14:Ubi amor, ibi oculus.
信じたくなかった。
それでも、彼女の情報は絶対で、真実だ。彼女は確信のない言葉を情報とは呼ばない。
少しだけ、嬉しかったんだ。何となく、彼を思い出していた。
別に嫌われても怖がられても構わない。それだけのことをしている。
助けるためでも、自分がしていることは結局唯の人殺しだ。弁明する余地もない。
それでも思った。彼が生きていてくれた良かったと。間に合ったのだとそう思った。
だけど現実はそうじゃない。
“私”は間に合わなかった。自分を頭と呼んでくれたあの声も。人懐こく笑う彼はすべて偽り。彼はもう、殺されている。
エルフェンバインが迷い鳥で得た情報。それを誰かに伝えられる前に口を封じる必要があった。迷ってなど居られない。
その身体はウィルの物でも、生きて動いているのだとしても、……もう彼が取り戻せないとトーラが断言した。トーラは見ていた。エルフェンバインの屋敷にあった研究物全てを情報として取り込み、書物としての全てを焼き払った。
その計算を解析した彼女は、彼が生み出した計算式の危険性を理解していた。
トーラは決して暇じゃない。保護した者達の前に姿を現すことも稀だし、現したとしても視覚数術でその時々で姿を変えるくらいはする。
保護した奴隷全てに触れてその情報を引き出すことなんか出来ない。その膨大なトラウマを一人の脳と心で記憶として共有することは不可能だ。彼女の方が壊れてしまう。逃げ出したウィルとリリーを保護したのも彼女自身ではない。だから、彼の中身に気付くことは出来なかった。
一を殺すことで、全てが救えるのなら。
ウィル自身が無実なのだとしても、彼を殺さなければならない。そうしなければ多くが死ぬ。迷い鳥の存在を奴隷商に伝えられれば、ライトバウアーは再び戦火に見舞われる。
そうなる前に、殺さなければ。けれど本気で邪眼を使えば、ウィルの身体にも作用するかも知れない。その場合、ここにいる洛叉の命も危ない。
(…………)
思い出す。彼と初めて出会ったのは一年以上も前のことだ。
記憶を失い荒れに荒れて自暴自棄になっていた瑠璃椿に、もう一つの名前を教えてくれたのは彼だった。毒の解析……確かな証拠を得、進むべき道、殺すべき相手を思い出した。
もし彼に出会わなければ、未だにリフルは瑠璃椿のままだった。その可能性もある。
それもそれで良かったかもしれない。一瞬、そんな風にも思い過ぎった。
フォースにとってのアルタニア公。ハルシオンや鶸紅葉にとってのトーラ。主のために生きる道具。それは信じた道を唯々突き進めばいい。迷うこともない。それでいて満ち足りた日々だ。唯一人のために生きるというのはそれなりに幸せなこと。必要とされる道具は幸いだ。持ち主を思い慕い愛せばいい。
(それでも……私は、………“俺”は)
名付けられた。贈られた名前。
あの日閉じた瞳が開いたなら、二度と泣かずに笑って生きられるようにという祈り。それはとても難しいことだった。外の世界は泣きたいことばかりが溢れている。
泣かずに笑って生きるのは難しい。だから変える。
誰も泣かない世界になれば、きっと自分が泣くこともない。そしてその時やっと、自分は笑って死ねるのだ。
(そのためなら……)
それが誰であっても殺さなければならない。今更だ。何を躊躇う?
相手が子供の身体だから?彼自身が罪を犯していないから?恩人だから?そんなことは関係ない。
瞳を閉じて……再びそれを開けるまでに覚悟を決めた。目を閉じたまま息を吸い、言葉でそれを解き放つ。
「私は死なない。死ぬのはお前だエルフェンバイン」
*
瞳の解放。映る景色はまさしく狂気。あの冷静な男が、ここまで狂うとは。
子供には甘い。そう思っていた洛叉が、容赦なく……子供の身体を斬り刻む。
自分が何をしたか、何をしようとしたかも忘れたのか、身動き一つ取れない身体に向かい手を翳す幼い矛盾の研究者。
それが一瞬彼自身に見えたのは、心の弱さがなせる技。受け止める。理解する。
(私は人間だ)
出来ることと、出来ないことがある。
だから、彼は救えない。
出来ることなら救いたかった。けれど、それは今更だ。
その内に巣くう者への憎しみ。怒り。それをぶつけなければならないのが、その骸だというのが酷い話だ。そしてこの手で殺してやれないことが悔しい。
出来ることは見つめることだけ。せめて最後まで目を背けないことが彼への餞。
縛められた我が身は、耳を塞ぐことも出来ない。そしてそれは許されない。
これをしているのは彼ではあるが、これを引き起こしたのはリフル自身。ウィルを救えなかったのも、洛叉を邪眼にかけたのも。
剣を振り下ろす度の皮膚を裂く音。飛び散る血液、肉片、落下音。
男は冷徹にその仕事を続ける。彼は医者だ。人の急所を知っている。逆を言えば、どこを刺せば大丈夫かも知っている。死への道のりが長いものであるように。痛みの数は多くあるように。邪眼で理性など消し飛んでいるはずなのに、彼の脳はそこまで計算している。無意識なのだとしたら、彼は恐ろしい人間だ。
これまで邪眼で狂わせられた人間は、仕事を素早くこなした。さっさと競争相手を殺して、獲物を手にしたい。そういう思い、焦燥感から彼らはそういう風に仕事をしたのだ。
けれど、彼はそうじゃない。
獲物を手にするための殺し合いと言うよりは……これは罰だ。いたぶることを目的としている。
(……まるで)
既に手にしている物を、汚されたかのような……勝手に庭に押し入って手塩に掛けて育てた花を手折ろうとした盗人への報い。そんな印象をそこから受ける。
彼は物事については多くを語る人間だったが、自身について語ることはあまりに少ない。知り合いとは言っても、相手が一方的に多くの情報として此方を知っているだけで……リフル自身が洛叉についてしっていることはあまりに少ない。
何を考えているのか。それを表に出さない。他人に自身の情報を与えることを嫌っている?そんな風にも感じられる相手だ。それでも彼の言葉に、あの日の自分は……妙な甘さというか……優しさというか、温もりのようなものが感じたのだ。
嘘ばかりの世の中で、彼の知識が教えてくれる情報は限りなく本当だった。だから信じるに足ると思ったのか。
落ち着きのある大人だからだろうか?彼がリフル自身に無関心で邪眼があまり効かないと解ったからだろうか?
