なぜ「HINOMARU」はナチスと同じくらい凶悪だと言われなければならないのか?
日本のロックバンド「radwimps」が最近リリースした楽曲である「HINOMARU」が批判されている。その歌詞や曲調が軍国主義的であり、戦前の日本的ファシズムを肯定しているという批判だ。
つまり、先の大戦での大日本帝国の侵略行為を正当化であり、平和という日本が獲得したかけがえのない価値観への挑戦であるとされているのだ。
一見したところ、日本独自の意味を帯びた右翼と左翼の対立構造が生み出した、ファナティックな(そして、また些末な)言論紛争にすぎないように思える。
つまり、毎度おなじみのあの対立である。お互いがお互いを、「ネトウヨ」「パヨク」とレッテルを貼り、罵り合い、しかし、結局の所、何ら有意義な結末を生み出さない、ただの時間の浪費のことである。
しかし、今回の騒動は、イデオロギー的な罵倒合戦に終始してはならない、重要な問題を孕んでいる。それは、「表現の自由」の問題である。(というか、なんで左翼はここを詰めていかないんだ…。俺がアクセスできていないだけか?)
表現の自由というのはすべての人間に原則として認められる、生まれながらの権利である。
しかし、あくまでも原則である。ある特定の条件下では、表現の自由が規制される。例えば、ヘイトスピーチ。(というか、表現の自由が規制されるのって、現状これしかないんじゃね?)公共の場において特定のある人種、集団に対して、レイシズム的で差別的な言説を表現することはその自由を認められない。
ここを手がかりにして考えていきたい。ヘイトスピーチが「ヘイトスピーチ」であるから、規制されるのだという馬鹿げた考えを認めないならば、ヘイトスピーチの持つ何らかの性質によってその自由は規制されるのだろう。
それは一体何か。
具体的に考えよう。
いまここで「ユダヤ人は絶滅すべきだ」という言説が表現されたと仮定する。
まず、第一に浮かぶ論点としてはその言説の公共性であろう。もし、この言説の内容に致命的な性質が認められるとしても、自分に対してだけ表現したとするならば、その自由は認められるだろう。
つまり、そのときその言説は表明ではなく独白となる。本当にただ一人自分に対してのみ表現されたならば(つまり、公共性がまったくないならば)、それは心の中に浮かべたのと何ら変わらないであろう。内心の自由というのは無条件に認められるので、このとき表現の自由が規制されることはない。
つまり、表現の自由が規制される第一の要件は公共性を有していることである。そして、これは憶断であるが、より公共性を持つ言説の場合、よりその表現の自由は規制されやすくなる。
第二に考えられる規制の要件は、その言説の不正性であろう。「ユダヤ人は絶滅すべきだ」という言説が正しくないから、不正であるから、その表現の自由は規制されるのである。
ここで、不正とは何か、正義とは何かという問に進むと、二千年以上の伝統を誇るアポリアに迷い込む。
ここでは、この問題は放棄する。とりあえず、私達はすくなくとも何らかの言説が不正であると思うことができる。
そして、ここで第三の論点に進むのだが、不正であると思うかどうかは各人によって異なると思われる。
表現の自由の規制のための第三の要件は、普遍性である。
つまり、「誰に対しても」不正であると認められうることである。もしある言説がある人に対してのみ不正であると認められるだけで、その言説の表現の自由が規制されるのだとしたら、そのような規制の要件は、我々の道徳感覚の事実に照らし合わせてみて、あまりにも厳しすぎると思われるであろう。「すべての人間に」対する不正であるからこそ、表現の自由は規制される。
ここで一つ重大な疑問が提示される。
果たして「ユダヤ人は絶滅すべきだ」という言説は「すべての人間」に対する不正なのだろうか、という疑問である。
答えはYESである。ここからの議論を「理性に照らして正しい」と認められるかどうかが、「HINOMARU」の表現の自由が規制されるという主張の是非に影響を与える。
「ユダヤ人は絶滅すべきだ」という言説は、人間性に対する攻撃である。
なぜなら、人類が持つ本質的性質のうちには、多様性という性質があり、ユダヤ人という特定の人種の絶滅を要求することは人類の持つ普遍的価値である、その多様性を否定することになるからである。
そしてまた、その多様性にはすべての人間が本質的に参与しているのである。
従って、人類の多様性を構成する集団の一つである、「ユダヤ人」の存在を否定する言説である、「ユダヤ人は絶滅すべきだ」はすべての人間に対する不正となる。
以上より、表現の自由を規制する要件が見つけ出された。
『表現される言説が(高い)公共性を持ち、かつ、すべての人間に対して不正であるとき、その言説の表現の自由は規制される。』
ここから「HINOMARU」の歌詞が、厳密にはその一節が、上記の『表現の自由の規制要件』に該当することを示す。問題にしたい一節は次のものである。
「この身体に流れゆくは気高きこの御国の御霊」
まずは、不正性を論証しよう。
問題とするのは「御国の御霊」である。敬語を省くと、「国の霊」である。
