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13:Facito aliquid operis, ut te semper diabolus inveniat occupatum.

『王子観察記録。1日目。

 那由多様はじっと窓の外を眺めている。』



『二日目。

 今日も変わらず窓の外を眺めている。

 何度か眼があった。彼が此方を振り返ったからだ。

 何か用でもあるのかと思ったが、結局何も言わずに彼は窓の虜へ戻る。』


『三日目。

 今日も窓の外を眺めている。

 此方を振り返る頻度が相対的に増えた。』


『四日目。

 今日も昨日と変わらず。

 振り返る回数が減ったように思う。』


『五日目。

 観察を続けていると、突然泣き出した。

 具合でも悪いのかと尋ねてみるが、彼は首を振るばかり。』


『そして六日目。

 様子を見に来た騎士に一発殴られた。』



「洛叉!確かに私はお前に頼んだが!何と頼んだかお前の頭なら覚えているだろう一字一句!違わずに!」

「あの子の話し相手になってやれ。だろ?」

「なってないじゃないか!まったく……年下相手に大人げないな、あーもう泣かないでくださいよ那由多様」

「人聞きの悪い。話ならばしたぞ俺は。挨拶もしたし、具合も尋ねたし」

「どうしてお前はそうなんだ!そんな機械的な話で喜ぶ子供がいるか!」

「虚けが。時節の挨拶というものはこの国では重んじられる事柄なんだ。これだからよそ者は。俺は毎日挨拶の内容も変えた!」

「それがそもそもおかしいんだ……はぁ。話し相手っていうのは、友達になってやってくれって意味に決まっているだろ。それをお前は何上司相手みたいなことをやってるんだ」

「実際相手が王族なら、俺は臣下だ」

「ほう、そういうお前が手にしているのはなんだろうな?」

「混血研究の一環、観察記録だ」

「王族で研究するな無礼者……」

「貴族の俺に手を挙げるとはいい度胸だな移住騎士。お前の方こそ無礼者だ」


「…………喧嘩?」


 不穏な空気を察し、恐る恐るこちらを見る子供。

 こういう時ばかりは意思の疎通が何でか可能。気に入らない騎士と頷き合った後、笑いながら答えてやった。


「「あ……挨拶です」」


 彼から見えない位置で騎士の腕を抓ってやったのでいい笑顔で答えられたような気がする。


 *


 離宮は王都から離れた場所にある。

 妾であるシャトランジアの姫も、その妾腹である第二王子も、置かれている場所はそこだった。自分の師である医師はそこそこ腕が良く、王宮に召し抱えられる程度の腕はあった。名医と呼んでやらないこともない。

 時折離宮から診察を受けに来ていたその姫のため、そんな名医を離宮に王が左遷なんかするから、余計正妻との間に確執が生まれるんだろうに。

 子供の洛叉でも容易く理解出来ることだったが、悲しいかな、毒の王家の人間はそんなことも解らないらしい。

 助手兼弟子である自分も面倒なことだが、その左遷に付き合わされる事になるなんて。

 大体離宮なんて俗に言う臭い物に蓋。その蓋の内側みたいな場所だ。好奇心がないと言えばまぁ嘘にはなるが、余計なことまで知りすぎて奈落に左遷でもされたらそれこそ笑い話にもならない。

 命あってこその人生。時は限られている。人が永遠をいきられない以上、日々は時間との戦いだ。生まれて生きて死ぬまで、如何に多くを、知ることが出来るか。それを証明できるか。書き記すことが出来るか。

 そんなことを考えていた洛叉にとって、それは時間の無駄としか言えない頼まれ事だった。


「あの子の話し相手になってやってくれ」


 そう言って仕事兼研究中の自分を連れ出したのは、姫付きの騎士。


(元が貴族だがなんだか知らないが、移民の分際でこの俺に指図しようなどと)


 一言で言うなら気にくわない男だ。それ以上でも以下でもない。いや、以下かもしれない。いつも何を言ってもへらへら笑っているのが気にくわない。

 自分が頭でっかちな子供扱いされ、見下されているような気分になる。自分よりも何も知らない、劣った人間に見下されるのは非常に不愉快だった。


(混血か……)