彼の傍にいると落ち着ける。安心できた。
アスカもフォースもそれなりには強いし、一生懸命自分を守ってくれるけれど落ち着きがないと言えば落ち着きがない。そういう様に和んだり癒されたりしている自分が居るのも確かだけれど、洛叉のそれとは少々異なる。
よく考えればおかしな話。
落ち着けるから?彼が安全な人間だとか、信頼に足りる人間だと保証されているわけではない。事実、その認識の誤りが今回の件へと繋がった。
自分は何も知らない。
彼が何を思い、何を考え生きているのか。見当も付かない。例えば、彼が自分をどんな風に思っているのかも。
だからこの狂い方。それは得体の知れない反応だった。これまでの誰とも、違う狂い方だ。その原因がまったくわからない。
エルフェンバインがしようとしたこと。それは彼をここまで怒らせることだったのだろうか?
二つの瞳が映す風景。脳が同時に二つの仕事をこなしていく。
一つはウィルの観察。一つは洛叉の観察だ。その間ずっと、……剣を振り下ろす音は続く。果てしなく感じたその時間も、いつかは終わる。悲鳴が呻きに代わり、呻きが泣き声に変わって……次第にそれは小さくなって。そして……何時しか完全な0へと変わる。
魅せられた彼の手により、時を止められた……その亡骸は小さな子供。今度こそ彼はゆっくり眠れた。そのはずだ。けれど目の前の景色には胸が痛む。
目を伏せてやることも出来ない。取り乱した男にはそんな余裕はない。
(良い夢を……君は二度死んだ。けれど三度は死なない。殺させない)
精神も、肉体も、ウィルは死んだ。けれど脳へと刻む。記憶へ刻む。彼の死に様、名前、顔、その姿。三度目の死は、存在死。死者は忘れられた時、もう一度死ぬ。
(だから“私”は絶対忘れない。“私”が死ぬ刹那まで、君を“私”が覚えてる)
いや……違う。
(“私”じゃないか……覚えているのは“彼女”だ)
リフルが知っているウィルは最初から最後まで偽物だ。間に合わなかった自分は、彼の本当を何も知らなかった。唯一知った本当は今……この死に顔だけ。刻むべきはそれだけだ。向けられた笑顔も、声も……それは彼ではない。
唯一本当を知るのは残されたリリー。彼女がリフルを恨む間、彼女の中で彼はずっと生き続ける。彼女は今以上にリフルを憎むだろう。どうして守ってくれなかったのか。どうして死なせたのか。どうして、どうしてと……そう何時までも問いかけてくるだろう。
けれど、それでいい。それでいいんだ。
今更言葉なんか届かない。彼はもう死んでいるのだ。伝わらない言葉など無意味だ。謝罪は言葉でなく行為。
(いずれ、償う……この身をもって)
言わない。口にはしない。それでも君にもここで今誓う。
彼が完全に死んでいるのを確認した後、目を閉じて……その風景を思い出せることを確認する。そしてもう一度目を開く。紡ぐ言葉は死者ではなく、向けるべきは生者へと。
言いたいこと。聞きたいこと。いくつもあった。
邪眼で好意を引きずり出している今なら彼の心の隙が見つかるはず。
彼の生存を喜ぼう。彼にはまだ役割がある。どうして?何故?聞きたいことは幾らでも。彼の知るより多くの情報。それを曝く必要がある。
そのためにまず、彼へと声を掛けようとした。けれど、様子がおかしい。彼は小さくぶつぶつと何かを零している。苦悩するよう……もがき苦しんでいるようなその姿。見ているこちらの方まで思い悩んでしまいそうな、その形相。
彼はそのまま倒れ込み、血まみれの床へと両手と膝を突き手術台のリフルを見上げる。彼は余程理性が堅いのか、頭が固いのか。それとも余程特殊な性癖でも持っているのか。邪眼に屈した後も、その抵抗を続けている。だからだ。触れてしまいたくなる衝動、それを押し留める意思と、近寄ろうとする本能。その鬩ぎ合いで、身体の自由が利かなくなった。動けと動くな。その両方を命令されている。今はその硬直状態の中にあるのだ。
「違う、俺は……俺は、どうでもいい。どうだっていい。そうだ……貴方なんか、俺は」
意味がわからなかった。それが自身に言い聞かせる言葉なら理解できたが、それはリフル自身に向けた言葉だったから。今の状態なら、自身を洗脳し硬直状態から抜け出すのが先決であるはず。だというのに彼は、敢えてそれをリフルへ告げたのだ。
「…………洛叉?」
「今更俺を!その名で呼ぶなっ!」
呼びかけた言葉。それが彼の怒りの琴線に触れたのか、洛叉が声を荒げて言った。普段と口調まで変わっていたことに、少々驚く。
他に何と言えば良かったのか。今更“先生”などとは呼べない。彼のしでかしたことで、ディジットは深く傷ついたし、アルムとエルムは危険な状況にある。
彼の紡いだその一言は、完全なる否定の言葉。それを耳で聞くことで、邪眼の支配を一歩抜け出したのだろう。
彼に冷静さの欠片が帰ったようだ。
「……那由多様、貴方は白い鴉だ」
表面上は、落ち着いた声色。それでも彼はまだ、肩で息をしている。
