第二十三話 土曜 重
俺はその時刺されると直感的に思った。
腕の震えから力がこもったのを感じたんだろう。
動かなきゃ。
逃げなきゃ。
そう思っても恐怖に支配された体を動かす事は出来そうになかった。
殺られる。
死ぬ。
そう覚悟した時、「貴之ー!」と、叫ぶ声が公園に響き渡った。
この声は······杏奈?
震えで焦点の定まらない視界の端に、杏奈の姿が見えた気がした。
「ありゃりゃ? 杏奈ちゃんが来たね······邪魔だなー」
「······ッ! 杏奈来るな!」
叫ぶが杏奈は足を止めずに走ってきた。
自転車にも乗っておらず、右足を引きずっているように見えた。
「······貴くんは絶対渡さないんだから······ねっ!」
今度こそ首を刺される。
脳が警鐘を鳴らした。
けれど、今の俺は、さっきまでの震えているだけの俺とは違かった。
俺が刺されれば······次は杏奈が危ない。
あの足じゃ逃げられない。
一瞬で俺の脳には、腹にナイフを突き立てられ、横たわる杏奈の映像がリアルに映し出された。
死ぬのは嫌だ。
けれど、それ以上に杏奈が傷つき死んでしまう事が嫌で嫌でしょうがなかった。
昨日杏奈に、くるりちゃんか杏奈か秤にかけ来年の四月までに答えを出すと言ったが、今はっきりと答えが出た。
杏奈は俺の命より大事な女なんだ。
今俺がここで死んだとしても······杏奈の命だけは助けたかった。
俺の日常であり、半身と言える杏奈。
日常を、半身を失えば俺は生きていけない。
だから、だから······。
「死なせねえよ!」
刺されるより早く、くるりちゃんの腕を掴み、ナイフの動きを止めると、一気に立ち上がった。
「わっ!」
背の低いくるりちゃんは俺が立ち上がると、首にぶら下がるような体勢になった。
俺はそのまま一本背負いをするかのように、両腕を掴んだままくるりちゃんを投げ飛ばす。
「きゃっ······ッ!」
くるりちゃんは短い悲鳴をあげ、地面に後頭部から叩きつけられた。
投げる時に俺の頬をナイフがかすり血が出たが、俺は気にせずに地面に倒れるくるりちゃんを見た。
受け身も取れず頭から落ちたせいだろうか、気絶したようで、目を瞑りそのまま動かなかった。
一瞬死んでいるんじゃないのかと思ったが、呼吸をしているようで、胸が上下していた。
くるりちゃんは死んではいない。
くるりちゃんを殺してはいない。
くるりちゃんに殺されてもいない。
······俺は助かったのか?
「貴之!」
杏奈が右足を引きずりながら駆け寄ってきた。
「杏奈」
俺も駆け寄り、杏奈を抱き締めた。
走り続けていたのか、杏奈の体は干したての布団のように温かかった。
「馬鹿。馬鹿。馬鹿。なんで電話に出ないの。なんで直ぐ逃げないのよ!」
「悪い」
「悪いじゃないよ! 心配したのよ。私も勝君もどれだけ探したと思うのよ? 馬鹿じゃないっ······本当に馬鹿じゃないっ······うっ······」
杏奈は顔をくしゃくしゃにし泣いた。
いつも強かった杏奈が声をあげ泣いた。
「杏奈······」
「馬鹿じゃない······うっ······」
「ありがとうな。お前が来なければ······お前がいなければ俺はきっと刺されていた······死んでいた······ありがとうな」
俺は杏奈の頭を抱き締めて言った。
俺を助けてくれた子に、今なら言える······俺に生きる道を指し示してくれた······最愛の子に。
きっと俺はここで死んでいたんだ。
予知夢で見たように刺されて死んでいた。
恐怖と言う呪縛に体を押さえつけられた俺は、きっと首に当てられたナイフから逃れられなかっただろ······えっ······?
自分の思考の矛盾に俺は気づいた。
背中を刺される予知夢を見たと言うのに······ナイフが当てられたのは首だった。
どうして場所が違うんだ?
運命が変わったからなのか?
