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10:Tempora mutantur, nos et mutamur in illis.

ええと、後半やんわりと問題回?

 遊び相手として連れてこられたその場所で。帰り際の自分に、一人は嫌だと泣く子供。

 子供の世話なんてろくにしたこともない。そんな書物も読んだこともない。興味もなく、自分には無関係の分野だった。

 だからどうすれば泣きやむか。論理的に考えた。そして彼の望みを自分は言い当てた。容易なことだ。彼はいつも外ばかりを眺めていたから。

 その言葉に、彼はあっさり泣きやんだ。

 閉じこめられて育てられ、何も知らない愚かな子供。身分なんて概念、彼にはあったのかなかったのか。

 身体の弱い自分は面倒がられていて、大人達がわけのわからない意地悪で遠巻きにし、距離を置かれている、程度にしか捉えていなかったんだろう。

 溜息ながらに伝えた気休めの嘘に、彼は嬉しそうに微笑んだ。


 あなたの病気が治って、ここから出られる日が来たら。

 その時は窓の外の子供達のように、一緒に遊んであげられる、友達と言うものになりますから。


 馬鹿な子供。現金な奴。

 言葉で、止まっていた箸が動き出す。


 馬鹿は、自分の方だった。

 あの日……彼が何を食べさせられていたのか。自分が知ったのは、それからしばらく経った後。


 *


 この世界は数値によって仕組まれている。何もかも、だ。

 これまでの常識、科学を覆すあり得ない現象。その全ては数字によって引き起こされる。


 幼きは罪。それは無知という名の罪だ。

 数値によって仕組まれ生まれたその子供は、自身が無知だと言うことを知らなかった。それだけの知識と才能を、生まれながらに振り分けられたが故に。


 周りの子供が、大人達が気付かないこと。冷静に考えれば誰だって、疑問に思うはずのこと。それに気付かない彼らは異常。明らかに仕組まれている。操られている。神という名の数字によって。

 その子供は容易にそれに気がついて。子供らしく、それを口にしてしまった。

 自分が知らないこと。それを誰かが知っているのでは、教えてくれるのでは。そんな淡い期待を胸に抱いて。

 それでも誰もそれを信じてくれなかったから、その子供は行動した。そしてその証明を生み出した。

 それが争いに繋がると言うことを、無知な子供は知らなかった。

 何も持たない者は幸い。なぜなら彼は奪われるということを知らないから。

 創造し、それを与えると言うことは悪。なぜならそれこそ、罪を生む。

 はじめから何もなければ良い。無こそ、世界のあるべき姿。

 安いモノだろう。そこに幸福などはあり得ないが、不幸も悪もそこにはあり得ない。


 カチカチと、正しく時を刻む腕時計。その正しさには、溜息を吐かざるを得ない。

 馬車の外、吹き荒れる風。その気まぐれさに比べ……これはなんと正確だろう。1秒1秒刻まれる……それは命を、数字を喰らう音。

 この装置も、自身の罪を象徴付ける。正しさが必ずしも正義や善では無いように。


 過去を振り返っても何も変わりはしないし、時間が巻き戻るわけでもないが、自身もまた……記憶というモノを持ち合わせる人間という生き物である以上、思い出すと言うことを止めることは出来ない。望もうとも望まなくとも、それは勝手に甦るものなのだ。

 例えば……その過去に起因する何かに出会したとか。そんなことがあれば、必ず。


 記憶の中には一人の子供。言うなれば彼は一匹の蛙だ。

 彼らが生き続ける限り水を恋い歌うよう、その子供は生まれた刹那から知を求め、思考を始めた。その子供は人間の形はしていたが、中身はそれ以上かそれ以下か。少なくとも人の形はしていなかった。

 分類するなら研究者。或いは探求者。そんな生き物だったろう。

 それは別段彼に限ったことではない。言うなれば、血の呪い。

 蛙の子は蛙。逆を言えば、蛙の親も蛙。

 少年の父もまた、知への妄執を抱えていた。この世の全てを曝き出したい。狂気とも呼べるその知的好奇心を罪と呼ばずして、他に何と名付けよう?


 彼や彼の父親は、多くを知ってはいたけれど、恵まれない才能が一つだけ。

 それは数術。

 どんなに数学を解き明かしても、目には見えない世界は見えない。生まれながらの凡人は、数術使いにはなれないのだ。

 それでも、知りたい。識りたい。曝きたい。

 彼らは許せなかったのだ。自分にわからないということが一つでも存在していることに。

 少年の父は異国の女を妾に娶り、知識欲のためだけに彼女を抱いて子供を設けた。

 仕組まれた数字通り、少年には一人の弟と一人の妹が生まれた。髪の色も目の色も自分たちと同じ、タロックの色ではない。所謂混血と呼ばれる存在。

 素材は揃った。後は時を待つだけ。


 親子がその素材に求めたのは、二つの答え。

 一つは数術の仕組み、もう一つは……その遺伝。

 彼らが突然変異体ならば、彼らの子は元通り……つまりは純血に戻るはず。けれど、そうとは言えない。それはこの世界が数字によって支配されているから。

 混血が生まれながらに数術分野への高い潜在能力を秘めているのなら、その混血同士をかけ合わせえば……そこから一体何が生まれるのか。

 かつて、少年が物知りな父に尋ねたその疑問。それが父を一番上の階段まで登らせて、狂気の底に突き落とすなど彼は知らない、無知だった。


 けれど今日まで、その研究は一度も成功していない。

 教会側の数術使い達は、神の怒りに触れたのだのなんだの言っているが、神を否定するために研究を始めたかつての少年……つまりは自分にとってはそんな話はナンセンス。おそらく何かそこに仕組まれた条件を見落としているのだ。

 それを仕組んだ者が誰か、と言われれば教会はそれを神と呼ぶが、所詮は悪魔の証明だ。神なんて大それた名を名乗っておきながら、悪魔なんて言葉に縋らなければ自身をこの世に確立出来ない脆弱な何かの癖に。


 この世は数値に仕組まれている。

 それは確かだ。だが、それが神の証明などにはならない。


(……今に見ていろ)


 絶対に、貴様らをその座から引きずり下ろしてやる。人の心まで思考まで脅かす傲慢で得体の知れない存在よ。

 “俺”が生かされているのではない。“俺”が生きている。“俺”生きて、考え、そして思う。

 思考の自由。精神の自由。それをこの手に取り戻す。

 強制される想いなど、“俺”の心などとは認めない。認めてなるものか。でなければ、それが生の意味はない。

 何のために生きるのか?下らない。実に愚かだ。愚問だ。

 犯すためでも侵すためでもない。そんなことしか出来ない屑共はさっさと息絶えてしまえばいい。自分たちがそうしてきたよう、野生動物として蹂躙されろ。嗚呼、気色の悪い世の中だ。

 生は時間との戦い。生まれてしまった以上、それをどんなに嘆いても、それを恨む時間が惜しい。そうやって費やした時間は、自ら神とやらにハンデをくれてやったに等しい。

 そんな暇があったら戦わなかれば。

 この行いが悪だと、罪だと言うのなら、さっさと天罰でも何でも降らせるがいい。それが出来ない以上、神などいない。或いは悪を見過ごし温かく見守る程度にいかれた存在だというのなら、それは神というより悪魔だろう。