何の例え話だろう。頭のいい彼の話は脈絡がない。人一人殺した後に語る話に脈絡などあってないようなものだけれども。
それでも一つ、確かなこと。彼は自分を憎んでいる。その声色からそれをリフルは感じ取る。呪うような……その、声。
「貴方がどんなに群れを求めても、貴方を受け入れる群れはない。貴方がそこにいるだけで、その群れは狙われることになる。いい標的だ。違うと言うことはそれだけで争いを生むんだ」
やはり彼は頭がいい。身動き一つ取れない身でも、言葉の刃は鋭い棘だ。的確に胸の隙間を突いて来る。
それはリフル自身、感じていたことだ。
いくら混血の傍に身を置いても、結局の所自分は一人だと……思うことがある。
邪眼にかかっていない混血、奴隷達は殺人鬼を気味悪がる。人殺しは、普通の人間ではない。同じ場所に立ち、同じ空気を吸っていても……それは同じ生き物ではないのだ。
リリーだけではない。
頼まれたわけでもない。感謝されたくて助けたわけではない。そうしなければならない。それこそが違う人から贈られた……三つの名前が導き出した、道だから。
それでも、誰が憎まれたくて人を助けるだろう。この手を汚して、助けるだろう。割り切れない思いは、確かにある。
彼らの傍を通り過ぎる時……上手く笑えているだろうか。不安になることもある。けれど、不安なんて……数え上げればキリがない。
例えば、だ。邪眼が無ければトーラが好意を寄せて協力してくれることもなかったかもしれない。自分は彼女を利用している。操り傀儡にし、そしてその思いを踏みにじり……それに応えてやることも出来ない。それでもいいと彼女が告げるのは……それも邪眼が言わせているだけなのかもしれない。そんな風にも心のどこかで思うのだ。
アスカがタロックを追われたのも、両親を失ったのも。
アルムとエルムが攫われたのも。
巻き込まれただけ。自分がそこにいたから。
(何処にもいなくなって……しまえばいい…………しまえれば)
そんな風に何度も思った。そうすれば、終わらせることが出来る。何もかも。
だけど、終われない。だから、ここに……どこかにはいなければならない。
言われなくても解っている。世界で一番憎むべき、真っ先に殺すべきはこの自分なのだと解ってる。
「………………それくらい、知っている」
「っ……貴方は何も知りはしない!貴方の目には何も正しく見えてなんかいないんだ!」
吐き捨てた言葉。自嘲などではない。真実だ。全ての言葉だ。
だからそれを否定された今、他に何が言えるのだろう?
室内に初めて訪れた静寂。それを打ち壊したのは、彼でも自分でもない。第三者。
「それで洛叉、お前は何時までそこに突っ立ってるつもりだ?」
その声に、洛叉の身体が一瞬震え……そして声の方へと振り返る。
それは、つまりだ。邪眼の支配を打ち破った。抜け出した。その切っ掛けが……その声だ。
「ヴァレスタ……様」
洛叉の声は少し、震えていた。
目を向けた先……洛叉よりは明るいタロックの黒。暗灰色の髪のタロック人。
けれど彼も真純血なのだろう。彼の瞳の赤は……そこらの適当な紅玉よりも、深い赤。見事としか言いようのない美しい赤だ。
深いとは言ってもタロック王族のようなおどろおどろしい血色の赤ではなく、例えるならば……山のような借金をして、親に兄弟親戚一同嫁も子供も売り飛ばし、人を殺して金を奪って、尚悪行に手を染め悪魔に魂を売り渡して金という金を集めて………そうして積み重ねた大金。それでようやく購うことができる、至高の紅玉。それはこんな色をしているのではないだろうか。
ぼーっとその色を観察していると……目が合った。その時、彼は小さく笑った。囚われの身を遙か高見から見下し心底嘲笑うような笑みだった。
そこには好意の欠片もない。邪眼が効いていないことは一目瞭然だった。
ここで初めて、リフル自身も彼を恐れた。
純血は混血より遙かに邪眼に狂いやすい。セネトレアの男は大抵欲に正直だ。好色というか何というか、節操無しだ。
本気の想い人がいるとか、余程自制の心が強いとか、そう言う場合は効果が薄れるが、大抵そうはならない。妻が居ても、妾が居ても、愛人が居ても、恋人が居ても。欲を知る人間は大いに狂う。そんな人間がたった一人を愛することは難しい。
愛でる者は多ければ多い方がいい。支配欲を覚えた人間は、征服することに魅せられる。そんな奴らは邪眼からは逃げられない。
トーラの力を借りて邪眼を全力で使っているのに、それが全く意味を成さない。
普段程度の力では、洛叉には効きが悪かった。故意にそれを暴走させた結果、そんな彼にエルフェンバインを殺めされることが出来たということから、これは確実に効いているのだと知れた。
今働いているのは視覚数術。トーラに書いていてもらった最凶数式“妄想自滅デラックス” (トーラ命名)。
