12:Facta, non verba!
「貴方の実験は、完成していたんですね……エル博士」
「ああ、より素晴らしい器を形成できれば私は神子をも越える数術使いとなれる。素晴らしいことだ。君に欠けた唯一の才能、それを私は君に与えることが出来る。……数術。素晴らしい。今までの私は一体何をやっていたのか。それを疑問に思うほど、この力は万能だ」
「しかしそのような無理な使い方をすれば、長くは保ちませんよ?数術代償の大半は危険なものです」
「その点は何、問題ないよ。その時はまた身体を変えればいい」
研究施設というにはお粗末な。連れてこられた場所……造りとしては普通の部屋だ。手術台代わりらしい寝台に一通りの拘束具が常備されているのを普通とスルーするならば。他には変わったところもない。部屋には沢山の本棚。おそらくその全てが数術研究に繋がるものだろう。
その手術台に拘束されている身でも二人の会話はよく聞こえてくる。フォースは別の場所に連れて行かれたが、トーラに後を追うよう指示しておいたから彼方は大丈夫だろう。問題は、此方の方だろう。目の端に映る低い背丈。少年のもの。
突然の数術反応、それに気付いたトーラと現場に駆けつけた。この場所でトーラの他に数術を使える人間がいるとしたら……混血であるあの双子、アルムとエルムの可能性があった。実際其方の方から彼らの反応をトーラがキャッチした。
けれど目にしたのは、フォースと迷い鳥で保護している混血の少年だった。駆け寄ろうとしたリフルを止めたのはトーラだ。
彼の描き出した数式。それに見覚えがあると彼女は言った。
情報は力。トーラはその独自の数式の作り主から彼の正体を暴き、仮説を立てた。そしてその通りだったというのだから何とも頼りになる相棒だ。
(……仕方がないか)
頼りになるからこそ、彼女の宣告は辛かった。目の前の少年はもう、どうしようもない。それを彼女に告げられた。
闇医者と元三流数術使い。二人の研究者の会話。
研究を成し遂げ、才能を奪い、それを手にした研究者。本来運。運悪く与えられなかった才能。それを奪うことで成り代わる。
セネトレア。金の力。金で才能ある混血を手に入れれば、数術の才さえ手に入る。買えるのだ。金で。それをこの男は証明した。
命を履き潰す。汚い両足で踏みつぶす、心を。この汚らわしい寄居虫はまだまだ命を喰らうつもりらしい。何人もの人間を、混血を実験材料として殺しておいて、まだ懲りていないのだ。
白髪を蓄えた老獪な研究者。この手で殺した相手。それは姿を変えてまたこの目の前に現れた。助けが遅れた。全てはそれが原因だった。救える命をまた一つ……多く取りこぼした。それを知った。
「なぁ洛叉君。人質を使った交渉なんて面倒な方法を用らずとも、もっと簡単に彼を屈服させる方法があると君はご存じないかい?君の主が彼にやらせたいことは、彼の身体が在れば問題ないことだろう」
「……貴方は、まさか!?」
「君も数術を、その才を求める人間だ。君の悲願は私も解る。理解できるよ。だから、今こそその願いを叶えよう!」
「この方は、数術使いではありません。器にしたところで数術は……」
研究者二人の視線がこちらを向いた。手術台に拘束されているリフルの身体を見る視線。
その一つは黒い瞳で、驚きに見開いていた。もう一つの銀の瞳は欲に染まった濁った瞳。知識欲がため、悪魔に魂を売った男の目。そこらの下手な変態より大分危ない方向へ逝ってしまってる眼だ。
「邪眼だったか。今の私なら解析できる。あれも数術の一種なんだよ。だから理論上、彼の身体で数術が使えないことにはならない。それを邪魔しているのは彼の精神そのものだ。彼さえ消えればあの身体はとんでもないことになるぞ!唯一無二の色!若く美しい身体!至高の毒!魅了の邪眼!そして最高の数術使い!素晴らしい器じゃないか!」
心身共に犯された記憶はあるが、それ以上の辱めをよく思いつくものだと呆れを通り越しいっそ感心する。もう失うものなんて命くらいのものだろう。それさえ惜しいと思わないが、まだまだ足りなかった。この国は自分からもっと多くを奪おうとしている。
悪運が守るこの身体の死。それはトーラのいう審判が始まるまで許されない。
けれど自我は?心は?