「洛叉……どうかしましたか?」

「少々考え事を、な」


 揺れる馬車の中、同乗者の赤い瞳が此方を向いている。

 洛叉が自身があまり語らないのはよくあることだが、少年にはそれが思い悩む様に見えたらしい。あながち外れでもないが、そこまで語る義理もない。

 神の存在を否定してから久しいが、悪魔という存在なら認めざるを得ない。

 悪魔のような人間とはモノの例えだが、そこまでの人間はなかなかいない。

 法の乱れたこの国は、ありとあらゆる分野で下衆野郎はいくらもいるが、私欲のため程度の悪意ならまだまだ可愛いレベルと言えよう。やっていることがどんなに非道な行いであったとしても、それは十分可愛いレベルだ。

 しかし、この少年は悪魔の使いだ。あの男は、悪魔と呼ばざるを得ない。一人の人間が抱えられる悪意の許容範囲を、あれはとうに超えている。ならばこそ、畏怖と感嘆の念を込めて、彼を悪魔と呼ぶしかないだろう。

 脅迫と誘惑。飴と鞭。従うという選択肢以外を切り捨てさせる適切な分量で、手を差し伸べる。

 それでも、それを断ることは簡単だ。それこそこの世界に、神に抗う行い。以前の自身ならおそらくそれを選んだはずだ。そう思えば、溜息くらい口から漏れもする。

 変化しない存在などない。感化されない者などいない。それが正か負か。今の自分にはわからないことではあるが。

 けれど、それこそ“悪魔が私にそうさせたのだ”、そう語るに他はない。恐れと同等以上に心を惹く悪魔の研究。今更葬ったはずの研究を持ち出されるとは思わなかった。確かに、時は満ちた。素材もある。その未知への知識欲まで葬った……わけではない。

 知識欲故、生まれ持った才能が故、世界の真理に近づく度に感じる苛立ち。確かに存在する、目には見えないその理。

 万物が数字であるこの場所は、何もかもが仕組まれている。全ての事象、事柄、そして人の思考、感情さえも。例えば……だ。


「そう言う君こそ浮かない顔だな。フィルツァー」

「そ、そんなことはありません!」

「仕事熱心な君をそこまで腑抜けにさせる少女か。なかなか面白い研究素材だな」

「か、彼女のことだけじゃないです」

「ふむ、ということは多少は彼女のこともと認めたわけだ。気絶するほど驚くとは……まったく何をされたのだかな、君は」


 赤目の少年の頬が僅かに紅潮する、それこそ彼の感情が操られていることの証明。

 本来人間10人いれば、その10人とも美的感覚は異なる。どんなに美しいものでも、万人に好まれ愛される人間など存在しない。或いは性的嗜好にしてもそう。誰もが美しいと思う花は存在しないし、誰もが手折りたいと思うそれもあり得ない。

 誰かにとって至高の薔薇は、誰かにとっての雑草。価値もなく踏みつけることを厭わない。

 つまり、出会った人間全てを魅了する……“彼”は明らかに異質。そしてこの世界の理のモデル。ある意味においての証明。

 この世に無価値な人間は存在しても、無意味な出会いはない。全ては仕組まれたが故の結果。同様に、無意味な別れも存在しない。


「まぁ……おそらく彼のことか。フォースと言ったか」

「フォースを、知ってるんですか!?」


 彼を悩ませている本題を口にすれば、少年は赤い瞳を大きく見開き仰ぎ見る。

 ここで真実を告げるのもまた面白そうな実験ではあったが、多少の良心が痛む程度に自分は彼らに感化されている。真に厄介なものを与えられたものだ。


「1年以上前になるがな。知人の請負組織に君たちの捜索を依頼していたのを見かけただけだ」

「……そう、ですか」


 彼に与えた情報自体は真実。敢えて言うなら、それが欠けているだけ。

 いや、良心が痛む?逆かも知れない。

 その方がより愉快なことになる。それが易々とわかるから。その程度の悪意なら、この胸の中にある。どうせいずれ知ることだ。

 少年の友人が慕う相手が、彼自身が忘れられずにいる少女の正体が、今回の仕事そのものだったということも彼は知らない。その“少女”こそ、セネトレアの殺人鬼だと言うことも。

 恋は盲目とはよく言ったものだ。

 無理矢理心を引きずり出して、本来わかるはずのことさえ気付けなくしてしまう。恐るべき力。

 いくつかのどうして。それは全てあの黒髪の子供の方へ向いているのだろう。友人を疑うことへの辛さに苦悩する少年を眺めているのは、僅かに心が安らいだ。悪魔に一矢報いた気分になった。勿論、こんなことであの悪魔は何も思わないだろうことは目に見えていたが。







 *




「どうしてあんな子が継承者?」

「綺麗な黒……でも中身が全く駄目じゃない。あんな品性も威厳もない子供が次期王だなんて認められませんわ」

「妾腹の癖に。元々の出身なんかたかが知れた下女じゃないの」


 ひそひそ陰口ばかりの女達。母親ってのはみんあどうしてああなんだろう。自分の子供がそんなに可愛いか?

 母様は……こんな奴らの妬みのせいで殺されたから、俺を守ってくれはしない。

 粗探しばかり。何をしてもしなくとも、いつもいつでも影口される。

 気を抜けば命さえ危うい。毒に刃物に暗殺者。金にものを言わせて俺の命を狙ってくる。

 お前らの子が望んでそんな色で生まれて来たわけではないように、俺だって望んでこんな風に生まれたわけじゃない。どうしてそれがわからないのか。


「王ってのは強くなきゃいけないんだ。剣の稽古付けてやるよ」

「あははは!弱ぇ!こんなのが王だって!?」

「駄目ですよ兄様ぁ、次期王にそんな怪我させては」

「何言ってるんだよ?こっちは稽古付けてやってるんだよ。こいつのために?感謝はされても怨まれる筋合いなんかないじゃないか」

「っていうか、万が一死んでも不幸な事故だよなぁ!ははははは!」


 勝てるわけねーだろ馬鹿兄貴共。お前ら何人がかりで私刑してると思ってるんだ?

 大体なんでこっちが模造剣でそっちが真剣?明らかに殺すつもりだろうが。急所避けるだけで精一杯なんだよ。

 こっちが殴り返せば、すぐに母親に言いつけて?俺が野蛮でいかに王に相応しくないかを王に説く。

 自分のガキがしたことを棚に上げてだ。


 ああ、くだらねぇ。

 地位も名誉も身分も金も。

 そんなものに意味なんか無い。価値なんか無い。


 強くなれば、今が変わると教えられ、それを信じて剣にのめり込んだ。

 それでも結局何も変わらない。

 人が変わるのに必要なのは力じゃない。環境だ。


 強さをくれた人を裏切って、彼女と自由を求めて逃げ出した。

 少しは変われただろうか?変われたんだろうな。きっと。

 他人なんかどうでもよかった。生きていても、死んでいても。どうでもよかった。

 それが今はそう思えない。


 見ていられない。だから俺は剣を取る。

 むしゃくしゃするから剣を取るんじゃない。怒りをぶつけるためじゃない。


 殺すためじゃない。生かすために、守るために、剣を振れるようになったのなら。

 俺はきっと変われたんだと思う。

 俺は身分を捨てた身だ。俺は請負組織だ。請け負った仕事はやり通す。

 違う生き方だって、きっと出来る。それを証明してみせる。



 *


「あー…………怠い」


 相も変わらずこの場所は、どうしてなかなか息苦しい。

 飾り立てられた内装、外装。人も物も嘘つきばかり。

 取り込む酸素の中に悪意と殺意が混じってるんだ。そりゃあ息苦しくもなる。ここを飛び出す前と僅かに変わったことは言えば、その成分だ。

 空気の中には媚びへつらう愛想笑いの成分もある。増えているのは、まさにそれ。


「五年ぶりに帰ってきたと思ったら、まだそんなことを言ってるんですか?リオス兄様」

「んなこと言ってもよ、アニエス」


 逃げ出さないよう両の手を拘束する手錠。おまけに動きづらいことこの上ない衣服を着せられているのだ。

 文句の一つでも言いたくなるとロイルが言えば、「逃げる兄様が悪いんです」と笑みかけるのは茶色の髪と瞳の妹。勿論、腹違いの内の一人。兄や姉は大勢いるが、最近はあの男も自重していたのかそれとも使い物にならなくなったのか、彼女が下から一番目の妹だ。