 洛叉自身にも腹違いの妹と弟がいる。混血とはそう珍しいものでもない。彼らが生まれる条件ももう判明されたに等しい。

 離宮の一室に隔離されたその子供。表向きは病弱とされているからこそのその仕打ち。

 自分はこれからその国家機密事項に会うわけだ。

 診察を終えた師が、しばらく何も語れなくなったくらいの化け物だ。何を見たのかさえ彼は教えてはくれなかった。

 この騎士の言いなりになるのは気に入らないが、多少の興味はある。

 例えば、その王子がどれだけ狂っているのか。確かめるとか。

 数代ぶりに外の血を取り入れたタロック王家。シャトランジアの姫はそれで毒に冒され精神を病むことになったが、生まれた子供がどんなものなのか。それを知る人間は少ない。


 その王子の異母兄と異母姉。正妃と王の間の真純血の兄妹は、まさに毒の王家の人間だ。数度見かけたことがあるが、どちらも狂人の片鱗を既に発現させていた。

 第一王子の恒河は妹姫を病的なまでに溺愛し、何の抵抗もなく実妹との約束された結婚を受け入れる姿勢だ。タロック王族が体内に取り入れた毒のせいで他の家の者を招けなくなり、近親婚が慣例になったとはいえ……それに難色を示す者も多い。

 今の王もその口だ。実妹という正妻がいても、彼女に想いは寄せられず、他国の姫に惚れ、娶ったくらいだ。だからこそ、恒河のそれは間違いなく一つの狂気。


 その溺愛されている妹姫の刹那と言えば、兄という婚約者もそれを無視して日々求婚しにやって来る訪問客も相手にするのが面倒だといった風。

 まだ10にも満たない姫の下に日々数十を超える男達が求婚にやって来る風景というのも異常な光景。

 しかし彼女の狂気に比べれば、それも可愛いものかも知れない。

 求婚者が煩わしいと感じた彼女は、人間業では打ち破ることの出来ない無理難題を押しつけて、彼らを始末することを思いつく。彼女が5にも満たないときにそれを考えついたこと、或いはその当時に既に煩わしいほどの求婚者がやって来ていたことに驚くべきか?そしてそれさえ面倒臭くなった彼女は、愛の証明を口にした。

「私が好きなら、貴方はどこまで何をすることが出来るのか?」

「私が本当に好きならば、貴方は私のために死ねるのか?」

 それを問い、頷かなければその愛は偽りと処刑。頷けば、それならば証明のために死ねと武器を手渡す。日々、積み重なる骸の山。その後始末に呼ばれたときは、毒の王家の異常さに少々驚かされた。

 一目で良いから彼女を見たい。死をも恐れぬ愚か者は未だに尽きない。男とは、愛とはなんと愚かな者だろう。洛叉は呆れた。

 この世に自身の命より大事なものなど存在するはずがない。愛とは盲目の不治の病だ。自らの意思で物事を考えることさえ出来なくなる。つまりは脳の支配権を得体の知れない他者に譲り渡すこと。なんと恐ろしいことか。それは自身が自身ではなくなる恐怖。

 つまりは、精神の死。それこそ、洛叉が恐れるもっとも大きな死。


 そこまで大きな話でなくとも良い。

 例えばだ。視覚聴覚嗅覚……そんなものから外界を知る。そこに含まれる音、色、匂い……そんなものさえ突き詰めれば全ては何らかの数値配列。

 それに触れると言うことは、何かに感化されているということ。それは本来自分が思うことを思えず、考えるべき事を考えられず、何者かに踊らされているということ。

 それはとても、気持ちの悪い話。

 生きている。唯それだけで、人は常に得体の知れない何かに侵されている。自己という境界を食い破ろうとしてくる侵略者。それに気付いているからこそ、絶対に屈するわけにはいかない。


