第5章 復讐への巻き添え
「時効不成立」 6
第5章 復讐への巻き添え
―それから一年と九カ月後・一九九三年の英国―
重くなるほどの新緑が、そよ風に白い葉裏を返し、人々が夏の陽射しを待って、ウキウキする六月になった。
「いらっしゃいませ」
「寿司丸」の、立て付けの悪い入り口のスイングドァが開く音に、三人の店員が声を出した。
箸置き、割り箸そして灰皿がセット・アップされている。
十二時からのランチタイムと、三時からの休憩も終り、夕方六時の開店と同時に、客は来た。
客は狭い店に入るとすぐ、常連客のように、物怖じする事なくカウンターに着き、手に持った赤いポシェットからショートピースを出し、火を点けた。
胸のふくよかな女客は、胸の谷間が大きく見える。
白い絹のブラウスから、胸を支える水色のブラジャーが透けて見えた。
白いきめ細かなプリーツスカートの丈は、短くも長くもない。
澄んだ大きな目には、長めの睫毛が美しい。
すっきりと鼻筋が通ってどちらかといえば、やや日本人離れして見える。
髪は黒とはいえないダークブラウン。前髪の一房を小豆色に染め、どう見ても、素人とは思えなかった。
「名物シェフがいるって、ここなの?」と女客が、屈託無く言った。
人のいない鏡の壁に向って、紫煙を吐き、手近の灰皿に手を伸ばした。
「今日はいますかしら?」と女客は首を伸ばし加減にすると、仕込みをしている目の前の寿司板前と背を向けてストーブ前で仕事をしているシェフを見渡し、レジにいる女性に視線を移した。
寿司板前、脂の乗った四十三歳、身長百六十四、臀部の張った短足安定型、白いシェフ帽に白いユニフォーム。
顔は見るからに日本人で、細い一重の吊り目、狭間良孝と言った。
ガキの頃から炊事が好きで、お袋の手伝いをしていたと本人は言う。今では流れ板前と言うにふさわしい戦歴を持っていた。
狭間は客を無視するようにしていた。
顔を上げる事もなく、瞼を動かす事も無く、年の頃なら二十と五・六の色気満載のいい女客を、目の端で捕らえた。
女客の声こそ柔らかだが、気の強そうな物言いだった。
ストーブ前のスリランカ人、ラジャが振り向いた。
レジを確認していた台湾女性のメイも顔を上げた。
二人は同時に、何だ。と思った。
そして狭間は、魚の仕込みの姿勢を崩す事なく、耳を研ぎ澄ました。
メイはひっつめ黒髪を割り箸で止め、小顔に整った目鼻立ちをチラリと狭間に向けた。
が、彼は何の反応もしなかった。其れは気にするなという、いつもの事と、メイは判った。
彼女は台湾から、ロンドンへ来た留学生友達と食事に来て、いきなり狭間からスカウトされたのが始まりだった。学費を捻出する為のアルバイトに、食事付は都合が良かった。
小柄な体型が功を奏してか、背筋を伸ばし、ぴっちりとしたジーパンに包まれた細い足を、何かを蹴るように直線に踏み出して歩く。それでいて、決してお高く留まっているようにも、スノッブでも当然無かった。
そう感じさせないのは、小顔にやや吊った目尻の笑顔のせいだった。
その笑顔は、父親が娘の笑顔に、つい抱きしめたくなる其れと同じものを感じさせ、客をして、そう言わせていた。
ラジャが何気ない素振りで、狭間良孝の背に寄って行った。
狭間は魚の切り付けの手を止める事もなく、焼き立てのギョク、とラジャに囁くように言った。
ラジャから、肌の浅黒さを除けば、日本人の体格と同じだった。
鋭く動く丸い目は、いかにも気持ちよく目先の利くものを感じさせ、優しく親しみの持てる性格だった。
ラジャは軽く肯くと、ストーブ前に戻った。
メイはお絞りとメニューを手に、女客に向った。
そしてお絞りを客前に置きながら、今日は地鶏の卵が美味しいです。と一言添え、メニューを渡し飲み物の注文を聞いた。