 跡継ぎ争いに関係のない程下位の存在だから。ついでに言えば、議会がこれまで承認したことのない女の王族だから。そんな理由でアニエスに殺意を抱くほど敵愾心を寄せる母子はいない。よく言うならば、そういうこと。悪く言えば、相手にもしていない。

 けれど悪意を向けられずに育った彼女は幸運だ。

「まだ生きていたのか」……そんな視線と「それならばそれで利用するだけ利用して役に立って貰おう。そして死ね」……そんな思惑。

 数術使いのように特別な力なんかなくとも、そのくらいロイルも察することは出来る。

 そんな中にあって、純粋にその帰還を喜んでいるのはこのアニエスくらいなものだ。これもある種の才能か。こんなどす黒い空気の巣くう場所にあって、誰に敵意を向けるでもなく、片親の血しか繋がらない兄や姉や弟を……本当のそれのように接することができるのだから。

 自分にはそんなことは出来ない。そんな風に呼べる相手は限られる。

 感心か呆れか、そんなモノが入り交じった溜息にも、だらしがないと彼女は微笑するばかり。


「ユリウスの兄貴は相変わらず小言ばっかでうるせーし。ソレルの奴は相変わらず話しかけてもシカトだし」

「そんなことありませんよ。ユリウス兄様も喜んでいらっしゃいましたよ?素直じゃないだけです。ソレルは人見知りですから仕方ありません。リオス兄様に最後にお会いしたのはあの子が10くらいのころでしょう?」


 不満の代表格として、今この城にいる一番上の兄と一番下の弟の名前を挙げてみるが、アニエスは取り合うつもりもないらしい。人を信じるのが美徳というのなら、それは自分の中だけでやって貰いたい。巻き込まれ命を落とすなんて真っ平御免。

 長居は無用。やることやったらこんな場所、またこっちから消えてやる。

 時を見誤れば……毒殺、暗殺、轢殺、さて、それはどんな方法でやって来るか。

 死は日常に、身近に溢れている。だから別段ロイルは、死が怖いわけではない。それでも思わずにはいられない。


(そんなつまんねー理由で死にたくはねぇな)


 それでもここに帰ってきたのは二つの理由。

 生きるというのは、本当に面倒臭い。

 どうでも良いはずの他人を、いつの間にか背負い込んで、どうでもいいが……見ていられないに変わってしまう。自分が行動することで、それはどうにでもなるとわかっていることなら、尚更。リィナに話せば、絶対に怒られる。面倒事のレベルを超えてしまうのも解っている。

 行方知れずの混血の双子。その行き着く先は何処?

 それ自体は簡単な話だった。

 この国における混血奴隷の総元はこの国自身。言い換えるなら、城みたいなものだ。城にさえ戻れば、あの二人がどうなったか確かめることなど容易いことだ。実際、二人の行方は掴んだ。問題は、その解放条件。そのために実際こんなことをしているわけで。


「……あんま気は乗らなかったんだけどな」


 本来こういう仕事は自分向きではない。そうロイルは考える。

 こういう面倒臭い仕事はあのお人好しのアスカがやるべきものだ。しかし彼は彼でそれどころではない事情がある。だから引き受けた。それが理由の内の一つ。


 二つめは、自分自身のため。

 人の生き死にに差ほど興味がないロイルでも、流石に顔見知りが解体されるのは抵抗がある。人は誰でもいつか死ぬ。だから基本的に死んだら死んだ。ただそれだけ。

 問題は、その死に方だ。理不尽なやり方で与えられる死。顔に浮かぶ未練。

 その顔が訴えてくる。殺した奴にじゃない。自分に、だ。

 “逃げ出した愚か者。どうして守ってくれなかった?”

 彼らは口々に言う。

 その未練を向けられる度、息苦しさを感じる。それが顔見知りだったらもっと辛い。だから行く。そう決めた。

 相変わらず城は息苦しい。どいつもこいつも“まだ生きていたのか”。そんな視線をロイルへ向ける。しかしこれも約束だ。だから自分はこうするしかない。


「まぁ……別にどうでもいいか」


 例え未練を向けられたとしても、苦しみなど感じない。きっとすぐに全てが終わる。


(重いな……)


 手に馴染んだはずの得物。重さは承知の上だが、今日はそれがとても重たく感じて仕方ない。

 逃げることは先延ばし。結局の解決にはならない。

 だからこの手で全てを終わらせなければならない。


「リオス兄様、どうかしました?」

「いや、別に」


 次第に遅れる足に、振り返るアニエス。謁見の間に案内する妹姫の後を追い、嫌がる足を急がせる。

 その、一歩一歩が重い。両足に何人かの人間がしがみついていて、その者達の足にも重り代わりにまた人間がぶら下がっているような。そんな感覚を味わった。

 だからそこに着くまで、随分長い時間がかかったように思う。

 数年ぶりに見た父親は、すっかり面変わりしていた。

 城を出る数年前から顔を合わせなくなっていたから、こうして見るのは10年ぶりくらいだろうか?

 記憶の中の父と目の前の男。変わらないのは、濁った黒の瞳だけ。

 それは欲に染まって淀んでいる癖に、ギラギラと獲物を求めるための悪意の炎はなくさない。

 とりあえず何故、妹や弟が増えないかはわかった。

 これだけ太れば当たり前だ。本人の体力が続かないし、第一女が下なら潰れてしまう。

 相変わらず何人も薄衣姿の女を侍らせている辺りから察するに、使い物になるかは別として、性欲が枯れたわけではないようだ。正直、コレと同じ血が流れていると思うとぞっとする。一体何を間違えば、こんな人間になれるのか。


「久しいな、ロイリオス。立派になって……」


 此方がそんな風に、怠惰の中変わり果てた父の姿を眺めていると……向こうも濁った瞳で此方を見ていた。

 台詞だけなら感動の再会か?けれどもそれは、そうじゃない。成長した手駒が戻ってきたことを喜んでいるだけだ。この男には我が子の顔さえ金に見えているのはとうに知れたこと。

 自分が後継者として選ばれたのは、この髪の色、この目の色。その黒が一番深かったから。ただそれだけだ。そしてそこに、愛など存在しない。

 欲のために生まれ、欲のために生かされ、憎まれ殺される。そんな人生は絶対に御免だ。

 約束を果たす前に、一つだけ聞いておこう。これが最後の会話になるとも知れない。


「親父、本気なのか?」


 その問いに、膨れあがった肉の男は重たそうな顎を傾ける。何処から何処までが首だなんてわからない。現在進行形で行方不明中のその男。

 この色呆け親父は、こんな身体になりながら、また新たに妻を迎えるという。しかもその女を正妻の座に据えると。

 その正妻の間に子を儲けたとしても、議会の承認無しにその子は王にはなれない。議会が傀儡として選んだのは自分。余程の事がない限り、その決定が覆ることはない。しかし今回のことは異例だった。