 だからこそ、だ。

 確かに連れて行かれた先で出会った混血は、珍しい色で、美しい色で、可愛らしい外見をしているにはしていたが。それだけで好意を向けられるとでも思ったのか?片腹痛い。


「子供だからってそれで無条件で優しくされようだなんて、愛されようだなんていうのは虫ずが走る」


 故に、命令と義務以外の働きは行わないことにした。その結果あまりに暇だったので、観察記録を始めたに過ぎない。


「よって、俺は礼儀以上のものを捧げるいわれがない」

「お前が馬鹿か!」


 訳を聞かれたので話してやると、騎士ががっくり肩を落とす。


「すみません那由多様、こいつは変わり者で変人で、友達付き合いになれてないんですよ。大目に見てあげてくださいね」


 泣き喚くのではなく、声を殺して啜り泣くという子供にしてはなかなか珍しい泣き方をしている混血児。そしてその頭を撫でる騎士。ギロリと此方を睨み付け、釘を刺すことも忘れない。


「今度泣かせたらマリー様にお知らせするから、しっかり相手をしてくれよ」

「はぁ!?」

「お気に入りで可愛がってた洛叉君に任せた王子が泣かせられたと聞いたら姫はどれだけ悲しむだろうなぁ……ああ、お労しや」


 その言い方には語弊がある。子供好きらしいあの姫が、師の手伝いをしていた自分に一方的に絡んできただけだ。可愛がられていたのではなく、渋々愚痴聞きマシーンと化してその話相手をしてやっていただけだ。だけなのだが、カーネフェルの女は押しが強い。

 娘人格の時はよくやった!もっとやれと言われるだろうが、母親モードの時のあの姫にそんなことを言われたら、自分は小一時間それを追求されかねない。

 まぁ、目の保養と呼べるくらいの美女だったから相手をするのは時間の無駄とは思わなかったので適当に付き合っていただけだ。それに医者の卵としても興味があった。彼女のような狂人観察を間近で行えるのだから。毒と狂気のメカニズムを曝いてやろうといきり立っていた節も否定できない。


「そ、そんなこと言われてもな!俺と王子じゃ話が合わないだろ!?第一俺は聞き役専門!話すのはあっちだ!俺から話せっていうのか?」


 だけれど今回は話が真逆だ。彼女の場合は唯相づちを打って聞いていれば良かった。向こうから絡んでくる。しかしこの子供はなんと面倒臭いことだろう。


「お前はもう少し周りに合わせるって事を覚えるべきだよ。相手の目線に立って考えるとか」

「相手の目線ねぇ……」

「例えば、お前が書いてるそれでもいい。疑問に思ったことくらいだろう?そう言うのを聞いてやるのもいい。研究ってのは見てるだけより相手に関わる方がより多くの情報を引き出せると思わないか?」

「……お前の考えに賛成するのは気に入らないが、今日ばかりは正論のように聞こえるな」


 座り込んだ彼に視線を合わせるべく、膝を折る。


「那由多様」


 そう呼んでみるとびくっと大げさなほどに身体が震える。眼覆った服の裾の間から、恐る恐るこっちを見ているようだ。


「別に捕って食ったりしませんから」


 自分は一体何だと思われているんだろう。


「……っていうか俺、何かしました?」

「お前の場合何かしたというより、何もしなかった結果がこれなんだがな」

「五月蠅い腐れ騎士」

「那由多様、大丈夫ですよ、こいつは全然怒ってませんから。いつもこういう顔してる奴なんです」

「おいそこの騎士。いい加減にしないと侮辱罪でうちの家が黙っていないぞ?」

「……やっぱり、怒ってる」

「ああ、これは那由多様にじゃなくて、そこの金髪野郎に対してです」


 なるほど。この子供は黙っている自分がひたすら怒っているように見えたのか。

 その無言の圧力に負け、泣き出したと。


「お前考え込むと眉間に皺寄るんだな。そいつのせいだろう」


 今もそうなっていると騎士が笑う。

 目つきの悪さならこの騎士だって似たようなものだというのに、王子はその笑いに釣られ、泣きやんだ。更にそこから釣られたように微笑む様は、隣の男とは比べものにならないほど愛らしい。

 なんだか真面目に相手をするのも馬鹿らしくなってきて、自分も少し笑ってみたが……王子は紫の瞳を見開いた後、そそそと騎士の背中に隠れる。


「洛叉……笑い方の練習からしようか。お前、どこからか喚び出された悪魔みたいな笑いだった」

「う、五月蠅い!」


 とりあえずむしゃくしゃしたので騎士の足を思い切り踏んづけてやった。反省も後悔もしていない。むしろすっきりした。清々しい気分だ。朝昼晩、一日三回くらいしてやれば、きっと快適な日々を送れることだろう。