俺が疑問を持つと、杏奈の体がビクッと震えた。
『どうしたんだ』と、聞こうとすると、杏奈は俺の肩を押し退け······微笑み······力任せに······俺を横に······突き飛ばした。
女性の弱い力でも、耐えようと言う準備をしていなかった脚は······地面から離れ······俺はそのまま尻餅をついた。
俺は転びながらも杏奈を見続けた。
微笑む杏奈を。愛しい杏奈を。
俺の元カノである杏奈を。
けれど······一生かけて愛し続けたいと思えた杏奈を。
そんな杏奈の前にナイフを構えたくるりちゃんが現れ······無骨な······人の命を容易く奪いそうなナイフを······肉のあまりついていない······杏奈の······腹部に突き立てた。
肉を貫き、内蔵を食い破るだろうその凶刃を······。
「あんなあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
叫び声に呼応するように、杏奈の口からゴボッと血が吹き出る。その血が一回り小さなくるりちゃんの顔にかかる。
初め二人は抱き合うような形に見えたが、マリオネットの糸が切られたかのように、不意に杏奈の体から力が抜け、ドサッとその場に倒れた。
腹には間だナイフが刺さっていて、白のカットソーがどんどんどす黒い赤に染め上げられていった。
「······杏奈?」
「······」
杏奈の口が小さく開くが、傍にある噴水の音にかき消されてか、声は俺の耳に届かなかった。
いや、違う。
声は······出てないんだ。
出す事も出来ないんだ。
「杏奈ちゃん邪魔しないでよ。くるりと貴くんの永遠の愛のために必要な儀式なんだから。くるり、邪魔する杏奈ちゃんなんて大嫌い」
「······杏奈······」
血の跡が広がっていく。
服だけではなく、公園の土にもじわりじわりと赤い染みが出来上がる。まるで、杏奈の命が滲み出て行ってるようだった。
「これで邪魔物はいなくなったね。えへへ。貴くんとくるりの二人っきりにまたなれたね。さっきの続きしよう」
くるりちゃんは杏奈の傍らに膝を着くと、ナイフに手を伸ばし、力任せに引き抜いた。
「がっ」
杏奈の口からまた血が吹き出ると、服の染みも地面の染みも勢い良く広がった。
やめてくれ、そんなに広がったら······そんなに命が滲み出たら······死んじゃうじゃないか。
「やめろよ······なぁ」
「本当にやめて欲しいよね。くるり達の愛の儀式の邪魔するなんてね」
「······消えろよ」
「本当に消えてもらいたいね。くるりと貴くんの二人っきりの時間を邪魔するんだもんね」
「消えろよ······桃原ぁぁぁぁっ」
手を血で汚してなお、無邪気な笑みを向ける桃原に俺は叫んだ。
「······貴くん? 桃原じゃなくてくるりちゃんだよ。くるり、彼氏にはちゃん付けで呼ばれたい子だよ」
「喋るな。消えろよ。俺の前から······今すぐ消えろ」
「貴くんどうしたの? くるりにそんな事言わないで。ねえ、くるりの事嫌いになっちゃった?」
桃原はナイフを握っていない手で、俺の手を握ってきた。
その手は杏奈の命でベトベトだった。
「触るな」
手を払い除けると指先から血が飛び、桃原の顔に小さな赤いシミを作った。
「嫌い······違う。俺はお前が憎い。殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しても······足りないくらい憎くてしょうがない」
「貴くんはくるりのアサヒなんだよ? そんな事いっちゃダメだよ······」
人を刺しても顔色一つ変えなかった桃原は、うろたえた。
「俺はアサヒじゃねえ。お前なんかとは永遠どころか······一秒でも一緒にいるのは耐えられねえよ!」
「なんでそんな意地悪な事言うの? くるりの何がダメだったの?」
桃原は目に涙を浮かべ、懇願するように言ってきた。
「お前は杏奈を······俺の愛する人を刺した······だから······消えろよ」
俺は桃原を殴った。
力加減もせずに、ただただ拳を握りしめ、怒りに身を任せ殴った。勝よりもずっと小さな体躯の桃原は、吹き飛び地面に倒れた。
「痛い······痛いよぉ······ヤダ······ヤダ······アサヒじゃない······くるりを殴るなんてアサヒじゃない。嫌い。嫌い。貴くんなんて······大嫌い。もう別れる! くるりのアサヒじゃないなら、もう別れるもん······」
桃原はそう言うと立ち上がり、血で汚れたナイフを握り締めたまま泣きじゃくりながらふらふら歩き出した。