そんな殺され方、考えたこともなかった。それなら、出来るかも知れない。
あんなに死にたいと思っていたのに、不思議なものだ。この男にだけは殺されたくない。そう思う。
死して尚、自由はない。身体が壊れるまで、弄ばれ続ける。
晒し者になって墓を作って貰えないとか、石を投げられ鴉に啄まれ野ざらしにされることくらいなら考えた。
けれどこれはそれ以上だ。ぞっとする。おそらく死者に対する冒涜はそれが最上級。今目の前にいる少年は、それに犯されているのだ。
後一歩。もう少し速く助けに行けたなら。今ここにいたのは本来の彼で。彼自身が笑っていたのだ。あんな歪な笑い方をしないできっと、穏やかに。
「君が渋るのなら私が引き受けても構わないよ?この身体は君が言うようそう長くは保たないらしいから」
遅かった。助けたつもりで助けられなかった。
その少年の骸を纏い、数術使いが笑う。身体は生きていても、彼のこころは間に合わなかった。
生きていれば?いくらでもやりなおせる?幸せになれる?
また、自分は間違えた。
精神の、心の死。それは間違いなく、死。終わり。やり直すことなんか出来ない。
どんな数術使いも死者は蘇らせられない。トーラだって、聖教会の神子だって。壊れた心、消された記憶、人格は……どうしようもない。複雑すぎる。一度壊れたら、もう元には戻せない。人類には侵せない神の領域。
「そうだな。それがいい。君には違う器を用意しよう。Suit……いや、あの子は確かリフルと呼んでいたか」
人に名前を呼ばれてここまで不快なことも珍しい。
(……そうか)
この名前は。教えた人は、呼んでくれる人は。皆それぞれにリフルが好意を感じていた人。
だからだ。こんな男に名前を知られたことが。我が物顔で呼ばれることが悔しい。自分はこいつの所有物などではない。それがこれはその名を口にすることで、さも自分がその名の持ち主を支配している錯覚を味わっている。
それで何が変わるわけでもない。わかってる、それでも許せない。
(その名前は……)
何も知らない癖に。そんな奴がその名で呼ぶな。
奴隷の名前じゃない。人殺しの名前でもない。身分の名前でもない。
人間として付けられた、幸せを願って贈られた名前なんだ。最初で最後の贈り物なんだ。毒以外に母が自分に贈ってくれた、大切な。
アスカが必死に守って伝えてくれた大切な。
その名で呼ばれて初めて、人になれた気がするんだ。奴隷じゃない、道具じゃない、混血でもない。一人の人間と認めれもらえた気がするんだ。
だから、その名をそんな風に呼ぶな。“私”の名を汚すな。
それは自分一人だけのものではないのだ。付けてくれた人。呼んでくれる人。その人達のものでもある。だから自分一人を汚すより、その行いは許し難い行為。
「……黙れ。お前らなど数術使いになれるものか」
とうとう耐えられなくなり吐き捨てた言葉。全てを手にしたと思い込んでいる男は愉快気な視線をリフルへ向ける。
「この私が数術使いでないならば、この世界に一体何人数術使いがいるのか教えて貰いたいな」
「ならばお前は未来が見えるか?明日が見えるか?一年後の自分が解るか?それも知れずに数術使いを語るな。神子を越えるというのなら、未来を予言して見せろ」
「そんなことか。それなら予言してあげよう……君は今日ここで死ぬ。そして君は今日ここで完成する!何、恐れることなど何もない。君は死なない。私と一つになって生き続けるんだ」
トーラの予言からは程遠い、唯の戯れ言だ。計画も事実も予言とは言わない。
当たるはずがない。誰にも解らない。それを知るのが予言。今ここにいるもの全てがそうなると思っているようなことなど予言などと呼べたものではない。所詮はその程度か。今度はリフルが彼を笑う番だ。
「それがお前の予言か……吐き気がする口説き文句だな。お前と番うくらいなら野良犬と番った方が数段……数千段マシだ」
「その虚勢も今に聞けなくなると思うと少々寂しいものがある。存分に語ってくれるがいい。聞き納めになるのだから」
「予言してやろうか?それならば私が」
「……それは面白い。数術の使えない君が予言を?言ってみると良い。それが君の辞世の句になる」
「私は死なない。死ぬのはお前だエルフェンバイン」
*
「っ……くそっ!」
フォースが連れて行かれた牢の中。転がされている姿に感じる既視感。
それでも違うのは、心の持ちよう。
むしろ今の心はもっと前。悲鳴を聞いて廊下を走っている時と同じ。もっと速く、もっと早く。急いで駆けつけなければ。もっと急げば。助けられる、間に合う。そう、間に合わなくなる前に。