 *


「それで、どうして那由多様は窓の外ばかり見てるんですか?」


 そこからいろいろあってようやく会話が出来るようになった頃、最初の疑問をぶつけてみた。


「え……ええと、あの」


 人付き合いというものをあまりしたことがないのだろう。

 あったとしてもその大半は大人だ。そして彼の境遇を知っている人間。憐れみからかその応対は優しいものとなる。

 だから自分のように優しくなどない人間と、どういう風に接して良いのかわからない。

 ついでに言えば、人見知りもあるのだろう。

 しかしその様は見ていて少々苛つくものがある。なるべく苛々しないように……は無理だったので、それが極力表に出ないように努力した。


「外に、行ってみたいな……って」


 しばらくの沈黙の後、彼はそう呟いた。


「病気が治れば、外に行けるって先生が言ってたんだ」


 治りませんよ、とは流石に言えなかった。

 彼が薬だと飲まされているのは毒だ。それは食事にも混ぜられている。

 政敵からの毒殺を防ぐための慣習だ。けれど半分は普通の血が混ざっている彼は、抗体が少ない。だから身体の調子が良くないのだ。

 治るはずもない。そもそもそれは病ではないのだから。

 だけどそれを伝えることは出来なくて、違う観点から攻めることにした。


「ろくな所じゃないですよ、外なんか」

「外を知ってるの?」


 憧れる外の世界をつまらない場所だと教えてやれば、きっと行く気もなくなるだろう。そう思ったのだが、この子供はますます外へと興味を持ったようで両目を輝かせながらこちらに詰め寄る。


「それは、まぁ」

「いいなぁ……」


 憧憬を含んだ息を吐くその様は、空に焦がれる鳥のよう。

 きらきらと輝く瞳は、外が美しい場所だと信じられる愚かさだ。


「どうしてそんなに外に行きたいんですか?」

「時々、見えるんだ。ううん、聞こえたりもする」


 それは遠くに見える街の景色か、それとも鳥のさえずりか。


「家族とか、友達とか。外に行けばそういうのに会えるんでしょう?母様には時々しか会えないし、父様は外にしかいないって聞いた」


 彼が憧れているのは、別に外ではないらしい。それがその言葉から知れた。

 それは叶えようと思えばここでだって叶えられる願いだ。ただ、……彼の立場上それがとても難しいと言うだけで。

 失言だった。それに気付いたのは言ってしまった後だった。


「別に友達くらい外なんか出なくても作れるんじゃないですか?」


 その失言に食い付いた子供は、じっとこちらを見上げてくる。期待するようなその眼差しを無下にするのは難しい。


「それじゃあ洛叉がなってくれる?」

「無理です。お断りします」


 しかしここは心を鬼にする場所だ。きっぱり断っておいた。それにやはり不満そうな、がっかりしたような面持ちに変わる彼。


「何で?」

「いいですか那由多様。ここは何処ですか?」

「お城」

「正解です」


 別に褒めたわけではないのだが、当たりと告げると嬉しそうに微笑む子供。とりあえずあの騎士を真似て頭でも撫でてやることにした。


「お城だとどうして駄目なの?」

「いいですか那由多様、城には身分という概念があります。友達というのはその同じ身分の人としかなれないんですよ」

「どうして?」

「そういうものだからです」

「……それじゃあみんな僕と同じになればいいの?」

「無理ですよ。国民全員が王族とか無理ですから。国立ちゆかなくなりますから」


 子供は愚かだ。現実的に考えてあり得ないことを簡単に言ってくれる。

 それでも素直な子だからだろうか。強い言葉できっぱり否定してやれば、それは出来ないことだと理解する。そして次の方法を探り出す。なんとも諦めの悪い。


「それじゃあ一番いっぱいいる身分って何?」

「……農民とか奴隷じゃないですか?」


 ヒエラルキー的に考えれば最下層が最も多いのは自然なことだ。それを告げれば彼は、ぱぁと明るい表情になり、またもや問題発言。


「それじゃあ僕、大きくなったら奴隷になるよ!」

「!?……それはいけません那由多様」


 あまりの言葉に「はぁ!?」とか間抜けな声が出てしまったように思う。仮にも王族ともあろう者が何を言っているんだろう。本当にこの子供は何を考えているのか。分かり易そうに見えて底が知れない。