公園の出口に向かって。
人を刺したから逃げるのではなく、俺が彼氏じゃなくなったから立ち去った。
狂った女は、狂った理由で消えていった。
桃原の姿が見えなると、俺は杏奈の元に駆け寄った。
「······杏奈! 大丈夫か! 杏奈!」
傷口を手で押さえるが、傷口からは止めどなく熱い命が噴き出していた。
白のカットソーもベージュのカーディガンも、今では赤黒い色に染め上げられていた。
「止まれよ! 出るなよ! なあ、頼むから出るなよ!」
杏奈はそんな俺に微笑みを浮かべ、震わせながら、俺の頬に手を当て、唇を震わせた。
やはり声は出なかったが、俺は杏奈が何を言おうとしたのか分かった。
『良かった』
そう言っていると唇の動きは教えてくれた。
「良くねえよ。お前怪我してんじゃんか。何、俺庇って怪我してんだよ。馬鹿じゃねえの? 俺に何度も何度も馬鹿って言ったお前の方が馬鹿じゃん。なあ、何庇ってんだよ。俺が刺されていたら、お前が怪我しないで済んだんじゃん。お前がこんな血を流さずに済んだんじゃん······馬鹿だろ。杏奈が刺されなければ······俺が泣く事もなかったんだぞ。馬鹿だろ! 本当に馬鹿だろ······」
頬が冷たかった。
噴水の水が顔に当たったのかと思ったが、冷たい理由は俺の目から零れた水のせいだった。
頬を伝う水も、杏奈の指先に着いた赤い水もどちらも冷たく、心が切なくなった。
「そうだ、今救急車呼ぶからな。直ぐに来れば大丈夫だからな」
俺が携帯を取ろうと、そっと頬に当てられた手を外すと、杏奈の唇が揺れた。
『行かないで』
そう言っているのが分かった。
「携帯拾ったら、直ぐ戻るから······ほんのちょっとだから······」
そう言いながらも、俺はなぜか分かってしまった。
杏奈が自分の時間がほんのちょっとも残されてない事に気付いている事が。
だから少しでも一緒にいるために行かないでと言おうとしたんだ。
「なんだよ。大丈夫だって。こんなのちょっとした切り傷みたいなもんだって。なあ、この怪我治ったらさ、遊びに行かないか? 二人でさ。それでさ······遊び終わりにお前に言いたい事があるんだよ。より戻そうってさ。もう一度やり直そう。俺の彼女になってくださいって。そうしたらさ、勝と彩ちゃんに、よりが戻った報告しないとな。色々迷惑もかけたしさ。ああそうか、報告の前に久しぶりにキスでもするか?」
杏奈の唇が微かに震える。
『馬鹿』
「恋人同士ならキスの一つや二つはするだろ。まあ、俺たちは付き合っている間、一回しかしてないけどな。お前、キスするの嫌がっていたけどさ、本当は照れていたんだろ? 俺はもっといっぱいしたかったんだよ」
『私も』
唇を震わせると、杏奈は微笑んだ。
それは優しく、愛に溢れた温かな笑みだった。
この笑みを俺は一度見た事がある。
いつだったかも、どこでだったかも思い出せないけれど。
「杏奈······」
悲しみを堪え、笑みを返すと、満足したかのように、杏奈はゆっくりと目を閉じた。
「キスしろって事か? そうだな。目を開けていたら、恥ずかしくて······キス出来ないもんな······してやるよ。杏奈······大好きだ」
俺は杏奈にキスをした。
初キスの時は柔らかかった杏奈の唇は、冷たく硬かった。
「二回目のキスだな。なあ······杏奈······こんななりで言うのもなんだけどさ······王子様のキスだぞ。なあ、起きろよ······起きろよ······起きろよおぉぉぉぉぉぉぉぉおぉっ!」
王子様のキスでも姫は起きなかった。
お姫様は血まみれで、噴水の前で永遠の眠りに着いた。
「······夢だろ······こんな悪夢······夢に決まっている······どうせ······直ぐに白い靄がかかって······母さんが起こしに来るんだろ? ······起きて学校に行けば······杏奈は普通に席に座ってるんだろ? ほら······目覚めろよ······夢なら······予知夢なら······覚めてくれよぉぉ!」
涙で視界が霞むが、白い靄がかかる事はなかった。
「ああぁぁぁぁぁぁっーーーーーーーーーー!」
俺は泣き叫んだ。
喉が枯れるまでずっとずっと。
冷たくなっていく杏奈を抱きかかえながら。
「毒リンゴを食べた白雪姫は王子のキスで目覚めた。魔女の呪いを掛けられた眠り姫は王子のキスで目が覚めた。けれど杏奈はキスでは目覚めないよ。眠りと死は違うもの。死から目覚めることは出来ないから」
突然の言葉に俺は顔を上げた。
すると、そこには声の主がいた。




