侍女さんの主、試験に挑む
「ようこそ。遅くなってすまなかったね、アスコット公爵令嬢レティシア」
扉の向こう、大広間の一番奥にある一段高くなった場所……本来後宮の主である王族のために設えた席に、その男は笑顔で座っていた。
王妃譲りの金髪と国王譲りの碧眼、まだ17歳という年齢ながら幼さを感じさせないその美貌は、柔らかな微笑みひとつで数々の令嬢を虜にしてしまえるほどだ。
【王太子】……レオナルド・A・レグザフォード
彼は扉の前で最上級の礼をとるレティシアに対しまず労いの言葉をかけ、こちらへと広間の中央を手で指し示した。
形だけでも王太子に詫びられたレティシアはしずしずと進み出てから改めて一礼し、勿体無いお言葉ですと応じた。
「私の実家は公爵家、となれば当然後宮内のパワーバランスは当家に傾きましょう。ですからあえて最後に順番を回されたのは当然のこと。公正にとお取り計らいくださいましてありがとうございます」
「優しい上に賢いのだね、貴方は。それにその装い……倭国の民族衣装だったか、実に貴方に似合っている。何を見せてもらえるのか楽しみだよ」
「恐れ入ります」
頭の上を飛び交うむず痒いほど白々しい社交辞令を聞きながら、メルヴェルは室内に入ってからずっと彼女ら主従に向けられる冷たい眼差しを分析していた。
視線の主は椅子に座った王太子の斜め後ろに控えた近衛の騎士であり、名をクロード・L・フェリシアという。
彼は25歳という若さながら騎士団の中でも団長に次ぐ実力を有しており、王太子からの信頼も厚い。
そのため、王太子専属近衛騎士という名誉な地位をいただいている。
騎士の中でも王族の近衛に任命されるのは非常に狭き門である上に名誉なことである。
更にその王族の信頼を勝ち得て【専属】の名をいただくと、地位的には騎士団長とほぼ同レベルと言っても過言ではない。
そんな彼は、王太子がこの後宮に定期的に顔を出す際には常にすぐ傍で控えていた。
王太子とはまた違った種類の怜悧な美貌はかなり人気が高く、実のところもし王太子妃になれずともクロードに近づければ……と密かに胸を焦がしていた令嬢が数人いるらしい。
王太子のために用意された候補がその近衛騎士をも狙っている、というのは公になれば問題だろう。
実際問題、もし後宮を出された令嬢がクロードにアプローチをかけたとしても、職務に生真面目なクロードが簡単に応じるとは思えない。
もし彼自身が気に入ったのなら、時間と距離をある程度置いてからになるはずだ。
余談はともかく、その近衛騎士の『魅惑の紫水晶』と囁かれる双眸は限りなく冷ややかであり、その場にそぐわない鋭さを孕んでいる。
一見すると主を万が一の危険から護るため、そして『主の妃』になるかもしれない相手の見定めのためだとも思えるが、それにしては目つきが鋭すぎるとメルヴェルは感じた。
他の令嬢は、侍女は、この眼差しが気にならなかったのだろうか?
