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涙の後に、朝焼けを超えて  作者: お茶
序文
2/2

産声

「わ~、キャラ弁だぁ! すっごく可愛い!」


 赤志のお弁当を見たクラスメイトの一人、冴島可乃子が、感嘆の声を漏らした。机の上に広げられた小さなお弁当箱。チキンライスやサフランライスなどの色付きの丸いご飯に、小さく切った海苔やかまぼこが散らばり、持ち主に似つかわしくない可愛らしいキャラクターが出来上がっていた。


「親戚の女の子が家にいるのですけど、作ってくれとせがむもので」


 それでも褒めてもらえたことは嬉しかったのか、赤志はハニカンでお弁当に視線を落とした。


「ふ~ん。それで、自分のお弁当もそうしたんだ」


 体育会系のクラスメイト、伊賀梨々花も、興味深そうにキャラ弁をのぞき込んだ。浅黒い肌の快活な女の子ではあるが、可愛いもの好きで有名である。


「一緒に並べて写真を撮りたい、と。こういうのは初めてなので、少し早起きしてしまいました」

「ほほ~う。顔に似合わずやるね」

「なんです?」

「いやなんでもないよ。いただきま~す」


 四時限目終了のチャイムが鳴り、学校はお昼休みに入っていた。公立高校はもうすぐ春休みを迎える時期であり、生徒はみな浮足立っている。みんなで集まってどこに行くか、宿題はいつまでに終わらせるべきかなど。短くはあるが学校に行って拘束されることのない期間が訪れることそのものが、高校生にとっては嬉しい出来事であり、イベントだった。なにより、いわばこれが最後のモラトリアム期間でもある。高校二年生は三年生に上がることで、より明確に進路志望を決めなければならなくなるのだ。受験するのか、就職するのか。自分の進退を自分で決める、本気で向き合わなければならない時期がやってくる。


「高峰さんは進路どうするの?」


 そしてそれは彼女も例外ではない。


 高峰赤志(たかみねあかし)、高校二年生。クラスメイトの二人が先述したように、眼付きがすこぶる悪く、眼を合わせるたびに怒られているのかと勘違いさせるほど。曰く、人を殺したことのある人間の眼。遊びのないフレームレスの眼鏡をかけていても、その表情が柔らかくなることはない。しかも身長が172センチメートルに達しているので威圧感が半端ではないのだ。制服はきっちりと校則通りに着こなしていて、普段は白いハイソックスだが今のような寒い時期は黒のタイツを穿いて暖を取る。髪の毛は肩口で雑に切り揃えていて、オシャレや化粧にはまったくの無頓着。


〝そして胸は絶壁!〟

「うるさいよ」

「え、なに? 高峰さん」

「……いえ、なんでもありません。それより伊賀さん、総菜パンだけでは栄養が偏るのではなくて?」

「バカ言うなおめえ! この包装袋見てみ? 野菜たっぷりって書いてあるんだから野菜もばっちり取れてるんだよ」

「あはは、梨々花ちゃんはケチャップを野菜って言っちゃうもんね」

「可乃子、いい加減に梨々花ちゃんって呼ぶのは勘弁してくれ……」

「え~、梨々花ちゃん可愛いよぉ!」


 うまいこと話題が逸れてくれたことでホッとした赤志は、キッとその鋭い眼光を自分の斜め上に向けた。


〝うひひ、ごめんごめん。なんだか言わないといけない雰囲気を察して〟

(余計なことはしなくていいの。学校では静かにしていて。授業中もいちいち「あ、あの先生絶対ズラだ」とか言わなくてもいいから)

〝でもおっぱい小さいのは本当だよ? 小学校二年生の頃から成長したのは身長と体重と目付きの悪さだけで、おっぱいはひとっつも成長しなかったね〟

(成仏させてあげようかしら)

〝アウチ! キャラ弁はホントに感謝してるから、ねちっこいキスで許してちょんまげ。あたしは食べられないけど、赤志が一生懸命作ってくれて、それだけでお腹いっぱいだよ〟

(キスなんて、仕方がない理由でしなくていい)


 そもそも別に最初から本気で怒っているわけではないので、許すも何もなかったりする。


 赤志の斜め上を浮遊している半透明の女の子。名を、黒曜朱莉。赤志の幼馴染で、とある事件がきっかけで小学二年生の時分に亡くなったが、その後すぐ幽霊に生まれ変わり、赤志に憑りついたのだ。


