侍女さんの日常
朝、まだ日が昇り始めたばかりの時間に、メルヴェルは目を覚ます。
【王太子妃専属侍女】という立場から一人部屋を与えられている彼女は、手早く身支度を済ませると食堂ではなく厨房へ顔を出した。
彼女が行動を開始する時間にはまだ、食堂の準備が整っていないからである。
「ああ、おはよう侍女さん。あんたも毎朝早いねぇ」
「おはようございます。こちらの方々ほどではありませんが、早起きは習慣になっていますので」
「そうかい。そりゃまぁ、あたしら料理人は早くから仕込みしなきゃならないからね」
はいよ、と目の前に出された朝食を、いつの間にか厨房の隅に常時置いておかれるようになった椅子に座って手早く食べ始める。
その間厨房の人間は慌しく仕込みをしており、誰も彼女に構う者はいない。
無関心でも過干渉でもない、そんな空気が彼女は気に入っていた。
食事を終え廊下に出ると、彼女は主の部屋へと足を向ける。
一般的な貴族や王族はまだ寝ている時間帯であり、加えてレティシアと王太子レオナルドは世間一般で言うところの『新婚』であるため、朝は通常よりも遅い。
侍女である彼女の仕事は主の起床時間に準じているのだが、彼女は主が起きる前にやっておく仕事があった。
レティシアの部屋の前、壁に寄りかかっていたポールがメルヴェルの姿に気づいて「よっ」と軽く手を上げる。
「おはようございます、ポール様。申し送りをお願いしたいのですがよろしいですか?」
「ああ。っつっても特に何もなかったぜ。あんたが下がって以降、訪問者はなし。妃殿下からの呼び出しもなし。王太子殿下は夜遅くに部屋に戻られたから恐らくまだお休み中だろう。今日のシフトはレインとジュリアスの予定。ま、こんなとこだな。そっちは?」
「正式決定は妃殿下に伺ってからになりますが、本日は午前中は宰相閣下との打ち合わせ、午後から殿下とご一緒に孤児院を訪問される予定になっております」
王族と婚姻関係を結んだのだから遊びたい放題、贅沢し放題、妃なんて城の奥でのんびりお茶会してればいいだけでしょ、と楽観視されがちだがそれこそ大きな誤解である。
お茶会ひとつとっても誰を招くか、どうもてなすかで社交界の評判が変わってくる上に、上下関係の確立や情報収集にも茶会は非常に役に立つ手段である。
それ以外の時間は国民から寄せられた要望書に目を通し、大臣達からの面会にも応え、領主や貴族達からあがってくる決算書や調査報告書を宰相と共に吟味し、時には今日のように王都に出て顔を売っておくという『仕事』もこなさなければならない。
その時間帯、レティシアにぴったりと付き添うのは侍女ではなく近衛騎士である。
外出時には侍女が一人、そして近衛騎士が数人、という構成で動くことになっている。
今回の外出は近場であり王太子と同行であるため、メルヴェルは留守番だ。
わかったとひとつ頷いたポールは申し送り用の紙を受け取って、静かに部屋に入るメルヴェルを見送った。
後はその紙を交代に来た二人に渡せば、それで夜勤者の勤務は終了だ。
「夜勤お疲れさん、ポール。交代だよ」
「ん、それじゃこれが今日の引継ぎな」
「なんだ、もう申し送り終わってるのか。相変わらず侍女殿は仕事が速いな。うちの息子の嫁に欲しいくらいだ」
「「おいおい」」
ジュリアスはクロードの同期で、今年4歳になる息子と愛妻がいる。
彼は妻のことは勿論、息子もそれはそれは溺愛しており、自分が認めた相手じゃないと付き合うことすら許さんと今から親馬鹿ならぬ馬鹿親ぶりを披露しているらしい。
そんな彼が、例え冗談とはいえメルヴェルを『息子の嫁に』と口にした。
ということは、彼の理想の嫁はああいう『有能なタイプ』であるのだろう。
