侍女さん、涙する
訓練用の刃先を潰した剣を受け取り、構える。
その一挙一動を見学席から父が凝視していることを承知した上で、彼女は真正面から魔獣に向かって斬りかかった。
彼女を排除しようとブンと大きく振られた腕をサイドステップでかわし、まずは脇腹に一撃。
斬りつけたその反動のまま背後に回り、飛び上がって首筋に剣を叩きつける。
さすがに刃先が潰れているだけあって斬りおとすとまではいかなかったが、それでも首は大きく傾ぎ明らかに大ダメージとなったようだ。
その場にうつ伏せに倒れ伏す魔獣を見て、誰もが息を呑んだ。
「そこまで!メルヴェル嬢を合格とする」
「……首を切るなんて、やってくれるねメルヴェル嬢。君に実力がなければ反撃されていただろうに」
「この魔獣は個体ごとに弱点が変わります。特定できない以上、勝負に出るのも手だと考えました」
「それは、己の実力を把握しているからできる戦法だ。見事だった」
ありがとうございます、とメルヴェルは素直にトレーズからの賛辞を受け取った。
それが褒めすぎであるとは誰も思わない。
ユリウスも改めて姉の実力を見せ付けられ、心底嬉しそうに瞳を輝かせている。
ただ、これがこの場でたった一人だけ娘の活躍を認められない父の歪んだ心に火をつけた。
「……っ、さえ……貴様さえいなければっ!!」
「お静かに!あー、ったく、暴れるなっつーのオッサン!」
「きっ、貴様、貴様さえ生まれなければ!くそっ、放せ!放さんか!!あのできそこないを粛清してやるっ!!」
席を立ってそのまま訓練場の中まで突進する勢いでドスドスと駆け出した子爵の身体を、傍で監視していた正騎士が背後から羽交い絞めにし、出入り口を塞いでいた騎士も軽々と柵を飛び越えて加勢に入る。
正騎士二人がかりで取り押さえられてもなお、子爵はバタバタと悪あがきするように暴れ、メルヴェルを物凄い形相で睨みつけた。
「間違いだ!貴様が生まれたのは間違いだったのだ!だから消してやる!消して、全てを正してやる!!」
「父さまはいつもそうだね。思い通りにいかないことがあると、あいつが悪い、あいつはいらない、って。みんなぼくが知らないと思ってるみたいだけど、全部知ってるよ。いつもいつも、邪魔者扱いされるのは姉さま一人だった。でもどうして?姉さまに剣を教えたのはお祖父さまなのに。父さまだって止めなかったのに。なんで姉さまだけ悪者にするの?騎士にはなれなくても、姉さまは強くなったよ。今だってほら、魔獣を一人で倒したでしょ?なのにどうしていらないなんて言うの?おかしいよ、父さま」
「ユ、ユリウス……お前は騙されているんだ。そいつはお前を誑かそうとしているんだよ。それに魔獣くらい、身体が大きくなればお前も倒せる。年が違うんだ、当たり前だろう?」
「でも、姉さまが初めてあの魔獣をひとりで倒したのは、ぼくと同じ年だったって聞いたよ?」
ユリウスは現在10歳、メルヴェルが初めてあの魔獣と対峙した年齢と同じだ。
それを指摘してやると、一瞬子爵の顔が悔しげに歪んだ。
だがすぐに気を取り直し、憎々しげな表情をメルヴェルに向けて唾を飛ばさんばかりに怒鳴り散らした。
「侯爵家のご令息だけに飽き足らず、弟まで誑かすか!この悪女め!!」
「悪女ねぇ……これほど彼女に相応しくない例えもないだろうね、ヴィル」
「全くだ。彼女が悪女なら、世の中の何割が悪女に該当するだろうな?」
「うちの奥さん以外、全員かな?」
「こら。妃殿下と王妃陛下は抜いておけ。……と、それはともかく……メルヴェル嬢、発言を許す。何か言っておきたいことはないか?」
ヴィルフリートに問いかけられたメルヴェルは、剣をユリウスに返すと静かに見学席に向き直った。
その蒼の瞳は、酷く凪いでいる。
(嫌われていることくらい、わかってた。憎まれていることも、気づいてた)
だけど、ここまで直接的に罵倒されたのは初めてだ。