 性格はこれまでのやり取りでわかるように大らかで能天気でお調子者。成長する幽霊は珍しいが、朱莉は確かに成長している。知識も増えるし、脚も長くなる。童顔は変わらないが、胸も一般的な見方をすれば大きい方だ。骨ばっていて贅肉がなくただ細いだけの赤志に比べると、朱莉は適度に肉がついていて健康的で、女性としての柔らかさと子供のような愛嬌が同居する、まさしく男性の理想としての女の子なのだろう。


 朱莉は現実世界へ物理的な干渉はできない。幽霊のようにポルターガイスト現象を引き起こすこともできない。そして、どんな人間にも見ることはできない、特殊な幽霊だ。どんな人間にも、というのは例えば、寺の住職であったり幽霊が見える霊能力者だったり。如何なる者も、朱莉を観測することはできない。


 だけど赤志はそれでいいと思っている。朱莉もきっと、寂しいとは思わないはずだ。


 だって、私がいるのだから。


「話がそれちゃったけど、高峰さんは進路どうするの?」


 上目遣いでのぞき込みながら、冴島は質問した。


 机を並べてのお昼休み。お弁当のキャラクターの頭蓋を箸で容赦なく切断し、もくもくと口に運ぶ赤志。人の心がないのか、と後ろではしゃぐ幽霊。


「高峰なら、正直この辺りの大学ならどこでも行けるんじゃないの? 模試でも全国で上から数えた方が圧倒的に早いやつ、この学校にはいないぜ? センセもお前にゃ一目置いてるって話だ。そりゃあクラス委員もやって勉強もできて校則も破らない。あまりにも出来すぎな生徒だからな。だけど目つきが悪すぎてセンセもブルっちまうのが瑕」


 ビシッと油のついた人差し指を向ける伊賀梨々花。その指先を、隣の冴島可乃子がティッシュでふき取った。


「やっぱり進学かな? 高峰さんの学力だと、この辺りで一番の××大学? それとも県外?」


 赤志はたこ型のウインナーの股に箸を突き刺し、思案した。


 そういえば、進路なんてほとんど真剣に考えたこともなかったのだ。高校二年生にもなると進路相談の面談やペーパーの確認が定期的に行われる。それを全て無難に躱してきた赤志だが、これからはそうはいかないだろう。


 だけど、伊賀や冴島が言うように、きっとハイレベルの大学を志望校にしておけば教員を黙らせることは容易い。この町の大学であれば今まで通りの勉強で進学することはできる。


「そうですね。おそらくは冴島さんの言う通り、××大学でしょうか」

「すごいよ高峰さん。だってこの学校はもう数年くらいその大学の進学者が居ないんだもの。もしかしたら受験勉強の秘訣、みたいな講義を卒業後にやらされるかも!」


 箸を持ったまま両手を合わせ、何か眩しそうに天井を見上げる冴島。あの受験生の講義、大して役にも立たないしそこまで憧れるほどのものでもないような気がするが、敢えて赤志は口にしなかった。


「人の前に立つのは苦手なので、辞退してもいいですか?」

「クラス委員やってる奴がよく言うよ」


 伊賀は包装袋を握り潰し、紙パックのカフェオレをちゅーちゅー吸い込んだ。


「伊賀さんと冴島さんは、進路は決めましたか?」


 冴島は肩を落とし、視線を逸らして呟いた。


「一応、進学なんだけど。△△大は今のところ評価がCで、間に合わないかも……」


 冴島は語尾を萎ませながら言った。△△大学は××大学の一つ下くらいのレベルだったはずだ。


 冴島はお弁当箱の小さなミートボールをつつきながら、ため息をつく。


「どうすればいいんだろう。特に化学は致命的だ……」


 赤志はなんだか、自分が嫌味な人間に思えた。対して冴島は、あくまでも自分の至らなさを嘆いた。この子は、本当にいい子だと思う。赤志は改めてそれを認識した。


 しかし赤志にはこれを慰める術を持たない。どうしていいのかわからず視線を朱莉に送ったが、朱莉も肩をすくめるだけで的確なアドバイスは持たないようだった。


 そんな中、伊賀は冴島の肩に腕を回して、コーヒーを吸いながらいつも通りに笑った。


「気にすんな気にすんな! 一個落としてあたしと同じ〇〇大にしとけよ。そこだったら可乃子、評価Aだったろ?」

「そうだけど……」

「あたしなんて〇〇大の評価Dだ、アッハハハ!」

「そ、それはちゃんとやらないとダメなんじゃ……」


 学校生活をそつなくこなしている赤志には、真面目に進路を決めようとしている彼女らの真剣な悩みに答える力がない。それは、一種の疎外感と言えるものだ。


 だが赤志が疎外感を覚えたところで、悲しいと思うことも寂しいと思うこともない。


 彼女らが真剣にこれから先のことを考えているように、赤志もまた、自身の行く先を見定めているのだ。それがたまたま、一般的な高校生が抱くような決意ではなかっただけの話。


