第13話 呪いの魔剣に潜むもの
呪いの魔剣を握りしめ、刀身を見つめている。
その静かな様子には何もおかしなところはないように感じられる。
中年に差し掛かっており、髪も白髪が多いが、それでも鋭く引き締まった表情と鍛え上げられた体躯、それに物柔らかな親しみやすい性質でもって、未だに魅力を保っている彼。
そんな彼の中でも最も強く目を引くのはその瞳だ。
銀灰色のきらめきは、それを見つめる者に様々な印象を抱かせる。
侯爵としての威厳、騎士としての鋭さ、経験豊富な男性としての包容力に、貴族としての気品。
そのすべてが、モーゼスをモーゼスたらしめていると言っていいのだが、それはあくまで普段の話だった。
今、そんな彼の瞳はいつもとまるきり違う色に染まっている。
魔剣を握った瞬間、その瞳はいつもの輝きを失い、黒く濁り、淀んだのだ。
それだけで、私にはモーゼスが剣に飲まれたことが分かった。
彼をもってしても、この剣には敵わないらしい。
そう思ったのだが、しかし、ヨゼフの方は意外にも感心している。
「……静かなもんだぜ。普通ならこんなもんじゃないぞ」
そんな風に言って。
どういう意味か不思議に思った私は、
「どういう意味?」
と尋ねると、
「ああやって、しばらく動いてねぇだろ? あれがどういう意味か、分かるか」
言われてみると、剣を握ってから動かない。
刀身をじっと見て、そのままだ。
その意味は……だめだ。
私にはわからない。
そういう意味合いを込めた視線でヨゼフを見つめると、彼は答えた。
「あれはな、剣と戦っているんだよ。あのモーゼスの心を飲もうとする剣の闇と、正面から向き合ってる。そういう状態だ。あの男、相当強い心を持ってる……」
だから、ヨゼフは感心していた、ということらしい。
ヨゼフの言葉に、それを聞いていたタタールが言う。
「当たり前だ。モーゼスは我が国でも一、二を争う剣の使い手だぞ。武術自体の腕はもちろんだが、その精神もこれ以上ないくらいに鍛え上げられている……」
強い、とは思っていたがさすがにそこまでとは思っていなかった。
なるほど、だとすれば、あの剣に完全に飲み込まれずにいるのも道理というわけだ。
けれど、そんな彼でも、剣との戦いは厳しいらしかった。
顔にはどんな表情も浮かんでおらず、ただ刀身だけを見つめている彼だが、その首筋を見れば冷汗が浮かんでいる。
ぷるぷると剣を握る手も震えているし、なるほど、外側からは何をしているのか全く分からないが、それでも相当な戦いの最中なのだろうとそれだけで理解できる。
このまま続けてどうなるのか、私は見たかったのだが、ヨゼフは、
「……そろそろ危ないな。剣を奪い取るから、嬢ちゃん、ちょっと見張っててくれ」
と言って、近づいて行った。
これ以上は危険らしい。
ヨゼフは腕に巻き付けた布を握り締めながら、ゆっくりとモーゼスに近づき、剣の柄をとった。
そして、ゆっくりとモーゼスの手を剣の柄から外していき、一気に引いて奪い取った。
その瞬間、モーゼスの顔に表情が戻る。
「……!? こ、ここは……」
どうやら正気に戻ったようだ。
きょろきょろと周りを見つめながら、自分の状況を思い出したようで、
「なるほど……こうなるわけか。呪いの魔剣、確かにその名に恥じぬ恐ろしさだ……」
と自分の両手を見つめ、ポケットからハンカチを取って冷汗をぬぐいながらつぶやいた。
そんな彼に駆け寄ったのはタタールだ。
「モーゼス、平気なのか……?」
「あぁ、タタール。問題はない。が、恐ろしい経験だったな。剣を手放すのが少し遅ければ、完全に飲み込まれていたかもしれん」
「それほどか……」
と二人で話している。
私はと言えば、そこまで言われる呪いがどの程度か気になるところだ。
ヨゼフが慎重に壁に剣を立てかけたので、私はすぐに手を伸ばした。
「あっ……」
ヨゼフがそれに気づき、止めようとしたが、すでに私の手は剣に触れていた。
その瞬間、目の前の光景が遠くなり、どこかに突き落とされるような感覚がした。
◇◆◇◆◇
気づくと、そこは完全な闇の中だった。
周りには何も見えない。
何も存在していない。
そんな場所だ。
「……面白い経験ね」
きょろきょろと見回しながら、私がそうつぶやくと、
「そうかね? そんなセリフを言ったのは女性では貴女が初めてだよ」
と背後から豊かなテノールが聞こえた。
不思議に思って振り返ると、そこには非常に洗練された格好の、一人の男性が立っていた。
いや、浮いているのだろうか?
