侍女さん、弟を諭す
「あ、姉さま!」
「おはようございます、ユリウス。……ランニングの途中でしょう、早く戻ったらどうですか」
サクラが次の国に向けて旅立ってから、はや5日。
メルヴェルはいつも通りの日常に戻っている。
『王都に戻ったら大事な話がある』
そう宣言していたクロードとも、この5日全く顔を合わせていない。
王太子の専属護衛ということもあって、やれ会議だやれ謁見だやれ外交の準備だと忙しい王太子の傍を離れることができないのだろう。
メルもこのところレティシアの傍から離れてはいないし、合間合間に騎士団の見習いとしての訓練もあるため、約束のことなど忘れかけるほど慌しく日々を過ごしていた。
この日は、レティシアのお使いで街に出ることになり、彼女は侍女の制服のまま足早に城門を出ようとしていた、のだが。
このところ顔をあわせなかった弟が、ぱたぱたと嬉しそうに駆け寄ってきたことで、足を止められてしまった。
(この時間帯にユーリが外に出てる?……ということは)
見習いは、この時間騎士団宿舎の中で洗濯や掃除、朝食の片付けなどといった雑用をこなしているはずだ。
自分の担当が終わったら他の担当を手伝うのが暗黙の了解になっているらしいので、ユリウスだけ先に終わって外に出たという仮定はありえない。
彼が休みではないのは、見習いの制服を着ていることからもわかる。
とすれば、答えはひとつ。
何らかのミスをやらかして、城外ランニングを命じられているのだ。
「最近姉さまに逢えなくて気になってたんだ。これからお出かけ?いいなぁ、どこへ行くの?ぼくも行きたいなぁ」
「……ユリウス、ランニングの途中なのではないですか?」
「あ、やっぱり姉さまにはわかっちゃうんだ。でもちょうど疲れてきたとこだし、ちょっとくらい休んでも大丈夫。だってランニングで倒れちゃったら大変だもん」
己の限界を知り、そのギリギリ手前でセーブするのは大事なことだ。
だがユリウスの場合、限界を知るどころか『疲れた』というだけで休もうとしている。
倒れたら大変だと他人に言われるならわかるが、彼は自分にそう言い訳しているのだ。
常時この調子だとするなら、教育すべき正騎士が彼を城外ランニングに出してしまうのも頷ける。
例え説教したとしても、自分の何がいけなかったのか気づけないようでは叱り損である。
「ねぇ、姉さま。どうやったら早起きってできるの?姉さまはいつも一番に起きて、訓練したりしてるんでしょ?一人で起きるのって難しくない?」
「…………私は昔から一人で早起きしていますから、特にコツのようなものはありませんが」
「そうなんだぁ。やっぱり小さい頃から一人だと、自分で起きれるようになるのかなぁ?」
「…………」
彼女は危うく、お願いねと主に託されたものを握りつぶしてしまうところだった。
それだけ、ユリウスが無意識に放った毒がクリティカルだったということだ。
ユリウスが生まれたから、彼女はずっと一人だった。
だからといって、それをユリウスの所為だと責任転嫁することはできない。
彼がこんな甘ったれに育ったのは、子爵家全員が甘やかしたからだ。
それはつまりサクラとの話でもあったように、『上がそう示したから下もそれに倣った』ということなのだ。
「同じ見習いの子達はどうしていますか?」
「んー……ぼくが起きる頃にはみんなもういないしなぁ……話しかけても無視されるし。きっとぼく、嫌われてるんだよね……なんでだろ。一生懸命やってるのに」
朝は一人で起きられない、大事な訓練の時におしゃべりに興じる、罰ランニングも疲れたからと勝手に休む、これで一生懸命だと言われては他の見習い達が彼を無視したくなるのもわかる気がする。
聞いてはくれないかもしれない、理解してもらえないかもしれない。
だけど……メルヴェルはサクラに勇気を貰った。
下を変えるにはまず上の意識から、できることから取り組んでいく。
それならと、彼女は真っ直ぐ弟に向き直って「ランニングに戻りなさい」と冷ややかに告げた。
「きっと貴方に足りないのは、騎士になるための心構えです。嫌われてるからもういいや、疲れたから休もう、そうやって何でも諦めていませんか?見習いである彼らが、正騎士になった方々が、努力もせずに強くなっていると、本気でそう思いますか?」
「……ん、っと……姉さまが言うことって、時々難しいや。結局どういうこと?」
「難しいと思うなら調べなさい。わからないなら聞きなさい。見習い達が口を利いてくれないなら、先輩方に。どうして自分が無視されるのか、どこがいけないのか、それを本気で知りたいと願うのなら」
泣いてでも、這いつくばってでも、蔑まれても。
強くなりたい、騎士になりたい、そんな気持ちがあるならできるでしょう?