地元の住人なのか、一人旅なのか団体客のはぐれ者か、だが寿司のカウンターの端に着き、いくらかはすに構え左肘を乗せた感じは場慣れている。
女客は、おビール。と言って、メニューを開いた。
メイと女客の遣り取りに、さすがベテランだと狭間良孝は思った。
今日のお勧め料理の注文をとるには、このタイミングが一番効く。
お絞りを出す時、一言何気なく言えばいい、後は押すな。
客の頭の中は空腹で、真っ白だからだと、狭間のこうした一見何の事か分からない指導でも、メイは素直に実行していた。
メイは、確率八割で、客が注文する事を知って狭間に聞いた時、これはコマーシャルで禁止手だが、映画館のフィルムに、たった一コマを一定の間隔で、ある飲み物の宣伝を入れておくと客は映画が終わった途端、その飲み物を欲しがるという。
それを応用してみたと、メイは彼から説明されていた。
メイは、そんなものかと思いながらも、結果が出るからには、理屈はいらないと思っている。
ビール、そして紙ソーサに乗せたグラス、突き出しの枝豆を盛った小皿などを銀盆に乗せ、メイは女客に運んだ。
女客は、
「中瓶、まぁ珍しいわね、ヨーロッパはどこへ行っても小瓶なのに、ロンドンには有るのね、懐かしい」と言って、グラスを取った。
メイは客前で、左手の中瓶の栓を抜き、右手に持ち替え、小指を底で折り、四本の指で中瓶のラベルンのない背を押さえ、手首を返し、ラベルが客に見えるように傾けると、四分目ほどグラスに注いだ。女客はそのグラスを一瞬見つめ、一気に煽り、美味しい。と言うとグラスを横に弾き、ラッパ呑みにかかった。
小瓶のラッパのみは誰でもやる。さすがに中瓶となると、迫力があった。
これで、大瓶になれば、ホームレス呑みになるかなと狭間は思った。
女客はフーッと息を吐くと、これはセオリーだとでもいうような言い方で
「ギョクから頂戴」と注文した。
狭間が
「シングル、ダブル?」と聞くと女客は
「シングルで、その後ヒカリ物、私、朱美、参碁朱美あなたは?」
狭間はギョクをサッと握り
「豪快な呑みっぷりでしたね、朱美さん、ですか、狭間良孝です。皆からはリョウって呼ばれてます」と言いながら、握ったギョクを出した。
朱美は醤油を使うこともなくギョクを、やや厚めの唇を少し開け、噛んだ。
「よく出汁が利いて、美味しい。あのビールの注ぎ方、誰が教えたの?」
「私です」と狭間が答えた。
「どうして、目イッパイに注がせないのかしら?」と朱美は責める視線で言って頬笑んだ。
狭間はコハダを握り、鯵を切っては握り、握っては鯖、鰊、カツヲ、鮭、秋刀魚と出し、
「のどが渇いて呑むビールはイッキ飲み、そう思いましてね」
と、まな板を拭きながら言うと、布巾を洗い、東源一文字正虎霞包丁尺一寸の青鋼別誂を、丁寧に布巾でしごき、毛一本映るほどに光った包丁を、左手に持った黒檀の鞘に、右手の包丁を指先で、グルリと回し、パチンと納めた。
朱美はニコニコしながら、あら、座頭市みたいね、鼻で演歌、体はダンス、やっぱり、名物シェフって事かしら。とくすぐったそうに微笑んだ。
狭間は片頬を緩め、チキショー刺身にしたいな、この女、と思うが口には出さない。
「え、やってましたか?」とおどけた。
もう一度、朱美がクスッと肩をすぼめ
「やってたわよ」と言うと、残りのビールはグラスで飲んだ。
メイが狭間に近づき、何で客が笑っているのかと聞いてきた。
客に聞いてみな。とにべもなく狭間が言うと、メイは、英語通じないと思う、と言い返えした。
その思い込みに根拠はあるのかな。と言うと、メイはないと言った。
思い込みで、客を決めちゃいけないな。自分で確かめなよ。
と、狭間は優しい小声で、メイに言った。
朱美はナプキンで、軽く手を拭くと
