようやく見つけた。彼も昔みたいに笑えるようになった。それが嬉しかった。それだけで良かった。唯、彼が彼として生きていてくれるなら。傍で見ていてこれほど嬉しいことはない。
だけど、それを脅かす者がいる。一度ならず、二度までも。
(私が守る……)
彼が自分を救ってくれたよう、今度は自分が助ける番。
心も体も、死なせない。彼の自由を守ってみせる。
王族だからじゃない。その色に惹かれたのでもない。彼が彼だから自分は彼が好きなのだ。
唯、それだけ。だけどそれ以外に何が要る?
それだけで十分。
(それだけで、私は“生きられる”!)
目は逸らさない。屈しない。立ち向かうのだ。
迷いも脅えも切り捨てろ。
世界は1。彼が1。
それ以外は、要らない。それだけでいい。
つがえた矢。それを思いきり、引き絞る。