それすらもクールだと、素敵だと見惚れたのだろうか。
それとも元より、王太子以外の姿は目に入っていないのだろうか。
「メル」
「はい」
社交辞令は終わりよ、と言外に告げたレティシアはまず【ゲタ】を脱いだ。
メルヴェルはその【ゲタ】をそっと回収すると、広間の隅に置かれてあるピアノの前に腰掛ける。
深く息を吸って、吐く。
滑るように指を動かし始めたメルヴェルの紡ぐ音に合わせ、レティシアも扇を手に舞い始めた。
流れるのは夜会などで必ず演奏されるというスタンダードで耳馴染みのいいワルツ。
ドレスを着て踊るそれを、この公爵令嬢は【キモノ】を着て王太子も近衛騎士も見たことのない振りで舞っている。
フリージアが『誘惑』と揶揄した艶やかさも、ひらりひらりと舞う仕草の中では嫌味にならず
未成熟な色気を放ちながらも存外子供っぽい、羽化したての蝶のようにレティシアは舞った。
先程柔らかな笑みを浮かべていた顔も、冷徹さを含んでいた眼差しも、この未知の【ダンス】に呆然としたように釘付けだ。
ポロン、と締めの音と同時にレティシアは蝶から貴婦人に戻り、一礼する。
メルヴェルもすぐさまピアノの前を離れ、入り口前で跪き頭を垂れた。
暫しの沈黙の後、パンパンパンと大袈裟に拍手しながら王太子が立ち上がった。
「素晴らしい!まさか公爵令嬢がここまで翻弄してくれるとは思っていなかった。艶やかで、美しく、胸を締め付けられるような見事な舞だったよ。私はもう君の魅力の虜だ」
「最高級の賛辞、恐れ入ります」
「その控えめな態度は私を焦らしているのかい?ああ、なんていけない女なんだろう。どうか私の求愛をすぐ受け入れてはもらえないか。いや、妃候補としてここにいるのだから、あなたもその気なのだろう?」
「…………」
ガシッと両手を捉えられ、間近でその熱っぽい青の瞳に見つめられながら、レティシアは薄く微笑んだ。
それは傍目には同意の笑みに見えただろうが、付き合いの長いメルヴェルだけは真逆の意味だと気付いていた。
(ああ、これも【試験】の関門のひとつなのか……)
これまでの9人の令嬢は、この最後の関門を突破できなかったはずだ。
何しろ彼女達は彼の言うように『妃候補としてその気になっている』のだから、甘く微笑みかけられ賛美されれば己の勝ちだと誇ってこの部屋を出たに違いない。
彼は恐らくそう言って他の候補者も賞賛し、さりげなく誘惑した上で、令嬢がそれに乗ってきたのを確認すると
『今はまだ貴方は候補にすぎない。そんな貴方に手を触れるわけにはいかないね』
とでも言って、やんわり手を引いたのだろう。
そして、メルの見立てではその時点で彼女達の妃への道は閉ざされたと思って間違いない。
彼女の敬愛する主は薄く微笑んだまま、つかまれた手を軽く振った。
放してください、という無言の抗議だと気づいた彼は訝しげに眉を顰め、「どういうことかな?」と首を小さく傾げてみせる。
両手の自由を取り戻したレティシアは一歩下がり、無慈悲な微笑みを浮かべた。
「私はアスコット公爵の娘です。その辺の娼婦と同じ扱いをされては困りますわ。第一、『特技を見せよ』と仰った王太子殿下のために舞を舞ったというのに、それを色仕掛けと揶揄されては堪りませんわ」
そう、賛辞を贈っているように聞こえたがその実、あの言葉は『公爵令嬢が色仕掛けを使ってくるとは』と侮蔑しきった内容だったのだ。
彼女はそれに気付き、心外だと胸を張った。
「それに……私は貴方様も仰ったように『王太子妃候補』なのです。【王太子殿下以外の殿方】に触れられるなど我慢なりませんわ。それともこれはそういう趣向なのでしょうか?殿下」
小首を傾げつつ、レティシアはまだ呆然と成り行きを見守っている……ように見える近衛騎士へと向き直り、はっきりと「殿下」と呼びかけた。
今度こそ、騎士の紫の瞳が驚きに見開かれる。
「姿変えの魔術……かなり高度な術だと聞き及んでおりますわ。大方王宮付きの術士の方に依頼されたのではございませんか?」
「……貴方は魔術を見通す目でも持っているのか?」
「いいえ。私はただ、何度かお茶をご一緒した【殿下】と今こちらにおられる【殿下】に違和感を覚えただけですわ。いくら姿や声は変えられても、手の感触は明らかに騎士様のものでしたもの」
騎士の手は数々の肉刺の痕やタコによってごつごつとしていて硬く、剣の心得がある程度の王太子の手とは到底思えなかった。
更にあの不自然なまでの友好的態度はこれまで儀礼的に茶会を催していた王太子と同じ人物とは思えず、極めつけにレティシアが違和感を覚えたのが
『すまなかったね』とさらりと詫びた一言だった。