「俺は玉座なんか興味ねーけどよ、議会に逆らっていいもんじゃねーだろ、一応親父はセネトレアの王なんだから」


 身分は鎖。玉座は縛り付けられた岩牢だ。

 それに就いた以上、生じる責任だとか、義務だとか。そんなものは無法王国と名高いこの国にだって存在する。

 祭り上げられるってことは、要するに対価だ。いざという時には何もかもが王の責任。腹を切れ、首を斬れ。変わりに贅沢をさせてやる。衣食住、それから三大欲求面での優遇。

 地位とか名誉とか、そんなもの。自己顕示欲の欠片も持ち合わせていない自分にとっては理解しがたい称号だった。


 自ら縛られるために、兄弟を蹴落としていく兄や弟。

 自らの子供を生け贄に捧げるよう、王位を願う母親達。自分の子をその地位に就かせるためならどんなことでもする、彼女たちを狂わせる力が働く装置。それが玉座。

 度し難い狂気だ。

 彼や彼女らが一体何を求めて、そこまで醜く争えるのか。それを与えられている我が身では理解できない。


 その豪勢で不自由な椅子が、心身の自由より魅力的なものだとは今も昔もロイルは思えない。

 要するに、自分は王の器にない。唯こんな髪の色をしているだけだ。

 政治手腕なら頭の良いユリウスの方が余程向いているし、商才と言えば自分をここに送り込んだ兄の方が向いている。

 人の腹を探ることも、人に命令することもあまり好きではない。

 第一金なんか集めて何が楽しいのか、よくわからない。

 自分に出来ることと言えば、戦うことくらい。大昔の王ならそれでも良かったのかも知れないが、こんな商業国の長がそれではいけない。

 剣を振り回すのは楽しい。血が滾る。この息苦しい空気をぶち破り、生を実感できる唯一のモノ。

 良い武器を買うには確かに金は必要だが、それ以上の金を得てどうしようというのか。使い道など自分の頭ではわからない。

 この国の人間達は、数字に魅せられている。その数字の桁のために、相手を陥れ、殺し……幸せそうに笑う。

 父が取り憑かれた妄執は、形を変えただけ。今も彼は数字に操られている。

 ただ、単位が違うだけ。それが金から女に姿を変えた。


「ロイリオス……王の器を、いや男の器をお前は何だと考える?」

「あー……?剣の腕?」

「愚か者が。お前は相変わらず頭は酷く弱い……しかしそれも時には長所か」


 傲慢な男は、人を見下すのが好きだ。父にはそういうところがある。

 人の意見を聞いておきながら、自由な発想を許さない。自ら定めた答えから外れれば此方が馬鹿、そういうことにされてしまう。

 かといって従ってばかりではそれはそれで馬鹿扱いされる。実に面倒臭い男だ。


 ああ、だから兄弟達は玉座を目指すのかも知れない。逃げ出した自分とは違い、そんな風に何年も見下されてきたのだ。王位も継げない者として、侮蔑の日々を送ってきたのだ。

 だから兄弟達はどいつもこいつも頑固でプライドが高く、他人を見下す。

 そんな自分たちを見下す父には、どれだけの中身が詰まっているのか。玉座……そこに人の全て、叡智があると信じているのか?

 この張りぼて王の中身がスッカスカだってこと、頭の良い兄弟たちは気付かないのか?

 剣ばかり振り回してる野蛮で頭のない跡継ぎと、自分をせせら笑っていた癖に?


(ったく……駄目だな、やっぱ)


 ここに来ると、どうしてもこうなる。

 どうでもいい。そんな風に思い始めた憎しみが花開く。押さえなければ、自分が未練の作り手になってしまう。

 暗い思いを押さえ込むよう、そっと得物を握り……その重みを思い出す。

 その間も父は実に馬鹿げた君主論を説く。


「実に嘆かわしい。儂がお前くらいの年頃にはもう両手では足りないほどの女を囲っていたというのに」

「それ親父が如何に自分が最低下半身野郎かって暴露してるみてーだよな」


 この男が言うには、男の格だとか王の器というものの物差しは、伴侶となる女なのだと。

 如何に多くの女を娶るか。如何に器量の良い女を娶るか。それが重要なことなのだと彼は言う。

 その質と数を兼ね揃えた者こそ、王の権威を体現している。そんな戯れ言を自慢げに話された時、息子としてはどんな顔をすればいいものか。自然と紡がれる溜息も無理ないことだ。

 でもそれは、自分の中身が何もないから……だから周りを飾り立てようとしているようにしか思えない。この男は女を装飾品程度にしか思っていないのだ。

 けれど自分はそんな風には思えない。男だの女だの考えるのも下らない。

 女だって強い奴はいるし、男だって陰湿根暗野郎はいる。装飾品などと言ったなら、本気で殺しに掛かってくる気位の高い女はいくらでもいる。


「身体ばかりでお前は頭が子供のままだ。儂の子でありながら情けない」

「情けないのは親父だろ。俺が王位を継いだって、真純血の女を娶ったって親父が変われるわけじゃない。そんなこともわかんねーのか?」


 その言葉に嫌悪感を顕わにする父は、あまりに弱く、器の小さい男だ。だが、守る気はしない。

 自分は基本的に強い奴は好きだし、弱い奴は守ってやらなきゃならない。それが力の義務だ。でも、時々悩む。弱い悪は、どうすればいいのか。

 力もない。相手にするのも馬鹿らしい。殺す価値もない相手。だけど守る価値もない相手。

 そういう奴に限って、いろいろ悪巧みをしているもので……未練の死を作り出す。かといってそれを殺せば、そいつらも……未練の死に顔で此方を睨む。


 誰を守ればいいのか。誰と戦えばいいのか。わからないから強者を求めた。

 強い奴は好きだ。ある程度の力を持つ者は、大抵戦闘狂だ。戦いの中に価値を見出している。そういう奴と戦うのは後腐れもない。手加減も要らない。未練を残さず戦える。そうやって死んだ者は大抵いい顔をしている。

 自分も彼らも死に場所を探している。最低なこの世の中で、最高な死に場所を作るため、戦いに望むのか。我ながらポジティブなのかネガティブなのかよくわからない嗜好だ。


 しかし、よくよく考えれば不思議な話だ。別に憎んでるわけでも殺してやりたいと思っているわけでもない。むしろ好感さえ抱くのに、それでも殺し殺されるかも知れないリスクを背負い背負わせる。その生産性のない、むしろマイナスの行動。

 妻を娶り、子を成すことで、生まれるのは争いだ。どんな結果に転んでも、未練の亡骸ばかりがあふれ出る。

 幼き日の自分は、そう思ったのかも知れない。それならば、と。


「親父、もし親父があの女を諦めるなら……俺はもう脱走しないし大人しくこの国を継ぐ。そう言っても、止めないか?」


 ロイルは、父に最後の警告をする。

 聞き入れるはずがないだろうことは解っていた。相手は一目見ただけでどんな男も虜にするというくらいの美女だ。高貴な黒に憧れる……コンプレックスの塊である父。恋は盲目という言葉にこの男が当てはまるかは知れないが、欲は盲目。それは確か。

 タロック王の溺愛する最後の子供。赤目の美姫は、悪い噂ばかり聞く。

 今度の妻は、とんでもない悪女だ。婚約条件がまず酷い。生まれた子供を世継ぎに、ではなく……自分自身を第1位王位継承者にしろという無理難題。

 極論で言うなら、この色呆け親父が死にさえすれば、セネトレアという国はタロックの手に落ちる。それで今よりマシになるとは思えない。これ以上国に未練の死が溢れたら、息苦しさで発狂しそう。


