第3話 神殿からの転移
次に目覚めたとき、私の目の前にいたのは、あの美しき巫女ルル=リリストラではなかった。
視線がまずとらえたのは、床。
さきほどまでと変わらず、白い。
どうやら場所が変わったわけではないらしい。
周囲の景色はさっきのまま、ほとんど変わってはいない。
気絶する前に起こった全てが夢であって、私の身に起こったと思っていたことはただの幻覚にすぎなかったとか、そういう淡い希望は叶うことはないようだ。
そう、私の周りに広がる全てがはっきりと教えていた。
異世界に呼ばれたこと。
美しき巫女が確かに存在したこと。
そして、私がその巫女に腹部を刺されて大量に出血したこと。
そう。
建物の床は、あれほどまでに真っ白だったというのに、今やその美しかった床にははっきりと私のものらしい血液によって赤黒い水溜まりが出来ている。
その量たるや、体中の血という血、全てが流れたのではないかと思ってしまうほどの多さで、よくこれで今私は生きているものだなと思う。
そうだ、私は生きている。
意識もはっきりしていて、これから死ぬ予感もしない。
むしろ、さっきよりもずっと頭もすっきりしていて、調子が良いような気すらする。
私はおかしくなってしまったのだろうか。
それとも、人間というものは死の間際にこのような冷静で澄み渡った思考を手に入れるものなのだろうか。
分からない。
私にはなにも。
だって、どうしてこんなところに呼ばれたのか、それすらも分からないのだ。
それからすぐに気絶して、その後なにが起こったかなんていうことは、当然のことながら目覚めた直後に把握できようはずもないだろう。
けれど、ふと気づくと、私の視覚は奇妙なものをとらえていた。
触覚もだ。
なぜなのか全く分からないが、どうやらその感触によると私の腰と頭は誰かによって優しく把持されているようで、床の冷たい感触はしない。
それどころか、暖かく、大きな手の感触が血塗れの制服の外側からわずかに伝わってくる。
誰だろう、私を抱きかかえていてくれている人は。
どうして、そんなことをしてくれているのだろう。
そう思って、私はゆっくりと視線を上げた。
そこいたのは、男の人だった。
ここに来る前、地球の日本では見たこともないような、立派な体躯を誇る美丈夫だ。
顔はその身長と体格の割に甘く、優しげな印象を抱かせる。
一言で言って、イケメンとしか評価しようのない何者かが、私の体を支えていた。
しかし、それだけなら私がどこかで転んだ瞬間、どこかの誰かが私のことを支えてくれたのかも、で済んだのかもしれない。
けれどそうは言えない理由が、その男性の身につけているものにはあった。
銀色に輝く精緻な紋様の描かれた甲冑を、その男性は纏っていたのだ。
それが飾り物ではないことは、見ただけですぐに分かる。
なぜといって、いくつもの鮮血がその鎧にはこびりついているし、彼の足下には甲冑と同じような紋様の刻まれた立派な大剣が置かれている。
当然、その剣にも使用したあと、つまりは何かの血液が付着しているのだ。
彼は戦いをしていたのだ、とその瞬間に私は思った。
しかし、一体なにと戦っていたというのだろう。
ここは、あの巫女は、何かの神を奉じる人間だったのではないのか。
そうすると、この男はその巫女を守っていた人間だろうか。
それとも、反対に、この神殿らしき建物を攻めてきた何かなのだろうか。
分からない。
どう反応していいのか、なにを言えばいいのか分からない。
そんな私の心の内を見抜いたのか、それとも私が目覚めた瞬間に話しかける気でいたのか、その男は私を見て少し微笑み、安心したように力を抜いて言った。
「……良かった。目覚めたか……」
その声には偽りではない気遣いと、安心が籠もっていた。
どうやら、彼が何者であるにせよ、私を害するような存在ではないようだと感じ、私も肩から力が抜ける。