「ジュリー、確かに仕事はできるが致命的に愛想がない嫁はどうなんだ?」
「愛想がないんじゃなくわかりにくいだけだよ、メルの場合」
「まぁ、な。俺の前でも最近やっと表情を変えてくれたりするようになったし」
「そういうところが、何故か『恋人希望者』じゃなく『保護者希望者』を増やす要因になってるのかもしれんな」
兄代わりのポールやレイン然り、父親気分のアレンやグラディウス然り。
しっかりしている半面危なっかしいあの少女に、家族のような庇護欲をそそられる男性は意外と多い。
あの実力テスト以降、そういう『保護者希望者』が騎士団の中で続出し、どうやったら仲良くなれるんだとレインやポールに尋ねてくる者までいる。
それ自体は微笑ましいのだが、どこをどう間違ったかクロードにその質問をぶつけた勇者がおり、その凍りつくようなアメジストで射すくめられた、という笑うに笑えない実話まであるほどだ。
(兄さんもてっきり兄貴志願だと思ってたんだけどなぁ)
どうやらそれは違うらしいですよ、とニコラスが笑いを含んだ声でそう教えてくれて以降、レインも注意してクロードを観察していたのだが、最近になってようやく『あ、ちょっと違うぞ』という部分が見えてきて、彼もニコラス同様この状況がどうなるかによによと愉しみ中である。
「ま、中には保護者希望じゃない勇者もいるんじゃないか」
「……まるで心当たりでもあるような口調だが」
「それはひーみーつー」
と、扉の外でそんな男達の会話が交わされていたことなど、唯一無二の主を起こさねばと使命感に駆られていたメルヴェルには知る由もない。
「それじゃ行ってくるわね」
「いってらっしゃいませ」
主を部屋から送り出した後、侍女達は慌しく動き始めた。
昼にレティシアが戻ってくるまでに掃除を終えればいい、というわけではない。
その前に突然の訪問者があるかもしれない、どこからか届け物があるかもしれない、王太子殿下が来るかもしれない、そんな突然の事態に慌てないように掃除は手早く行うのが基本なのだ。
幸い現在の妃付き侍女達は有能さを認められて引き抜かれた者ばかり。
皆手際よく寝具の取替えや拭き掃除などを分担し、あっという間に終わらせてしまった。
それが終われば各々休憩をとってもいいことになっているため、殆どの侍女は自室へと戻っていった。
戻っていった者達はレティシア付きではあるが専属ではない。
もしこの休憩の間に用事を言いつけられればそちらに向かう、という仕事の掛け持ちもあるらしい。
専属であるが故に休憩をとらず主の部屋で待機を強いられるのが数人。
「ねぇ、メルヴェル。この前騎士様達と手合わせしたって聞いたんだけど、その中にエドワード様もいたって本当?」
ただ待っているのも味気ない、とエリザは時々メルヴェルを会話に誘う。
彼女も他の侍女も概ねメルヴェルには好意的に接してくれており、そのためかメルヴェル自身も最低限の礼儀と警戒心は持ったまま、しかし少し気を許した態度で接している。
先日の手合わせについては極秘というわけでもなく、むしろ騎士達を見届け役として公に行われたこともあって、侍女仲間にも知れ渡っている。
答えるなと釘を刺されたわけでもなかったので、メルヴェルはあっさりと頷いて肯定した。
「口説かれるのを待っていたのか、と聞かれました」
「うっわ、サイテー。エリザ、やっぱりやめて正解よ。家柄も顔もいい独身男なんてまだ他にもいるじゃないの」
「ふふっ、もう未練はないわよルイセ。それに、聞いた話じゃ、メルヴェルが叩きのめしてくれたみたいだし、ね」
「……誤解があるようですので訂正します。エドワード様の場合、叩きのめす前に勝負がついてしまいましたので、剣を交わすことすらありませんでした」