霊(たましい、魂)とは何だろうか。
様々な宗教的な文脈で様々に解釈できるが、ここで述べられているのは「身体に流れゆく」霊である。
つまり、個人に備わっている霊である。ということは、ここでの霊とはその人らしさ、その人の本質的性質である。つまり、霊とは個人を個人であると認めるための標識、個人の独立性そのものである。
そして、この霊は個人自身のものである。そうでなければ、人間は人間が本来もっているはずの自身に対する全権性を失ってしまう。
だが、ここでは、「御国の御霊」であるとされている。
もう一度確認する。「国の霊」である。人間自身の所有物であるはずの霊が、国の所有の対象となっているのである。これは人間性に対する不正である。よって、すべての人間に対する不正という要件を直ちに満たし表現の自由は規制されるように思える。
だが、しかし、まだここでは論じていない論点がある。
「ユダヤ人は絶滅すべきだ」という言説の普遍的不正性を述べた時、実は論じてないところがあった。
それは、多様性は数ある人間の本質規定(人間性)の中でも特権的地位にあるということである。ある人やある集団のある人間性(多様性以外の)を否定しただけでは、まだすべての人間に対する不正とはならないはずである。
しかし、多様性の場合は多様性を構成するものとしてすべての人間が参画している。
従って、多様性の否定は直ちにすべての人間への不正になる。
さらに論を進める。
ある集団の人間性の否定を要求することは、その集団の構成員に対して、人間としての在り方においての死を要求することになるので、ある集団の絶滅の要求と等しいから、多様性を否定するということである。
従って、ある集団の人間性の否定を要求することは、すべての人間への不正であり、表現の自由は規制される。脇道にそれてしまうが、この議論からわかるようにヘイトスピーチと「HINOMARU」の歌詞は厳密には同じではない。前者は直ちに多様性を否定しているが、後者はワンステップ踏んでいる。
ここで私にはわからなかった問題がある。
それは、ここで多様性を構成する単位を「集団」にだけに絞るべきかどうかである。別にたった一人の個人も人類の多様性を構成する要素とみなしてもいいように思える。実際、個人に対してその人間性を否定することは十分に「してはならないこと」である。
しかし、問題が複雑になるのは、自分自身に対する言説の場合である。自分は死すべき人間であると表明したからといって、それは規制されるべきものだろうか。しかし、とりあえず、ここでは少なくとも自分自身を指しているかいないか、がわかればよい。
「HINOMARU」の歌詞の中には人間性を否定する部分があるということが今までの議論でわかった。
残りは、それが「自分自身以外の」人間性への否定であるということの証明である。
問題の箇所は「この身体」である。これは自分自身のみを指しているのであろうか。
「この」は指示語である。しかし、この歌詞の中では何も明確に示していない。誰を指しているのであろうか。
この問題の解決は比較的に楽である。明らかに自分自身のみを指しているのではない。様々な論証の仕方があるだろうが、ここでは公共性の事実を指摘する。この歌詞は公共に発表されている。
ということは、この歌詞の中での「この」は特定の誰かではないにせよ、アノニマスな他者を含んだ何らか集団を指しているであろう。そもそも、ただ自分自身のことだけしか書かない歌詞などあろうか。
完全に自己のうちに閉じた内容を「公表」するなどとんでもない自己欺瞞である。他者へ向けて発表している時点で他者の共感を予期しているのである。
作者がどれほど「ただ自分の気持ちを歌っただけだ」と言おうとも。
以上より、「HINOMARU」の歌詞が『表現の自由の規制要件』に該当するということが示された。
だが、まあ、なんとも生きにくい世の中になったものだ。
ただ、「この身体に流れゆくは気高きこの御国の御霊」と歌っただけで、やれ人間性の否定だとか、やれ全人類への攻撃だとか言われるのである。それでは、なにを表現したらいいのか。馬鹿らしくてありゃしない。
最近の日本はなんでもそうである。なんでも批判しやがる。なんでも規制するのだ。少
し性的なことを言っただけでセクハラだとかなんとか。あんな些細な発言で事務次官がやめさせられる。
我々が勝ち取ったはずの「自由」はどこに行くんだ。全体主義の足音が聞こえると言って批判する方から全体主義の足音が聞こえるではないか。
しかし、違うのだ。それらは些細な問題ではないのだ。
そうやって批判することで、私達は「進歩」しているのだ。私達が感じている生きにくさは、いわば、成長痛である。
私達の「文明の進歩」に伴う痛みなのだ。「自由」を規制することで私達は「より良い社会」を作っているのだ。
この痛みの先には「薔薇色の未来」が待っているはずなのだ。
そこはかとなく感じられる危うさを脇において、私は臆面もなくこう言おう。
『自由を規制することが文明の進歩である』、と。
自由がただの放埓である限り自由は文化的退廃の証である。
自由がただの放埓であることをやめて初めて、自由は文化的進歩の証となる。