第一話 月曜①
月曜日
ワックスで髪型を整えていた俺を、母さんが目覚ましよりもけたたましい声で呼んだ。
「貴之! いつまで洗面所にいるの。電車出るよ」
「今セット終るから大丈夫だって!」
髪から手を離さずに答え、俺はセットを続けた。高校二年生の男にとって、このセット時間は電車に乗り遅れそうで、道路を全速力で走る事になろうとも、確保せねばならない時間だ。
鏡に映る自分の髪型を念入りにチェックし、バッチリ決まったのを確認した俺は、「オッケー」と自分に合格の言葉を発して、洗面所を出た。
リビングに入ると、テーブルの上には十何分は前に焼き上がっただろうトーストが皿に乗せられ置かれていた。もちろん湯気など出ていない。
「あんたがもたもた準備しているから、パン冷めちゃったよ」
「ごめんごめん」
謝りながらトーストにジャムを塗り、口に入れる。
「もう一枚焼く?」
「ううん、大丈夫。待っていたら電車に乗り遅れるからさ」
パンを勢い良く頬張りながら俺は言うと、グラスに注がれていたお茶で喉の奥に流し込む。
「ごちそう様。じゃあ行ってくるね」
立ち上がり、椅子の横に置いておいたバックに手を伸ばすと、母さんが呼び止めた。
「ちょっと待って。ほら、テレビ見て」
母さんに言われ俺は視線を移す。朝のニュース番組が映し出されていた。高校二年生の俺としては、朝のニュース番組なんか、占いとスポーツコーナー以外には興味関心などゼロなので、流れていても気にも留めていなかったが、その内容を見て母さんの言いたい事が分かった。
『昨夜八時頃、幸島市飯鳥町で通り魔事件が発生致しました。被害者は二十代男性で、背部を刃渡り二十センチの刃物で刺された痕があり、同市では半年前から同様の事件が三件あった事から考え、警察では同一犯の反抗と考え、捜査を進めているとの事です』
幸島市は俺の住んでいる市で、飯鳥町は電車で三駅の近くの町だ。
「犯人がまだ捕まってないようだし、半年前には貴之と同じ年頃の高校生も刺されて亡くなったでしょ。夜遅くなるような時は、お母さん迎えに行くから連絡して」
「大丈夫だって。って、時間ヤバイじゃん」
事件の現場を映している画面の端には七時四十一分と映し出されていた。走っていかないと電車に乗り遅れる時間だ。
「じゃあ行ってくる」
「気を付けてね。いってらっしゃい」
俺は今度こそバックを掴み家を飛び出した。
電車の発車時間は七時五十分。これに乗り遅れれば八時十分まで待たないといけない。家から駅までは歩いて十分だが、走れば五分で行ける距離だ。
俺はネクタイを緩め、体育の授業でも出さない程の速度で走った。小さな住宅街は月曜の朝だというのに、静まり返り、道にはけたたましい俺の足音だけが響いていた。寝坊している人にはいい目覚まし代わりになるかもな。
家と駅の中間に差し掛かったので、ポケットから携帯を出し一度時間を確認する。
「四十三分か······間に合いそうだな」
遅刻が回避出来そうだった事と、五月中旬だというのに真夏のように照り付ける太陽の熱に当てられ、速度を落とすと、十字路に差し掛かった。
この十字路は車がすれ違うのがやっとという広さで、路地にあるためブロック塀が邪魔をし、見通しも悪い。しかも、信号も横断歩道もなく、あるのはカーブミラーだけと言う、過去に事故が何件も発生しているポイントだ。
そんな十字路の向かいからは白猫が歩いて来ていた。高校に入学してからは一年以上、毎日のようにこの道を通っているが、この白猫を見るのは初めてだった。
流れ者の野良かなと思いながらも、俺は少しスピードを緩め十字路の安全を確かめるためにカーブミラーに視線を移す。すると、ミラーにはスクーターが映し出されていた。
「えっ?」
後一歩で十字路に踏み入る猫に、ミラーに映し出されたスクーターがどんどん近づいてくる。俺の脳裏には白猫が轢かれるイメージが浮かび上がった。
「嘘だろ」
猫が轢かれる!