トーラが言うには、トーラの紡いだ数式は鏡のようなもので邪眼が効きやすいよう相手好みの髪型服装ポーズなど、そんな姿にリフルを映す技らしい。普段の視覚数術のように姿を変えているわけではない。普段の邪眼は耐えられたらしい洛叉でも、この自滅デラックスからは逃れられなかったようだ。真面目で知的な雰囲気を醸し出していた彼も所詮は男と言うことで自らの妄想にやられたわけだ。世の中そんなものだ。
しかしこの術の発動中に仲間に会うのは危ない。トーラには何があっても術が切れるまで近寄らないよう指示しておいた。彼女は術展開をキャッチすることも出来るから問題ない。
ふざけた名前ではあるが、危険な技であることには変わりない。
まぁ、要するにだ。
自分は身動き取れない拘束状態にはあるけれど、この状況をあまり危険とは思わない。
(……そのはずだったんだがな)
今ここに来て、初めて危機感を覚えている。
邪眼は、リフルを守る力。魅了し殺し合わせ、その生き残りに触れさせることで毒を食らわせ、相手を殺し生き延びる。
けれど、この目の前の男はそんなことはどうでも良さそうなのだ。
別に触れたいとも何とも思わない。まったく興味がない。彼はきっとそう思っている。
その目には憐れみも同情も、好意もない。あるのは嘲り、それだけだ。
邪眼の範囲内に居て、こんな反応をする相手は初めて。
蒼薔薇と呼んでいた頃のハルシオンだって、悪い方向ではあったが効いていた。あれは彼の性癖が異質というか加虐趣味だったがための問題だった。彼から引き出した好意がそれに拍車を掛けるという負の要因に繋がった。
そういう例外はあるにはあるが、邪眼は相手の好意を引き出す物だ。
だから……この男は洛叉以上に底が知れない。得体の知れない。誰が相手であってもこんな言葉は使いたくはないが……化け物。そんな風に思ってしまう。
何を考え生きているのかわからない。さっき、洛叉に対して思った言葉。それをもう一度繰り返す。
何を考えているのか?それは解る。馬鹿にしている。リフルを、洛叉を。目に映る全てを。見下しているのだ。馬鹿にしているのだ。嘲笑っているのだ。
けれど、一体何が彼にそうさせているのかがわからない。人間、何をどうやって生きたなら……こんな風になれるのか。それがわからない。
どうしてそう何もかも、当然のように見下せるのか。そんな目で。一体何の理由があって?権限があって?彼はそうしているのか。
彼は確信している。それが当然のことだと信じ切っている。それが解る。だから、彼が“解らない”。理解できない。
言葉一つで、支配者を切り替えさせた、その男。年ならば洛叉と同等……?いや幾らか年下かもしれない。
そんな人物を相手に、洛叉がここまで萎縮するとは……異常な事態だ。
リフルは元とはいえ一応は王族。だからその名残で彼は昔の名で呼び表面上は礼儀を残す。しかしリフルより年上であるアスカあたりへの応対は非常にぞんざい。そして姿は変わったとはいえ元は老人だったエルフェンバインには敬語。つまり、……タロック人の習慣として目上の人間を立てている。そういうことになるのだが。
……それならこの青年は、実は年上?それとも身分がある人間?
しかしそのどちらとも違うように思う。
身なりのいい格好から、どこかの貴族の跡取りのようにも見えるが、貴族だとは思えない。セネトレアの貴族とはどうも毛色が違う。彼が携える剣は柄や鞘にはそこそこ豪華な装飾が施されてはいるが、まだ実用品の範囲内。つまり、彼はそれを実用しているということ。
道楽貴族達は基本的に武器は持たない。野蛮な戦いは優雅さに欠けるとし、位のあるものは戦うべきではないと考え護衛にそれを任せる。もし携帯しているとしても装飾品の類のものだ。戦いには向かない、金銀宝石を鏤めた見てくればかりの豪華さを重視したそれは人を斬るには向かない武器。
戦うと言うことは……商人、でもないということだろうか。貴族でも成金商人でもない。しかしそれなら身分として、年齢として洛叉が彼を立てる必要はないはずだ。もっとも立てたとしても洛叉の礼儀は表面上だ。とりあえず敬語を使っています。そんな雰囲気を隠そうともしない抜け目なさ。
相手を馬鹿にしている……とまでは言わないが、尊敬すべき相手ではないと理解している。そんな風なニュアンスで、その言葉から心から相手への敬意を表するようにはとても見えない。自分に対する言葉は敬意というよりは……ある種の親しみのように感じられた。
だからこそ、今の言葉は異様だった。たった一言。その名前。その声に含まれた情報。
そこに宿る感情、それは恐れだ。
邪眼が効かないというのは、リフル自身の恐れ。それなら洛叉は彼の何に恐れるというのか?この青年は、まだ何かを隠し持っていると言うのか。
彼がこの青年の何を恐れているのかは知れない。けれど、目の前の男はその恐れによって完全に支配されている。底知れないこの男を脅えさせる……それだけのカードを持っている。それは確からしい。
(………この男、一体……?)