生まれたことが間違いだった、いなくなってしまえばいい、そんなことを実の親に言われて傷つかない子供がいるだろうか。
彼女はぐっと唇を噛み、謝罪の角度に腰を折る。
「父上、10歳になるまで育てていただき、またつい先ほどまで【クレスタ】の姓を名乗らせていただき、ありがとうございました。今後はそのお心を煩わせないよう、一切関わることなく暮らして参りますので、余計なお世話かもしれませんがどうぞお健やかにお過ごしください」
それは、彼女の渾身の嫌味だった。
すぐにそうとわかった騎士団長二人は揃って苦笑を浮かべ、当の子爵は顔を赤くするやら青くするやら忙しい。
そんな中、ユリウスは団長二人にぺこりと一礼してから列を抜け、見学席との境目にある柵の前まで来ると、「父さま」と一度呼びかけた。
「おぉ、ユリウ」
「ねぇ父さま、今どんな気持ち?これまで散々見下してバカにしてきた相手にまで見放されるって、どういう気持ちなのかな?ねぇ、教えてくれる?」
いつも通り、その表情は無邪気な子供のものだった。
だからこそ子爵が被るダメージは計り知れないほど大きい。
ユリウスが意地悪で言っているのではなく、本心からそう尋ねていることがわかったからだ。
「ユ、ユリウス……」
「ユリウス・クレスタ、勝手に列を抜けた罰として、ここの後片付けを命じる!」
「はい、申し訳ございません!」
「ジーク、フィアット、試験は終わりだ。そちらのお客様にはご退場願え」
「はっ!」
子爵は、今度は抵抗らしい抵抗をせずズルズルと引きずられるようにして、訓練場から外に出された。
その姿を見送ってから、メルも着替えるべく訓練場を後にする。
(姉さま…………泣いてた……よね?)
その白磁の頬が濡れていたことに気づいたのは、間近ですれ違った弟だけだった。
「結局、私は逃げ出しただけのような気がするのです」
後日、メルヴェルはそうクロードに語った。
「確かに、父は私を思い通りにならないモノとしか見ていませんでした。母も、使用人達も、祖父も、きっとそうでしょう。だけど……私自身も、彼らにわかってもらおうとする努力をしませんでした。ここに来たばかりの頃のユリウスと同じです。どうせわかってもらえない、だから自分も好きに生きるんだと、最初から諦めていただけなんです」
「……メル、それは」
「それでも、父と決別したことは後悔していません。正直、私がアウディ侯爵家に養子入りしてもよかったのかどうか、迷う気持ちはありますが」
「それ以上言うと、トレーズ団長やその奥方様に失礼にあたる。あの方々が、君がいいと望まれたのだから」
「そう、ですね……」
失言でした、とメルはあっさり認めて俯く。
そのしゅんとしたしおらしい表情に、クロードはしまった言い過ぎたかと内心慌てる。
彼としては、励ましたつもりだった。
現在の騎士団長4人は全員実力でその地位についた者ばかり、それ故己にも他人にも厳しくその資質を見極めようとする。
はっきりと公言されてはいないもののそんな騎士団長4人に認められた彼女は、それだけでただの『子爵令嬢』以上の価値があるのだと、わかっていないのは彼女だけだ。
だから誇っていい、胸を張ってもいい、実家のことなら気にするな、そういう意味合いで言ったつもりだったのだが、どうにも率直過ぎて強く当たってしまったらしい。
「すまない……私はどうにも、言葉を選ばなさ過ぎるようだ。君を勇気付けたいと思っていても、逆に落ち込ませてしまうとは」
『女性』というものに不信感を持つようになってからは、彼の周囲には同じように騎士を目指す男しかいなかった。
だからある程度強い言葉でも問題はなかったし、たまに言い過ぎて喧嘩になることはあってもそういう事例も稀だったし、何より弟のレインが彼とは正反対に愛想のいい性格だったため、ああこういう兄弟なのかとセットで受け入れてもらえたので、それで済んでいた。
