亡国姫の祈り
ーーソレらが初めて現れたのは、今より十五年は前だったそうだ。
始まりは、この父なる大地の果ては果て、大陸最北端の大山脈。ヒュペルニア山の奥深くだと伝えられている。そこから、ヤツらはやって来たのだと。
初めに被害にあったのは、雪原を生活の場とする少数民族であった。優秀な狩人であった彼らも、ヤツらにとってはただの獲物でしかなかった。瞬く間に殺されゆく部族達。しかし、彼らの危急が伝えられることはなかった。元来、外界との接触に乏しく、厳しい雪原に生きる彼らの様子を見ようなどという者は皆無であったから。
ようやく事態が発覚したのは、北方の都市国家から、命辛々逃げ延びてきた行商人が大陸中央の王国へと駆け込んだのが切っ掛けであった。
ーー北方の都市国家が化け物によって陥落した。
ーー生き残りは我々だけだ。人々は皆貪り喰われた。じき、ここにも大挙してやってくる。
始めはその訴えに半信半疑だった王国の人間達も、送り出した偵察隊が尽く帰って来なかった事を受け、ようやく重い腰を上げて対応に乗り出した……が、全ては遅すぎた。もしくは事態を軽く見過ぎていた。
大陸中央に布陣した重装歩兵と軽装騎馬、長弓部隊が混合した王国軍一万二千。大陸中央という交通の要衝地であり、それを理由に幾度となく侵略された国家。そして、その全てを跳ね除けた精強なる軍隊。
迫り来る敵を長弓の斉射で射抜き、隊列の乱れた所に騎兵の突撃、散り散りになった敵兵を重装歩兵で踏み潰してゆく。強者たる彼らに小手先の技は要らず、此度の戦いも正面から全てをうち砕ける。そう、彼らは信じ……
「撤退を、撤退をさせ……ぎゃあっ!」
「なんだ、何なんだよこいつら!?」
「都市部にだけは侵入させるな、門を閉ざせ! 他国に救援要請を、早くしろぉぉおお!」
そして、なす術もなく蹂躙された。戦いどころか、それは抵抗とすら呼べなかった。
まず、大地を埋め尽くす、これまで見たことのないようなおぞましき姿に戦意を挫かれた。何とか立て直して戦闘を開始しても、相手の能力を把握しきれず対応が後手に回った。そして何よりも、生物として当然の如く備えている筈の生存本能を一切蔑ろにした、死を厭わぬ波状突撃。
ただの蛮族であれば、正面から打ち破れた。猛獣であれば、数の暴力で圧倒出来た。たが敵はこちら以上の能力で、こちら以上の数を持って攻め寄せてきた。
大陸中央の雄、軍事と交易の中心であった王国が陥落するまでに要した時間は、たったの二日。住民は逃げ出す時間すら得られなかった。辛うじて、援軍を求める伝令兵が各国へと逃げ延びたのみ。
そして、それが意味するのは中央から東西南北への大陸分断だった。
そこから続くのは、いっそ清々しい程の人類敗北の歴史。東西南北に点在する国家による連合軍の反抗作戦とその大敗。疲弊した国家と中央よりじわじわと広がる敵の侵略域。陥落する無数の都市。故郷を捨てざるを得ず、大量に発生する難民。護衛すらないそこへ襲いかかる化け物たち。
人類の劣勢が明確になるに連れ、いつしかその軍勢は蝗の群れを表す「バトス」と呼ばれるようになって行った。土地を流離い、人を貪り、通った後には何も残さぬ収奪者の大群。人類はその生息域を奪われ、少しずつ大陸の外へと追い詰められて行った。
人類が十五年も耐えることが出来たのは、ひとえに騎士や兵士、魔術師の賢明な挺身の結果で有った。堀を、柵を築き相手の侵攻を遅らせ、時に自らが肉の壁となって食い止め生み出した貴重な猶予。それが僅かな時間稼ぎに過ぎずとも、力無き民を守るべく全力を尽くしたのだ。