道路で轢かれて死んだ猫なんか今まで何度も見てきたが、目の前で轢かれる瞬間なんか一度も見た事なかった。これが人間なら、『止まれ』と、大声で制止を呼び掛けるんだろうが、猫では言葉が通じず、意味が無い。
どうしようもないと、脳はいち早く諦めたが、反面、体は猫目掛け全速力で駆け出していた。
十字路に飛び出した猫に気づき、スクーターがブレーキを掛ける。音に驚いた猫は立ち止まり、顔をスクーターに向ける。
そんな中、俺は速度を落とさずに猫に飛びつく。野球のヘッドスライディングのように、又はバレーのフライングレシーブのように飛びつく。
指先が猫の体に触れ、押し出すように弾くと、体に衝撃が走った。
「なぁッ!」
猫を弾いた俺の体をスクーターが弾いた。
前輪に体を押し上げられ、俺の体は宙を舞い、カーブミラーの支柱に足を打ち付け地面に落ちた。
背中と足に痛みを感じた。特に支柱に打ち付けた足は痛みと共に、燃えるような熱さを感じた。
「うっ······っ痛ぅ······」
痛みで呻くと、スクーターの運転手はぎょっとした顔で俺を見た。半帽のヘルメットを被った、化粧の濃い女だ。仕事に向かうのかスーツを着ていた。
「······あっ······そっちが······飛び出し······くっーー!」
女は言い終える前にスクーターを走らせた。要するに轢き逃げした。
ここで本当なら、『待て!』と呼び止めたり、スクーターのナンバーを覚えるべきなんだろうが、痛みと熱さで俺は蹲り呻く事しかしか出来なかった。
頭は打っていないと思うし、内蔵が痛むという事は無かったが、素直に喜ぶ事は出来なかった。
この足の熱さはなんなんだ? これってもしや······。
俺が足の状態の事を考えていると、猫の呑気な鳴き声が耳に飛び込んできた。
「にゃー」
良かった。猫は無事のようだ。
あれっ? この白猫を見るのは初めてのはずなのに、この鳴き声をどこかで聞いたことがあるような気がした。俺はどこで聞いたんだったかな?
猫の事を考えていると、またズキンと痛みが足に走った。
「痛っ!いってえよぉ······」
痛みが増して行くのとは反対に、眠気が俺を襲って来た。いや、これは眠気と言うより、意識が遠のいて行っているのか?
無意識に目がどんどん閉じていき、視界に靄が掛かったようにぼやけて何も見えなくなった。痛みはしないが、もしや頭でも打っていたんだろうか。
ああ、意識を失う。そう覚悟した時、耳元で俺を呼ぶ声が聞こえた。
『貴之』
母さんの声だ。
『貴之!』
なんだろう?
もしかして俺は臨死体験をしているのか?
『貴之! 起きなさい!』
起きろって言われても、足も背中も痛いしむりだよ。
『朝だって言っているでしょ! 起きなさい!』
朝?
その言葉に反応し、ばっと起き上がる。
「やっと起きた。携帯のアラーム鳴りっぱなしでうるさいっていったらありゃしない。ご近所迷惑になるから、早く止めなさい」
起きると目の前にはパジャマ姿の母さんがいた。
「······あれっ? 事故は?」
「事故? まだ寝ぼけているの。ほら、さっさと支度しないと月曜から遅刻するよ」
「······ああ、うん。分かったよ」
そう返事をし、俺はうるさいと言われた携帯のアラームを止めた。
アラームは大音量であったが、俺を起こす母さんの声の方が大音量で近所迷惑な気がした。まあ、そんな事言ったら更に大音量の声で、『だったら自分で起きなさい』って言われるだろうから、俺は反論しなかった。
こう言うのを処世術って言うんだったかな?