-----


 花も恥じらう女子高生二人は、小さなガラステーブルを挟んで対面に座り、互いに黒々とした液体をガラスコップに注いで、それをなんの躊躇もなく飲み干していた。


 ガラステーブルからはもくもくと湯気が立ち昇っている。二人がつついているのは水炊きだった。もはや二人の間に遠慮はないらしく、食材がなくなればザルから手づかみでぶち込み、口をつけた箸を容赦なく鍋に突き刺していた。潔癖症の人間が見れば悲鳴を挙げるような光景だが、二人にとっては当たり前の状況であり、何に文句があるのかわからない、と首をかしげるほどである。


「沙羅ぁ、水菜がなくなっちゃったぁ。冷蔵庫から出してくれなぁい?」

「あのですねぇ、ここは一応あたしの家なんだよね。なんであたしの家の冷蔵庫の中身把握してんのよ」

「あとぉ、ワインがなくなっちゃった。ウイスキー出してぇ」

「無視か。ったく、ちょっと待ってな」


 沙羅が立ち上がると、普段通りの甘ったるい声で「ありがと~」と対面の女が言った。


「水菜と、ウイスキー……」


 冷蔵庫の中から水菜を取り出す。今度はしゃがんで、麻湖によって勝手に作られたシンクの下の酒蔵から、コンビニの安いウイスキーを引っ張り出した。


 酒蔵の扉を足蹴で閉め、リビングに戻る。麻湖は煮立つ鍋の中に豆腐をどぼどぼと注ぎ込んでいた。煮える速度とかそういうのは一切関係ない。今自分たちが食べたい物だけを入れる。それが、この二人のお鍋の極意である。


「はい、水菜と酒」


 及川沙羅(おいかわさら)。身長169センチメートルで筋肉質。といってもムキムキの体格ではなくスポーツ選手のような無駄がそぎ落とされ洗練された体格。それを本人は可愛くないと断じ、コンプレックスに思っている。しかし女性にしては高い身長とすらりと伸びた頼りがいのある手足、そしてトレードマークのポニーテールはクラスの女子の憧れの的だった。勉強はそこそこしかできないものの、体育やスポーツは万能。髪の先から滴る汗はあまりに暴力的で、目撃した直後に倒れた女子生徒も存在する。つまり、本性を見せない限りはかっこいい女性、男に頼らない自立した女性として尊敬されてさえいる。


 所謂、すこぶる顔がいい女なのだ。中性的で、飾らず、艶やか。女性徒の間では本当の笑顔はニヒル派と無垢派で分かれている。どっちも素敵派も存在し、一触即発の緊急事態。知らぬは本人だけ。


「それでぇ? 今日は夕那ちゃんとどんな話をしたのぉ?」

「どんなっていうのは?」


 沙羅が視線を逸らしてとぼけると、普段は閉じている麻湖の瞳が一瞬だけ開眼した。


「はぁ? せっかく先生に指示されたノート運びの仕事、一緒にさせてあげたのに、まさか一言も喋ってないのぉ?」


 いつも通りの甘ったるい猫撫で声。本性を隠しているとすれば、こちらの女も同様だった。


 赤至麻湖(あかしまこ)。身長は164センチメートルと沙羅ほど大きくはないが、平均よりは高め。スレンダーを絵にかいた沙羅に対して言えば、麻湖はグラマーよりと言える。胸はそこまで大きいわけではないが、むっちりとした脚や柔和な笑顔、ミステリアスに閉じた瞳は好色の的である。そこら辺の普通の男性なら一発で落とせそうなものだし、学校の男子の仲にも麻湖を狙っている人間はいる。それでも浮いた話を聞かない結果、もしかするとそっち側の人間なのではないかと疑惑を持たれることになった。猫撫で声は反感を買いそうなものだが、声音も子供のように高くどちらかと言えば可愛らしいという印象を持たれている。


「それでぇ? お膳立てしたにも関わらず意味を一切合切ゼロにした理由を聞いてみたいんですけどぉ?」


 沙羅はウイスキーを注いだコップを傾け、唇に液体をくっつけたままちびちびと飲む。その状態のまま、本日の醜態、否、幸福の時間を思い出す。


 数学の教員から、宿題として出されていたノートを全部集めて提出して欲しいとお願いされた麻湖は、とりあえずノートを全部集めた後、頭上に電球を光らせて沙羅と夕那を呼んだ。


