[6ー1]懐かしい顔ぶれ
前髪がさらさらなびいている。鳥のさえずりに合わせ、瞼の裏で光が踊る。
ゆっくり目を開けば眩しい木漏れ日と青い空が目を射た。思わず腕で視界を遮って、俺は深く息を吐いた。
長い夢を見ていたような気がした。懐かしくて泣きたくなるような、きらきら輝いていた頃の夢を。
遠い過去に思いを馳せるのはいつ以来だろう――楽しい気持ちで思い出してほしいと言っていた彼の言葉通り、本当に楽しいことばかりが心に溢れている。
アンとリューと過ごした毎日。
アデレードやアッシュと知り合ってからのシアールトでの日々。
セイルの入学を機に移ったクラレットでの生活。
たくさんの笑顔が浮かんでは消えていく。どれももう戻ってはこない大事な思い出だ。
半身を起こすと膝の上から本が落ちた。読み耽っているうちにうとうと寝入ってしまったらしい。春の陽気に誘われ外に出てきたのは本当に久し振りのことだったのに、これではただの昼寝だ。
間に挟まれていたブックマーカーを取り上げた。細長い金属板はあれから幾度となく力を入れて曲げたおかげで反り返りは随分ましになっていた。表面はすっかりくすみ、細かな傷もかなり入っていたけれど今でも大事な宝物に変わりなかった。
――夢を見せてくれたのは、これか?
ふと思い浮かんだその考えは、妙な説得力を持ってすとんと心に落ちた。
これはただのブックマーカーだ。魔術道具でもなんでもない。
それでも不思議の力を発動したと思える所以は、彼がくれたものだという事実、その一点に尽きる。
ずっと一緒にいるよと微笑んでくれたあの人が、俺を元気づけようとしてくれたように思えてならなかった。楽しかったことは覚えておいていいんだよ。どんなこともひとつひとつ乗り越えてきたじゃないかと、そんなふうに。
ちりちりと小さな音を立てて揺れる飾り。その癒しの音楽をしばらく楽しみ、再び本に戻した。目を閉じて静かに深呼吸をする。
彼には見抜かれているのかもしれない。もう少し肩の力を抜いてごらんと言われている気さえする。
本を小脇に抱え、お気に入りの木陰を後にした。
表門の見える場所に差し掛かるとちょうど人が入ってきた。女性がふたりと男性ひとり――そういえば今日は母に来客があるのだったか。俺やセイルにも「必ず挨拶を」との言いつけがあり、どれほどの賓客だろうと思っていた。
立ち止まり眺めていたのはほんの十数秒。そのうち女性がひとり駆けてきた。軽やかな動きに合わせて赤い髪がしなやかに踊る。
「こんにちは!」
明るく溌剌とした声だった。俺は呆然と立ち尽くした。
緩やかに背を覆う赤毛。きらきら輝くオリーブグリーンの瞳。鼻周りにはそばかすがうっすら浮かび、血色の良い唇は両端が吊り上がって綺麗な弧を描いている。
その面持ちは次の瞬間不安そうな色に染まった。
「わたしのこと、わかる……?」
おそるおそる紡がれた声音は、耳が覚えていたそれより落ち着きのあるトーンに変わっていた。手足はすらりと伸び、すっかり年頃の女性という様相だが、
「……アディ?」
「そうよ! 久しぶりねウィルトール!」
少女がぱちんと手を鳴らした。
――ああ、彼女だ。
成長している。でも変わらない。輝くばかりの笑顔に確信を深め、ほうと安堵の息を漏らす。
いつも俺のやることを同じようにやりたがった少女。上手くできないと膨れ、早く大人になりたいと訴えた。目線の高さもずいぶん差があったはずだが、今や彼女の背丈は俺の肩を超えている。それだけの時が経ったのだとあらためて思い知らされる。「また明日」と手を振ったのがまるで昨日のことのようなのに。
「――もう、会うことはないだろうと思ってたよ」
「えっ、もしかして……迷惑だった……?」
「そうじゃない。アディたちとは急に会えなくなっただろう? 移住先、メリアントだっけ」
「そうよ。クラレットの対岸の街」
「そこもフォルトレストからはちょっと離れてるからね。会うのは難しいかなって思ってたんだ。……元気そうだな」
しみじみ呟けばアデレードの笑顔が弾けた。
「ウィルトールも元気そうでよかった。見てすぐにわかったわ。クラレットにいた頃とおんなじ」
「まあね。たった四年じゃもう変わらないよ」
「え、五年よ。ウィルトール間違ってる」
「……五年?」
僅かに眉を顰めた俺に構わずアデレードは宙を仰ぎ、頬に人差し指を添えた。
「クラレットを出る前、ウィルトールの誕生日にリボンを贈ったでしょ。あのときが十一で、今十六だから」
「いや、最後に貰ったのはリボンじゃないよ。小さな……」
「リボンよ。わたし、すごく迷って選んだもの。間違いないわ」
「そうじゃなくてさ、その次の年に――」
「ウィルトール……なに言ってるの?」
視線の先で、つぶらな瞳が揺れる。
陽だまりのようだった心の内に小さな影が落ちた。言葉を呑んだ俺に何を察したのか、先に口を開いたのはアデレードの方だった。