死ぬかもしれない。
そう思ったことは何度もある。実際一度は毒殺された身だ。
この男の視線は、死ぬかもしれない……ではない。一言で言うなら、“わからない”。次の瞬間何をされているか、全く予測がつかない。そんな未知の恐怖。
ありとあらゆる最悪の想定。どう転んでも言い方向には向かない。これを解いて爽やかに笑って逃がしてくれるとかそういう展開はないだろう。
やられるとしたら、確実に悪い方向全般の内のどれかだ。自分の脳では想像できないような何かをされる可能性もある。彼はそんな未知だ。
知らないと言うことは、それだけで恐怖の対象。トーラがかつて情報を集めていたのは、襲い来る顔の見えない死神から逃れるためだ。
リフルは彼とは初対面。何も知らない。彼は、完全なる未知。知っているのは彼が呼ばれたその名だけ。
じっとこちらを見据える赤から目を逸らせない。彼は通り雨のよう。彼が通り過ぎるまで、唯……耐え、堪え、待たなければならない。太陽が再び空へと戻るまで、唯耐えることしか許されない。許されていないのだ。勝手にこの目を逸らすこと。それを命令されていない。それを破った時、何かとんでもないことが起きると脳内で鳴り響く警笛。
出来ないのではない。やろうと思えば出来る。けれど、してはならない。
動けず、何も言えない。まるで人形、まるで道具。
物言う道具が奴隷だと、かつての自分はそう言った。そして物を言えない奴隷こそ、混血なのだとも。
それを否定出来るようになり、自分は人間だとそう思えるようになった今、自分がしていることは一体何?自由に動けず、自由に言えない。今の自分こそ、物も言えない奴隷だった。
そんなリフルの様子を見て、彼は小さく笑った。勿論今回も嘲り分は大いに含まれている。嘲り60%、それに満足40%と言った感じだ。
「ヴァレスタ様っ!」
場違いなほど明るい声。弾むような無邪気な声。純粋にそれを慕うような子供の声。それに僅かな聞き覚え。現れたのは一人の少年。
茶色の髪に青年より薄い赤の瞳のタロック人。首の後ろで結ばれた長髪が、犬の尻尾のように見える。今にも左右に振られそう。
彼には見覚えがある。アルタニアで出会ったグライド=フィルツァー……フォースの友人だ。懸念したとおり、ここにいると言うことはやはりこちらに属する者だったか。
洛叉も彼もアルタニアからの帰還が早すぎるが、エルフェンバインが何か言っていた。数術で何かをやらかしたのだろう。だからこんなに早い。あの男は仮初めとはいえ空間転移の数式を確立していた。
「お帰り…………グライド、見えるか?」
少年に見えるかと問う男。主語も抜かされた短い言葉。そこからその意を読み取り、少年は両目を凝らし、宙を見つめる。そして10秒ほどを置いた後、にこりと彼へと微笑んだ。
「はい、ヴァレスタ様。博士の数式は記憶しました」
数術の才が薄いリフルにはもう見えない。空中へと融けて消えた数式の、数値配列。それを彼は読み取った。
トーラならば、それなりの期間が空いてもそれを行える。消えて差ほど時間が経っていないとばいえ……純血が消えた文字を探る程の数術を扱えるのは非常に稀だ。
才能に恵まれない純血が数術を扱う際には、補助具となる媒体に頼り、その数地を犠牲にし、脳で処理する式を簡単なものへ変え脳への負担と計算量を減らす作業が一般的だ。
しかし彼が媒体を手にしているようには見えない。その全てを脳内計算で行って、尚かつ廃人とならずにここにいる。
この少年も、そこそこ得体の知れないというか。何というか。まぁ、この男を見た後だとまだまだ可愛らしいように思えるから不思議だ。
この少年は“凄い”、レベル。この男は“恐ろしい”、レベル。
「よし、それなら同じ物を見ればそれだと解るなお前なら」
「はい」
「頼りにしてるよ」
その言葉。初めて嘲笑以外の色が出た。
このヴァレスタという男、この少年には可愛がるという心があるらしい。可愛がると言っても犬猫を愛でるような感覚だが。
その言葉に少年が嬉しそうに微笑むと、部屋の空気も若干和らぐ。ペットに癒されたらしい飼い主が、緊張を解いたのだ。自身の?違う。その他の者達への。
「ならば例の件は片付いた。そのゴミは用済みだ」
「……!?」
再び此方を見下す瞳と、冷たい言葉。それに立ち上がった洛叉が声なき抗議の声を上げる。息を呑むという方法で。
それに男は再び嗤う。視線をリフルより下……床に転がるウィルの亡骸へと向けて。
「ああ、ゴミと言ってもそっちの方じゃない。死んでいる方だ。グライド、話が終わってからでいい。奴隷共に片付けさせろ」
「はい!ヴァレスタ様!」
話が終わってから。いくらでも邪推できる言葉だ。
まだ片付けるなとは……これから死体が増えるかもしれない。そういう響きがそこにはあった。
「さて、初めまして。一応そう言っておくべきですか?那由多王子」
完全に邪眼の危険区域内。手術台傍まで近づいて、それでもリフルに触れずにその男は言葉を紡ぐ。ヴァレスタという男がリフルに向けて発した最初の言葉は一番目の名を呼ぶことだった。てっきり「いい様だな」とかまずこの恰好を見下されるものだと思っていた分、意外だった。敬語を使われたのも意外だった。勿論そこに敬意の欠片も感じられないのは今更のこと。
意外ではなかったことは、その名で呼ばれた事。
おそらく洛叉が彼に話したのだろう。つまり彼はリフルの正体を知った上で言葉を作っている。
「…………」
何と答えればいいのか。何が正解か。答えなくとも答えても、それはそれで彼の不興を買いそうだ。とりあえず出来たことは、彼を見ることだけ。
奇しくもそれがここでは正解だったよう。