(堪んねぇな……そんなの)


 力を込めて両手を振れば、拘束具からあっさり解放される。馬鹿馬鹿言われている自分も馬鹿なりに考えているのだ。取れねーとか引きちぎる真似とか適当にしていれば、破るのは無理と勝手に周りは思い込む。嘘もつけないほど馬鹿正直な人間のわけがないだろう。自分はこの最低野郎の子供なのだから。


「リオス兄様!?」

「止めるなアニエス」


 いつもは片手で振り回す、得物を両手でしっかり構える。レーウェは軽い分、切れ味は抜群の愛剣。

 ようやく状況が飲み込めたらしい男も、遅い。遅すぎる。自堕落を続け、堕ちるところまで堕ちた相手だ。この一撃は、かわせない。甲高い末妹の悲鳴など知ったことか。


 どれだけの未練に睨まれるとしても、この男はここで殺さなければ。

 薙ぎ払った剣は踊るように風を撫で、鈍い音と感触をそこから伝える。

 重い肉の落ちる音、それに響くは濁った水の音。

 これで、本当に終わりだ。王の座から、やっと自分は逃げられる。







 *






 薄暗い牢の中。鎖に繋がれて、一人きり。

 姉が連れて行かれてから、ずっとそんな風に過ごしてきた。


 日に数度は舌でも噛もうか。そんな風に思い立つ。

 けれど、片割れの安否を確かめるまで、それは出来ないとエルムは自身に言い聞かせてきた。

 宗教国シャトランジアの生まれだからと、エルムはそこまで信心深い子供ではない。神が自分たちを救わないことくらい、幼い頃から気付いていたから。

 だから自殺が罪だとは思わない。逃げ出すことが叶うなら、それも一つの道だろう。


 そう、舌に牙を立てる度……思い出すのは姉の顔。

 頼りない姉だから。彼女は自分が居なければ何も出来ない。いつも失敗ばかりで厄介事ばかりを連れてくる。

 いつも彼女はそうだ。今回も、その前だって。

 人間であるはずの自分たち姉弟が、奴隷に身を落としたのは、主に姉の責任だ。

 両親は混血だからと生まれた双子を売り払うことはなく、そこそこ平穏な日々を与えてくれた。そそっかしい姉は、彼らに愛されていたように思う。

 自分はいつもその影に霞み、いるのかいないのか。それさえ彼らも忘れるほどに、存在がなかった。

 愛されるための努力とか。そんな小難しいことを考えて、幼心に励んだ日々もある。

 両親の役に立てば、きっと自分を好きになってくれるんじゃないかなんて、今思うと本当に馬鹿げたこと。

 エルムが手伝いに励んでも、頭がお花畑な両親は……妖精か何かがやってくれたんだろうと幻想へと逃げる。或いは姉に尋ね、いつもニコニコ笑っている姉がよく分からないままえへへと笑えば、彼女の手柄に変えられた。

 泣き喚くとか、我が儘を言うとか……甘えるという方法をエルムは知らなかった。赤子の頃は知っていたのかも知れないが、それで両親の瞳に自分が映ることはないと悟り、諦観を覚えたのだろうと今では推測できる。自分が弟なのにと理不尽に感じることは度々あったけれど、呟く声は誰にも届かない。

 どうせ誰も気付かないなら。或いは心配して欲しかったのか。今より幼い頃……何度も家を出て、こっそり森に隠れて夜を明かしたことがある。

 このまま誰にも気付かれず、死んでいくならそれもいい。自分は初めから姉の付属品で、おまけの命だったのだ。

 いなくなっても誰も気にはしないし、悲しみもしないし、思い出しもしない。そんな意味のない、価値のない存在。死は証明。

 そうなってしまえば、いっそ清々しい。腹の底から笑えるだろう。

 けれど同時に、それはなんと悲しいことだろう。そうも思った。


 そうして星空を眺めながら……静かに目を伏せる。

 鳥のさえずりに起こされ目を明ければ、何故か隣に姉が居て、すやすやと眠っていた。


 自分の欲しいもの何もかも微笑みながら奪う姉。大嫌いな自分の片割れ。

 そんな彼女だけが自分を見つける。不在に気付き、探しに来る。或いは家を出る気配を察し、後ろから追いかけてきたのかも。

 どうしてそこまで自分に執着するかはわからなかったけれど、彼女は自分を世界に映す鏡なのだとそう思った。

 彼女という存在を通さなければ、誰の目にも触れられず、誰からも気付かれない。

 彼女の傍にいるときだけは、全ての人の視界に入る。それに気付いたとき、複雑な気持ちになった。

 大嫌いな姉は、弟である自分を好きだという。正直煩わしいほどに。

 それでも人に好意を寄せられて、嫌な思いになる人間はまずいない。それがどんな相手であってもだ。

 釈然としない気持ちはあったが、彼女を妹だと考えることで……気持ちに折り合いを付け、そこそこ兄妹らしい様は演出出来るようにはなった。

 自分が弟ではなく兄だと認識することで、甘えてくる彼女を守るのが義務だと、そんな風に思い始めた。

 何も起こらずそうしていられれば、良かったんだろう。だけど世界は平穏を嫌う。

 カーネフェルとタロックが険悪になるにつれ、世界情勢に感化されるよう、タロック人の父の店は移民差別で傾いていく。

 だというのに、異様に姉を溺愛する二人は彼女を甘やかす。生活費を削ってまで彼女に新しい服を玩具を菓子を買い与える。貴族の家でもないのに、姉にはどこかの令嬢みたいなブランドものの服を与えたり。それなのに弟の自分には何年も使い古された服だったり、中古市場で買った服とか。

 子供心にそれが異常だとエルムは気がついていたし、不気味だとも感じていた。それが恐ろしくて、指摘するのも躊躇われた。

 そんな風に蓄えの金も底を尽き、こういう時だけ思い出されるのが自分の定め。混血一匹売れば、それでこの苦境からは救われる。それを見計らったかのように現れる奴隷商。奴隷貿易を禁止しているはずのシャトランジアにも、彼らは出入りし密売ルートを確立していた。

 せめて売らないでと泣き喚く子供らしい愛想でもあれば。あったとしてもどうだろう。結局何も変わらなかったんだろう。

 どこの危ない人間に買われるのかは知らないけれど、それはそれで少し心惹かれた。

 いるのかいないのか。生きているのか死んでいるのか。それさえわからないと言われ育った“僕”だ。

 そんな“僕”(モノ)を、大金を積んでまで欲しがる馬鹿が居る。何が目的かは考えたくもないけれど、無存在に等しい人間に数値という価値を与えられる。その行為はある種の救いだった。

 比較対象がいない場所なら、見て貰える。現に、商人達には“僕”が見えていた。それが金としてしか映っていないのだとしても、姉という媒体を介さなくとも世界に存在出来る。金という概念により、具現化された自己存在の誕生。

 はじめて奴隷になったその日に、“僕”は生まれた。


 船の中、まだ見ぬ国に思いを馳せた。そこがどんな地獄でも、誰かに必要とされることは幸福だ。どんな意地の悪い主でも、ひたむきに仕えれば、真っ直ぐに心を捧げればいつか心は届くだろう。吹き付ける新たな風に、そう信じられた。