「リョウ、この店の名物って言うより、ロンドンの名物シェフね」と言った。
狭間は斜め下に首を振り
「から褒めに、糠喜びして、夢見るほど若くはないです」と言うと
朱美が
「あら、素直じゃないわね」と引っ掛かった。
狭間が、視線を下に向けたまま
「いえ、褒め言葉に慣れてないだけです」と照れて見せた。
入り口のスイングドァが開き、メイがいらっしゃいませと英語で言った。
狭間が片手を挙げ、来た客に応えるのと、メイがいらっしゃいませと言うのが同時だった。
来た常連客の海鼠二三〇(ナマコ・フミオ)はサラリーマン、座る前に、
「まったく、ロンドンの天気は分からん。これでも、夏かぁ。晴れのち曇り、時には霙があり、所によっては雨あられ」と海鼠は言って座った。
一日の中に四季があるといわれる英国の気候に、海鼠が愚痴っぽく言いながら、カウンターの朱美の横に、ドカッと着いた。
「あれ、ラメシ、いないの今日は」とメイに向かって言った。
メイが心持、顔を赤くしたが、狭間は知らん顔で
「あ、今日休み、で、コースは」と聞いた。
海鼠はお絞りで、顔をなで
「うむ、給料前だから、ミドルでいくか」と言った所に、メイが運んできた枡酒に口を持っていった。毎度の事だった。
狭間は常連客に対し、ロー、ミドル、ハイの三コースを設け、それぞれ十、十五、二十ポンドとしていた。
これで客は、いちいちメニューを見てあれこれ迷うことなく、話が出来た。
そして、狭間はその日の都合、私の勝手で料理を作るのだった。
寿司の看板を上げてはいるが、おでん、麺類、焼き鳥、中華と何でも作って提供していた。
むろん献立には無い。
これを知っている海鼠は
「あ、リョウさん、後で冷やし中華たのむよ」と言って枝豆をつまんだ。
狭間は刺身用サーモンを賽の目に切って、芥子味噌と和え、白い小鉢に盛ると木の芽を天に添え、それを出しながら
「ごめん、今日はうどん」といって切り替えした。
海鼠が、出された小鉢をそっと見た。
「おほ、うまそ」と箸を出す。するとそばで見ていた朱美が
「私にも、そのミドルで、頂戴」とやや鼻にかかった声で言い出した。
狭間はキーウイ・フルーツを小指大の櫛型に切り、それをしめ鯖で巻き、シャリ抜きの細巻きを作り、一口大の斜に切った。
白い小鉢に盛り、白ガリの千切りを天に盛り、二人にそれぞれ出した。
次はミドル寿司、鮪寿司に、薄切りのアボガドを背負わせ、帯海苔で押さえた。
鮭寿司には黄味酢を点盛り、鯔に白菜のレモン漬けを抱き合わせた細巻きは、インサイドアウトにし、これを檜の飯台に盛付けると、狭間良孝がメイを見た。
メイの目が、それに応えた。
狭間が、かすかに目で頷いた。メイが盛り付けられた寿司を運び
「はいどうぞ、お飲み物、お代わり、いかがですか」との一言を添えた。
海鼠が出てきた寿司を見て、もう一杯。と枡酒を指して言う。
横の朱美は、私にも、と言う顔で、隣の寿司に見入った。
ラジャは客の注文に、リョウが、うどんと応えた時から既に準備を始めていた。
狭間が後ろを振り向くと、ラジャはコクッとうなずいた。
白い鍔広の深皿九寸、茹で上がった讃岐のうどん。
サラダ用の野菜には、カルフォルニヤ赤ピーマン、ザックリ手裂きのレタスに赤い小株の薄切り、水に晒した玉ねぎのスライス、セロリのザク切り、人参の千切り、そこに短冊の大葉などが混じっている。
パースニップのおろし。さらに、獅子唐の土佐漬けの出来ばなも用意されていた。
狭間が寿司場から身を翻して三歩、盛り台に用意された材料の前に立った。
氷水の切れたうどんを深皿に盛る。
宮古昆布の冷えた出汁は醤油味、これを深皿一杯のうどんにかける。
その上に野菜をワッと乗せ、獅子唐二つを天に盛り、上にパースニップのおろし一摘みを載せた。