だから女性相手……しかも生まれて初めて本気で惚れこんだ相手だと、どう接していいのか加減がわからなくなってしまう。
上手く言葉がでてこなくなった彼は、思い切ってその腕を伸ばしてすぐ近くにあった身体を引き寄せ、両腕で抱え込むように抱きしめた。
メルが必要以上に怯えないように力はこめず、逃げ出せるだけの猶予は残して。
今しかない、と彼は突然そんな想いに囚われた。
以前任務に出たのはそう前の話ではないのに、色々ありすぎて遠い昔のことのように思える。
あの時彼は、戻ったら大事な話があるのだとメルにそう伝えた。
本当なら戻ってすぐに話をしたかったのに、事後処理などで慌しくしている間にあの悲劇が引き起こされ、そして今回の試験……とずるずる時間だけが過ぎていってしまった。
今こんなことを言うのは卑怯だ、とも思う。
彼女は今通常の精神状態ではないのだ、ただでさえ『男』に傷つけられた心は『父』によって深く抉られた。
そうして落ち込んでいる彼女に、自分はつけこもうとしているのではないか。
普段の彼女ならいい返事がもらえないかもしれない、だから落ち込んでいる隙に言質をとってしまえばいい、そんな卑怯なことをしようとしているのではないか。
わかってる、今言うべきじゃない、時を改めて正式に申し込むべきだ。
なにしろ、ことは当人同士では終わらない……アウディ侯爵家という旧家と、フェリシア侯爵家という新興貴族の両家に関わる話なのだから。
そんなことを考えていたら、何故だかするりと言葉が口をついて出てしまった。
「メルヴェル、私を君の婿に迎えてくれないか?」
「…………」
「…………」
やってしまった。
今このタイミングで最もやってはいけないことを、彼はやってしまった。
しかも言い方がまた最悪だ。
『愛してる』ではなく『結婚したい』ですらなく、『婿に迎えてくれ』という言葉は一体どこから出たものなのか。
(わかってる。私の口から出たものだ、そんなことわかってる)
叶うことならやり直したい、時を巻き戻すと言う術式があるなら迷わず使って数分前に戻り仕切り直したい。
だがそんな都合のいい術式などあるわけがない、一度声に出した言葉はもう取り戻せない。
どうして自分はこうも不器用なのか。
ナディアの時もそうだった、上辺だけ取り繕った彼女の賛辞を真に受けて舞い上がり、彼女の本質を見ようともしなかったではないか。
そして勝手に傷つき、勝手に失望し、勝手に女性不信になった。
あれからもう数年経って、成長したつもりになっていた。
女性が気安く寄ってこないように壁を作る方法も会得した、常に紳士的であれと教えられてはいるが、だからこそ紳士的に相手を拒絶することもできるようになった。
だからこそ、いざ近づこうと思うとどうしていいのかわからなくなる。
派手なのは外見だけ、中身は地味で生真面目で堅物な……普通の男なのだ。
クロードの困り果てた空気が伝わったのだろう、メルヴェルは彼の肩に手を置いて少し身体を離した。
「あの…………『婿に』と突然仰られましても、私の一存では何ともお答えできかねるのですが」
「わかっている。……唐突過ぎて、色々すっ飛ばしてしまっていることも。わかってはいるんだ」
「そうですか。でしたらその、トレーズ様に申し込んでいただければ、と。婿入りさせるかどうかは、家長であるあの方がお決めになることですので」
「いや、その……それはそうなんだが」
困りました、と顔に書いてあるのがわかった彼女は、彼が視線をそらしているのをいいことに小さく……わかるかわからないかという程度に、口の端を緩めた。
(……どうしてだろう。この方を放っておいたらいけない気がする)
言い方はともかく、色々諸々飛ばしすぎな申し入れもさて置いて、クロードが彼女自身を強く想ってくれていることは、さすがに気づいていた。
