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0:Forsan et haec olim meminisse iuvabit.

これは悪魔の絵本『魔術師【逆】』の続編、SUIT編二話目になります。前作に目を通して頂きますと、この話をすんなり?理解頂けると思います。

如何に正確な情報でも、予測出来ない事態は起こり得る。

 例えば。道連れである彼女は世界最高、或いはそれと同等以上の数術使い。夢見の力で先を知ることが出来る彼女も、万能ではない。彼女の未来予知は完全にランダム。

 確実に未来を知るためには、望む情報を引き出すためには相手に触れる必要がある。彼女の本拠地は、セネトレア王都ベストバウアーの位置する第一島ゴールダーケン。

 ここはセネトレア最北に位置する第三島アルタニア。

 お互いセネトレア歴はそれなりに長いから、雪くらいは見たことはある。それでも、ここまでの積雪の中……歩いた経験はなかった。

 それは彼女も同じようで、帽子に手袋マフラー……コートの上にマントを羽織るという完全装備。部下を送り込み情報収集を行ってはいるだろうが、彼らには彼女のように未来を知る力はない。

 それでもこの場所が寒い、物凄く寒い。そういう前情報が彼らからもたらされていたお陰で、自分たちは一応寒さは凌げているのだろう。嵩張るし動き辛いし、少々重い。これは絶対筋肉痛としてやってくる。

 自分の貧弱さに吐いたため息まで、こんなに白い。自分たちは一体何をしにこんな所までやって来たのだったか。第一島から第三島までの船旅は、それはとても長かった。距離としてはまぁ……三日程度だが、その内二日が船旅。

 金さえ出せば、それは快適な旅を送ることは出来ただろう。しかしそういう客は目を付けられる。商人達と物騒毎に展開するのは避けたいところ。

 かといって最下層の船を使えば、沈没するか身包み剥がされ売り物にでもされるか。こちらもこちらで面倒事に巻き込まれる。

 混血という身の上は、迂闊に外も歩けない。混血が変装も無しで外を彷徨くことは、殺してください、或いは犯してください辺りとセネトレアでは同義語だ。

 何日も他人の目に留まる場所に留まるのも危険。こういう時に欠かせないのが視覚数術。

 けれど、視覚数術というのはいろいろと複雑な数式だ。姿そのものを変える式も勿論ある。あるが、割に合わない。数術には代償が要る。少ない代償で大きな術を使いたい、それは誰もが思うこと。術師として最高レベルの彼女でも、それは変わらない。

 通り過ぎた家々の窓硝子。そこに映る自分はいつも通りの自分にしか見えない。けれど彼女には、そうは見えてはいないだろうし、周りの人間からしてもそう。

 もっとも代償消費の少ない視覚数術は、姿を変える式ではなく他者の視覚情報を書き換える式。実際彼女の瞳の色は青ではなく髪と同じ金色のまま。それでも今はそうは見えない。

 自分はどこにでもいる黒髪黒目のタロック人、彼女は何処にでもいる金髪青目のカーネフェル人の振りをし、標準的な……それでもトーラの筋情報で信頼できる船へと乗り込んだ。

 確かに面倒事には巻き込まれずには済んだが、船の揺れはそれなりに。思い返しても気分が悪い。そこから半日ほど馬車に揺られて現在地である城下町シュネーベルクに辿り着く。

 馬車を降りた後の異様な熱気。北風の中、人々は祭りの最中のような盛り上がり。

 その姿に何事だろうと首を傾げれば、彼らは聞きもしないのに教えてくれる。忌まわしい残虐公が、とうとう討たれたのだと満面の笑みで。

 その言葉に顔と言葉が凍ったのは此方の方だ。一体何しにこんな所まで来たというのか。

 アルタニア領主……元領主である辺境伯アルタニア公。彼は四公の中でも混血嫌いで有名な人物。彼女が触れることはおろか、自分が乗り込むことだって難しい。おまけに女嫌いと来たものだから、どうやって居城に乗り込もうか頭を悩ませた。

 それでも……と、計画を練りに練り、渋る彼女を説得しここまで来たが……まさかこんなことになろうとは。

 遅れ気味の連れである少女の方を振り返ると、彼女は絶対のデータをこんな形で裏切られたことにショックを隠せないようだった。

 前情報の少なさは仕方がない。それでも現地で受信した分の情報で、彼女はそれを補った。進入口から逃走経路まで完璧な犯行計画を練った途端、こんな結末。項垂れる気持ちもわかる。心なしか、彼女の帽子の耳まで項垂れているように見える。

