[3ー3]いつも一緒にいるよ
喉が痛い。やけくそになって大声を張り上げていたせいだ。声を上げて泣くなんてまるで赤ちゃんみたいで笑えてくる。でもすごくすっきりした。
薄手のカーテンがひらめいている。人の声がしないということは外にはもう誰もいないんだろう。アンも母さんもセイルの方に行ったんだ。追いかけてきてほしかったわけじゃないけど、事実を突きつけられたのは悲しかった。みんな、〝いい子〟じゃない僕には用がない。〝いい子〟じゃなければ誰にも必要としてもらえない。
奪い返した宝物をぼんやり眺めた。嘘みたいに反り返った細い金属片。こびりついた土汚れを爪でこそげると表面には細かな傷も現れた。僕の胸の奥がすっと冷えていく。
『ウィルが悲しいときはお母さんも悲しいと思うよ。もちろんアンもね。気持ちはみんなに伝わっていくから』
浮かんできた言葉はいつの会話だったのか――。どんな声かはもうあやふやだったけど、交わしたたくさんの言葉は大事に胸にしまわれていた。大好きなリューがくれた言葉だ。忘れられるわけがない。
「悲しい気持ちが大きすぎると間違っちゃうこともある、だったっけ……」
リューに言わせれば僕のしたことは間違いだったのかもしれない。だけどどうしても許せなかった。あんなにみんなから大切にされてるくせに、僕の大事な思い出にまで泥を塗ったあいつを。
鎖で繋がれた飾りが揺れるたびにチリチリと小さな音を立てる。僕に安らぎを与えてくれるその音は、優しかったリューそのものだった。やっぱり僕のことをわかってくれるのはリューだけなんだ。こんなときこそリューにそばにいてほしかったのに。
またじわりと涙が盛り上がった。震える唇を噛み締めて止めようとしたけど全然上手くいかない。僕はぎゅっと丸く縮こまって目をつむった。そして願う。
どうかこの気持ちがみんなに伝わりますように。
伝わって、みんなが悲しくなりますように。
ここを出よう。こんな家もうまっぴらだ。失敗しないようにちゃんと計画して荷造りもして、誰にも知られないようこっそり出てやるんだ。アンも母さんも僕がいなくなってからせいぜい後悔すればいい。追っ手がかかる前にうんと遠くへ行ってやるから。
――だけど。
果たして僕を追いかけてくる人がいるだろうか。
もうリューもいないのに。
よぎったその考えは胸をちくりと刺したけど、僕はすぐにそれを意識の外に締め出した。代わりにもう朧げにしか思い出せない彼の顔を一生懸命まぶた裏に浮かべる。リューはいつもにこにこ笑ってたのに、リューを想うとなんで悲しくなるんだろう。
「俺のことを考えるときは、嬉しい気持ちや楽しい気持ちの方がいいって言っただろう。忘れちゃったかい?」
懐かしい声が降ってきた。そんな気がして目を開いた。ぼんやり見上げると頭上に広がっていたのは見慣れた天井なんかじゃなく、光り輝く空だった。
しばらく呆けた。それからのろのろと身体を起こしてみた。細く青々とした草がさあっと揺れた。見渡す限りの草原を風が軽やかに吹き抜けていく。
――ここはどこだ?
こんなところは知らない。いつの間に来たんだろう。それもどうやって……。頑張って思い返してみても部屋に戻ったことしか思い出せないし、でも今いるのは確かに草原だし。
もしかしてベッドで泣いていたのは夢だった? じゃあセイルに宝物をめちゃくちゃにされたのも、夢?