メルの厳しい言葉に、ユリウスはわかりやすく顔をしかめた。
「姉さまはさぁ……」
「あらあら、可哀想に。まだ幼い弟を見下して、不遜に虐げる。そんな卑しい心根の持ち主が、妃殿下に重用されているだなんて。貴方、どうやって妃殿下に取り入ったのか知りませんが、すぐにその職を辞しなさいな。王宮は貴方に相応しい場所ではなくてよ」
ふわり、と甘い花の香りがその場に漂う。
お遣いに出ようとしていたメルとランニングの途中であるユリウス、姉弟揃って視線をその香りの方へ向けると、淡いブルーのドレスを身に纏ったブルネットの女性が、ゆったりと扇をあおぎながら彼らを……メルヴェルを見据えていた。
(……この方は確か、セルシア伯爵家のナディア様……)
ナディア・M・セルシア。
彼女は、本来なら王太子妃候補としてレティシア達と一緒に後宮にあがるはずだった。
だがその時期に彼女は既に他の国に嫁いでおり、必然的に候補から外されたという経緯がある。
彼女はその後夫に死に別れ、しばらくは彼の代わりとして領地をおさめていたものの、彼の弟が代替わりで正式に領主となったため、実家に戻ってきたと聞く。
実際はそれほど美談というわけでもなく、亡き夫の弟に愛人になれと迫られたことで彼女はそれを跳ねつけ、後任を押し付けて逃げ帰ったということらしい、というのは社交界での噂だ。
伯爵家と子爵家という関係上、メルヴェルは言いたいこともあったが控えて、礼をとる。
ユリウスもぽかんとしていたが、さすがに格上の相手であるとわかったのか口を開こうとはしない。
「……当初妃殿下にお仕えしていた一流の者達も、貴方が追い出したのですってね?こんなことなら、もっと早く戻ってくるのでしたわ。全く嘆かわしい。わたくしがいたなら、彼女達と上手くやることもできましたのに」
なるほど、とメルヴェルは彼女の情報の出所を知り、納得する。
彼女達を王宮から追放したのはメルヴェルではないが、そのきっかけになったのは事実だ。
家柄だけで一流と呼ばれていた彼女達は、レティシアに信頼されているメルヴェルのことが気に入らなかったようだし、様々な嫌がらせをしてきた。
その度が越したことで、彼女達は報いを受けたのだ。
当然だと、事情を知る者ならそう言うだろうが……当人達はさも自分たちが被害者のように吹聴して回ったのだろう。
「それに貴方、騎士団にも入り浸っているそうね。それこそ分不相応というものだわ。団長方が寛大な方々だからと調子に乗るのはおやめなさいな。おまけにあのクロード様に付きまとっているだなんて……あの方はお優しい方だから咎めはしていないそうだけど、きっと迷惑されているはずですわ」
「えっ、姉さまクロード様につきまとってるの?」
「そんなことはしていません」
「見苦しい。言い訳はおやめなさい。彼のファンクラブから話は聞いておりますのよ」
メルヴェルにしてみればそういえばそんなものもあったなという程度だが、一体どんな噂が囁かれているのか、それが恐ろしくもある。
クロードやレインのファンは他の騎士に比べてかなり熱烈でその分過激だというし、彼らに近い位置にいるメルヴェルのことが気に入らない、とこれまで陰で好き放題言われてきたのは知っている。
つい先日一緒に任務に出かけたことも勿論知られているだろうし、恐らくそのこともあって『付きまとっている』という噂にまで発展してしまったのではないだろうか。
ナディアは次いでユリウスに視線を移し、もう一度「可哀想に」と言葉に出した。
「意地悪な御姉様に散々無碍に扱われて、辛かったでしょう?疲れたら休めばいいの、起きられないなら起きなくてもいいわ。だって貴方はまだ子供なんですもの。無理をする必要なんてないわ」
(あぁ…………)
それはまさしく、これまでクレスタ子爵家の者がユリウスに囁いてきた甘言だった。
そうして彼は甘やかされ、何がいけないことなのかわからなくなってしまったのだ。
当然、この言葉にもユリウスは喜んで従うだろう。
ほら見たことかと、厳しい言葉を吐いた姉を見下すだろう。
そう、思っていたのだが。
「…………なにそれ。気持ち悪い」
「……今、何と言ったの?良く聞こえなかったわ」
「だから、気持ち悪いって言ったの。姉さまがいじわるだなんて、誰が言ったの?姉さまはただ、思ったことを言ってるだけでしょう?そりゃ、ぼくのことは嫌いかもしれないけど……でも、いじわるなんかじゃないよ。いじわるって言うのは、あなたみたいな人のことだよ。よく知りもしないで、姉さまのこと悪く言わないで」
「確かに直接は良く知らないわ。だけど彼女の周囲にいる者たちから話は聞いておりますもの。クロード様だって迷惑されているに決まって……」
「そのことだけど、姉さまはそんなことしてないって言ったよ。姉さまはうそなんてつかない。まじめすぎて嫌になるほどまじめなんだから」
初めてのことだった。
散々甘えたことを口にしていたユリウスが……これまでメルヴェル自身を見ようともしてこなかった弟が、彼女を庇っている。
小さな身体で精一杯、姉を守ろうとしている。
届いていたのだ、彼女の言葉は。