上下左右がはっきりしない上、地面がどこにあるのかもわからないこの状態で、立っているのか浮いているのかを判別するのは困難だ。
しかし、こんな状況で堂々としていられるのは、何かネジのはずれた者か、この状況が自らの意図するものである者だけである。
目の前にいる男性は、その台詞からして、後者であることは間違いないだろう。
「こんな完全な真っ暗闇なんて久しぶりだからね。夜でも外は月や星で明るいし、洞窟に閉じこもっても私にはまだ見える。けれど、ここは……。いい暗闇だと思うわ」
正直にそう言った。
ここは心地いい闇だ。
私の中の何かが、そう言っているような気がした。
私にとって、その感覚は至極自然なもので、特別なことを言っているつもりなど一切なかったのだが、男には奇妙なものに聞こえたらしい。
「貴女は……いったい、何だ? そんなことを言った者は……いや、心の底から言えたものは今まで、皆無だ。この闇は、原初の暗闇。人にとって心地いいものであるはずが……」
「そうなの? でも私は今、とても気分がいいわ。できればずっとここにいたいくらい」
そう言って、私は改めて男を見た。
奇妙な存在だった。
ここにいる、ということもそうだが、それ以上にその容姿が。
顔やスタイルは極めて整っているのは間違いない。
声も魅力的なのも。
けれど、そんなものよりも、もっと重要なのは、彼の頭には山羊のような角が生えており、さらにその背中には皮膜の張られた大きな翼があるということだろう。
尻尾は見えないが、もしかしたらあるのかもしれない。
つまり、彼はどう見ても人間には見えなかった。
彼は私のセリフに再度驚き、目を見張ったが、どうやら彼にとって都合のいい言葉だったらしい。
驚きをすぐに引っ込めて、猫なで声で彼は言うのだ。
「そうかね? だったらずっとここにいてはどうかな……なに、ここでなら、貴女はなにもせずとも暮らしていける。ただ、この暗闇の中に揺蕩っているだけでよいのだ。だから……」
それは甘い誘いだった。
魅力的で、深く心の奥底まで伸びてくるような声。
それに乗るのはひどく簡単で、心地のいい選択に思えてくる。
けれど。
「――そういうわけにもいかないのよ。依頼の途中だし、たぶん、戻らないと私は暴れることになってしまうでしょう? そうなると、ちょっとね」
と冷たく笑って返した。
男は、そんな私の反応に驚き、
「……ほう、催眠にはかからないのだね? なかなかの精神力をお持ちのようだ。――しかし」
そう言った直後、彼は私の目の前にいた。
そして、私の手をつかんでから、つづける。
「直接いじられてはさすがに耐えられないだろう?」
そう言って、私に何かをしようとした。
彼の手から何かが流れ込んでくる。
その感覚は、魔力と魂であることを私に告げていた。
つまり、彼は私の中に直接もぐりこんでどうこうしようと、そういうつもりらしかった。
ここはそのための空間というわけだ。
モーゼスも似たような目にあったのだろう。
そして、少しの間耐えたというわけだ。
私の場合どうなるかと言えば……。
「ひ、ヒィッ……!!」
数秒して、男はそう叫びながら私から手を放して後ずさった。
その顔は恐怖に震えているようで、私のことを化け物か何かを見るような目で見つめている。
「――どうかしたの?」
一歩、私が近づくと、彼はものすごい勢いて後ずさるが、私はそれを認めるつもりはない。
彼の後ろに壁を築き、その足を止めさせた。
下がった場所に壁があったことに彼は驚いて、
「な、なぜこの場所でこんなことができる!? ここは私の……!?」
などと言っているが、そんなことはどうでもいいだろう。
「質問はもう一杯したでしょう? 今度は私の番」
そう言って私は彼を壁際に追い詰めて、その額に人差し指を当てながら笑った。