それでも身体は動かない。動くのは首から上だけ。
苛々と口を開けたり閉めたり歯噛みしたり舌打ちしたり息を吐いたり。そんなことをしていたら、牢の前で見張りをしているエリザベスに声を掛けられた。
「……ねぇニクス」
「………………………何だよ」
「あの人何なの?」
「お前に話す理由なんかない」
「……あ、そ」
苛々と吐き捨てた言葉。それに彼女はにやりと笑い、両手に持った何かをこちらへ見せる。
「それじゃあこれならどう?」
「……何だよ、それ」
「え?ここの鍵と解毒剤」
言われてみれば、それは確かにそう見えないこともない。ジャラと鳴る鍵束と、液体の入った小瓶がそれぞれ片手に乗っている。
「…………何の、つもりだ?」
「あの爺私好きじゃないのよね」
溜息ながらに彼女は言った。爺……ウィルの身体を奪ったクリークという男のことだ。
「私はお金の味方だけど、金の出ない仕事なら基本美形の味方なのようん。時間外労働は嫌いなの。それに私とニクスの仲じゃない。借り一つあるしね。それっぽいわけがあるんなら見逃してあげる」
悪びれもせずにそう言う彼女は、アルタニアで出会った頃と本当に変わらない。何処から何処までが演技で素なのか。まるでさっきまでの彼女が、彼方が嘘だったのか。そんな気さえする。でも……世の中甘くない。
そうでなければいいのに。そう思って呟いた言葉に彼女はあっさり同意した。
「どうせまた嘘だろ」
「あは。バレた?」
「いい加減に」
「まぁ、見張りも暇なのよ。それにちょっと気になって。だってニクスに混血の知り合いが居たなんて思わなかったし。それに彼、あの有名な殺人鬼だって言うじゃない」
「……だったら?」
「はいはい。怒らない怒らない。別に貶してるわけでも馬鹿にしてるわけでもないから。私が言いたいのは、何かニクスと接点とか見いだせないわーってこと。処刑人って言ってもニクスはねぇ……お子様ーって感じだし」
「………………あの人は俺の命の恩人だ。……あの人がいなければ俺は一年前にこの街で死んでた」
「ふーん……本当あんたはそういうの好きよね。タロック人ってみんなそうなの?あの人もそうだし、あの子もそうだし。タロック人って時々変な生き物。カーネフェルの男とちょっと違う」
アルタニアでのことを思い返したように彼女が言う。じっとこっちを見据える瞳は観察しているようだった。自分とは違う生き物。得体の知れない何か。それを興味深そうに、けれど僅かに脅えながら。
「私はお金しか信じられないわ」
じっと青い瞳に晒されながら、耳にしたのはそんな言葉。空色の瞳の彼女は、氷海の温度で世界を語る。
「無償の愛も善意もこの世にはあり得ない。あるのは損得勘定と下心。お金で買えないものは無い。お金は絶対なんだから」
全てを悟り、諦め、見下し、嘲笑。そしてそれを信じ切ったその口調。
そんな世界を嫌いながらも、そこから抜け出せない。だからそれに立ち向かう。そんな強い意志の籠もった言葉。
「そんなこと……」
否定しようと思う。思うが出来ない。
フォース自身がそう思わなくとも、彼女はそれを信じている。
価値観の違いは、住む世界の違い。二つの世界が交わることはない。彼女が生きている世界では、それが揺るぎない事実なのだ。
「男って変な生き物……」
吐き捨てるよう彼女がそう言った。
「どいつもこいつもエロいことばかり考えてて、下半身に脳味噌詰まってるんじゃないかってくらい単純」
猫を被ることもない。滲み出顕わにされる嫌悪感。初めて彼女が本心を口にしている。そんな気がした。
「それなのに変な意地張って、くだらない事のために命賭けたりする馬鹿。プライドなんか安いものでしょうに。一回女に生まれてみればいいのよ。そうすれば解るわ。そんなもの三日で捨てる羽目になる。そうしなきゃ、生きられない」
代わりは幾らでもいる。価値のない存在。それがカーネフェルの女。だけどそれはタロックの男だって同じだ。そう言おうとした。だけど言えない。言わせるものかと青の瞳がこちらを見据える。
「ねぇニクス、あんたは誰も見下してないつもりなんでしょ?混血とお友達?そう偉いわね。凄いわね。だけど、それは傲慢よ」
「違う、俺はそんなんじゃ……」
「あんたは一度も女の子を馬鹿にしたことがないと言えるの?あんたは一度も自分が純血で良かったと胸をなで下ろしたことはないの?頷くならあんたはとんでもない大嘘つきか偽善者よ」
低くドスの利いた声。女の子がそんな風に喋るものだったなんて今まで自分は知らなかった。
驚いて、言い返す言葉も無くしてしまう。いや、そもそもそんな言葉なかったのだ。なんと言い返せるだろう?