ユリウスまで届いていた言葉は、だけど彼の意識の幼さ故に理解されなかっただけで。
意地悪で言っているんじゃない、その気持ちだけはちゃんと届いていた。
『諦めないでよかったですね』
そんなサクラの声が聞こえた気がした。
諦めようと思った、もう無理なのだと思った、修復不可能だと思っていた弟が、自分を見ていてくれたことが、こんなにも嬉しい。
泣きそうになるのを、ぐっと堪える。
今の彼女は王太子妃レティシア殿下の侍女なのだ、私情を挟んで泣いてなどいられない。
そんなところが弟に『真面目すぎて嫌になる』と言われる所以なのだろうが。
「だいたい、あなたクロード様のなんなの?ファンクラブだかなんだかしらないけど、クロード様が何も言わないんならそれでいいじゃないか」
「ユリウス、その辺でやめなさい」
「だって姉さま!バカにされてくやしくないの!?」
それは悔しい。そう思う心はメルヴェルにもある。
だが彼女は、バカにされることには慣れていた。
それでもこれまでずっと、自分が信じる通りに生きてきたのだ。
「…………私は私です。見下したいなら好きにすればいい、私はそんなことで態度を変えたりはしません」
「……姉さま」
「そんなことよりユリウス、まだランニング中でしょう?早く消化して戻らないと、昼食の時間に間に合いませんよ。今度こそ、罰をきちんとこなして嫌われる理由を聞くのではなかったですか?」
これまでのユリウスなら、わかんないやと投げ出していただろう。
もういいよ、と拗ねていたかもしれない。
だが今、彼はこれまで密かにコンプレックスを抱き続けてきた姉を、外敵から守ろうとした。
今の彼なら、素直に聞いてくれるかもしれない。
「…………わかったよ、戻る。けど姉さま……」
「なんですか」
「……また、お話してくれる?」
「ええ。今度はお休みの日に」
「うんっ。それじゃ走ってくるね!そっちのいじわるな人に負けちゃヤだよ!」
どうにか言うことを聞いてくれたものの、最後に爆弾を投下していってくれる無邪気な毒気は変わらない。
どうしたものか、とメルが態度を決めかけている間に、『意地悪な人』ことナディアが先に立ち直った。
彼女は、姉も姉なら弟も弟だと蔑むようにそう言ってから、ユリウスのものとは比較にならない大きさの爆弾を投げて寄越した。
「わたくしはクロード・L・フェリシア様と以前結婚のお約束をしておりましたの。残念ながらそれが果たされる前に実家によって引き離されてしまいましたが……今でもお互いに想い合っておりますのよ。ですから貴方はお呼びではないの。これ以上あの方に付きまとわないで頂戴」
クロードについて、浮いた噂など聞いたことがなかった。
あのレインでさえ何度か浮名を流したことがあるというのに、彼のその生真面目な性格の所為なのかそれとも余程女性で嫌な思いをしたことがあるのか、それはわからないが。
だからと言って、これまで彼が誰とも付き合ったことがないとは彼女も思わない。
ただ単に、結婚まで踏み切れる相手がいなかっただけなのだろう。
もしナディアの言っていることが真実なら、愛する恋人と無理やり引き裂かれた所為でこれまで仕事一筋に打ち込んできた、と説明もつく。
そうして、手の届かないところに行った元恋人をずっと想い続けてきた、というならば。
『聞いて欲しい話がある』
ではあれは、一体なんだと言うのだろう?
恋しい人が異国から戻ってきた、だから自分は彼女と結婚するつもりだ、祝福して欲しい?
そんな内容なら、何もわざわざ任務外に時間をとって話すことでもないだろう。
それともナディアの言うように、彼もまたメルヴェルを鬱陶しいと思っていて、だから誤解しないでくれと釘をさすつもりだったか。
(あの誠実なクロード様が、そんなことを言われるとは思えないけれど……)
『苦難の道行き。今後強大なライバルが現れるが、諦めればその身は傷つき、信じれば道が開ける。何があっても自分を、相手を信じなさい』
キサラギがくじに託してくれた言葉が、脳裏に蘇る。
あの『強大なライバル』というのは彼女のこと、だとすれば信じれば道は開けるはずだ。
何があっても相手を信じる……それが、彼女の見定めたクロードという人物像を信じろという意味なら、彼女ははっきりと言うことが出来る。
「一部でどういう噂をされているのかはわかりませんが、私は先ほども申しましたようにクロード様に付きまといなどしておりません。もしお疑いになるようでしたら、どなたか第三者の立会いのもとで直接クロード様に伺っても構いません。……ところで、もうよろしいでしょうか?主より大事な届け物を言い付かっておりますので、これで失礼致します」
「待ちなさい、わたくしの話はまだ」
「そのお話は、妃殿下のお言いつけより優先されることですか?」
もう充分聞いたでしょう?とばかりの態度で身を翻すメルヴェルに、ナディアは唇を噛み締めかけて慌ててやめた。
せっかく綺麗に紅をさしてきているのだ、それが崩れては勿体無いと思ったからだ。
その考え方からして、メルヴェルにはきっと理解できない。
彼女がメルを理解できないのと同様に。