 しかし、そんな淡い期待も打ち砕かれる。誰に?勿論姉によってだ。

 隣で微笑む彼女に、笑みも凍った。

 エルムを売った金で幸せになれるはずの家から、姉はエルムを追いかけて逃げ出してきた。セネトレアがどんな国かも理解していない頭で、片割れと離れてなるものかと。

 商人達は大喜びだ。一人分の金で購入した混血が、もう一匹釣れてきてくれたのだから。

 彼らには自分たちが、鴨が葱を背負って来たように見えただろう。


 二人揃っている混血は稀だ。ましてや似てない双子は珍しい。好事家達の競りに掛けられ争われ、買い手は決まった。

 一人の頃は、珍しいと褒められた星入りの瞳も、姉と比べられれば価値を失う。鮮やかなスタールビーの瞳で、彼女はさっそく落札者を魅了した。


 そこまで来て、もうやっていられない。そんな気分になった。

 そして逃げ出した。姉がいれば簡単だ。彼女に注意が向いている内に撒けばいい。

 何処でもいい。誰でもいい。姉とは違う場所へ行きたかった。


「……ディジット」


 両親よりも、姉よりも自分よりも大好きな人。

 逃げだし、物陰に身を潜めていた自分を、母より優しい瞳で見つけてくれた人。

 あの時の気持ちはまだ覚えている。

 赤の他人の自分に、優しさと厳しさを持って接してくれた初めての人だ。

 年下だからなんて理不尽な理由で、弟としてしか見られていなくても。彼女の傍にいられるのは幸せだった。

 しかし彼女……無論“姉”は台風を呼ぶ女だった。

 どこをどうやって逃げ出したのか、見つけたのか。数日後その嵐は現れた。涙ながらに抱き付かれたのはまだいい。

 問題はその後だ。彼女は追っ手を撒いてこなかった。それどころか案内してきたようなモノだ。目の前で逃げ込む所を見られたというのに、それを言葉巧みにかわし、追い返したディジットの力量には感服した。唯でさえ一目惚れみたいなものだったのに、惚れ直させられた。


 だからこそ、辛いモノがあった。彼女のもとに匿われ住み着くようになった自分たち。姉の登場でエルムはまた姿が霞むようになった。

 が、セネトレアという国での混血の価値基準からして、シャトランジアにいた頃程ではなくなった。影が薄い、その程度。宿にいた居候の剣士のアスカとか地下室で匿われている闇医者とか。彼らもそこそこ境遇を憐れみ気にしてくれていた。


 別にそれはもう慣れていたから気にはしなかった。けれど、心苦しいことならやはりある。

 ディジットには自分より遅く出会った姉。それなのに、やっぱり溺愛されるのはそそっかしい姉の方。

 異性としての愛も得られず、弟としても彼女には負ける。

 場所を変えても変わらないループ現象。欲しいモノを相変わらず姉は無邪気な笑顔で奪いながら、自分に甘える。


 あの闇医者は頭が良い。

 エルムの抱える姉との確執を見抜いた上で、手を差し伸べた。それは誰もがエルムのことなど忘れた頃。

 アスカが拾ってきた混血が消えてから、店はいろいろ荒れ出した。

 みんな忙しなく、彼を探した。誰もが彼の心配をした。エルム自身も彼への心配は僅かにあったが、この様も……やはり異様だと僅かに感じた。


 黒髪の闇医者に連れ出されたのはそんな時だ。

 捜索の手伝いだろうか。そんな風に思って彼に続いた。

 今思えば、いい順番だ。

 自分が居なくなれば、姉は取り乱す。その場所に案内をすると言えば、疑いもせずについてくる。

 もし順番がその逆だったのなら、姉はついていったとしても……自分は彼を疑った。周りの誰かに話すくらいはしただろう。姉はそれをしなかった。


 二人きりの時に、闇医者から告げられた仮説。それを否定したい心と、それをすんなり受け入れる頭。

 自分は姉を心配している?だから舌を噛み切れない。

 それが本当なら、自分は姉思いの弟だ。彼女のことが好きなんだろう。

 だけどそれが間違いなら、仕組まれていることなら。

 今すぐ、舌を噛み切ってしまいたい。

 その仮説はあまりに恐ろしい。おぞましい。気味が悪い。

 これほど死を願うのに、舌を噛み切れない臆病さは……既に自身が仕組まれているからなのか?

 もしそうなら……それを仕組んだ彼女を、好きだなんて言えない。

 “僕”は姉を憎んでいる。それを無理矢理歪めさせられている。

 仕方がないと思った妥協も。全てを譲る諦観も。憎むに憎めず情だと信じた妙な繋がりも。それが全て、“僕”の意思ではなかったのなら。

 どうして“僕”が生きているのだろう。どうして生かされているのだろう。

 彼女がそれを許すまで、勝手に死ぬことさえ許されない。そんな自由も与えられていないというのか?

 離れ離れになった“姉さん”が心配だ。

 そう頭も心も思っている。でも、それは本当に“僕”の本心?

 むしろ“僕”はそれに清々していないか?


 真逆の考え。ここはとても暗いから……どちらが自身の真実なのか、その境界を見失う。

 こうして息をしていること。それが何だかとても、恐ろしいことのような気がして。気持ちが悪い事のような気がして。

 必死に自分の内側に自分を探してみるけれど、そこには何もない、空っぽの空洞が広がるばかり。今この瞬間……何を思い、何を考え生きているのか。それを追いかけるのだけれど、問いかけは答えなどにはならずに谺しこちらに返される。空っぽだから嫌なくらい疑問の声は響く。ガンガンと頭の内側を駆けめぐる言葉の螺旋。

 もう、どうにかなってしまいそうだ。

 いっそどうにかなってしまえばいいのに。

 頭が痛い。この頭痛が止まるなら。冷たい床に。壁に。鉄格子に。頭を打ち付ければ、それを割ってしまえばもう何も考えずに済むのだろうか?悩むこともなくなって。この頭痛も消えてくれる?

 舌を噛むより簡単かも知れない。彼女はそれを禁止していないかも知れない。モノを考えるのが頭なら、それがいかれてしまえば、彼女を懸念することもなくなる。

 それならば試してみる価値はあるかも知れない。

 首をそっと後ろに引き。鉄格子に打ち付けようと目を伏せ深く息を吸った……その時だった。何かが聞こえる。

 それは牢へと近づいてくる足音。珍しい。あの男が一人で自分の所にやってくるなんて。

 石畳を蹴る小気味よい靴音。その音で、それが上物だとわかる。あの音はそう何度も聞いた音じゃない。

 けれど、どうして今になって?

 ここの閉じこめられて随分なるけれど、そんなことはそう何度もなかったことだ。それも何故自分の方に彼が来る?