「男なんて最低な生き物。女なんか人間だなんて思っていないの。純血だって、貴族だって、王族だってきっと同じよ。女は可愛いお人形。或いは飾りよ。自分を飾るための装飾品程度にしか思ってないの。自分に足りないモノ。欠けてるモノ。それを伴侶に求める。それを従わせることで、さも自分が完璧になったかのように思い上がるのよ。身分があっても逃げられないわ。大人しくて可愛くて何でも言うことを聞いて言いなりになってニコニコしててそれでいて何でもかんでも受け止めて、一人だけを愛し続けろって?吐き気がする。その癖自分たちは遊びたいから軽い女は好き。でも他人のお手つきなんか本気にしない。本当自分勝手な奴ら。女なんて人生半分もう終わってるのよ生まれた時点で。理由も意味も根拠もない。それなのに生まれながらの奴隷。父に夫に子供に従え?冗談じゃない。私は私よ。それの何がいけないの?そう言うことも許されないって言うの?ああ……あの視線。気持ち悪い。領主様の気持ちもわかるってものだわ。全て抉ってしまいたい。みんなみんな……あんな眼、消えてしまえばいい………………」
「………………ってニクス?何あんた泣いてんの?」
世界を呪うような邪念を紡いでいた彼女が、息を整え声を明るい調子へ戻した。言いたいことを言って多少すっきりした。そんな晴れ晴れとした顔で。
「………………」
何か言おう。そう思う。思うけれど上手く言葉が出てこない。首からは上は自由のはずなのに。
エリザベスの言葉。それはまるで、母が彼女の口を借りて言葉を紡いでいるようだった。昔はいつも笑っていた彼女。次第に笑わなくなった彼女。彼女はそれを口にはしなかったけれど、今の彼女と同じ事を考えていたのではないか?きっとそうだ。
私は私。そう言った彼女の言葉が唯重い。
自分が母の傍にいることは、“私は私”というその当たり前で当然な権利を奪っていた。
(母さん………………、リフルさん…………)
だから自分は捨てられた。だけど自分は………
自惚れろと言ってくれた人がいる。いつも自分を守って、助けて、大切にしてくれる。優しい人だ。笑うと嬉しい。泣くと悲しい。傍にいたいと思う。ただ、それだけだ。
金銭のやり取りなんか無い。彼に何かをしたいとかそう言うのじゃない。損得勘定?そんなことを彼は考えない。自分もそうだ。もし彼の傍にいて損をするなら離れるだろうか?そんなことはない。絶対にない。
「純血だからとか、混血だとかじゃない。唯俺は……唯あの人が好きなんだ」
唯、好きなだけ。それに理由が要るんだろうか。
自分に足りないモノなんか山ほどある。その内の幾つもあの人が持っていることは確かだ。それでもだからじゃない。
「助けて欲しくて助けてくれたんじゃない。関係ないのに助けてくれた。だから……今度は俺が!俺があの人を助けたいんだ!力になりたいんだ……守らなきゃ、守らなきゃ俺が!頼りにしてるって言ってくれたんだ!言って貰えたんだ!」
それなのにどうして自分はこんな所に居るんだ?何も出来ないんだ?そんなのはもう嫌だと何度繰り返した問い?