「私はヴァレスタ。商人組合の裏方を一任されている請負組織gimmickの頭です」
「……その請負組織が私に一体何の用だ?人質まで取って念入りなようだが」
今の今まで彼の不興を買うことを避けよう。そう防衛本能がそうしていたはず。
けれど彼の役職を耳にした時、口から転がり出た言葉。
敬語でもない。彼への敬意も恐れもない。怒りと憎しみ、そして見下す彼を見下す言葉。突き刺すは悪意の言葉。
自分でもどうしてそんな言葉が転がり出たのかよくわからない。防衛が本能ならば、攻撃は理性で意思で自我。
商人組合の裏方。それはつまり、奴隷商達絡みの厄介事。王都東側の物騒事。その取締役だと自白しているようなもの。
(この男が。この男は。敵だ)
そう思うと、それを脳が認識。見ていただけの瞳。それに確かに憎しみが宿る。意識してリフルは彼を睨み付けた。
そこで初めて、ヴァレスタがリフルに興味を持ったらしい。
許しもなく反論、そしてその視線。予想外の展開だったのだろう。僅かに驚いているようだ。そしてその驚きはすぐに愉快といった表情へと変わる。
けれど、リフルの返答にもっと驚いた人間が居る。彼の背後に控えていた少年、グライドだ。
「……その声!……君は、フォースの……君が、殺人鬼!?まさか……だって」
此方を真っ直ぐ見た後に、真っ赤な顔で顔を背ける少年。動揺している、大いに。
彼の反応に、リフルも赤目の男も何を今更と言った顔。初めてこの男と同じ事を考えた。
しかし、本当に今更だ。もう正体くらいバレているものだと思っていた。今更そんなことを聞かれるとは思わなかった。彼と一緒にここへ戻って来たらしい人物へと視線を向ける。闇医者へだ。
「話してなかったんですか……?」
「聞かれなかったので」
質問に対し、誰へ向けてかは微妙に判別の付けられない皮肉で返してくる程度には精神的に落ち着きを取り戻しているようだった。返り血が付着した眼鏡をいつの間にか外している。眼鏡で視界に物理的な壁を作り冷徹を演じるよりは、よく見えない方が邪眼が効かないと理解したのか。なるほど、一理ある。
「……っ!貴方という人はっ!!」
「君のそう言う顔が見られると面白いかと思ったのでな」
子犬のように吠える少年に、闇医者はふっと小さく笑う。彼の主に散々見下された分を彼を小馬鹿にすることでストレス発散をしているようにも見える。正直、大人げない大人だと思う。
「道中はいい暇つぶしだった。君が心を奪われた少女が、よりによって君の嫌悪する人種で、更には少女ですらないと知ったら君はどんな顔をするだろう。そんなことを考えていたよ」
「…………純血じゃ、ない」
その言葉に、少年の顔が蒼白になる。普通蒼白になるとしたらそこではなく、少女じゃないとかそっちじゃないのかとかいろいろ言いたいが、彼にとっては其方の方が問題だったらしい。
髪の色も、目の色も……その通りには見えていなかったのか。だれだけ数術への適応能力があるはずの彼には、思い切り邪眼が効いていたのだ。恐るべしトーラの“妄想自滅デラックス”。彼に効くということは、フォースが居たら危なかった。きっと同じ年の彼にも効いたはずだ。
その妄想によりアルタニアで彼が勘違いしたままの、金髪青目のカーネフェル人の少女にでも見えていたのか。
「混血……混血……っ!混血…………っ、う……」
此方を見つめ、混血と呟いて……彼はその嫌悪感で術中から抜け出した。彼は途端に口元を押さえ、咳き込み、気持ち悪そうな顔。
気持ち悪い。おぞましい。彼の赤い瞳がそれを告げている。
それで気付いた。彼を眠らせるために仕掛けた毒。その方法を、だ。
この少年は、純血至上主義者だったのだ。商人組合に出入りしていればそうなってもおかしくはない。彼にとって混血とは人間ではない。ましてや恋愛対象などなり得ない下等生物。見下すべき存在。
元々は邪眼の力と、エリザベスというメイドが仕掛けた数術香水。それにより彼は引き出された好意を恋だと誤解した。そんな混血なんかとキスした挙げ句、一時でも心ときめいていた自分がいたことが許せないに違いない。だからと言って泣くほど嫌か。今にも吐きそうな。胃の中のもの全て掻き出したいって顔してる。見た目は可愛いんだから胃液嘔吐とかやったら問題だと思う。
本人もそれを知ってか知らずか主の前で嘔吐なんて切腹モノだからか必死にその嫌悪感を胃の中へ押し戻そうと格闘している。
「…………何してくれたんですかうちの有望株に」
「挨拶を少々」
ヴァレスタの言葉は少々白けていた。見下すと言うよりもはや呆れだった。誰に対するものではなく、この部屋の今の状況に対する。
確かにカオスな空間だ。
拘束されて身動き取れず、見る相手によっていろいろ変わるの劣情加速数術付加の殺人鬼が転がっていて。その手術台の下には中身は爺だった少年の亡骸。
返り血塗れの闇医者に、嘔吐を堪える美少年。もうなんなんだここは。
はぁとため息を吐いた後、状況を打開すべくヴァレスタがグライドへと言葉を向ける。名前を呼ばれたことで、本調子に戻ろうと少年は取り繕った。
「何だグライド?彼はお前の知り合いだったか?」
「い、いえ……アルタニアで」
主に聞かれ、嘘は言えない。しかしその返答に彼の主は暗く笑った。
「そうか。それじゃあお前は私の命令を果たさなかったと、そう言うことか?」
「……はい」
失言だった。誰もがそれに気付いた。何をされるか解らない。どんな罰が降るか解らない。少年もそれは気付いていたはずだ。しかし彼はそれを認めた。言い訳一つしなかった。責任は全て自分一人にあると、そう言わんばかりに。