しかし……それも最早限界を迎えようとしている。
大陸最西端、ハルパリウス王国が王都。背を峻厳な山に包まれ、近くを広大な湖と運河に囲まれた広大な都。そこに聳え立つ王城は大陸随一の美しさと謳われる名城であった。
しかし、その美観もかつてのもの。白かった外壁は薄汚れ、整然と並んでいた衛兵の代わりに、避難してきた難民がひしめき合う。城内には負傷した兵や騎士が満足な治療も受けられず並べられ、苦悶と絶望の空気が満ち満ちていた。
ハルパリウス王国王城。その単語が表す意味は今では「大陸随一の美城」から「人類最後の砦」へと変わっている。険しい山がバトスの侵攻を防ぎ、広い湖から僅かな糧を与えられ、人類は辛うじて命脈を保つ事に成功していた。しかし、国家としての機能はとうの昔に停止し、民を導く筈の王や高官はバトスとの戦いで力尽き。残されたのは無数の飢えた民と……王の遺児たる年若き姫君「ユリティア・ハルパリウス」のみである。
王城の奥深く。座るべき王も、侍るべき臣下も姿を消した空虚な玉座。そこの前に、かつては豪奢であったろうくすんだ白い装束に身を包んだ少女が跪いていた。傷み、ほつれた長い金髪。痩身とも言えぬ痩こけた身体。小刻みに震える、組み合わされた両手。
これこそ、ハルパリウス王国最後の王族、ユリティア・ハルパリウス。齢十二の少女は縋るように玉座の前で祈り続けていた。
「誰か、誰か……我らを御救い下さい」
鈴の音のような美しく、しかしてか細い声が玉座に響く。一種厳かな雰囲気を醸し出すその光景は、人類の滅亡が目前まで迫っていることを如実に示していた。
王族とは民を導く存在である。平時は法を司る番人となり、乱世に置いては敵を打ち砕く先導者。それが民草の上に立つ者の役目であり義務である。
「どうか、どうか。我らの世界を御救い下さい」
たが、この少女が出来ることは祈ることのみ。本来ならば叩き込まれる王の素養、帝王学。それを教わる前に王たる父や高官たちを失った少女に出来る事など、何一つなかった。しかし、齢僅か十余年の幼子に何かを求めるのは酷過ぎるだろう。
そう、ここに居るのは王族最後の姫君などでは無い。
「どうか、どうか……!」
徐々に迫り来る死の恐怖、王族という重圧、何も出来ぬ自分への絶望。祈りという代償行為に慰撫を求めるしか無い、哀れな少女がいるだけだった。
「あ、ああ……」
そんな彼女の耳に届く、不気味な地響き。それは無数のバトスが王都を覆う城壁へと殺到する音であった。二日前、王都を守っていた最後の警備隊が壊滅している。阻む者が居なくなった蝗の群れは、今まさに王都最後の守りを食い破らんとしていた。
「いや……いや、いや、いやっ!」
小刻みに震える体を抱きし、縮こまる少女。瞳に涙を浮かべ、耳を塞ぐ。
「お父様、お母様、伯父さん、みんな……誰でも良い。誰か、誰か……!」
徐々に大きさを増す地響き。ざわつき始める民の声。軋みを上げる城壁の悲鳴。それらに耐えかね、ユリティアの口から思わず言葉が漏れる。
「誰か……助けて」
それは、無力な叫びであった。誰にも聞き届けられる事無く消える、無意味な慰撫であった。答える者など存在しない嘆きであった。
そのはず、だった。
「え……」
そう。城壁前に広がる平原へ、無数の榴弾が降り注ぐ、その瞬間までは。地響きもざわめきも軋みも呟きも、全てを消し潰す爆音が王都中に響き渡り、凄まじい豪炎を上げる、その時までは。
救いなど、この世界には存在しない筈だった。異界の軍勢が現れる、いまこの瞬間までは。