 やがて鉄格子の前までやってきた男。彼は此方が驚いていることに気をよくしたのか、一瞬穏やかな笑みを浮かべ……口を開くと同時にそれはどこかへ消え去った。


「面白い話を聞かせてやろう」


 開口一番にそう言う、せせら笑う赤い瞳の悪魔。

 深い色合いのそれは美しい色だったけれど、薄暗いこの場所でもギラギラと鮮やかな色を映すその赤は、どこか禍々しさを感じさせる。

 瞳に映る全てを見下すような、傲慢な微笑みを湛え、黒髪の男が嗤う。


「お前達のようなゴミ共には理解出来ない高尚な話かもしれないが」

「それなら別に話さなくてもいいだろ。俺はあんたの顔なんか見たくもないんだ」


 そんな男を鼻で笑い、エルムは嗤う。

 大丈夫だ。暴力には慣れている。よく、姉の引き起こす面倒事でそういう理不尽には出会わされてきた。混血狩りに捕まったときも、逃げ出したときも、そういう役目は自分のもの。

 理解している。反抗的で生意気なガキを演じていれば、片割れを顧みない様を演じていれば、自然と矛先は此方に向く。それこそが、姉を守る事に繋がる。

 条件反射とでも言うのだろうか。さっきまであんなに仮説を信じていたのに、長年の習性で姉を守ることを考えている。脳や心ではなく、頭のてっぺん髪の毛一本から足の指まで身体そのものまで、自分のそれは従属下にあり支配されているよう。それをやはり気味が悪いと心のどこかで感じながら、彼女のことを思う。

 けれどそんなエルムの虚勢を見透かすように、黒の悪魔が再び嘲笑うよう口を開いた。


「本当に、お前達は似てない姉弟だな赤髪。お前の姉さんはすっかり大人しくなったというのに」


 別の牢に入れられている姉。その安否を確かめる術はない。

 だからこそ思考は下向きになり、最悪を想像してしまった。僅かに表情が強張ったのを、男は見逃さず、その反応にほくそ笑む。


「残念ながら、まだ生きてるよ。馬鹿も鋏もゴミも使いよう、そういうことだ」


 男の言う、“まだ”。それは今後の自分の出方次第で何時でも殺せると言っていることに等しい。

 ここまで見透かされた以上、虚勢を続けることに意味はあるのか?いや……だけどそれを止めることで何かが変わることを自分は恐れている。

 少なくとも。この男は自分が噛み付いていることを楽しんでいる。自分が折れたら、それは興醒め。それが、取り返しの付かないピリオドになってしまうかも。男の言う“まだ”がやって来る。

 どちらが正解か。咄嗟に選べなかったエルムは言葉を紡げない。代わりに出来たのは、男を睨むことだけ。その視線を受けながら、男が小さく呟いた。二十年……と。


「お前達のような混血が生まれてから……次の春で20年。これがどういう意味か解るかい?」


 聞いておきながら男は、此方に答えさせる気はないようで、……頭ごなしにお前ではわかるはずもないという雰囲気。ならば口を挟むのは不興を買うか。

 嫌な想像が脳裏を駆けめぐったが、極力考えるのは止めることにした。そうすることで、それが現実のものとなってしまうような気がしたから。


「私には理解できない嗜好だが、世にはゴミと遊ぶことが好きな変態野郎がわんさかいる。それなのに、おかしいと思わないか?純血と混血の間に子が出来たという話は全く聞かない。そうなるとお前達は一体何なんだろうね。人として欠陥品だと証明しているようなものじゃないか?」

「何が、言いたいんだ!?」


 もう、黙っていられなかった。怒りじゃない。恐怖から。

 これ以上の沈黙は、それに飲み込まれてしまうようで。エルムはそれを恐れた。“まだ”、という言葉がぐるぐると旋回、頭の中を回り始める。


「それならば、と考えた男がいたのさ。お前達がよく知るあの男だ」


 黒髪のタロック人。あの闇医者……洛叉。

 エルムは彼のことを、そうよくは知らない。

 彼がタロック人で、医学を初めとした様々な学問分野に明るく……それで国を追われていることくらい。

 恩人であるカーネフェル人のディジットが、どうして彼に思慕の念を抱いているのがよくわからない、一言で言うなら変質者。

 特に自分や姉に向ける視線が尋常じゃない。うすうす感付いてはいたが、姉には手を出させないよう目を光らせていたし、ディジットもその辺は容赦がなかった。しかし、それは唯単に幼児性愛嗜好とかそういうものではなかったらしい。

 彼が自分たちに寄せていた興味は、混血という得体の知れない生き物への好奇心。その知識欲だと今更知った。この悪魔の語りから。


「混血と混血をかけ合わせれば、そこから何が作られるのか」


 それでも誰がそんなこと、想像できただろう。身体から血の気が引いていくのが解る。


「……まさか、そのために僕らを生かしたっていうのか!?」


 道具扱いとどちらがましかなんて、わからない。それでも、今なら言える。あの男も、この男も最低の人間だ。動物実験をするように、人の命を弄ぼうという試みだ。

 倫理も道徳もない。ここはセネトレア。世界で一番最低の国だ。それは解ってる。それでも、それに抗うのを止めたら……自分までそんな最低の人間になってしまう。


(そんなことっ……出来るわけがないっ!)


 そもそも根本的に間違っている。

 アルムはエルムにとって、血の繋がった姉。エルムの常識では、彼女だけは絶対にあり得ない。恋愛対象になるはずもない、例外中の例外だ。

 法で罰せられなくとも、……信じてもいない神の罰を恐れなくとも。そんなことは絶対にやってはならない。それ以前に、やれるはずもない。


「人質として価値がないんだ。そのくらいの役に立って貰わないと、攫わせた意味がないだろう?そんなこともわからないからお前はゴミなんだよ。お前達の希少性などたかが知れている。生きて欠けていない混血は滅多にいない。それだけだ。他の毛色の者を合わせてみて成功した試しはない。その例なら教会の奴らが既にやったようだったが」

「……正気、か?そんなことっ、出来るわけがないっ!」


 禁忌以前の問題だ。そんなことをするぐらいだったら死んだ方がマシ。


「出来なければお前も姉も処分するだけだ。良い値が付くだろうね、お前らの眼は。収集家共が大喜びさ!特にお前の姉は喜ばれるだろうな、星入りの眼なんてかなりのレアだ。どういう風に加工されるのか、今から楽しみだ」

「ああ!殺せよ!殺せばいいっ!姉さんとやるくらいなら死んだ方がマシだ!」

「いい声だ。だが、解っているのか?」


 吠える言葉に、悪魔が口を三日月型に歪ませ笑う。

 彼の語りは想像力を擽った。姉がそこにいるんじゃないか。そう目を見開くくらい、声真似が似ていたのだ。


「お前はそれでよくとも、お前の片割れは何と言うか。お前に泣いて縋るだろうな、“死にたくない死にたくないよぅ、エルムちゃん”って。そうだな、ゴミなんかに麻酔を使う金も勿体ないからなぁ……生きたまま解体するのが低コストで良い案だと思わないかい?」


 混血狩りの悪魔が行う混血売買は、バラ売り方式。

 丸ごと購入するのは高価でも、単品なら安く買える。そもそもゴミ呼ばわりしている混血に高い値段を付けるのが気に入らないのだ。だからバラして単価を下げる。勿論金儲けもこの悪魔は大好きだから、値引きなどはしないだろう。その辺りは矛盾しているが、指摘したろころで黄金に魅せられた男には効きもしないだろう。

 生きた商品は何かと金が要る。けれど命をなくした商品ならば、一回きり。奇異の瞳や髪は需要があり、それなりに買い手は居る。丸ごと買った買い手が望むなら、剥製加工までしてくれるというサービス業まで営んでいる。


 想像するだけで血の気も凍る。生きたままバラされる?刃物を入れられる?