 彼は洛叉に否定されたことでまた新しい解決策を考える。


「うーん…………それじゃあ僕がみんなをお嫁さんにすればいいんだ!そうすれば友達になってくれるよね?」

「跡継ぎ問題が出てくるので止めてください」

「それじゃあ僕がお嫁に?」

「それも止めてください。いろいろ問題しかありません」


 やっぱり子供だ。まず言葉の意味を理解していない。とりあえず覚えた難しそうでそれっぽい言葉を使ってみたい年頃なのだろう。


「洛叉は駄目ばっかり。それじゃあ僕には友達が一人も出来ないよ」

「…………はぁ、解りました」


 どうせ子供の戯れ言だ。成長すれば忘れるだろう。子供の言葉はそれくらい信憑性のない不確かなものだ。


「わかりました、それじゃあ……貴方がここから出られる日が来たら、外と自由を手にしたならば私が貴方の友となりましょう」


 そう言った瞬間だ。たかだか言葉遊び。本気でもない。そんな言葉に、本当に……嬉しそうに笑うのだ、この人は。

 今思えば酷いことを言ったと思う。残酷なことだ。愚かなことだ。

 それでも彼だって同罪だ。

 彼は処刑より以前をほとんど覚えていないのだ。彼の過去から、“俺”は間引かれた人間だった。




 *




 博士の数術が発動したその刹那、脳が見ていたのは幻想だった。幻想と言っても妄想の類ではない。確かな記憶だ。過去の記憶だ。

 過去は傲慢だ。ただ今更手に戻らないと言うだけで、途端に美化され美しいモノのように感じさせるから。

 いつまでもそこに浸っていたいと思わせる。心地良く生暖かい日溜まりの温度の誘惑。

 けれどそれに捕らわれるわけにはいかない。それが生きると言うことだ。そう自身に言い聞かせそこから抜け出してきた時、目に映ったのは一面の赤。

 利き手は剣。そこにも赤。そして服に付着した赤が、それを引き起こした犯人を教えてくれる。

 それはこの“俺”自身。ああ、やられたな。

 自分は理性で押さえられていたと思ったのだが。所詮は人の身。魅せられることから逃げられはしなかった。


(…………邪眼、か)


 身動きの取れないままの、共犯者。誘発者。片割れ殺しの混血児が笑う。


「確かにお前に邪眼は効かないかもしれない。それでも彼はどうだろう」


 邪眼は殺し合わせる力。片側を狂わせられれば十分過ぎる。それに気付かなかったのがお前達の敗因だと。

 確かに。もう負けている。魅せられてしまった自分では、彼は殺せない。それ以前に殺すなとの命令が出ている。


「この程度見破れずに数術使いだと?笑わせるな」

「……っ!?」


 今度こそ、幻覚。

 頭では解る。これは数術だ。しかし彼は数術を使えない。邪眼はまやかしを見せるものでもない。そうなると、この術を紡いだ支援者が居る。

 元は三流とはいえ、数値を見る力は持っているエルフェンバイン。それに気付かせないよう仕込みに仕込まれた二重三重……いや、もっとか。そんな手の込んだ数式。

 そして今更発動したと言うことは、条件?或いは時間差数式?術者から離れた場所で発動するよう仕掛けられていた。

 混血の身体を奪い、数術を使えるようになったことで浮かれていたこの愚か者の目は曇っていた。或いは魅せられた獲物との再会に、既に彼もやられていたのかもしれない。

 目の前に拘束されている彼は、先程までの姿と違う。

 一年前より短くなった銀色の髪。それは以前のように腰まで長く降ろされて……服装まで変わって見える。唯でさえ童顔で女顔だというのに髪型の変化のせいで、完全に目に映るのは可憐な少女だ。それでもこれが男だというのだから詐欺だ。実に詐欺だ。慰謝料請求しかけて理性が一周してもうどうでも良くなるくらいのレベルの詐欺だ。