鍔広の白い深皿九寸に、小山のように盛られた冷やしサラダうどん、彩り満点、味極上。
そして上から、辛油を回し、炒った白胡麻を振って落とした。
一寸の白い鍔が、七寸の中に盛られた冷やしサラダうどんを、さらに盛り上げている。
その一部始終を見ていたカウンターの、朱美は指に挟んだタバコの灰が落ちかけていることに気が付かず、海鼠の箸が宙で止まっていた。
冷やしサラダうどんが海鼠の前に来た時、二人は同時に溜息をついた。
朱美が
「私には?」と不満顔になった後ろから、メイが、どうぞ。と言いながら、茄子割にした小振りのアボガドに、櫛切りレモン、それにスプーンを添えた皿を出した。
朱美がそれをじっと見て
「何で?」とつぶやく。
そ知らぬ顔の狭間が
「今日は充分でしょ」とボソリと言った。
もっと食べたい朱美は
「余計なお世話じゃないかしら」と狭間に噛み付いた。
狭間が、濡れた手を拭ながら
「朱美さん、でしたね、貴方は寿司の食べ方を知っている」と褒め
「明日に繋げたいから、腹八分目医者要らず」と言葉を切った。
朱美が出されたアボガドに、レモンを絞って、すくって食べ、
「ふーん、スッキリして粋な味ね。明日に繋げたいって、来ないかもよ」と絡む。
狭間は何か書き物をしながら
「来る来ないは、お客様の勝手、でも、お客様の健康は、私の責任、と、ま、勝手に決めてるんです」と言って脇腹をポンと打った。
まだ、何か不満な参碁朱美は
「それじゃ商売にならないじゃないの、食べたいのが客で、作るのが板さんでしょ。そこに能書きなんか要らないわよ」とショートピースに火を点ける。
静かに聞いていた狭間が、コクコクうなずいて
「もっともです、でもね、それは他の店でやってください」と言った。
冷やしサラダうどんを食べ終わった海鼠が、溜息混じりに
「ふー、美味かった。リョウさん、美味かったよ。一年前、俺、医者から皮下脂肪が多すぎるって言われてさ、単に食べ過ぎだったんだが、やれ付き合いだとか何だとかになると、セーブするのが難しい。注文も、肉類が多くなる。見かけは重役、中味は平、なんとなく恥ずかしかった。ところが皆で、ここへ来て飲み食いするようになってから、平が平の体つきになってきたんだから、嬉しいよ」と言うと、枡酒の淵に置いた荒塩をカリッと噛んで、ツツっと飲んだ。
横で話を聞いていた朱美が海鼠の顔を改めて見る。
「そんなもんかしら、だって、日本の食事って、なんとなくバランスが取れてるじゃない」と言うと、海鼠が
「だから、食事を考える力が弱くなっていたんですね、きっと、貴方だって、今、リョウさんに言われたでしょ」と見返して言った。
すると朱美は
「小さな親切大きなお世話って、タケシが言ったけど、あれよ」と引かない。
海鼠は視線を前に戻し
「ここへ来る次が、貴方に有るかどうか知りませんが、半年一年すれば分かりますよ」と残りの枡酒を飲み干した。
話を聞いていた狭間良孝が、何か慌てたように
「あ、あ、海鼠さん、俺ね半年も居ないよ。ここに」と寿司ケースを拭きながら唐突に言った。
少し飲み込めない海鼠が
「え、どういうこと・・・?」と顔を曇らせた。
狭間は、ケースを拭いた布巾を流しで洗いながら
「二年の契約が後、四カ月ですから」と言って布巾をギュッと絞った。
海鼠が身を乗り出し
「更新しないの?」
狭間が、再び客前に来て、手を拭きながら
「二年もやってると、飽きちゃいますよ、せっかくヨーロッパに来たんだから、もっと他の国でもやってみたいしね」とサラリと言った。
朱美が、心持ち、目を輝かし
「それ、本と?」と両肘をカウンターに置くと、続けて
「今夜お時間有るかしら?」と畳み掛けてきた。
狭間は魚を冷蔵庫にしまいかけ