 完全な計算を覆すもの。それは人の感情だ。万物は数字であると言った学者がいたらしいが、浮き沈みの激しい人の心まで完璧に計算の枠に含めるのはなかなか難しいことのよう。


「ごめん……リーちゃん」

「……気にするなトーラ。お前のせいじゃない」


 逆に考えれば、良かったのかも知れない。街を行く人々の表情は明るい。これまで残虐公と恐れられていた侯爵が討たれたのだ。

 彼は悪人だったのだ。だからその死をこれだけの人々に喜ばれている。

 誰がやろうと自分がやろうと結果が同じなら、いずれ彼らは笑っていた。その時きっと自分も罪悪感を抱えながらも、彼らの喜びに微笑することくらいは出来ていたはずだ。

 それなのに、おかしな気分。殺さずに済み、浮いた一つの罪。それが誰かの肩に重く乗っている。それが何だかとても……気分が悪く、自身の標的であった人間の死に喜ぶ人々の反応に、心が穏やかになることもない。

 言うなれば、時差。そんなものかもしれない。自分には彼らの喜びが、まだ理解できない。だから、心がざわつくのだろう。

 道を進めば自然と耳に入ってくる、それとは別の……同時に上がる二つの声。

 前領主を討った犯人、その人物についての議論。


「飼い犬の一人だって話しだぜ。よくやってくれたよな、そいつ見たって奴の話じゃまだ子供だって聞いたぞ」

「何言ってるんだい!私もそいつ見たことあるけどね!飼い犬も飼い犬!番犬そのものさ!可愛げなんかあったもんじゃない!泣いてるこんなちっちゃな子供まで、領主の餌に連れて行った悪魔だよ!処刑されるのが清々するよ私は!」


 今度歩みを止めたのは自分の方。彼女が何歩か自分を追い越し、それから此方を淵向いた。


「……リーちゃん?」

「…………不思議なものだな」


 領主の召使いが主を討った。与えられる情報はそれだけ。

 それなのに人々は対立する。彼が何を思い、何を考えそれを行ったのか。過程などまるで見えない。結果から自分の感情を結びつけて導き出した解。それこそが世界の真実であると互いに主張する。

 ある者はそれを善と呼び、ある者はそれを悪と呼ぶ。

 広場へ通じる道。貼られた張り紙は、彼の公開処刑を語るものと……新たな領主の誕生を祝うもの。

 さしたる興味もなく目をやれば、対立的なその二色が目に留まる。新領主……彼の方は鮮やかな金髪。珍しいことだ。彼はここで初めてこの問題に興味を持った。

 一地方とはいえ、カーネフェル人がタロック圏のセネトレアを継ぐなんて、なかなかない。連れである少女もそう思ったようで、まじまじと張り紙を見つめている。彼女に隠れてその金髪が見えなくなったので、彼はもう一枚の張り紙の方へ視線を向けた。

 闇に融け込む暗い色。番犬と呼ばれた犯人は、黒い髪に暗灰色の瞳……標準的なタロック人だ。なるほど……先程の人々が言っていたよう、確かに幼い。十四,五……あたりの少年だろう。


「……!?」

「リーちゃん?」


 数術使いは、目よりも数値で世界を知る。

 分類するなら彼も一種の数術使いではあるが、理論や概念をすっ飛ばした邪道であるが故、連れの言う数術概念はよくわからない。言うなれば気配、空気……彼女たちはそう言うものに聡い。今回も、それだ。相方の数値の変化を敏感に数値を察した彼女がこちらを振り返る。動かないその視線の先……二枚目の張り紙が、感情数を劇的に変動させたことを瞬時に察し、彼女もそれに目をやり絶句。


「トーラ、仕事だ。……今すぐ調べて欲しいことがある。やってくれるか?」

「……勿論っ」


 言われるまでもない。彼女はすぐさま数式を発動。空中に描かれる数式。僅かだが最近では見えるようになった。……最近でもないか。もう……一年以上前から。

 目に映る世界は変わってしまった。同時に、彼を捉える全ての世界も。瞳の端に移る数値配列。それでも、変わらないものもある。

 例えば……二枚目の紙に印刷されたそれ。忘れるものか。

(どうして……?何故、彼がこんな所に?)