 一体どういう環境で育てばそんな発想が生まれるのか、わからない。この男が吸ってきた空気は酸素などではなく、もっと邪悪な何かだったに違いない。

 身体の震えは怒りと恐怖。それでも呑まれたら負け。脅える自分を叱りつけ、エルムは吠える。


「っ……このっ、悪魔っ!」

「商人にとっては何よりの褒め言葉だよ、六条星」


 その反応にくすくすと笑い出す男。それはそれ事態がおかしかったのではなく、これから起こることを予見して、それを見越して笑っているよう。


「選ぶが良い。お前達二人の生も死も、決定権はお前にある」


 男の指鳴りを合図に、増える足音。大人が二人。それに引き摺られるようついてくる軽い足音。ジャラジャラと鳴る鎖の音。


「……エルムちゃん!」


 開かれた扉から飛び込んできたのは、数ヶ月ぶりの姉の姿。

 少し痩せた。髪が伸びた。背も伸びたかも。

 しばらく見ていなかったから、あそこまであの仮説を信じられた。

 実際彼女を目にすれば、得体の知れない保護欲が湧き上がる。


「姉さん……」


 不気味だと感じる心にそれが無理矢理蓋をする。

 涙ながらに抱き付いてくる姉の抱擁。それを反射的に抱き留める右手と、戸惑い宙をさまよう左手。それが自身の心の鏡のようだと感じた。



「洛叉が戻ってくるまでに答えを決めろ。私はそう気が長い方ではないのでね」


 そう言いながら、悪魔が何かを投げて寄越す。鉄格子の間から投げ込まれたのは、一本の短剣。

 それは慈悲か?気まぐれか?

 どちらにしても、血生臭い用途しか思い当たらない。

 だけどここで逃げたら悪魔は嗤うのだ。

 だけど逃げなくとも、悪魔はきっと笑うのだ。


 どうすれば?……どうすればいい?

 逃げても負け。逃げなくとも負け。他に逃げ道は?どこかに……どこかにきっと在るはずだ。考えろ。考えろ。


「ねぇ、エルムちゃん」

「姉さんは黙ってて。今いろいろ考えてるんだか……」


 鎖に繋がれたままの自分とは違い、投げ込まれただけの姉は比較的自由に牢を歩けるようで、エルムの足が繋がれた場所までやって来る。

 しっしと思考の邪魔だと手を振って近寄る姉を振り払う。その手をぎゅっと握られたのに気付いたエルムは姉を見る。


「大丈夫だよ。怖くないよ」


 姉は……アルムは微笑んでいる。いつものように何の根拠もない言葉ではない。何かを核心している、だからこそ此方にとっては得体の知れない瞳でもって。


「姉さん?」


 あの男に投げられた短剣。いつの間にか彼女がそれを手に携えている。

 それを一瞬訝しんだが、すぐに理解した。彼女も選んだのだ。同じ答えを、おそらく、きっと。

 自分と離れたことで精神的に成長したのだろうか?だとしたら、喜ばしいことだ。彼女を駄目にしていたのは、結局自分の甘さだったのだ。

 せっかく精神年齢の上がった姉が死んでしまうのは勿体ないような気もしたが、あんな実験の素材にされるくらいなら、こっちの方がずっといい。


「……心臓ならこの辺り。短剣じゃ首を落とすのは難しいし、こっちの方がいいかも」


 殺せと悪魔に虚勢を張ったエルムでも、年の割りに大人びてしっかりしていると言われてはいても、流石に目の前で自分に刃物が突き立てられる様を見る勇気はなく、そっと目を伏せた。

 近づく気配。ガシャンと擦れ鳴る鎖の音。暗がりの中、殺めるために、輪郭を探すよう伸ばされたらしい手。


「大丈夫だよ、エルムちゃん」


 落ち着かせるよう、優しく甘い声で彼女が囁く。

 そして的確にそれを狙えるようにと、そっと身体を倒される。その傍に座った彼女が鞘を抜く音。

 空気の読めない彼女は呼吸の最中にそれを振り下ろす。覚悟していた痛み。それは予想以上の激痛だった。

 けれど、何かがおかしい。何かって?……場所だ。場所がおかしい。

 混乱の中、それに気がつき目を開けようとするのだけれど、続く痛みに小さな悲鳴と一緒に目を固く瞑ってしまう。

 そしてその痛みは四度続いた。迷いもなく振り下ろされた凶器に、両腕、両足を狙われたのだと身体の痛みが教えてくれた。


「うっ……ぁ……、ねぇ……さん?」


 動けないと言うことはないが、動きたくない。懈怠をもたらすその痛み。

 此方が逃げ出さないことを確認してから、彼女が床に倒れたエルムの腹へと座る。

 利き手の右手に凶器を握ったままに、姉が微笑を浮かべ見下ろしている。

 左手に持ち上げられた顎のせいで彼女から目をそらせない。


「大好き、エルムちゃん……」


 熱に浮かされたようなその言葉と共に寄せられた顔。

 その息苦しさを何に例えれば良いのだろう。

 胸の中で暴れ出した罪の意識が内側から心臓を食い破ろうとしているような、大暴れ。

 そんな気持ちの悪さだ。

 息切れと胃もたれと空腹と胃ストレスと自家中毒特有のあの吐き気を組み合わせて、さらにその上に重りが乗っていて、それと重力とがこの身体を押しつぶそうとしているようだ。


 押しつけられた唇の感触自体は柔らかだ。だけどこの世の終わりに直面したような、背筋と心の凍る思いを味わった。

 目の前にいるのは自分の片割れで、誰より理解し見知った人間のはずなのに、……彼女が不気味で得体の知れない恐怖の対象として今は映った。

 



 常識的に考えて、普通、あり得ない。

 だって、姉さんだ。姉さんだ。姉さんなのに。姉さんは一体何を言っているんだ?前から頭の弱いところはあったけれど。それは姉弟愛とか家族愛とか。そういうものと恋愛感情の区別が付いていない幼さ故じゃなかったのか?それとも死の恐怖でいかれてしまったのか?


 とにかくここにいたら駄目だ。これ以上何かしてしまったら駄目だ。これまで培った常識、理性、そんなものを溶かされる恐怖。動きたがらない身体に鞭打って、必死に藻掻くが乗られたままではどうにもこうにも。

 姿形は違うというのに。思いも思考も違うというのに、身体の大きさはそんなに変わらない。怪我を負わされた今の状況で、彼女を振り払うのは難しい。それでも藻掻く。その度に痛む身体が、頭に冷静さを取り戻させてくれるような気がして。逃げ出せもしないのに手足を必死に動かした。


「動いちゃ駄目だよ」


 それが煩わしかったのか、眼前に据えられた赤い凶器の切っ先。


「……っ、おか、しいよ!姉さんっ!」

「……死なせない。エルムちゃんは、死なせない」


 異常性を伝えようと必死に叫んでも、彼女には伝わらない。何を吹き込まれたのか。ぶつぶつとそれを繰り返す姉。


「大丈夫だよ、エルムちゃん。お姉ちゃん、解ってるから」


 そうやって微笑む姉の瞳は……暗がりだからかやけに瞳孔が開いて見えた。そんな目のまま微笑まれたエルムは蛇に睨まれた蛙になった気分。


「姉さん……?」


 彼女は、離れて何をされたんだ?

 壊れている。壊れている。壊れている。

 思考も、概念も、精神も。

 間違った何かが植え付けられている。元々何もわかってなかった彼女が、完成されている。間違ったまま、歪んだモノに作り上げられている。


「エルムちゃん……大好き。エルムちゃんが、一番好きだよ」


 生まれて初めて囁かれた愛の言葉は、呪いの言葉のように重く冷たく、悲しくて。わけがわからなくなりながら、ぼろぼろと両目から大粒の雫が伝う。


「嫌…だ、……駄目だ、……止めて、姉さん。お願いだから。駄目だ。間違ってる!こんなの、おかしいよ!」

「大好き。だからね、怖くないよ。悪い事じゃないよ」


 確かに願った。願いはした。

 誰かに必要とされる人間になりたい。

 誰かに自分だけだと言って貰いたい。

 誰かに愛されるような自分になりたい。


 でも、それは絶対に彼女であってはならない。

 彼女以外の誰か。それがそこに修飾されていた。犯してはならない不文律として。



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