 服装自体は別にコレと言って露出の少ない良家の令嬢といった風体だが、拘束されているせいで、なかなか際どい恰好。微妙に捲れている箇所もあり、そこから見えるほっそりとした白い四肢は思わず触れてしまいそうになる。拘束されているというのに、脅えるでも媚びるでもなく、見下すようなその冷たい視線は、こちらが拘束されているようにさえ映る。事実、その通りだ。心臓は彼の手の内にあるようなもの。

 これ以上近づいたら危ない。命を失う。それに気づき、後ずさる。


(……………なるほど)


 この一年半、彼は唯逃げ隠れしていたわけではないらしい。暴走した力をある程度抑える術を知ると言うことは、逆もまた然り。ある程度意図的に暴走させることも可能。そう言うことになる。

 彼は今まで抑えていたのだ。仲間が傍にいないことで、彼はもう遠慮を忘れる。今の洛叉は清々しいほど、敵側に入れられている。それだけのことをしたかもしれないが、勝手に傷つく思いがある。それは、自分が彼に魅せられている証でもある。


「馬鹿……な」


 床を這う声……まだ息のあったらしい博士が苦しげにそう呻く。


「君たちにだって!悪い条件じゃないはずだ!そうだろう!?洛叉っ!!」


 確かにそうだ。必要なのは彼の外見と瞳とその毒の力。それが手に入るのなら例の件は問題なく事が運ぶ。中身が彼自身であるよりもずっと容易に。


「生憎ですがエル博士。……私は主から命令されていましてね。“彼を生かしたまま連れて来い”と。石頭で融通が利かないのがタロック人の性ですのでご了承いただけると幸いです」


 辛うじて残された理性がそれらしい言葉を紡ぐ。彼が消し去ろうとした記憶や人格。それが例の件で必要となる可能性もある。……まぁ、勿論詭弁だ。頭では解ってる。確かにこの男の言う通り、その方がずっと楽だと。

 それでも許せなかったのだ。

 目の前の彼が。何もかも、根刮ぎ奪われるのが許せなかった。

 自分を知らない彼でも。彼は彼だ。人格も、感情も、意思も、彼の所有物だ。昔のように笑わなくなった。変わってしまった。それでもまだ、今もこの心を意思を引き摺っていく。

 計算も損得勘定が出来なくなる。心のままに曝かれる。欲を引きずり出される。恐ろしい力だ。


 自分は何をしているんだろう。取り返しの付かない過ちを犯してしまったかもしれない。駄目だ。そんなことはあってはならない。彼のために、この思考が脅かされることがあってはならない。それは彼女を危険に晒すことに繋がるかもしれない。だというのに……


(俺は……二度も、屈するのか?)


 それが引き起こした罪。それを自分は覚えている。それが誰をどんなに傷付けたか思い知った。それなのに、それなのに……どうして。

 口から零れるのは、脳ではなく心の言葉。唯……唯感じた嫌悪感。床を這い、助けを求めるように近寄る物体へ、それを思い切り吐き捨てる。


「気安く触れるな。語るな。死に損ないの老い耄れが」


 結局屈してしまった憤り。それを目の前の死に損ないへとぶつける。その器が罪のない子供のものだとしても、それは止められなかった。

 脳と心。思考と感情。それがそれぞれ別々のことを言う。邪眼は思考のたがを外させ、感情のままに人を突き動かす。そんなことを思考の隅で考えながら、床の赤が広がっていくのを見つめていた。


「違う、俺は……俺は、どうでもいい。どうだっていい。そうだ……貴方なんか、俺は」


 彼に自分はどう映ったのだろう。


「…………洛叉?」

「今更俺を!その名で呼ぶなっ!」


 我ながら理不尽な言葉だ。今更。一年前のように彼は“先生”などとは呼んではくれない。当たり前だ。それなら、名で呼ぶしかない。消去法だ。その声に、揺さぶられる記憶が忌まわしい。

 過去だ。自分は覚えてなど居ない。その癖こちらの頭を心を縛り付け、思考を鈍らせる。許し難い行いだ。


(俺は、……俺だ)


 “俺”は研究者だ。知をもって支配する側の人間なんだ。嘲笑う方の人間なんだ。

 世の中は知識が全て。愚かな者は搾取されるためにある。それは仕方がないことだ。彼らが愚かだからいけない。それを恨むなら、支配者を越える知を手に入れるべき。その努力もせずに不平を述べる事しかできないから奴らは愚かだと言うんだ。