無力さに付き添われながら歯噛みする。しゃがみ込みながらそんなフォースを観察していた彼女。立ち上がり、横たわるフォースを見下ろしながら小さな声で呟いた。
「…………あと何年か早く、私もあんたに出会えてたらね。何か変わっていたのかしら?そうね。ここを開けてあげるくらいはしたかもしれない」
曖昧な笑み。笑いたくないのに笑っている。そんな表情にも慣れて、本当の笑い方なんか忘れたように。こんな時にどんな顔をすればいいのかわからない。そんな風にとってつけたような笑みを浮かべる彼女。
「でも、ごめんねニクス。あんたと会うのは遅すぎたのよ、私には」
鍵をチャラチャラ鳴らして、エリザベスは牢から離れ歩き出す。通路の向こう。先の見えない、暗がりへと歩み始める。
「給料以上の働きはしないわ。ただ働きは御免だもの。ってことで私はサボタージュにでかけるんで大人しくしててね」
「エリザっ!」
何故だろう。行かせてはいけないような気がした。咄嗟に彼女の名を呼び止めて……振り向いた彼女に、かける言葉が見つからない。
「私に命令したいなら金でも用意しなさいな。地獄の沙汰も金次第。力になってあげなくもないかもしれないわ。んじゃ」
揺れる金髪。遠離る足音。それが完全に闇へと融けて。いくつ数えた後だろう。
無音の闇から足音が一つ生まれた。一瞬彼女が引き返してきたのかと思った。だけど違う。
金より暗く、黒より明るい彼の髪。彼の手には二つの皿が並べられた盆。
こちらが動けないことを確認した後、彼は牢を開けその盆を中へと置いた。水と食事のようだ。
フォースほど夜目に慣れていないのか。彼はこちらに気がつかなかった。それでもフォースは気付いた。
彼女がアルタニアからここに来ているんだ。それなら彼がここにいてもおかしくはない。あの闇医者だってここに居たのだから。
「………グライド?」
「その声……フォース!?……どうしてこんな所に」
戸惑いがちに呼んだ名前。それに扉を閉めようとした少年が大きく目を見開く。彼が奴隷商の下にいるという話は、リフルから聞いていた。信じたくないとか信じられないとは別に、可能性の一つとしてその情報を知っていたフォース。
けれど相手はそうじゃない。何故ここにフォースがいるのか。それも牢の中なんかに転がっているのか。軽い混乱、動揺に襲われるのも無理がない。
「まぁいい……今度会えたら聞きたいことがあったんだ」
それでも彼はその混乱から一呼吸の内に抜け出した。相変わらずの冷静さ。昔はそれをとても頼りに思ったものだったけれど。
鍵はまだ掛けられていないとはいえ、牢の中と外。自分と彼の立場の違いを明確に示しているような鉄格子。
向こうの彼もそれに気付いている。こんなに近くにいる。それでも自分と相手は違う場所に立っている。彼は知っている。フォースの身にかけられた罪を。
目の前にいるのは友人でも幼なじみでもなく、人殺しの大罪人だと。
だから、彼の声には壁がある。距離がある。それでもまだそれは温かい。
「お前が処刑人なんて……侯爵殺しだなんて何かの間違いだよな。頼む……そうだと言ってくれ。じゃないと僕は……」
その温かさを蝕んでいくのは不安の色。自身の知る人間が変わってしまったのだと信じたくない。そんな声。
「……アルタニア公を殺したのは俺じゃない」
ほっと息を吐くグライド。胸のつかえが取れたよう、微笑む彼に今度はフォースの胸に重い石が上がり込む。
「……そうか、良かった。そうだよな。お前がそんなことするはず……」
「だけど俺は処刑人だ。人殺しだ。それは本当だ」
出来ることなら否定してやりたかった。だけど出来ない。言い訳なんか。
ウィルの言葉。エリザベスの言葉。それを否定したいと思うなら、変わらなければならない。そうしなければ、きっと誰にも何も言えない。
逃げ続けてはいけない。向き合わなければならない。“俺”は人を殺した。それは事実だ。本当だ。どんな言葉を付け加えても、その事実は変わらない。
自分は彼とは違う。決別を告げるよう、はっきりと紡いだ言葉に、友人の顔色が変わる。薄暗い中にあってもそれが解るほどに。彼は小さくどうしてと呟いた。