 自分は、彼を……知っている。人の死を悼める優しい人間。優しかった彼が、意味もなく人を殺めるとは思えない。彼の処刑を、このまま見過ごすことは当然、出来ない。

 今考えれば、ぞっとする。何故ここにいるのか、ではない。もし、ここにいなければ。



 *


 自分は基本的に泣かない子供だ。

 泣いても何も変わりはしないし、泣けば泣くほど自分が惨めで無力であると思い知る。

 それでも人間というのは弱い生き物で、誰かがいなければ生きてはいけない。そうではない人間もいるにはいるが、そう言うのは特殊な人間だ。人として何かが足りないか、欠けているか、壊れてしまって、心が正常に機能していない。

 悲しいかな、彼はこんな状況に置かれても……心は正常に機能していた。

 自分という概念が希薄だという自覚はある。だからこそ、自分には他人が必要。誰かのため、誰かのため。そうでなければ生きられないのだ。

 その、誰かが……失われた。

 死にたくない。そういう思いもある。けれど、自分を自分で肯定できない。死んでしまいたい……と言うよりは、どうして生きているんだろう。そんな気持ちの方が大きい。

 ここに押し込められる前、返り討ちにあったっけ?

 自分のためにと主自ら作り上げてくれた愛剣冬椿。無惨に折られたその剣は、自分と一緒に転がされている。自害用に残された……というわけでもないだろうから、見せしめだろう。ご丁寧に両手両足は縛られている。

 このまま冷たい牢に転がされ、一人きりが続くなら……自分は泣いていたかも知れない。

 そんな風に考えたときだった。

 重々しい音。続く、コツコツという音は階段を下ってくるあいつの足音。ズリと引き摺るような音が聞こえるのは、奴には見えないから。壁に片手を添えているからだろう。

 訪れたのは、女のように長い金髪。一見するなら貴族の嫡子らしい気取った服装の、カーネフェル人の優男。けれど彼をそれと証明するのはその長い金髪だけ。

 もう一つの確認法である、両の瞳はそこにはなく……へこんだくぼみが二つある。その内側にあるのは悪意の深淵。絶望ヶ淵。


「気分はどうだい?犯罪者」

「……っ、最高だったさ。あんたの面を見るまでは」


 くすくすと此方を嘲笑う絶望の声。来訪者の声に、感情数を意図的にすり替える。悲しみを怒りであると自身に誤解させることで、彼は自分という者を保っていた。


「番犬はよく吠える。でも君は馬鹿犬だ。あの人はもう、死んじゃったっていうのに」

「死んだんじゃない!殺されたんだっ!カルノッフェルっ!お前が殺したっ!」

「あははははははははははははははっ!そうだね、僕が殺した!」


 新たな領主は罪を肯定。見えない癖に彼は優雅にくるりと踊るようにターンして、虚空を片手で指さした。細く長い白い指。触れたら拉げてしまいそうなそれ。見た目に騙されてはならない。拉げるのは此方の方。あの手が生み出した死体の山。それを自分はこの目で見ている。


「だけど世の中って面白いと思わない?群衆が求めているのは真実などではない。あいつらが欲しいのは餌。領主とはそれを与えるものなんだよ」


 腹を空かせた豚共の笑い声が聞こえるだろう、盲目の男が餌と豚とを嘲笑う。


「アーヌルスの飼い犬、君が今日の彼らの餌だ」


 言われなくとも分かる。自分はこれから冤罪の罪人として殺されるのだ。

 死神の足音。もう聞こえない。背後でぴったり止んでいる。

 階段はとうに登ってしまっていた。あとは、突き落とされるだけ。誰も狼少年を信じないよう、誰も飼い犬の彼を信じない。

 それだけのことを、自分はしてきた。今更、その全てが潔白だと言い張るつもりはない。自分も、目の前の男と同じ……人殺しであることは、逃れようがない事実。


「悔しいだろうねぇ……君は彼を殺していない。だが!誰も君を信じない!」


 ああ、悔しいよ。悔しくて、堪らない。お前を殺してやると、叫びたい。遠吠えだ。分かってる。それでも言ってやりたかった。でも、……言えない。

 これ以上何か一言発すれば、泣いてしまうとわかっていた。奴からは此方は見えないだろう。それでも奴は見えない分、嗅覚聴覚が常人より鋭敏。十中八九気付かれる。ほら、あいつが近づいてくる。

 唇を噛み締めた際の血の匂い。それに気付かれた。


「……舌でも噛んだのかい、負け犬君?」

「そんなあればとっくにやってるだろうね」

「そうだ。事情を知らない頭の幸せな使用人仲間達が今、何をしているか教えてあげようか?彼らはいつものように賭をしているよ。君が舌を噛んで自害するか、それとも君自身が考案した処刑方法で殺されるか。彼らは君を随分買っていたんだろう。血も涙もない鬼子だと思っていたのかもしれないね。後者の方が圧倒的に人気だったよ」