それを聞き、エリザとルイセは顔を見合わせてハイタッチを交わす。
エリザは己を虚仮にしたエドワードを嫌っており、その親友であるルイセも同様に腹を立てていた。
その彼に同僚が屈辱を味あわせたと知り、多少気持ちが晴れたというところだろう。
「ところで」
「はい」
「クロード様とも手合わせしたって聞いたけど」
「……全く。どこからの情報ですか」
呆れながらも、メルは否定しない。
ただし、手合わせというレベルにも達していなかったという部分については、言わなくてもわかるだろうからと省いたが。
それに、彼女達が話題にしたいのは『クロード本人』についてであって、実力試験の経緯ではないのだろうとわかっていたので、余計なことまでは言うまいと必要最低限に留めておいた。
「もー、メルってばクールなんだから!クロード様っていったら、王宮侍女から下働き、貴族の令嬢から平民の娘、おかあさま年代の方々から騎士団の後輩まで大人気な独身貴族じゃないの!ご実家は侯爵家、王太子殿下の信も厚い25歳、超美形なのに浮いた噂のひとつもない。そんな方と至近距離で見つめあったとか、何てうらやましい!」
つっこみどころは多々あったが、結局メルは口を閉ざした。
特に『騎士団の後輩に人気』というあたりは気になりはしたが、そこはそれで個人の趣向の問題だからとスルーすることにする。
代わりに彼女は、その発言をしたルイセもクロード狙いなのかと聞いてみた。
が、返ってきたのは「ないない」という否定の答え。
「確かに優良物件なのは認めるわよ。でもあの年まで浮いた噂がないっていうのも引っかかるし、何してても殿下の次って考えられるとちょっとね」
「そんなものですか」
「そんなものよ」
わかりません、と真面目に考え込んだ主第一主義のメルヴェルを、二人の同僚は「真面目すぎ」と笑い飛ばした。
昼になり、レティシアが戻ってくると侍女達のひとときの息抜きは終わる。
主のために食事を配膳し、それが終わると外出用のドレス選び。
孤児院に行くのだからと華美な装飾はやめ、比較的落ち着いていて裾を引きずらない長さのドレスを選ぶと、レティシアは「それがいいわ」と笑顔で頷いた。
コンコン、と軽いノックをしてから姿を見せたのは王太子レオナルド。
一様に最上級の礼をとる侍女達を一瞥してから、彼は妃の手を取りゆっくりと部屋を後にした。
そのレティシアの後に続くのは、この日側付きを命じられたエリザである。
それ以外の侍女は、完全に主達が城の外に出てしまったのを確認してから、部屋の後片付けと休憩に入る。
「あ、メルはこの後鬼教官と訓練でしょ?行っていいわよ」
「はい、では失礼します」
お疲れー、頑張ってねー、という同僚達の声を背に、メルヴェルは着替えるべく自室に戻る。
『鬼教官』というのは第四騎士団の団長、ニコラスだ。
彼はあの実力テストの数日後、メルヴェルに対して自分のもとで訓練してみないかと提案してきた。
否、提案の形をとってはいるが実質的な『命令』に近かっただろう。
彼はそこで内情を少しだけ明かした。
この国には女性の騎士はいない、それは『女は脆弱なもの』とする一種の男尊女卑な考え方が根付いているからだ。
メルヴェルが騎士と対戦し、相手の油断もあっただろうが見事に四連勝したことで騎士達の意識も多少変わったはずであり、上に対して働きかける材料にもなった。
その騎士達の意識を更に変えるため、そして何より大事な主を護るため、腕を磨いてみないか、と。
主至上主義である彼女がそれに頷かないわけもなく、レティシアの予定の合間を縫う形で『鬼教官』と恐れられるニコラス式の訓練が行われることになった。