はっと息を呑んだ。宝物がなくなっている。一体どこにやったんだろう……さっきまで両手で握りしめていたはずなのに。
慌てて辺りを見回そうとした瞬間、後ろから声が飛んできた。
「ウィル!」
そこに佇んでいたのは男の人だった。背がひょろっと高くて、銀色の髪がさらさらなびいていた。顔は何故かぼんやりしていてよくわからない。だけど優しそうに微笑む口許には見覚えがある気がする。
「あの……?」
「なんだほんとに忘れちゃった? 寂しいなぁ、あんなに仲良くしてたのに。仲良しだと思ってたのは俺だけってこと?」
「……リュー、なの?」
「なんで疑問形なの。そうだよ俺だよ。ほら、全然変わってないだろう?」
証拠と言わんばかりに両腕を広げてみせる男の人。背格好より何よりその楽しそうにクスクス笑う声が僕の胸を打った。無性に懐かしい、心揺さぶられるような声――ああ、僕はこの声を知っている。
知覚してしまえばあとは速かった。僕は弾かれたように彼の胸に飛びこんだ。
「リュー……!」
間違いない、リューだ。ずっと会いたかった。どんなときもそばにいてほしかった。
リューとの思い出が次々溢れてくる。いろんなことをお喋りしたり、一緒に勉強したり、約束破ってアンに怒られたこともあったっけ。街に出てたくさんのお店をはしごしたのもとても面白かった。
あの頃は毎日が本当に楽しかった。楽しかったことしか出てこない。
リューは僕の味方だよね、そう問おうと思ったらリューが背中をとんとんとなでた。
「みんな、きみの味方だよ」
「……嘘だ。アンも母さんも、セイルばっかり見てる。僕のことなんて誰も見てない」
「見てるよ。俺だって見てる。いつも一緒にいる」
「一緒じゃないよ! だって……いないじゃないか、リュー……」
泣きそうになって思わず目をつむった。唇を噛みしめていると頭に優しい感触を感じた。
「いるよ、一緒に。なんで信用ないのかなぁ。俺、嘘ついたことないって言っただろう?」
リューはお得意の軽い調子で嘆いたあと、「まあいいけどさ」と諦めの混じったような溜息をついた。その場にゴロンと寝そべった彼は頭の下で枕代わりに両手を組む。
「ほら、ウィルも寝ようよ。気持ちいいよ」
「今そんな気分じゃ……」
「いいからいいから」
しどろもどろに答える僕に構わずリューは手招きをする。……リューってこんなだったっけ。自由奔放な態度に戸惑いつつもひとりぽつんと立っているのは居心地が悪く、僕は渋々腰を下ろした。そうして彼の隣で膝を抱える。
一面の草原がまるで小川のような音を立てた。ちらりと横目に窺った銀色の髪も風にさらさらと吹かれている。あ、この感じはすごく懐かしい。
「俺の知ってるウィルは素直で、優しくて、悪いことしたらちゃんと謝れる子だよ」
リューの手が僕の背をなでた。泣きたくなるほど優しく、まるで幼子をあやすみたいに。
「……いつまでもそんなじゃないよ」
喉の奥が締まるような感覚を覚えて、僕は膝に顔を埋める。
――リューがいた頃はそうだったのかもしれない。けどあの頃はまだセイルがいなかった。兄弟が増えることをあんなに楽しみにしていたのに、今はそれが煩わしくて仕方ない。
アンも母さんも、それにリューも、みんなが期待するような人間に僕はなれていない。応えられる気もしない。それが申し訳なくて、悲しくて、苦しい。
背をなでられていた感触がぽんぽんと優しい手つきに変わった。
「本質は変わらないさ。それに、いつも俺にニコニコ笑ってくれた。……ウィルの笑顔好きだな。見てると嬉しくなる」
「……ニコニコしてたの、リューの方だよ。いつもリューが笑ってたから、だから僕もつられて」
「じゃあ作戦成功だ。笑顔は笑顔を呼ぶんだよ」
リューがクスクス笑っていた。大好きな大好きなリューの笑い声。聞いているだけで心が躍る。温かくなる。
――本当だ、と思った。笑顔は笑顔を呼ぶ。
リューは僕が笑うと嬉しいって言ったけど、僕だってリューが笑ってくれたら嬉しいんだ。
僕も仰向けに寝転んでみた。大の字に手足を伸ばして深呼吸する。
視界いっぱいに広がる青い空に大きな白い雲がゆったりと流れていた。爽やかな風が前髪をさらっていく。小川の流れるような心地よい草の音が耳朶を打つ。さらさら、さらさら――。
暖かな陽射しを浴びながら、僕は緑と土の甘い匂いを深く吸いこんだ。
「大丈夫だよ。ウィルの思う通りにやってごらん。きっとうまくいく」
リューの落ち着いた声が優しく染みこんでいく。凝り固まった心を解していく。
とても、穏やかな気持ちだった。
うん、と頷いて僕は目を閉じた。