「もう、今日はおしまいかな」とメイに言いかけると、メイが
「来たわよ、いつもの」と表のガラス越しの人影を指した。
見れば、イルーカ・アンタンが入ってきた。
三つ揃いを着ているが、どこか身なりの崩れた、訥弁の国籍不明人。
狭間が、ハローと声を掛け、後ろを振り向きラジャに
「いつものやつ、大盛りにしてやりなよ」とウインクした。
入り口近くのテーブル席に、いつものように着いたイルーカ・アンタンに、メイがいつものジュースを持って行く。
ラジャは、心得たとばかりに、焼きそばを作り、カレーを温めた。
肉の入らない野菜焼きそば、ソースが香ばしい。
九寸の大皿一杯に盛ると、その上からカレーをタップリかけ、刻み海苔をカレーが変色する位にふり掛け、その上に刻み紅生姜をボンと載せた。
メイが運んだ。
向こうのテーブル席からアンタンが、ラジャにペコンとお辞儀する。
見ていた朱美が、神妙な声で
「汚いけど、なんか、可愛い人ね、と言うか、憎めない態度。よく来るの?」と聞く。
聞かれた狭間が、アンタンを見ながら
「週二度三度来て、アレが定食になってるね」と答えた。
我に返ったような声で、朱美が
「ふーん。ところで、さっきの話、今度どこへ行くの?」とぶり返した。
狭間は面倒くさそうに
「さあ、どこになるやら、いずれにしても、自分のヘソに合った生き方が一番ですよ」と言うと、朱美が
「流れ板って言葉があるけど、それ?」
横の海鼠が
「俺は背広の三度笠。ハハハ、さて、帰るか、じゃ」と勘定を済ませ、出口に向うその背に、狭間が
「有り難う御座います、又、顔、見して下さい」と言って、朱美に視線を戻した。
「流れ板か、そんな格好いいモンじゃないです。ただのはみ出しモン。板前って言っても、男芸者の硬派だね」
「あら、それじゃ、軟派もあるわけ?」
「ホモ」と狭間が軽く言った時、電話が鳴った。
メイが取り、何かうなずいて、狭間を呼ぶと、彼は定期便かと呟きなら、受話器を受け取り
「はい、こんばんは社長。ええラメシとアブーは休みです。大丈夫、チャンドラ来そうですから、来ればスリランカ三羽カラスで上手く廻りますよ店。気持ちは分かりますから、もう少し時間下さいよ。はい、はい」と言って電話を切った。
朱美が何か言いかけて、ヒョイとイルーカ・アンタンのテーブルを振り向いた。
彼がジャラジャラとテーブルに小銭を広げ出し、メイを手招きで、呼んでいる。
メイが苦笑いを狭間に向け、テーブルに向った。
アンタンはもう立ちかけて、皆に頭を下げていた。
メイが小銭を数え終わるのと、彼が店を出るのがほぼ同じ、いつもながら微笑ましくなった。
それを見ていた朱美が
「ヘー、変わったお客もいるのね」と体を戻す。
狭間は、いつの間にかラジャが出してくれたコップ酒を、クイッと飲んで
「チップも無いけどお世辞も無い。スーっと来て、食べて払って、サッと去る、最高の常連客ですよ」と言って酒のグラスを置いた。
何かを探るような目つきになった朱美が
「さっき、定期便とか言って出た電話、彼女?」と悪戯っぽく言う。
呆れ顔の狭間が
「はァ、冗談でしょ、社長からですよ、ここの」といって盛り台を軽く二・三度指先で突っついた。
朱美は興味津々に
「社長って、ここだけの、他でもなんかやってる人でしょ」と鎌をかけるような言い方をした。
「不動産屋やってるようですよ」
「あら、私もよ、お名前聞かせてくれる、もしかしたら知ってる人かも」
「丸山登美子って名です」
「お若い方なの?」
「確か、三十前だったかな」
「出はどこかしら」
「静岡市の、静岡」
「じゃ、白浜不動産の娘かしらね?」
ズバリと言い当てられた狭間は、驚きつつ、彼女の語調に棘を感じた。
「え、知ってるんですか?」