「どうしてだって?そんなの俺がお前に聞きたいよ。どうしてお前がこんな所にいるんだよ!?ここは奴隷商の居るところだろ!?俺たちにあいつらが何をしたか忘れたのか!?」
そこまで言えば、聡い友人はどうしての意味を知っただろう。フォースの抱える奴隷商への憎しみの根源を。
誰かのせいにしたいわけじゃない。だから気付かないでくれても良かった。
言いたかったのはそんなことじゃない。知って欲しかったんじゃない。聞きたかったのだ。彼がそこにいるわけを。
その黒の瞳に浮かんだ感情を見て、真っ直ぐに物を言うことが耐えられなくなったらしい彼は、目をそらすよう鉄格子に背を預け後ろ向きに言葉を紡ぐ。
「フォース、お前は何かを勘違いしてるよ。商人にだっていい人は沢山いる。…………現に奴隷商に追われた僕を助けてくれたのは、商人だった。爵位なんて名前だけ。落ちぶれた没落商家。決して繁盛してる店とは言えないけど、その夫婦は僕を養子として引き取ってくれたんだ」
感謝の念を込めて、グライドは養親のことを口にする。その話し方に思い出すのは、アルタニア公とコルニクス。
話ながら、グライドも気付いたんだろう。
「僕もやるかもしれないな……もし彼らに言われたなら」
そう小さく呟いた。どうして処刑人になったのか、は違う理由。それでもどうして処刑人を続けていたか。それはたった今彼が気付いたその理由。
「小さい店だった。借金も山ほど合った。僕が手伝ったところで返しきれない大きな借金。だから僕はここに来た。直談判するつもりだった。出来ることならなんでもしようと思った。だけど……僕は運が良かった。あの人に出会えた」
「あの人……?」
「僕の恩人だ。彼のお陰で両親は仕事を続けられている」
恩人。その単語で思い出すのはたった一人。彼の身を案じる気持ちが一気に膨れあがる。でも、慌てたところで何が出来る?気持ちを落ち着かせよう。首を伸ばしてその勢いで前に進むという匍匐前進以下の行動を続けずりずりと動く。置かれた水までそれでもまだまだ届かない。
這うような謎の音に振り返ったグライドも、その動作に小さく吹き出す。「水」と言うと苦笑しながら水を傍まで運んでくれる。
犬になった気分だ。そう思いながら咽を潤す。皿をちゃんと洗っていないんだろうか。変な味、苦い。まぁ人質なんてそんなものか。
その情けない様に安堵したのか、グライドは牢の中。フォースの傍に腰を下ろして話を続けた。同じ場所にいるんだと、そう言いたかったのかも知れない。
「…………店の復興支援をしてくれた恩人が、ここの人。僕は彼に一生かけても返しきれないほどの大恩がある」
地位や職が悪ではない。どんな場所にも悪人はいる。同様に善人だっている。そんな風に友人が語る。
「…………………そういうのなら、少し俺もわかるかも」
言われてみればそうかもしれない。あの人は殺人鬼だ。何を考えどういう理想のためにそんな風に生きているかも知らない人間が大勢いる世の中で、間違いなくあの人は唯の人殺しだ。端から見れば自分だって、悪に荷担している。そう見られても仕方ない。
「……あの人がどんな人でも、俺はやっぱり力になりたいよ」
あの人はそれだけの人じゃない。自分はそれを知っている。
小さく呟くと、グライドが瞳を瞬いた。それが誰を差す言葉かわからなかったのだろう。過去形でないその言葉はアルタニア公ではない。現在進行形の思いが誰に向けられたものなのか知る術がない。そんな風に。
「……あの人?」
「お前も会っただろ?あの人が俺の恩人なんだ」
聡い彼ならもう気付いていそうなモノなのに、おかしなこともあるものだ。彼との接触を示唆すると、ようやく彼も思い至ったよう。
「まさかあの子が?」
「あー……そっか。お前まだ……」
その様子から誤解を知った。どうやらこの友人は、リフルがカーネフェル人の女の子だと勘違いしているらしい。女の子が恩人だなんて一体どんな状況にいたのかと今度は違う意味で考え込む。
(……これはどうすっかな)
誤解を解くのに時間が掛かりそうだが、今はそんな暇もない。思い切りため息を吐く。………そして気付く。
(…………あれ?)