 何を理由に呼ばれたのかわからない沙羅だったが、麻湖の近くに寄ってみるとあら不思議、自分の胸ほどの位置に一つの頭があった。よく見てみると、その愛らしい小ぶりな頭の持ち主は、眼に入れても痛くない地上に舞い降りた天使、救いの御使い、逢見夕那ちゃんその人だった。


 ビキッ! と沙羅の身体が石化する。麻湖の言葉がまったく耳に入らない。隣に夕那ちゃんが立っていることに感動と緊張の感情を沸騰させた沙羅。指先までもが動かなくなり、呼吸も苦しくなる。息をしていないことに気づいたが、夕那ちゃんの前で己の窒素と酸素と二酸化炭素とアルゴンとその他を出してもいいのか真剣に悩むこと十秒。左側に立つ夕那ちゃんに息がかからないように鼻を左側にねじり、口も左側に捻じ曲げ、左斜め下に息を吐いた。この、なんと情けない顔。


「沙羅なにしてるのぉ?」

「おほほ、なん、でも、ございません(←めちゃくちゃ小声)」


 まともに声を発することが出来ないのは、考えてみれば至極当然の帰結。夕那ちゃんの耳に自分の声を届けることの、なんと不潔なことか。かなり覚悟を持たなければ前に立つこともできないし、声をかけることもできない。そういえば今日挨拶もしていない。ぎこちなく顔面を変形させて笑顔を作ったような気がするが、その後のことを何も覚えていない。


「そういうわけだから、私用事があって行けないけど、ノートは一人で持つと重いから、二人で届けてねぇ」


 風を切るようにその場から姿を消した麻湖。取り残された沙羅と夕那であったが、こういう場合には率先して沙羅が動かなければならないのに、硬直したまま動くことが出来なかった。


 夕那は教卓の上のノートを半分持つと、小動物のようにとっとっと、と歩いて沙羅の前に止まり、俯きがちに差し出した。


 ようやく我に返った沙羅がノートの束を受け取ると、夕那は残った束を胸に抱えて、教室の出口で沙羅が来るのを待つ。


(持ってあげるよ、くらい、言いたいな)


 沙羅は束を軽く脇に抱えて、片腕をフリーにする。夕那の隣に立つと、夕那は俯いたまま教室を出た。沙羅も彼女の隣に立って、生徒たちの喧騒に包まれた廊下を歩く。


(持ってあげたい。でもあたしが持っちゃうと夕那ちゃんが居る意味がなくなってしまう。持ってあげたいのに、隣にいて欲しい。可愛いから。小さくて可愛いから。少し大きめの制服からちょこんと出る指先とか、両腕でノートを重そうに抱えている姿とか、前髪が最近ちょっと長くなってきたところとか、歩くたびにぴょんぴょん翻るスカートとか、白い肌とか、脚とか、手とか、空気とか、呼吸とか、うおおおお全部可愛いぞおおおおお!!)


 身長差を利用し、沙羅は視線を斜め下に常に向けることで視界に夕那の頭を捉えることが出来る。もしもこの行動に気が付いて夕那が顔を挙げたとしても速攻で首を捻じ曲げてしまえば視線がかち合うことはない。身長差のすべてが、今、愛おしい。


 及川沙羅の本性。それは、魂が童貞と化した重度のロリコンであるところだ。小さい女の子が好きで、全身にむしゃぶりつきたいし折れるほど抱きしめたいしなんならずっと一緒に居たい。勿論それは言うだけで、実際は目も合わせられないし会話もできないし、まず挨拶もできない。普段の姿はカッコいい女性そのものなのだが、このように小柄な女の子、好みの幼女の前ではあまりにも無力でバカで変態に成り下がる。この本性を知っているのは赤志と朱莉と麻湖だけであり、それ以外には未だ幻想を抱かれている。


 本当は、今すぐにでも頬ずりしたいのだ。むれた靴下で出汁を取りたいし靴の中敷きを舐めたいし、靴の裏が地面に作った足跡にキスをしたい。お風呂上りでまだ水気を拭ききれていなかった状態でフローリングを裸足で歩いた際にできる、足裏の形に伸びた水滴を啜ると絶対美味しい。


 などの頭のおかしいことを四六時中考えるような女なのだ。


 だが安心して欲しい。そんな変態思想を持つ及川沙羅は実際、逢見夕那に対して目を合わせられないし会話もろくに出来ないし、挨拶もしたかどうかわからない、そのレベルなのだから。


(でも、持ってあげたい。重い荷物を持って、かっこいいところを見せたい。だけど、何から話し始めていいのかわからない。あたしは、麻湖と喋るときどんな話題から入っていたっけか!? あっ、から始めればいいのか? 前置き的に「あ、そういえば」とか言えばいいのか? わからん、無難な会話とはいったい? いい天気ですね、すら口から出てこないんだけど!?)