「面識は無いけど、なかなかだって噂は聞いてるの」と朱美はサラリと言って、含みを持った目を、狭間から反らした。
いつのまにか、ラジャもメイも帰り支度が済んで、私服に着換えて来た。
「リョウ、バイバイ」と軽く二人は狭間に挨拶をして帰った。
気が付いたように時計を見る朱美が
「そんな時間、でもまだ十一時前じゃない」と言って、もう少しいいかしら、と甘えるように言い足した。
狭間は横の一升瓶から、自分で酒をコップに注いだ。
「美人を前に、断わる理由が見つかりませんよ」
朱美は、まんざらでもない顔で
「ま、お上手ね。そのセリフで、何人の女性を泣かせたの」
「ならいいですが、泣くのはこっち、いつも」
いきなり朱美が笑い出し、
「私も泣かせて見たくなったわ」といった目つきは、酔った所為ばかりじゃない光を宿していた。
しかもその光は、逆ナンの其れとは違って、何を考えているのか、狭間良孝には図りかねた。
「ちょっと失礼して、着換えてきます」と狭間が地下の更衣室に下りた。
地下は仕込み場と物置、そして従業員の着換え室にもなっていた。
狭間は手近の水道で、手、顔をザブザブと洗った。
上下の白いユニフォームを脱ぎ、白のTシャツを筋肉質の体につけた。
黒に白の細いストライプの入った、折り目正しいズボンを履き、ボスの丈夫なベルトをぎゅっと締めた。
七分丈の薄手の黒革コートは緋色の裏地。
掴んだコートを肩にかけたまま、ひょいと鏡を覗く、濡れて乱れた髪に、手櫛を入れ、上に向かった。階段の途中で、地下の電灯を消し、上のキッチンに立った。
コップ酒を持ち、参碁朱美を誘ってテーブルに移った。
朱美は枡酒と灰皿を手に、カウンターからテーブルに、自分で移動し
「私が、なぜ、この店に来たと思うの」
「名物シェフとかに興味、持ったからでしょ」
「そうよ、聞くけど、どうして興味持ったと思うのよ」
「話の種、じゃないんですか?」
「本気でそう思う?」と朱美が狭間を甘く睨んだ。
「いえ、普通はそうでしょ」と狭間は彼女から視線をはずしたが、目の端で、ほのかに酔ったはずの朱美から、なぜか女が消えているのを、確かに捕らえた。
「私ね、ヨーロッパ各国に店を出したいの」と朱美は、しおらしさの中に、何か有無を言わせない強さで言いだした。
「で・・・?」
「小さくとも、ファッション寿司をやりたいなぁ。でも、税金対策だから、人件費と材料費が出ればいいのよ」
「随分と又、欲がないですね、欲は別にある?」
「そう、彼女よ彼女、リョウの社長、丸山登美子なのよ」
「ほう、なんでまた、社長が?」
「大有りよ、内の親父をたらしこんで、お化け作って金とって、ちゃっかりこっちでお店をやってます。ふん、笑わせんじゃないよ。子供出来たとか何とか言って、誰の子なんだか、親父の金を持って、日本から消えた。イカサマやって成功するほど、世間は甘くはないよ。其れを言いたい欲があんのよ」と巻き舌かげんに朱美は、吐き出すように言い切った。
狭間は
「さぁ、朱美さん、二人の経緯は、どうでもいいですけど、本当に店を作るのか、今度来て、同じ話をしてくれたら、信用しましょ」
「なかなか疑り深いのね。彼女、いるの?」
「板前ですよ、いなきゃカタワでしょ」と言い捨てた。
が、今は居なかった。
狭間のコートに、朱美が目をやった。
「それにしても、緋色の裏地なんて、いかにも流れ板前って感じね」
「自己主張が強いだけですよ」
「随分とスネてんじゃない?」
「スネる程、純じゃないですよ」
「あら、純だとスネるの?」
「不純に向う勇気のない不純、我がまま身勝手なだけ」
「かわいいのね。そのうち、世勝手になれるわよ」
「おちょくらないで下さいよ。日本でならただの馬鹿、外国は何でもありで、気が楽なだけですよ」