それにしてもリアルな夢を見たな。夢なのに痛みを感じたし、起きた今だって心臓が高鳴っているよ。思わず夢の中でスクーターに跳ねられた足を確認してしまう。
「······なんとも無いな······やっぱり夢か······」
「何ぼそぼそ言っているの。母さんパン焼いちゃうから、さっさと準備して来なさい!」
俺が足をペタペタと触りながら怪我をしていないか確認していると、母さんがどたかと部屋を出て行った。
部屋から居なくなるのを確認し、俺は携帯に手を伸ばした。携帯には彼女の桃原くるりからメールが来ていた。
『貴くんおはよー。今日から学校だね。授業中に寝ちゃわないように、お互い頑張ろうねー』
可愛いメールだった。俺は笑みを溢す。
『おはよう。くるりちゃんと同じ学校だったら、寝顔見られたのに残念だな。よーし、くるりちゃんとの週末デートを糧に今週も頑張るぞー』
返信し、学校に行く準備を始めた。
この時にはもう夢の事など頭から消え、くるりちゃんの事でいっぱいになっていた。
くるりちゃんは先月の初め頃、友達の笹井勝と街で遊んでいた時に出会った子だ。
勝とくるりちゃんは同じ中学だったので、久しぶりや、中学の同級生の近況を話していた。俺は、他校の内輪ネタが分からなかったので、先に店にでも行っていようかと思ったが、くるりちゃんが可愛かったので、知らないながらも話に混ざり、『そうなんだ』『へぇー』『なるほど』『マジっすか』と、相づちを打っていた。
すると、俺の相づちが面白かったのか、くるりちゃんが面白いね、アド交換しようよと言ってきた。くるりちゃんは小柄な体格で、ブラウンに染めたセミロングの髪にゆるふわのパーマをかけていて、幼い容姿も相まってか、おっとりとした雰囲気を醸し出す美少女だった。
俺は二つ返事でアドレスを交換した。
美少女とアドレス交換を拒む高校二年生の男なんていないだろ。もしいるとしたら、相当なモテ男か、色恋とは無縁の世界にいる仙人のような、煩悩など微塵もない男だろう。
まあ、モテ男はともかく、仙人のような男はいるはずもないか。思春期と言う性が暴走する俺達のような年代で、仙人になるのは、偏差値四十の男が全国模試で一位を取ることよりも難しいだろうな。
俺はパジャマ代わりのジャージを脱ぎ散らかして、よれよれになった制服に着替え、フェイクレザーのバックを肩に掛け、ワックスを握り洗面所に向かった。
さあ、ここからが本番だ。俺は寝癖で潰れた髪を濡らしワックスを手に取り、髪型を整え始める。
ここから十分にわたる格闘の時間だ。俺の髪型はトップを立たせ、前髪を横に流すものだ。このトップと前髪のバランスを整えるのは至難の技だった。
まあ、母さん曰く成功した時も失敗した時も大差ないらしいが、俺達高校生からしたら全然違う。このセットが上手く行くかどうかは今日一日の学校生活に大きく影響する。
まあ、正しく言うと、学校生活が終わった後のデートに影響すると言った方が良いかな。
いつなんどきデートが入るか分からないから、髪は整えておかねばならないな。備えあれば憂いなしってね。
十分程掛け、ワックスで髪型を整えていた俺を、母さんが目覚ましよりもけたたましい声で呼んだ。
「貴之! いつまで洗面所にいるの。電車出るよ」
「今セット終るから大丈夫だって!」
髪から手を離さずに答え、俺はセットを続けた。高校二年生の男にとって、このセット時間は電車に乗り遅れそうで、道路を全速力で走る事になろうとも、確保せねばならない時間だ。
うん? このやり取り夢でもあったような気がするな?
ああそうか、毎朝やっているやり取りだから、夢にも出たのか。疑問を即論破した俺はセットを続けた。
鏡に映る自分の髪型を念入りにチェックし、バッチリ決まったのを確認した俺は、「オッケー」と、自分に合格の言葉を発して、洗面所を出た。
リビングに入ると、テーブルには十何分は前に焼き上がっただろうトーストが皿に乗せられ置かれていた。
「あんたがもたもた準備しているから、パン冷めちゃったよ」
「ごめんごめん」
謝りながらトーストにジャムを塗り、口に入れる。
「もう一枚焼く?」
「ううん、大丈夫。待っていたら電車に乗り遅れるからさ」
パンを勢いよく頬張りながら俺は言うと、グラスに注がれていたお茶で喉の奥に流し込む。いつもの日常の風景だ。
「ごちそう様! じゃあ行ってくるね」
そう言い立ち上がり、椅子の横に置いておいたバックに手を伸ばすと、母さんが呼び止めた。
「ちょっと待って。ほら、テレビ見て」
母さんに言われ俺はテレビに視線を移す。朝のニュース番組が映し出されていた。高校二年生の俺としては、朝のニュース番組なんか、占いとスポーツコーナー以外には興味関心などゼロなので、流れていても気にも留めていなかったが、その内容に俺は息を飲んだ。
『昨夜八時頃、幸島市飯鳥町で通り魔事件が発生致しました。被害者は二十代男性で、背部を刃渡り二十センチの刃物で刺された痕があり、同市では半年前から同様の事件が三件あった事から考え、警察では同一犯の犯行と考え、捜査を進めているとの事です』
「······このニュース知ってる······」
夢の中で見たニュースと同じ内容だった。
「昨日の夜のニュースでも取り上げていたしね。犯人がまだ捕まってないようだし、半年前には貴之と同じ年頃の高校生も刺されて亡くなったでしょ。夜遅くなるような時はお母さん迎えに行くから、連絡して」
昨日の夜に見たから知っているのか? 確かに九時台のドラマの後に五分くらいのニュースの時間はあるけど、いつもその時間は携帯をいじっているので、見ているとは思えない。
じゃあ無意識に耳を傾けていたから知っているのか?