 沙羅は目をかっ開き眼球を血走らせて、黒目をぐりぐり夕那の頭頂に向け、口をぱくぱく開けるだけの妖怪になった。


(でも、会話なんて一度口にしてしまえばあとはジェットコースターみたいに行くものでしょう。まず位置エネルギーを与えてやればいいのよ、そうそう。よし、頑張れ。誕生日プレゼントあげたこともあるわけだし、きっとできる、あたし。頑張れ! 頑張れ!! 頑張れ!!!)


 胸に手を当て、呼吸を整える。声が震えていたら格好悪いから、冷静な調子で発声する。隣を歩く夕那ちゃんを決して威嚇しないように、いつも通りに、普段通りの他愛ない会話を試みればいいのだ。


 意を決した沙羅は、ぎこちなく作った笑顔でようやく口を開く。


「あっ」

「し、失礼、します」

「――――」


 ゴーン、という鐘の音が、深く長く鳴り響いた。


 沙羅の口は「あ」のまま硬直する。いつの間にか職員室に到着していたらしく、夕那は沙羅の変化に気づくこともなく職員室の中へと入っていった。


 風が吹いた。その風は石化した沙羅を土に変えていく。結局、また一つも会話をすることができず、沙羅の幸せな時間は過ぎていったのだった。


 ということを思い出した沙羅は、しかし悔しがるどころか顔面がほころんでいく。にへへ、と薄気味悪い蕩けた笑顔でウイスキーを飲む。


「どしたの?」

「いやぁ、隣を歩けたこと自体があたしにとって幸せでさぁ。なんていうの? 歩くたびに髪の毛が揺れじゃない? その髪の毛の隙間からこぼれるマイナスイオンがあたしを潤していくんだよなぁ。でへ、でへへ、でへへへへへへ」

「ああ、これだから次に繋がらないのよねぇ。お膳立ても無意味――ではなさそうねぇ。お酒には酔わないくせに、夕那ちゃんには泥酔しているんだから」


 ウイスキーを空っぽにした沙羅は、今度はボトルを掴んで胃の中に流し込んだ。


「ああ、それ私のぉ」

「よっしゃ今夜は祝杯だぁ! 夕那ちゃんの隣を歩けただけでも大出世だ!」

「随分と軽い出世なのねぇ……」

「むふふ、むふふふふふ、明日はいったいどんな日になるのかなぁ! 夕那ちゃんとお話できるかなぁ!! あわよくば……あわよくばああああああ!!」


 たぶん、それは夢のまた夢だろう。素面の状態で沙羅が夕那と一対一でお話ができる日が来るなんてことは当分来ない。


 例えそんな日が来るとしても、それはきっと、もっと別のお話。今ではない、少し経ってからのことである。


-----


 翌日、逢見夕那が忽然と姿を消した。学校に顔を出さず、担任の教師にも連絡はなかったという。放課後に沙羅が家を訪れると、キッチンに捌きかけの魚が残っていた。床には包丁が横たわっていて、料理の最中に何かがあったことが明白だった。


 日を同じくして、敷島京介の死亡が確認されていた。夕那の失踪の時間帯がわからないため、どちらが先だったのかは定かでない。


 町は静かに闇の色を濃くして行く。春の芽吹きは遠く、凍てつく冬の虎落笛が、断末魔の如く鳴り響く。


 夜の帳が下り、明かりが消え、切れる様な寒気が吹きすさぶ。


 恐怖に慄き、人は家の中に閉じこもる。どこが安全地帯なのか知りもせず、安心できる場所にうずくまる。


 地の底より、担い手の門が開いた。町全体が震え、きっかけもわからぬ見えない恐怖に飲み込まれる。きっかけは、そこにあるにも関わらず。


 煮え滾った窯が、天を焦がす炎熱が、今か今かと地上を翹首する。


 門は解き放たれ、次は潜る者を選定するのみなのだ。


 それ故に。


 地の底より雷鳴の如く、天の御座より福音のように。安らぎの、慈しみの声が凪いだ。




 生きとし生ける者共、汝らの死を――歓迎する。




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