「言えてると思うわよ」
「もう一杯ずつで、出ましょうか」と狭間が促した。
「そうね、丁度日本は朝八時、電話しなくちゃ」と言った朱美が、必ず来るわ。
と語気に力を入れて言って、ドアの前まで行き、狭間良孝を振り向くと、天使のような微笑でウインクをした。
狭間は朱美のショートピースの吸殻を見、懐かしいタバコだ一本欲しかったな、もらえばよかったと思って、自分のキャメルに火を点けた。
秒読みだな、と思うと大きな溜息が出た。
火とゴミ箱の再点検をし、灯りを落とすと外へ出た。
夏だと言うのに、コートが離せない英国。
月が見え隠れしている夜道を、歩いて五分、静かに家の鍵を外す。
部屋に入ればどこかで、時計の刻む音、窓の外から、いつしかシトシト雨の音が聞こえてきた。
参碁朱美は、あれから一週間、姿を見せなかった。
「リョウ、来たよ、あの女」とメイが言ったのは、八日目だった。
店に入ってくるなり参碁朱美は
「今度、いつお休み?」と迫るような勢いで狭間に聞いた。
「いつだ、メイ?」
「リョウ・・・水と木」メイが言ったかと思うと
「そう、水曜の朝、ユーロ・スターの改札口まで来て、フランスに行くから、朝七時、じゃ」と参碁朱美はこれだけ言うと、サッと帰えってしまった。
「何だ、あの女?」ラジャがあきれた声を出した。
「リョウ、逆ナンよ?」とメイが言う。
「だったら、今来ないで、夜くりゃ、いいじゃないか?」とラジャがメイをかまうように言った。
「夜も来るんじゃないの?」とメイが言って、狭間を突っついて、からかった。
だがその夜、参碁朱美は現われなかった。
参碁朱美の、薄いブラウンのスーツに同色のパンタロン、レースのキャミソールが、胸元に小さな赤い三角形で見え、目を引いた。
襟の大きめな白いロングコートを羽織り、首筋にラフな感じで、やはりブラウン色の絹のスカーフを引っ掛け、ロンドンのウオータールー駅で待っていた。
ここからユーロ・スターで三時間弱、ノードン駅に着いた。
パスポート・コントロールの検査が、長い列になっている。
「ね、わかった?」と朱美が、何か急き立てるように、狭間に聞いた。
「え、なんでしたか?」と狭間は、相変わらず革ジャンのダサい服装で、言った。
「だから、女とビジネスよ」
「ああ、でも、やはりあるんじゃないですか、女性だから許されるみたいなものが」
「そ、女はね、でも、男だからって言う事だって有るでしょ」
「そんなもんですか」
「それとも、ない?」
「有るかもね」
「どっち道、お互い様かもしれないけど、私は、女と言う事でビジネスをしたくないわ、当たり前じゃないかしら」
「対等にやる、いいね」
「対等って、比べる対象が有るって事でしょ、そうじゃないのよ。同全って事よ。解るかしら」
「あ、小ばかにしてる」
「してないしてない」
「そうかな」
「じゃ、解らないわけなの、この話。知りたい?」
「いえ・・・」
「怖いんでしょ、男って、甘いわね、やっぱり」
「甘いか、辛いか知りませんけど、ビジネスって言ったって、美味いもの食いたい、死にたくないって事じゃないですか」
「まあね」
二人が、そんな話をしながら、パスポートの検査が終わった。
長いホームをぞろぞろと、人の波に乗って歩き、駅の外に出た。
パリは塗装気のない建物が並び、重厚な感じで夏空の下に根を張っていた。
「あ、あそこ」と朱美は言って、スタスタと広い通りを横断していった。
そこには、日本語の暖簾が下がっていた。
店内を見渡すと、一人アジア系の女性が居るだけで、日本人は見えない。
明らかにアジア系の女性が、日本語で、いらっしゃいませ、と言ってお茶を置いた。
朱美が、面倒くさそうに、メニューを指して、適当に何か頼んだ。