溜息を吐いた瞬間。さっきより身体が動いたような気がする。
グライドはまだ至高に耽っている。そんなにあの人が気になるんだろうか。まぁ気にもするか。眠らせるためとはいえあんなことされたんだし。それ以上の意味のない深い意味など何もない行為だったと知ったら落ち込みそうだ。その点は触れないでおいてやろう。
今はそんなことより、だ。
右肩。左肩。指。足の指。自分の意思で動くことを確認する。
「なぁグライド、これ誰が作ってくれた飯なんだ?美味そうだけど食えるようになるまでに冷えてそうだ」
「ああ、カーネフェル人の女の子だよ。通りかかったところを頼まれて」
「そっか。……ん?……通りかかったってことは何か仕事あったんじゃいのか?」
こんなところで時間潰してて良いのかと指摘すれば、「あ」と思い出したような声。しっかりしてる癖に妙なところで抜けている。
脳内で粗方の展開予想をしていて、それがよく当たるからこの友人は予想外の展開に弱いのだろう。
バタバタと牢から抜け出し、一瞬止まり……躊躇いがちに錠を落とした。
「また来るよ。これが終わったら。あの人に頼めばお前一人くらい……きっと大丈夫だ!待ってろ!」
「おう。気長に待ってる」
暢気にそう答えてやると、昔のように彼が苦笑し走り出す。
来た道とは逆。ここが長い地下牢の突き当たり。そこからそっち側だと反対だから左に曲がって行った。
「……ごめんなグライド」
生憎自分は一人じゃない。一人だったらその言葉に甘えたんだろうけど。そう言うわけにもいかないのだ。
自分は嘘を吐くのが上手くなった。そんな気がする。大切な友人を騙すのは心苦しい。まだそう感じられる心があることだけ安堵する。
(俺は一人じゃない。リフルさんもトーラもいる。それにアルムとエルムも助けないと)
姿を潜めていたはずのトーラがここに来ないと言うことは、他に何かやることがあるということだ。自分もいつまでも捕まっているわけにはいかない。
「…………やっぱりな」
水には解毒剤。それを口にした時から動けるようになっていたのだろう。食事用の皿……載っているのはオムライスだ。そっとそれを切り分けると米の中から二本の鍵。
「ただ働きはしないって言ってた癖に……」
黄色い卵の上には“廊下の件”とケチャップで記されてる。丁寧にふりがなまで。それを知らないグライドから見れば、廊下にいる囚人への飯という意味だと思うだろう。だけどそうじゃない。これはアルタニアでの氷廊下ずっ転び事件の件だ。女ってどうしてこう面倒臭いことをするんだろう。そんな風に思いながら、料理を口へと運ぶ。
育った環境のせいで貧乏性。時間もないけれど、このまま残すのは勿体ないから大急ぎで料理を口へと放り込む。普通に美味かった。普通ってことは物凄く美味だってことじゃない。ごく普通に。悪くもないし凄くいいってわけでもない。それでもちょっと涙腺が緩んだ。
よくよく考えれば彼女は敵だ。そこに新たな毒が盛られている可能性だってある。だけど不思議とそんな気はしなかった。
外へと手を出し鍵を開け、牢から逃れる。もう一本は……ああ、隣だ。隣の牢に置いてある得物、それを開けるための鍵だった。
そしてそれを手に取った時、誰もいない廊下から背中に声が掛かる。
「フォース君、こっちこっち!」
「その声……トーラか?」
振り返るが何も見えない。数術を使っているのだろう。そう思った瞬間、それがフォースまで及ぶ。
これまで見えなかったトーラが見えるようになった。おそらくそれと同時に彼女と同様自分も他からは見えないようになっているのだろう。転々と置かれている灯りの下へ寄っても影が見えないから。
「どうしてこっちに来たんだよ!?リフルさんがっ……リフルさんが」
「大丈夫だよフォース君。彼を信じようよ、ね?」
トーラの姿を見つけたことで、安心したのか口から出るのは弱音と呪い事。それを落ち着かせるようトーラが笑う。自信満々に。
「でも……」
「リーちゃんは僕より君より弱いけど、時と場合に寄っちゃ最強だ。僕はアルムちゃん達の方を任せられた。行こう、こっちから反応がある」
そう言って彼女が指さすは、グライドが消えたのと逆方向。右側に続いていく通路。
「大丈夫。リーちゃん、凄いキレてたからねぇ。彼にだけは殺されようとはしないよ、絶対」
「リフルさんが?」
尚も不安がるフォースにトーラが言い聞かせる。
「リーちゃんは強いよ。味方さえいなけりゃ邪眼暴走しても問題ないし」