「あ……もしかして、なくしちゃった? リボン……」
詰まっていたのは時間にしてほんの数秒。だがアデレードの不安を煽るにはそれで十分だったらしい。オリーブ色の双眸が俺の肩口あたり――髪の結い紐に向いたのを見逃さなかった。彼女の視線は俺と目があった途端逃げるように逸らされた。
「いいの。五年も経ってるんだもの、当然よね。ごめんなさい、気にしないで」
「……リボンは部屋だよ。今日は、つけてないだけ」
そうっと上目遣いに振り返った彼女に俺は邸の一角を指差した。クラレットで使っていたものはひとつにまとめてしまってある。
「よかった」
少女の顔にほっと笑みが戻った。俺が小さく口の端を持ち上げてみせるとアデレードの瞳は再びきらきら輝き出す。
――リボンは前年の話だ。
最後に会ったのは俺が十九になる直前、彼女は確か十二歳だった。見晴らしのいい丘にあらたまって呼び出され、白い封筒を渡された。中には心のこもった手紙と手作りの品が同封されていた。
服の内側に落とした細い鎖に、服の上から指を這わせる。指の腹が伝える確かな質量は、それこそが真実だと誇示しているようだ。けれど今、彼女の澄んだ目からは嘘偽りなど一切感じられない。
どういうことだろう。
思い違いをしているのは俺の方なのか。ふたりで美しい夕焼け空を見たことも手紙をもらったことも、全て都合のいい幻だったのか。
俺が街を駆け回ったのは現実なのか夢なのか、彼女に降りかかった災難は――。
心がざわりと波打った。脳裏をよぎった光景に息が止まる。
「きゃあ、ウィルくん!? いい男になったじゃない!」
絶好のタイミングとでも言うべきか、のんびり歩いてきた同伴者が追いついた。アデレードの母親だ。
「……ご無沙汰してます、クラム夫人」
「やぁだフィルさんって呼んでよ、前みたいに。キミと私の仲でしょ」
きゃらきゃらと笑う姿は覚えているままだ。知らない人が聞けばぎょっと目を剥きそうな言葉だが、他意もなくあっけらかんとしたところはこの人の魅力のひとつだと思う。
ではフィルさんの後ろに控えるように立っているのがアッシュか。その佇まいは初めて会ったときを彷彿とさせるな――そう考えた瞬間、彼がそつのない会釈をして俺は目を丸くした。もう守られるばかりの子どもではないらしい。
「お久し振りです」
「アッシュ、きみも随分しっかりした……と言っては失礼か。でもセイルを見習わせたいよ。あいつ全然変わらないから」
「セイル、元気なんですね。何よりです」
アッシュの顔に笑みが浮かぶ。俺も小さく笑って返事に代える。
セイルは多分自室にいることだろう。今日の予定を強制され、今頃不機嫌極まりない態度でまわりに当たり散らしてそうな気がする。
あらためて三人の顔を順に見やった。本当に懐かしい顔ぶれだ。
「皆さんでフォルトレスト観光ですか?」
「違うわ、ご挨拶に来たの。わたしたち、メリアントから移ってきたのよ」
「え?」
「この街に住むの。これからよろしくね、ウィルトール」
ぽかんとした俺を見てアデレードがしたり顔になる。まるで悪巧みが成功した悪戯っ子のような目だ。絶対びっくりすると思ったわ、などとほくそ笑むその様は何となく弟に通じるものが……いや、結びつけるのはやめておこう。
そこでようやく気がついた。
「もしかして、今日の客人って――」
「あら! 聞いてなかったの?」
フィルさんが可笑しそうに頬を緩めた。
そういうことか。フィルさんに微笑み返す陰で俺は小さく息をついた。
必ず挨拶するようにと言われていた客――それが誰かは聞かされなかったし、俺も敢えて聞こうとはしなかった。母にまんまとしてやられたようだ。
揃ってエントランスに向かうと執事が取り澄ました顔で待ち構えていた。
「奥さまがお待ちでございます。ご案内いたします」
「じゃ、俺はこれを置いてくるので皆さんはお先に」
手にしていた本を軽く持ち上げてみせる。フィルさんが了承の笑みを返し、同時にアッシュが「あ、」と声を上げた。
「差し支えなければ私もついていって構いませんか?」
「えっアッシュ? 何言ってるの」
「実は父からの伝言を預かってまして」
「ラドルフさんが、俺に?」
「今ここで言えばいいじゃない」
「それは、ちょっと」
唇を尖らせるアデレードを前にアッシュは微苦笑を浮かべた。その陰でちらりと寄越してきた彼の目配せは少し気になった。クラム氏の伝言内容に心当たりはないが助け船を出すべきか。
「どうせ聞いても面白くないわよぅ」
俺が口を開くより早くフィルさんが姉弟の肩を抱いていた。
「ラウのことだもの、便宜を図れとかそういう話よきっと。アディは私と先に行きましょ。マリーが首を長くして待ってるわ」
順番に我が子の目を見つめてフィルさんはにっこり破顔した。押し切られたアデレードは不承不承頷いた。