「ここはね、日本人の居ない日本レストラン」
「寿司を頼んだようだけど、誰が握ってるの?」
「出てくれば分かるわよ」
と言ってる間に、早くも寿司が来た。
狭間は、随分と早いと思いながら、寿司を見た。
ガス染めの真っ赤な鮪、色あせた鮭、牛乳色の白身の魚、押しつぶしたような小さい海老、焼き目のない卵、力任せに絞ったようなカッパ巻き、
「なるほど、こういうことか」と狭間は言って朱美を見た。
「そ・・・」
小さなおにぎりに、スライスされた魚が、ペロリと乗っているだけだった。
出てきたお茶は、何時いれたのか、香りも味も色もないものだった。
そこに、年の頃なら五十前後の中国人が現れた。
朱美は知っているらしく、すぐに立って挨拶を交わした。
二人は中国語で話し始めた。
狭間に、会話が分かるわけもないが、参碁朱美の語学には驚いた。
熊だって、腹が減れば山を降りる、の例えのように、狭間は無いより増しと目の前の寿司を全部食べた。やがて話し合いは終わったらしく、再会と言って中国人は店の奥に消えた。
朱美は、残り少なくなった茶水を飲み、狭間を見た。
「あら、全部食べた、どう?」
「美味くもなんともないけど、腹へってたから」
「じゃ、私もいただこうかしら」
「ショートピース、持ってます?」
「ええ?」
「一本ください」
「いいわよ」
狭間は、アルミ箔が綺麗に切られているショートピースの箱から、一本抜くと、
すぐに火を点けずに、鼻に持って行き、ゆっくりとその香を楽しんでいる。
当然それは、参碁朱美が、茶水と寿司を食べ出した事への気遣いでもあった。
朱美は食べ終わると、自分もタバコを取り出し、デュポのオイルライターで火を点けようとすると、狭間がそれを制し、自分のタバコにマッチで火を点けた。
「タバコを美味く吸うには、これ」と言って、マッチを彼女に渡した。
「どうして?」と朱美はマッチを受け取り、イオウの匂いが嫌だと言った。
「そこなんですよ、始めに嫌な匂いがツンと来るからこそ、ショートピースの香が際立つと言う事になるんですから」
「そんなもんかしら」と言って朱美もマッチで火を点けた。
狭間が、紫煙をくゆらせながら
「料理だって、塩だけじゃ食えなくとも、料理に塩は欠かせない、でしょ」
「なるほどね、香水にも、とっても嫌な匂いが入っているって、聞いたことあるわ」
「猫の小便とかね」
「ま、まさか」
「と言う話で、本当の事は知りませんよ」
冗談とも、本気とも付かない話をしながらリラックスし、タバコも吸い終わり、二人は店を出た。
午前とは打って変わって、午後のパリの空は街を灰色にし、思わずコートを絞りたくなる冷たい空気が流れていた。
近くのサロンに入った。
「どんな話だったんです?」と狭間が聞いた。
「明日来て、仮契約をする事にしたのよ」
「何の仮契約?」
「あの店買うのよ」
「か、買うって、いくら?」
「リョウは気にしなくっていいの、それより、ロンドン、十月まででしょ、これが前提にあるんだから、更新なんていったら、殺すよ」
「えらい気合ですね。こっちの結論が出る前に、そんなこと言われてもなぁ。それより、一寸聞きたいんですが、内の社長の事、恨んでいるんですか?」
「何言ってるの、恨んだってしょうがないじゃないの、親父が甘かっただけなんだから、ただ、張り合いにはなるね」
「同じ土俵で、親父の仇討ち・・・ですか」
「まあ、そんなところかしら」
「だったら、別の板前掴んだらいいじゃないですか」
「それじゃ、面白くないわよ」
「どうしてです?」
「とんびにアブラゲさらわれたっていう。向こうに、悔しいって思い、させなきゃね」
「じゃ、私は、アブラゲ・・・ですか?」と狭間は言って、さらわれた本人が、今度はアブラアゲかと思った。