だからだろう、素直に声が出たのは。
「あの……」
ただ、なにを聞けばいいのかは全く分からなかった。
聞きたいことがないわけではない。
むしろ、いっぱいある。
ここがどこなのかとか、一体どうして私は呼ばれたのかとか、私が気絶してからなにがあったのかとか、あなたは何者なんですかとか、思い浮かべるだけでキリがないほどだ。
けれど男はそんな質問を止めるように言った。
「聞きたいことがいろいろあるのは分かってる。ただ、あまりここに長居するのはまずい。そろそろこの神殿は崩壊する」
「え……」
先ほどから驚きの連続だったが、その男の言葉に私はさらに驚く。
こっちに来てからの展開の数々に全く頭が着いていかない。
けれど男にしてみれば今はそんなことを説明している間も惜しいようだった。
「悪いな、後で全部説明するからよ。おい、全員脱出したか!?」
男はそれから大声でだれもいない方向へ向かってそう叫ぶ。
一体誰に話しかけているんだと不思議に思った直後、そこにばさばさと黒い何かが集まって人の形を形成した。
「……なに!?」
そして一瞬のあと、気づいたときにはそこには一人の漆黒の少女がいた。
暗闇を形にしたかのように深い黒色をした髪を二つに結んだかわいらしい、中学生くらいの年齢の美少女だった。
全体的に細く、貧弱な体つきであるが、それだけに人形のような雰囲気をしていて美しい。
目は青く輝いていて、海のように深く底の見えない感情が沈んでいる。
「……全員脱出したの。いまこの神殿の中に生存者は一人もいないの。転移しておっけーなの。……その娘、大丈夫なの?」
「おう、目が覚めたし、処置も良かったっぽいな。やっぱり年の功ってやつか?」
男のその言葉に、少女は少し眉を寄せて言う。
「……あんたに言われたくないの。それに、ただの思いつきだから、年の功とか一切関係ないの。それより、さっさと転移するの。もう安静にしていなくても大丈夫なの」
「そうみたいだな。おい、あんた」
男は私に言う。
「な、なに?」
「これから転移するから、少し変な感じがするかもしれない。ただ、大丈夫だから安心してろ」
「転移……?」
「あぁ、訳わかんねぇか。まぁ、仕方ねぇよな……ま、それも含めて後で説明すっから」
男に続けて少女の方が言った。
「その男はいろいろとアレだけど、嘘はつかないから大丈夫なの。何かあったら私がぶったたいてやるから、その点も安心しておっけーなの。あ……あめ玉あげるの。嘗めていると落ち着くし、その間に転移は終わるの」
それから少女は私の口に小さなあめ玉を投げ込んだ。
からん、と固いあめ玉と歯が軽くぶつかって音を立てる。
甘い……。
「落ち着いたみたいなの。転移するなら今なの」
「おし、行くか!」
そう頷き合った二人は、よくわからない言語で呪文らしきものをを紡ぎ出した。
たぶん、魔法だ。
それっぽい雰囲気が醸し出されている。
そんなものがあるだなんて、信じられない。
この世界ではこれが普通なのだろうか。
そんなことを思っているうち、彼らの体が不思議な光に包まれていく。
私も体もだ。
ただ、嫌ではない。
暖かくて優しい……春の太陽の下でひなたぼっこをしているかのようなそんな気持ちがする。
ふと気づくと、呪文は全て唱え終わったらしい二人が、最後の一言と何か言った。
後で思い出してみれば、それは魔法の起動に必要な鍵言語だった。
「……転移!」
男と少女の声が重なり、同じ言葉を発声した。
それと同時に、引っ張られるような感覚がした私は思わず目をつぶり、飴の味だけを思い出す。
転移する直前、男と少女が一言ずつ言った気がした。
「大丈夫だ」
「安心するの……」
それは柔らかくて、とても優しい声で、私は怯えがすっかりと消えた。
それから肩の力が抜けると同時に、私と男と少女の姿は、その場から完全になくなったのだった。




