[2ー3]最後の笑顔
――おなかの横側が痛い。両足もだるくて重くて、まるで『ちょっと休もうよ』って言ってるみたいだ。だけど足を止めることはぜったいぜったいできない。
やっともどってきたエントランスを突っ切って、さっきは暗い気持ちで歩いていたろうかも全速力で駆けぬけた。リューの部屋はこんなに遠かったっけ。なんでもっと速く走れないの。
お家のはしっこ、一番おく。目指すとびらが見えたとたんにじわっと視界がうるんだ。
「リュー! お母さんが! お母さんがアンをよんでるの! アンはどこ行ったの!?」
ぼくはノックもせずに部屋に飛びこんだ。テーブルの向こうにいたリューの顔色が一瞬で変わった。
「お母さんどうした!?」
「お庭で、おなかが、痛いって……まわりにいっぱい、ち、血が……」
リューの服をぎゅっとつかんで見上げる。鼻のおくがツンとしてきて思わずすすり上げた。どうしよう、お母さんが死んじゃったらどうしよう。
直後、ぼくの両肩に大きな手が置かれた。
「――俺が行く。ウィル、お母さんのところまで案内して。大丈夫だから」
「リュー、でも」
「アンはもう少ししたら帰ってくるよ。そしたらウィルはすぐ庭園に来るようにアンに言うんだ。いいね?」
ぼくはなんとかうなずいて、リューといっしょに部屋を出た。
リューは目が悪くても走るのは速かったからすぐに庭園に着くことができた。お母さんのそばには侍女がふたりいてオロオロしていた。
リューが何か言って、侍女たちは走っていった。次に丸くうずくまってるお母さんをあお向けにするのを手伝った。お母さんは汗だくで、両手でおなかを押さえて苦しそうだった。腰から下がぐっしょりぬれて、ところどころ赤くそまっていた。
「それじゃあウィルは部屋でアンを待ってて」
「ぼくにできることは!?」
「アンを、連れてきて。頼んだよ」
リューは小さく、だけど力強く笑った。ぼくはくちびるを引き結んで、大きくうなずいた。両手をぎゅうっとにぎりしめる。
「お母さんを、助けて。リュー、お願い……!」
それだけ言って、ぼくは走った。目指すは家の表門。
とても部屋でなんか待っていられなかった。
どれくらい時間がたっただろう。もしかしたらほんの十数分だったのかもしれない。けれどぼくにはおそろしく長い時間だった。門の外、ゆるやかにカーブした坂道を登ってくる人かげをぜったいに見落とさないように、ただひたすら待っていた。
ようやく待ちこがれた人を道の先に見つけたとき、ぼくはたまらず駆け出していた。
「アン! お母さんが! リューがよんでる!」
それだけでアンにはわかったみたいだった。場所だけ聞くと、やっぱりリューと同じことを言った。
「ウィルは部屋で待ってて。大丈夫だから」
肩を強めにたたかれた。そしてアンは庭園へ走っていった。
ぼくはアンから託された荷物をぎゅっとかかえて立ちすくんだ。
* *
のろのろもどったリューの部屋はなんとなくさびしかった。出むかえてくれる人がいないだけですごく広い部屋みたいな感じがする。
テーブルの上には三人分のカップとマフィンの入ったかごが置かれたままになっていた。ついさっきまでみんなで笑っていたのがなんだかウソみたいだ。
アンの荷物をアンのイスにそうっと置いた。そしてぼくはリューのイスの上でひざをかかえる。目をとじるとやさしい声が聞こえてきた。
『雪花人って聞いたことある?』
『セッカビト?』
『俺が、そうなんだよ』
リューのクスクス笑う声が耳にのこっていた。いつものあったかい笑顔もまぶたのウラに見える気がする。
リューは赤ちゃんが生まれてくるお手伝いをするためにここにいるんだよって、アンが前に言っていた。聞いたときはふつうにお手伝いをするんだと思っていた。だけどやっとわかった。あれは雪花人のワザを使うって意味なんだ。どんなワザかは知らないけれど、きっとお母さんを助けるために役立つ力なんだ。
だいじょうぶ。リューはだいじょうぶって答えてくれたし、アンもだいじょうぶって言ってたし。
でも不思議の力にはかぎりがある。雪花人のワザを使うことはリューの命を使うってことで。雪花人は白くなるから雪花人ってよばれていて、一度白くなっちゃうともう元にはもどらなくて――。
そこから先はとても考えられなかった。ひざに顔をうずめてできるだけ小さくなる。
イヤだ。
イヤだ。
イヤだ……。
ぼくにはもう時間の感覚がなかった。部屋にさしこむ光はとても弱く、あたりは薄闇につつまれていた。しずけさの中、ぼくはリューのイスの上でじっとひざをかかえて、ただ床を見つめていた。
急に外から何人かの足音が近づいてくるのが聞こえた。ハッと顔を上げた瞬間、とびらが開いて人が入ってきた。アンと使用人にささえられたリューだった。真っ白い肌に血の気のないくちびる。サラサラの髪の毛は銀色というより白に近かった。
「リュー!」
パッと駆け寄ったぼくにリューはうっすらと目を開いた。宝石みたいにキレイだったはずの目はもううすむらさき色ではなくなっていた。リューは白くにごったその目をほんの少しぼくの方に向けてくれた。
「……お母さんと、赤ちゃんは、大丈夫。……ウィル、ありがとう……」
清らかな微笑み。それが、ぼくの見たリューの最後の笑顔だった。
それから二日後、リューは息を引き取った。