そうだ、きっとそうに違いない。俺は言うと強引に答えを出す。
「大丈夫だって。時間ヤバイから行くよ」
事件の現場を映している画面の端には七時四十一分と映し出されていた。走っていかないと電車に乗り遅れる時間だ。
「じゃあ行ってくるよ!」
「気を付けてね。いってらっしゃい」
俺は今度こそバックを掴み、家を飛び出した。
全速力に近い速度で走りながらも、今朝の夢を思い出していた。
夢で見た内容なのに、今朝のやり取りからニュースの内容まで一致しているように感じた。
こう言うのをなんと言うんだっけ······そうだ、デジャヴだ。一度も体験した事がないのに、体験した事があるように感じるとかいう不思議体験だ。
あれ?
でもデジャヴって、夢で見たものにも適応されるんだっけ? こう言うのは俺じゃ分かんないから、学校に行ったら勝に聞いてみるかな。
俺の一番の友達と言っても良い、笹井勝は、勉強はそこそこなくせに、雑学と言う分野では秀才と言って良い程の知識量を誇っていた。
この間も、中東の魔術やら、日本の陰陽師の陰陽道について、あいつの彼女の彩と一緒に語り合っていたっけ。それに巻き込まれて、最近では俺まで雑学に詳しくなって来ている。
そんな事を考えていると、見通しの悪い十字路に差し掛かった。
夢の中では猫を助けようとして、ここでスクーターに轢かれたんだっけ。そう思っていると、反対側の道路を歩いてくる猫の姿が目に飛び込んできた。
猫は夢と同じ白猫だった。
「嘘······だろ······」
これもデジャヴなんだろうか。
それじゃあこの後は······。
走る速度をやや緩め、俺はカーブミラーに視線を移した。そこには近づいてくるスクーターの姿があった。
「······ッ!」
これもデジャヴなのか?
ここまで一致してしまうのもデジャヴと言えるのか?
どうする?
猫を助けるべきか?
けれど、ここで猫を助けたら······俺が轢かれる。
猫の命を犠牲にすれば、俺は助かるんだ。じゃあ、別に助ける必要なんかないんじゃないか。
猫には悪いが、誰もが自分の身が大事。骨折と猫の命を秤に掛ければ······助ける必要はないだろ。心の中で猫にごめんと謝ると、スクーターのけたたましいブレーキ音が道に響いた。俺が思わず耳を塞ぐと、猫はその音に反応し、前に飛び出し、迫り来るスクーターのタイヤをかわし走り抜けた。
なんだよ。避けられるんじゃん。
夢の中の助けようとして足を轢かれた自分が、馬鹿みたいだった。
スクーターの運転手である半帽を被ったスーツ姿の女性は、猫を避けた勢いでバランスを崩し転んだ。
えっ?
この女の人も夢と一緒だった。
俺はその女性に駆け寄った。もちろん、怪我をしていないか心配だったというのもあったが、顔を見たかったからだ。
夢の中でこの女性の顔は見ていた。化粧の濃い顔を。
「大丈夫ですか?」
声を掛け、駆け寄ると女性は立ち上がりスクーターを起こした。ストッキングが破け、膝からは血が出ていた。
「······大丈夫。······ねえ、猫は轢かなかったよね?」
女性はハスキーがかった声で俺に聞いてきた。その声は化粧の濃い大人の女性といった風貌と良く合っていた。
「······あっ、はい。猫は避けて走っていったんで大丈夫ですよ」
俺が答えると、ふぅーっと一息ついた。
「良かった。轢いて血で汚したら、これで運転するのも嫌になる所だったわ。私って猫とか動物の血は嫌いなのよ」
女性は猫の安否ではなく、スクーターを汚していないかどうかを気にしていたらしい。
猫が轢かれるのを止めようとしなかった俺が言うのもなんだけれど、酷い女だ。
「······」
女性は返事をしない俺の顔をまじまじと見ると、スクーターのエンジンをかけ直し走り去っていった。
俺はその女性の後ろ姿を眺めた。夢の中の女と同じ顔をしたその女性の後ろ姿を。
これは本当にデジャヴなのか? デジャヴってここまで一緒に思えるものなのか?
俺は呆然とその場で立ち尽くした。自分の見た夢がここまで現実と一緒だった事に唖然としながら。
まだ夢を見ているんじゃないのか? 頬でもつねって確認してみるか?
そんな考えを続けていると、遠くから踏み切りの降りる音が聞こえてきた。慌ててポケットから携帯を取り出すと、時刻は七時五十二分と映し出されていた。
「······遅刻だ」