「王族たるもの……勿論貴族にも当て嵌まりますが、そう簡単に目下の者に謝罪するものではないと教育を受けているはずです。社交辞令であるにしては、あまりに自然だったのが逆に気になりました。ですから、もしかすると目の前の方はクロード様ではないか、と思いまして」
「…………だそうだぞ、クロード。色々失敗だったな」
「他のご令嬢には気づかれなかったのですが、参りましたね。どうやら見たところ、そちらの侍女殿もある程度気づいていたようです」
冷ややかな眼差し一転、悪戯っ子の微笑を浮かべる【近衛騎士】が、金髪碧眼の王太子に
苦笑しつつ斜め後方に下がった【王太子】が、明るい茶髪と紫の瞳を持つ近衛騎士に
姿変えの魔術をかけてもらった際、解くための術式も用意してあったのだろう。
一瞬で元の姿に戻った彼らは、本来あるべき位置関係に戻って改めてレティシアとその侍女の前に立った。
「やれやれ。他の9人はクロードの【誘惑】の虜になってくれたのだが、10人目はそうはいかなかったようだね」
「殿下、恐れながらその言われ方ですと私が令嬢方を誑かす悪者であるかのようです。あの方達が夢中になられたのはあくまでも【王太子殿下】なのですよ?」
「ああ、わかっているよ。私の皮を被ったクロードの、だろう?」
「……真相をお伝えしたらさぞや嘆かれるでしょう」
それはどうだろう、とメルヴェルは思う。
クロード狙いの令嬢も混ざっていた上に、もし王太子一筋だったとしても相手がこの美貌を持つ近衛騎士だったとわかれば、それはそれで幸運だったと思う単純な思考の者もいるだろう。
追い詰められている者、一途なフリージアなどは騙されたと嘆いた上で憤るかもしれないが、それを王太子やクロード本人にぶつけるのは立場的に無理だ。
(それに、きっと真相は明らかにはされない)
ここで「実はこうでした」と試験のからくりを明かしたのでは、選ばれた相手が魔術の効かない体質だったとか、不正があったのだとか、実は裏情報を得て知っていたのだとか、様々な憶測が飛ぶ。
それが悔し紛れの逆恨みであるにせよ、妃となる者にとって極力醜聞は避けたいところだ。
それなら、全てを明かさずにうやむやのままにしてしまえばいい。
令嬢達を夢中にさせたあの【誘惑】は後宮に住まう彼女達への社交辞令であり、迷いに迷った挙句妃を選んだとたった一人を指名したなら、それはそれで皆悔しがるだろうが結果として王太子の選択なのだからと渋々引き下がるはずだ。
レオナルドはふむ、とひとつ頷いてから表情を改めた。
「さてレティシア。ここでこうして真相を明かしているという段階で、貴方が既に【候補】ではなくなったのだと当然気づいているね?」
「ええ。光栄ですわ、殿下」
他の候補者には真相は明かさない。
だが指摘したレティシアには真相を明かした。
それが意味するものは彼の言う通り、彼女が【妃候補】ではなくなったということ。
……【候補】ではなく、いずれ妃になる者だと選ばれたということだ。
「三日後、後宮に使いを出そう。それまで少しの間愉し……」
「殿下」
「……それまで少しの間面倒をかけるが、待っていて欲しい」
『愉しい状況下だが』と言いたかったのだろうが、それをクロードが止める。
確かに、いくら試験とはいえ令嬢達の心にできるだろう傷を考えれば愉しんでなどいられるはずもない。
決して聖人君子ではないレオナルドからすると、自分こそが妃に選ばれたのだと浮かれる令嬢達は滑稽でしかないのだが。
加えて、聖女でも慈母でもないレティシアにとっても『おかわいそうに』と同情はしても、やはりそれは他人事でしかない。
愉しむことはしなくても、我関せずの態度で部屋に篭るくらいだろう。
「私からは以上だが、何か質問があれば聞こうか」
「では恐れながらひとつだけ。王宮にあがる際、部屋付きの侍女はどうなるのでしょうか?」
「何を聞くかと思えば……後宮は私も持つつもりはない。だから三日後には解散という形を取るが、もし連れていきたい者がいるなら指名してもらって構わないよ」
その言葉は、言外に『そこの侍女も連れていって構わない』と告げていた。
レティシアにとってはそれで充分だったし、メルヴェルに異論があるはずもない。
ただ問題なのは、後宮とは違い護衛の騎士がつくだろう今後はメルヴェルの武器所持が認められないだろうということ。
絶対になくてはならないというわけではないが、万が一の時傍にいるのは侍女なのだ。
それに、子供の頃最初に手にした武器でありこの後宮に来てからは専門の職人に色々カスタマイズしてもらった銃を手放すのは、正直なところ惜しい。
お守り代わりの銃と絶対的な主を秤にかけるまでもないが、それでもそうなったら少し寂しいかな、とメルヴェルはそんなことをふと考えた。