着替えて騎士団の訓練場へ行くと、この日は珍しく集まっている人数が多かった。
「今日はグラドが陛下付きで外に出ています。第一と第四の訓練が重なるのは珍しいですからね、今日参加できた君は幸運ですよ」
訓練と言っても、剣を合わせるだけでは勿論ない。
むしろ地道に筋力・体力トレーニングを行う方が重要であり、剣を合わせるのはメニューの一番最後だ。
メルヴェルは見習いに混ざって走りこみと素振りを行い、一通り終わるとクールダウンしながら他の騎士達が打ち合いするのを見学する。
当然、打ち合いを見るのも訓練の一環である。
頭の中でイメージトレーニングを行う、それを暗に示唆されているのがわかっている者は、無駄口を叩かず静かに見守っているのだが、中にはそれがわからない者もいる。
「あ、姉さま。今日はご一緒できてうれしいです」
「…………」
「あの、あのね、姉さま。ぼく、……」
「…………」
隣に移動してきて必死に姉の気を引こうとするユリウスを、しかしメルヴェルは黙殺した。
己の脳内でイメージ映像を動かしている所為で、他に気が回らないのだ。
それを無視されているととったユリウスは、顔を歪ませ泣きそうな表情になる。
「やっぱり姉さまはぼくのこと、きらいなんだ……ぼくが生まれたから姉さまは……」
「そこまで!」
凛とした声で、ニコラスが打ち合いの終了を告げた。
シンと静まり返った部下達をぐるりと見渡し、彼は厳しい眼差しのまま
「ユリウス、エドワード、アルベルト、この三人には城外の走りこみと訓練場の後片付けを命じます」
そう言い渡し、さっさと行きなさいと目で促した。
これがニコラスが『鬼教官』と呼ばれる所以の一端である。
彼は決して油断を許さない、それは戦場において命取りとなるからだ。
故に訓練においても少しでも気を抜いた者は容赦なく訓練メニューを増やし、罰掃除やランニングを命じる。
それは見習いであっても同じことだ。
(ユーリはもう少し落ち着いてくれないものか……)
弟が姉である自分を殊更意識しているのはわかる、だが訓練中にも気を散らすようでは正騎士への道はまだまだ遠い。
9歳であるという年齢を考えても遊びたいさかりなのは仕方がないが、騎士団に入った以上彼は『子供』ではなく『騎士見習い』なのだ。
そこに甘えや依存は許されない。
毎回メルヴェルと訓練が一緒になる度にああして話しかけてくるのには、戸惑いよりも呆れが先立ってしまう。
やれやれと嘆きながらも、メルヴェルが『騎士団の特別見習い団員』から『侍女』へと戻る切り替えは早い。
手早く湯を被り、着替え、身支度を整えてから主の部屋のある王宮に向かう。
城の入り口付近で待機していた他の侍女と共にレティシアを出迎え、部屋に戻れば次は夕食だ。
気さくな王太子妃は、夕食後のくつろいだ時間に孤児院ではああだったこうだったと侍女達相手に話をしてくれる。
他の侍女達が時折相槌を打ちながら会話に参加している後ろで、メルヴェルはどこか微笑ましそうにそれを見ていた。
「おやすみなさいませ、レティシア様」
「ええ、おやすみなさい」
あれやこれやと慌しく動き回っていた侍女達は、その役目を終えると部屋に下がる。
一人減り、二人減り、最後までレティシアの側に残るのはいつもメルヴェル一人だ。
その彼女が部屋を出ると、後は夜勤の騎士だけになる。
時折巡回に来る侍女長が、もし緊急事態があれば使用人棟まで知らせに来てくれることになっているので、基本的に侍女は残らない。
一礼して部屋を出ると、メルヴェルは主の部屋と隣の王太子の部屋の前にそれぞれ待機している騎士達に対しても礼をとり、そして自室へと踵を返した。
そうして、彼女の一日は漸く終わりを告げるのである。