吐き気も嫌悪感も意思の力で完全に押し戻し、じっと主の赤を見上げることだけ考える風。
「……冗談だよ。お前のそう言うところは私も気に入っている。言い訳をしないところはお前の美徳だ」
その熱意と健気さに負けたのか、軽く息を吐き男は彼の頭を撫でた。完全にあれだ。飼い犬をわしゃわしゃ撫でるあれだ。
よく金持ちがやる飼い猫(白猫に限る)の背を撫でるあれのような優雅さはない。少々手つきが乱暴だ。
伏せた赤。それが再び開いた時、彼が見たのは別の人間。
「責めるならお前ではなくそっちの男だ。洛叉、報告が遅れたようだな?」
睨まれた闇医者。今度は竦みも脅えもしない。飄々と口答えをする余裕を見せる。
完全に本調子に戻ったようだ。良いことか悪いことかと聞かれたら、後者だ。現時点でこの場所からは邪眼が効いている人間が誰もいなくなってしまった。
(…………)
しかし、何故だろう。状況は最悪だ。それなのに少しだけ、安堵している自分が居る。彼の皮肉が懐かしい。
こんな人だった。彼は、アスカともこんな風に軽口を言い合っていた。
自分もそれに混ざりたいような、混ざりたくないような。不思議な気持ちでその言い争いを見ていたものだ。彼らの会話はそれはそれである種の親しみだった。
違いと言えば、その点か。
それには確かに含みはあったが、棘はなかった。二人とも全力で嫌味の押収をしている。清々しいまでの嫌味。それは嫌味のクロスカウンター。そんな風に見えた。
けれど今目の前で見ているのは、ちょっと違う。
「仕方ないことですよ。私が貴方に報告する前に貴方から命令されましたからね。客人を出迎えろと」
「言い訳だな」
「言い訳ですが?」
「そうか、お前のそういう嫌味なところは嫌いじゃない」
「そうですか。光栄です」
嫌いじゃない。そう言いながら、にこりと笑う赤目の男。
わざとらしい好意は、嫌がらせだ。好きだと言った方がこの闇医者が嫌がると解った上で言っている。
対する闇医者の言葉もそれだ。そう言い返すのが一番いい嫌味だったと言うだけだ。
互いに心底嫌い合っているのは端から見ても明らかだった。こんなに分かり易い洛叉もなかなかない。
そんな風に思いながらそのやり取りを見つめていると、赤が此方に向き直る。
「わざわざアルタニアまで来てくれるとは思いもしなかった。こんなに簡単に釣れるならどうして今まで釣れなかったか不思議で仕方ない」
トーラが止めていた脅迫状。それを出したのは彼。
双子を攫わせるよう洛叉に指示したのも彼。
そしてアルタニアへの妙な依頼を出したのも彼。それがその一言から得た情報。
商人組合の裏方組織。それが殺人鬼Suitを追い求める理由は?
心当たりは二つ。
一つは一年半前。レフトバウアーでの邪眼暴走。それで起こした大量殺戮。
あの事件で商人組合をリフルは敵に回した。そこからは開き直って、商人組合に属する貴族や商人を何人も殺害。どこからどう見ても、自分は彼らの敵だ。
「私を釣って何が望みだ?公開処刑でも?」
生かして捕らえたがった理由を考えるなら、それが一番妥当なところ。
けれど彼はそれを即座に否定する。そしてもう一つの心当たりを口にした。
「ははははは!それも楽しそうではありますが、私はそこまで残虐趣味ではありません。貴方の姉上の足下にも及ばない」
「……やはり、あの女の件か」
「耳に届いていたようで何より」
話が早いと笑うヴァレスタ。
その話を聞いたのは、ここへ来る直前だ。鶸紅葉からもたらされた緊急。
フォースを置いていくと決めたのもそのせいだ。
フォースは確かに強くなった。唯守られるだけの子供じゃない。彼は戦える。けれど、場数が違う。それに彼はまだ発展途上。力じゃ、勝てない。
それに、突入人数は三人と予め決めていた。
「セネトレア王ディスクとタロック王女刹那の婚約が成立したというのは本当だったか……」
「何を余所余所しい。他人行儀とは……お前の姉だろう?那由多王子?」
表面上の敬語を止めるヴァレスタは、鼻で笑うようにそう言った。
事実ではあるが、血の繋がりが何だというのか。半分同じ血が入っている程度でそれは家族とは呼べない。顔も知らない、声も知らない。一度も会ったことはない。知っているのは彼女の名前と悪行のみだ。それに親しみなど微塵も感じない。
「…………つまりそういうことか。商人組合はセネトレア王の暗殺に失敗した。そしてその足取りも掴めない。だからこれを破談させるためには彼女の方を消す必要がある。そしてその駒に、私が選ばれた。そう言うことだな?」
「ああ、そうだよ。あの姫はお前にかなりご執心らしい。いつだかの求婚者は弟の棺と死体探しを命じられて、見つけられずに処刑されたとか。またある時の求婚者はお前と同じ毛色の混血を貢げと命じられて、見つけられずに処刑!」
そんな話は初耳だ。タロックと取引をしている商人組合には、トーラの手に入れられない情報も入ってきているのだろう。
しかし異母姉の酔狂に絆される義理などない。無理難題のネタにされているだけだ。
「そんな一目でも見てみたいという弟が!まだ生きているんだと知ったなら奴はどうするだろう?」
「どうもしないんじゃないか?」
そう返してやると、耳元で大きな音。その音に思わず目を閉じる。
「させるんだよ、お前が」
横目で見れば引き抜かれた剣。それはリフルの頬を掠り、横たわる手術台へ深々と突き刺さる。
深々と差し込まれたその柄に手を掛けたまま、剣を動かし首まで移す。
よく手入れの行き届いている剣なのか、何か特別な素材でも使っているのか。凄い切れ味だ。首一つ刎ねるくらいこの剣ならば息を飲むより素早いだろう。