 無愛想な子供。領主のお気に入り。飼い犬。番犬。黒の子烏。

 自分を言い表す言葉は幾らでもあった。そのどれも本質を見抜いてはいなかったが、社会とは概してそう言うものだ。人が洗いざらい真実をぶちまけて生きていない以上、仮面の人々はそこから彼を推測して世界における彼という存在を創り出す。偏見、思いこみ、先入観、噂話。そんなものをスパイスにして。それは歪んでいれば歪んでいるほど他者にとっては面白い。その方が酒が美味くなる。おそらくそんな理由だろう。

 だから同僚達は、誰も彼を知らない。

 悲しいことに、彼の本質を誰より見抜いているのが……目の前の男。盲目の男が一番真実を見つめているという何とも皮肉な話。


「でも、君のは虚勢だろ?仮面一枚剥がして見せれば……唯の子供さ。何も出来ない。飼い主そっくりだ!あいつがどんな風に死んだか、お前も……」


 手を出した時点で負けだ。頭はそう言う。

 構うものかと振り下ろした手刀。牢の鉄格子の隙間と隙間。そこから一気に落としたそれは、キラキラ光るくらいしか脳がない金髪野郎の頭をスイカ殴り並のいい音で響かせることに成功。

 盲目の男が殺気の風を認識する頃、彼の頭はいい音でグァングァンと揺れていた。

 常人以上のスピードを持つこの男なら避けることなど容易い一撃。そんな規格外人間も、一応は人間。油断という概念を持ち合わせていたらしい。

 起き上がりながら、自身を縛めていた縄を手に、ないよりましかと鞭代わりにそのまま握りしめる。

 こんな事のために大人しく転がってたわけではないのに自分は一体何をしているんだろう。頭で分かっていても、制御できない心と身体は本当に厄介だ。それでも同時に、これで良かったのだと思う心もある。


「俺の人生舐めるなよ。こちとら二回も奴隷階級に転落してんだ」


 いい加減縄抜けくらい覚えなければ、それこそ唯の馬鹿だ。

 ある意味では此方も馬鹿だが、向こうも向こうなりに馬鹿だ。

 爪も牙も折ったつもりで居たんだろう。それでもまだ、此方には折れていないものがある。

 以前の自分と今の自分、相変わらず自分は弱くて臆病者のまま。それでも変わったことが一つある。

 自分には誇るものなど何もない。それでも今の自分は、アルタニア公の武器なのだ。それは自分にとって、与えられた誇りだ。誰が彼を残虐公と呼ぼうと、彼は自分の誇りなのだ。死して尚。

 自分は彼の武器。武器は使い手を失っても、鋭さを保たなければならない。奴が触れてくるなら斬りつける。折られるその刹那まで、容赦はしない。それが武器のプライドだ。

 武器は泣かない。

 常に鋭く居ろ。それが彼の命令。命令無しに泣いてはいけない。だが、主への侮辱は絶対に許さない!


「窮鼠猫を噛む。タロックの諺だ。セネトレアのお貴族様はこんな教養も忘れたんだな」


 なるべく相手を馬鹿にするよう、嘲笑うように出した声。それにゆっくりと顔を上げる金髪男。

 ここで死ぬならそれでもいい。殺されるなら、それでもいい。

 守る者はもう何もない。大切な者などもう誰も傍には居ないのだ。価値もない、意味もない自分なら、人として処刑なんかされない。最後まで、武器として戦うだけだ。

 聴覚。奴の研ぎ澄まされたそれ。聞こえるんだろう?きっと届く。悪意たっぷり、言葉の刃を突き刺そう!


「ああ、そうかその色の髪!タロックの血も随分薄まっているんだろうなぁ、混血野郎っ!」


 言葉の一撃に、金髪男が後ずさる。頭を抱えている。聞きたくないと言っているよう。

 呪いの言葉は諸刃の剣。ズキズキと、こちらも心が痛む言葉だ。生まれて初めて会った混血の人。その人まで否定するような、酷い言葉だ。

 脳裏に甦る優しい人の面影に、ごめんなさいと心の中で呟いて、次なる悪意を紡ぐため……冷たい空気を肺に取り込む。

 目の前の男。カルノッフェルが此方を見ている。失った瞳で得た仮の身分、純血の位。

 彼は見ている。番犬と見下したその犬の、瞳の色!毛皮のその色を!羨ましいと、そう見ているんだろう!?そうでなければ……そうでなければ、こんなことにはならなかったのだと。