(認めて……堪るか)


 そう思うのに、震える膝は力をなくし彼の前に跪く。

 何故だ?どうしてこの俺が。

 これは何だ?昔は自分より地位も身分もあったかもしれない。確かに外見ならば美しく愛らしいかもしれない。しかし敢えて言おう。それがなんだと。

 たかが、それだけではないか。


 これは自分より何も知らない。昔も今も。

 こんな穢れた世界に、窓の外に憧れるような馬鹿だ。未だ叶いもしない理想を夢見ている愚か者だ。

 普通に考えれば解る。赤子でも解る。人はそう言う生き物だ。誰かを見下し、蹴落とすことで優位に立つことで。そうしなければ両足で立っていることも出来ない生き物だ。

 だから奴隷の消える世界などあり得ない。人種差別のなくなることなど決してない。

 人は違いを嫌う。相違が生むのが差別。

 けれど人は自分の全てを愛することなど出来ない。だから同じものを持つ人間が居たとしても争いは続く。同族嫌悪、劣等感。そんなものがそこから生まれる。

 一人の人間が世界を支配し、他の全てを皆殺しにでもするまで、争いは終わらない。そんな結論何歳の頃に至っただろう。物心つく前にはもう気付いていた。


 彼は傲慢だ。

 誰もが羨むようなその奇跡の色。それを持ちながら、彼は何を求めているか。

 彼は本来見下すべき側の人間だ。そんな人間が見下される側の味方をする。これは矛盾だ。

 解っているのか?そちら側にいたところで、救われることなんかあり得ない。仲間内からどんな眼で見られるか、本当に解っているのか?

 彼がそこにいること自体、彼らを傷付けているとどうして気付かない?

 やはり愚かだ。気付けないのは、この人が愚かだと言うことだ。そんな愚かな人間に、屈した自分は何なんだ?

 この“俺”のプライドを踏みにじるのなら、それらしい顔をしてくれ。悠然とした傲慢な支配者の顔であってくれ。

 本当に、詐欺だ。踏みにじるだけ踏みにじって、この“俺”を哀れむように、救いを与えたがる。そんな慈悲深さ……情が色濃く残っているその眼。それがどんなにこの心を抉るか解っていない。


「……那由多様、貴方は白い鴉だ」


 身動き取れないままの彼に屈した。それでも一矢報いよう。悪意の言葉を彼へと捧げる。

 彼は、鳥。綺麗で珍しくて、美しい。それだけの鳥。強くもない。戦えるわけでもない。お荷物だ。

 飼われることが唯一の、平穏。外の世界に放たれれば、多くの不幸を生むだけだ。今ならそれがわかる。あの日犯した過ちも。この人は、囚われ飼い殺されるべき人間だった。

 あの日彼が死んでいたなら、自分はこんな風に二重に苦しめられることもなかった。罪など犯さなかった。もし……彼に出会わなければ。


「貴方がどんなに群れを求めても、貴方を受け入れる群れはない。貴方がそこにいるだけで、その群れは狙われることになる。いい標的だ。違うと言うことはそれだけで争いを生むんだ」

「………………それくらい、知っている」

「っ……貴方は何も知りはしない!貴方の目には何も正しく見えてなんかいないんだ!」


 そこまで言い切って、自分も彼も言葉を忘れる。

 大声を出すなんて何年ぶりだろう。言いたくないことを言ってしまったせいか、どうもすっきりしない。吐き出した後の方が後味が悪い。肩でする一息一息、それが重くて仕方がない。


「それで洛叉、お前は何時までそこに突っ立ってるつもりだ?」


 背中に掛かる声。扉が開いたことにさえ気付かないとは。よほどいかれてしまっていたらしい。

 その声で目が覚めた。血の気が引く、冷たい声だ。全てを見下すその声は、自身が絶対の支配者だと確信している、傲慢な。


「ヴァレスタ……様」


 振り返る。その先には、赤い瞳の悪魔。同じく赤い瞳の使いを連れて、彼はそこにある。主以外に跪いたこと、それを咎めるように笑みながら。

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