「頭のいかれた毒の王家のお前らは、近親婚なんてしょっちゅうやらかしてるんだろう?お前が生きてるってだけで、この婚約は解消されるんだ」
見下ろし、命令するようのぞき込む赤い瞳。
「破談なんて言わない。殺して来るんだ。お前の姉も、父親も」
のぞき込まれていると言うことは、自分も彼を見ていること。邪眼は効くはず、こんなに近い。それでも、効かない。
「破格の待遇ですよ。人質は解放。そして貴方は憎くて憎くて堪らない毒の王家に復讐できるんだ。その後の身の振り方によってはお前の罪状取り消してやるよ」
思い出したように敬語。そしてそれもすぐに止める彼。
彼は自分のことを随分知っているようだ。洛叉がそれなりの情報を漏らしていたのは確かなよう。それを今更疑う余地もない。
ヴァレスタの言葉はあまりに好待遇。故に何か裏がある。というか裏しか感じられない。
「私がタロックを継いでセネトレアの属国にでもしろと?」
「ああ!それもいい。だが混血なんてゴミに玉座は勿体ないだろう?代わりに手頃な人間を王に立ててやるよ」
彼も生粋の純血至上主義者らしく、混血をボロクソ言ってくれる。身体が拘束されてなければここで一発殴っているところだ。
怒りとは大きな感情だ。原動力だ。それに飲まれてはいけない。それはわかる。
そういう復讐はやらない。そう決めた。
だけどこういうときは本当に有り難い、大きな力だ。怒りは恐怖を打ち負かす。
今なら思い切り、毒を吐ける。臆することなく物を言える。得体の知れないこの相手にも。
「そうか。それじゃあ私はやはり公開処刑か?」
けれど、彼はそれが気に入らなかったのか。
「ははははは!そんなに死にたいのか?それじゃあ……」
首のすぐ傍。ぐっと柄へと力が入る。
危ない光を宿して笑う赤目。心臓がどきりとするような、絶妙な間。
殺される。そう此方が覚悟した直後。
それを見計らうよう、歪む口元。彼は嗤った。
「…………殺してやらない」
やられた。また主導権を持って行かれた。
この大嘘つきは何を言い、何をするかがわからない。殺さないは、殺害予告かも知れないし、実際にそうなのかもしれない。
その驚きは怒りより弱い感情。未知の恐怖に再び飲まれる。
「暗殺してもらったらさっさと処分するつもりだったが……飼うのも面白いかもしれない」
「ヴァレスタ様!?」
信じられないという風なグライドの声。ここで彼を一番か二番目に理解しているであろう人間がそう驚くと言うことは、先程の言葉は本物らしい。
ますます意味が分からない。
そんな下等生物たちにわざわざ説明してやるなんて慈悲深いと感謝しろ、と言わんばかりにヴァレスタが首を彼らの方へと向けて語り出す。
「だってそうだろ?なぁグライド?こいつは混血だがゴミも鋏も使いようだよ。これを上手く使えば議会の爺共、なんかすぐに落ちる。こいつに色目使わせりゃ、狸どもに貢がせるのも簡単だ。そしてこいつは殺しの専門家なんだ。ゴミ掃除にも使えるだろう?最悪用済みになれば売り飛ばせばいいんだ。いい金になる。世の中には好事家も変態も星の数だから、こんなゴミでも飼う馬鹿が居るんだ」
「そうか。それでお前は……」
「言葉遣いに気をつけろ。そろそろ弁えないと人質、適当に一人……」
交渉は済んだ。命令で終わったはず。それなのにまだ生意気な口を利くとは。
身の程を知れと睨み付けてきた赤目は……そこに誰もいないことを悟るまで、僅かのタイムラグ。
それまでに切れた頬に触れ、血を両手に纏うことなどあまりに容易い。ついでに思い切りその傷口を引っ掻いたから、暫くは武器に困らない。
「洛叉!こいつは数術は使えなかったんじゃないのか!?」
「私が知る彼は一年前の彼ですから。正確には一年と……」
人は日々変化する生き物でもあり進化したり退化したりする生き物である。
ある意味正確な情報を与えるべく日数を日にち時間秒単位で表し出そうとし出した洛叉はここで、ヴァレスタの力になる気はないようだ。
「……!?グライドっ!」
「…………本物です。数術の幻覚じゃありません!」
正解だ。拘束から抜け出したそれは数術ではない。それをグライドが述べたよう、リフルは人間業で抜け出した。
けれどネタをしらない細工は魔術。それさえ出来れば詐欺師が魔術師だ。
知らないことは未知。未知こそ恐怖。恐れに変わる。
そしてリフルは呪文を唱える。なんら意味のない怪文だが、そこにはちゃんと意味がある。
にこりと笑顔で、大声で。あまりに場違いなその言葉。
「奇術師の相方は何故無意味に露出度が高いのか?例えるならば悩ましげなバニーガール」
「「…………は?」」
赤目主従が揃って気の抜けた声を出す。何言ってるんだこいつ。意味が分からない。そんな目だ。しかしそれでいい。これはただの時間稼ぎ。
一人だけ気の抜けた声を出さなかった者がいる。彼は気付いているだろう。だが、指摘するつもりはないようだ。これも大きな情報だ。
(まぁ……この場合、私が兎と言うことか)
邪眼は、本気でたった一人を愛する人間には効果が薄れる。その想いが強ければ強いほど。
容赦なく引き絞られた弓。放たれた矢。兎に目を取られていた彼らがそれに気付いたのは、鈍い音と痛みと共に。
そう。乗り込むのは三人。フォースの件は偶然の産物。
「あんな男も……こんな国も、私はどうでもいい」
怒りに震える女の声。優しい人が怒ると怖いと言うのは本当らしい。
次の矢をしっかり構えた彼女。長い金色の髪に緑の瞳のカーネフェル人。リィナの腕は確か。そして女は強かだ。
「だけど、ロイルを危険に晒したこと……許さない!ヴァレスタっ!!」
「…………“様”を付けろ、この愚妹が」
彼女の矢には毒が塗ってある。それはそう、一本の例外もなく。