彼はその外見とは裏腹に酷く生真面目で、融通が利かず、どこまでも紳士的だ。
また、自分の外見に寄ってくる女性に辟易しているというだけあって、そういった女性に誤解されるような態度は取らないように自制することもできる。
そんな彼が、ついでがあったとしても『侍女』の街歩きにお供してくれた。
夜中の見回りの途中だとはいえ、術式をセットするのに付き合ってくれた。
落ち込む彼女を慰めようと、何度もただ抱き寄せて髪を撫でてくれた。
兄のような気持ちなのだろうと最初はそう思ったが、同じように気にかけてくれるレインやポールなどの態度を見ていると、それより一歩も二歩も踏み込んだ距離感であるように思えて、最初は戸惑った。
誤解させないで欲しい、そう思った段階で彼女の心は決まっていたのだ。
それが誤解ではないと気づいたのは、つい最近のことではあったのだが。
「クロード様……はっきり言っていただかないと、お返事もできかねます」
ため息交じりの言葉に、クロードは顔を上げる。
至近距離で真っ直ぐに見つめてくるその蒼の瞳には、もう憂いの色はない。
「結婚と言うのは、家同士の契約であると同時に当人同士の結びつきでもあります。特例を除いて生涯ただ一度のことなのですから、その求婚の言葉でどう始まるかが決まるものなのです」
「う、っ」
「……と、レティシア様が仰っておられました。ですから、仕切り直しを要求致します」
「わかった。少し待ってくれ」
なんとも色気も素っ気もない会話だろう。
だが彼ららしいじゃないか、と王太子レオナルドが聞いていたならそう笑いながら評したことだろう。
もしレティシアがこれを知ったなら、散々からかいのネタにしてクロードを恥じ入らせたことだろう。
しかしここには彼ら二人しかいない。
『姉さまはぼくがまもる!』と息巻いていた件の弟も、さすがに気を利かせたのか……それとも他の騎士に「頼むからやめてやれ」と全力で止められているのか、割って入ってくることはない。
息を吸って、吐く。
アメジストの熱を孕んだ眼差しが、スカイブルーの穏やかな眼差しと交じり合い、そこに否定の意思が全く見当たらないことに、彼は心の底から安堵した。
「メルヴェル、どうか生涯私と添い遂げてはくれないだろうか。私は君に、常に誠実であると誓おう。剣は殿下に捧げてしまっているが、この心は君に捧げよう。だからどうか、私と」
「ちょ、待って、待ってください」
仕切り直して欲しいとは言ったが、これはあまりに恥ずかしすぎる。
冷静沈着、何事にも動じない、主至上主義の侍女さんことメルヴェルでも、さすがに動揺を隠せずに挙動不審になりながら、もういいですからと真っ正直で直球ど真ん中な【騎士の誓い】を遮った。
求婚を仕切り直すはずが、どうしてそれを飛ばして騎士の誓いにまで発展してしまっているのか。
確かに、誠実であるのは好ましいし、一途に心を向けてくれるのは女性としては何より嬉しいものだろう。
だとしても、明らかに彼はやりすぎた。
これではどうにも重過ぎる……冷静に考えればドン引きレベルで。
気づかないのは本人ばかり。
彼は誓いを中断させられたことで、まるで捨てられる直前の大型犬のような頼りない眼差しになっている。
ああだから、この人は放ってはおけないんだ。
彼女は、自分よりも9歳も年上の王太子専属近衛騎士という立派な役職についている青年を見つめ、自分と良く似た度合いの不器用さに
(これはこれで、割れ鍋に綴じ蓋……なのかもしれませんね、サクラ様?)
と、今度ははっきりとわかるように微笑んだ。
そして、延ばし延ばしにしていた問いの答えを口にする。
「求婚、お受け致します。…………どうぞ末永くよろしくお願いします」
「メル……あぁ、ありがとう」
静かに、唇が重なり……それは朝の訓練開始の鐘が鳴るまで、離れることはなかった。
本編、後一話。