「悔しいよなぁカルノッフェル!言いたいよなぁ、先代の本当の後継者なんだって!」


 金髪の男。こいつは純血じゃない。カーネフェル人ではないのだ。アルタニア公の血を継いでいても、彼の黒髪は継げなかった。タロック人を名乗ることさえ彼には許されない。

 あの時の驚き様。そして目の前の男の迂闊な一言。冷たい牢で馬鹿が考えに考えた解、言葉の刃。それは奴の心を貫いた。


「でも、誰もお前を信じない。俺を信じる奴がいないように」

「黙れっ!」

「お前にっ……僕の何がわかるっ!!」

「わかるわけない。甘ったれんなクソ貴族。俺と、お前は敵だろう!?」


 わかってるさ。意味もなく、理由もなく……人を殺す人間は居ない。居るとしたら、そいつは人間じゃない。それ以下だ。どんな残虐な人間でも、狂人でも、そこに至るまでの理由はある。

 だけどそれをわかって欲しいだなんて敵に言う言葉じゃない。


「俺はお前の武器じゃない。俺はあの人の武器なんだ。お前にどんな過去があって、どんな理由があったか。そんなもん俺には関係ない。お前があの人を殺した!……それは事実だ」

 人間怒りの臨界点を突破すると、途端に冷静さを取り戻す。カルノッフェルの今の状況がそれ。暫くの無言。その気迫に飲まれかけ、迂闊なことは喋れない。

「…………犬畜生が」


  吐き捨てられた軽蔑の言葉。汚らわしいと言わんばかりに打たれた辺りの髪を思いっきり引き抜いた。


「……処刑は明後日。処刑方法は、お前の最高傑作に僕が徹夜で改良してやる」


 武器のプライドと、臆病者の自我の天秤。その天秤が今はプライドに傾いているだけだと冷静になった男は見抜いた。


「父上の番犬……忠犬は主の命には背かない。あの男はお前に自害を命じていない。舌を噛むのは裏切りだ。精々死に脅えるが良い臆病者!」


 処刑日までの見えない時間。それが天秤をぐらつかせる。仮面が剥がれ落ちていく。それを見越して男は嗤う。


「楽しみだよ。その威勢が何時まで続くのか……」

「……俺も楽しみだ。新たな領主が残虐公の息子だなんて奴らが知ったらどんな顔をするだろう?見物だな」

「そうか、そんな君のために猿ぐつわを用意しておこう。それから法を変えておくよ。これからアルタニアでは罪人は一言も弁明も遺言も言い残せないまま、殺せるように」


 くるりと背を向け、階段を上っていく足音。やがてそれも闇に消え、静寂だけが残される。縄と、真っ二つに折られた剣。

 縄抜けを覚えた先に広がる未来、手に入れた可能性。これは凄い。自害の方法だけで三パターンもここにはある。ギコギコと使い辛い剣で首やら切断、縄で絞殺、あとは舌を噛み切るか。

 明後日までこの三者の死の誘惑から耐え抜けば、もっと恐ろしい処刑パーティが待っている。臆病者の自分としては絞殺辺りが一番楽なんじゃないかと思う。血が出ない分、なんとなく痛く無さそうだ。試しにちょっと首にかけてみて……すぐに咳き込み止めた。臆病者もここまで来れば、笑い者。

 処刑まで不敵に構えて待てるのではなく、目先の痛みに負けて首を吊る度胸もなくそこまで生き延びる図が目に見える。

 プライドという仮面。それは他者があってこそ発揮される。

 誰もいないこの場所では、元の臆病者が顔を出す。情けないと思いながらも自分の心は死にたくないと叫き出す。


「……馬鹿みてぇ」


 この手はもう、汚れている。

 殺される覚悟もなく、人を斬ったなんて言い訳できない。なのに、死にたくないだなんて。本当に馬鹿げている。

 意味もない。価値もない。こんな色の髪、瞳。掃いて捨てるほど存在する。

 こんな俺に価値を見出してくれた人も、もういない。それなのに、どうして自分は生きている?


(アーヌルス様……コルニクス……)


 仕えた主と新たな名前の名付け親。彼らはどうして自分を(ニクス)などと呼んだのだろう。瞳も髪も真っ黒。両手は真っ赤に汚れている。ぼんやりと、折れた冬椿を見つめていると……幻聴が聞こえてくる。呼ばれる声。呼ばれなくなった、新しいその名前。

 違和感があったその名前も、いつの間にか……愛着が湧いていた。もう彼らに呼ばれることはないけれど。

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