第19話 逃亡
「……今更だけど、あれで良かったの?」
ナードラの街を歩きながら、イヴォンヌが眉を寄せて私にそう質問した。
曖昧な聞き方だが、それがどういう意味かわからないほど察しが悪いつもりもない。
彼女が言いたいことは、将棋などから金銭を恒久的に得られる権利を、煉獄の森という使いでのない土地の所有権などと交換して良かったのか、ということだ。
私は答える。
「別にいいわよ。イヴォンヌには言ったと思うけど、教えたものは私にとって大したものじゃないし……もともとただでいいと言っていたものよ? それで住む場所と生活の糧の得られる森が得られるというのは私にとっては望外のことと言っていいわ」
「そのあなたにとって"大したものではないもの"は帝国にとって革命に等しい衝撃を与えているのだけど……その調子じゃ本当にどうでもいいみたいね。全く」
ため息を吐いて、イヴォンヌは私が彼女に教えた魔物除けや将棋、リバーシの普及について語った。
どれも恐ろしい速度で普及していっているらしく、この調子なら一年も経たずに帝国全土に広まるだろうと言うことだ。
特に魔物除けについてはかなり重宝されているらしく、流通に大きな影響を与えているらしい。
今までは街と街とを行き交う交易馬車は魔物の脅威に対し、護衛を多く雇って対抗していたが、魔物除けのお陰でそのコストがかなり低減される可能性が高いという。
もちろん、盗賊などの被害についてはどうしようもないし、魔物除けを使っても関係なく襲ってくる魔物はいるにはいるが、それでも護衛の数を少し減らす、とか、護衛自身が怪我を負うリスクが下がるという効果は間違いなく期待できるから終局的にはコスト削減になるのは変わらないのだという。
まぁ、それくらいの効果はあるだろうな、と聞きながら少し上の空に近い心境で頷いていた私にイヴォンヌはため息をついて「本当に興味ないのね……」と笑った。
今、私とイヴォンヌは、私のナードラにおける拠点となる場所に向かっていた。
煉獄の森にある小屋が私の基本的な居所であることは間違いないのだが、冒険者もやってみたい旨、ナグレムに言ってみたところすぐに手続きをしてくれ、しかも冒険者組合所有の現在遊んでいる家屋を一軒譲るとまで言い出した。
いいのかと聞く私に、ナグレムは、
「貴女にいろいろ差し出させてばかりでは心苦しいからな……心ばかりの、お礼というか、懺悔というか……そんなものだ」
と言って頷いたのだった。
彼としては、さきほどの取引は不平等な、言ってしまえばほとんど詐欺に近いものだと感じていたのだろう。
森と税の免除程度では支払いきれないほどのものを奪い取ったのだと。
だから、私にある程度の便宜を図ることで、その良心の呵責を軽くしたいということだ。
気持ちは分からないでもなかったので、私はありがたく受け取り、今、まさにそのもらった家まで向かっているところだ。
老獪そうなのに妙に誠実なナグレムの性格を知れたのも収穫だった。
イヴォンヌがナグレムに渡されたナードラの地図と家屋までの案内のかかれた紙を見比べて道案内してくれているのは、私がまだここに来て数時間も経っていないからであり、ありがたい限りである
イヴォンヌが言うには、案内を見る限り、その与えられた家屋、というのは中央通り沿いにある結構よい立地の二階建ての建物らしく、独りで住むにはかなり広いらしい。
物売りの喧噪が響く中、楽しみながら街を歩いていき、たどり着いたその場所には、思った以上に大きくて立派な、瀟洒な家屋が建っていた。
「……中々いいところね」
イヴォンヌが見上げてそう言ったので、私が後を次ぐ。
「立派すぎるような気がするんだけど」
見上げる石造りの二階建てのその建物は、独りで住むにはいささか広すぎるように思える。
周囲には似たような家屋や店舗がいくつも連なっているが、ある程度の隙間が確保されて窮屈そうではない一軒家であり、庭もついていて、部屋数もかなりありそうだ。
丈夫そうな石造りの外壁は綺麗に掃除されていて、庭も手入れされているようで雑草などは見えない。
ただでくれるにしてはさすがに大盤振る舞い過ぎる気がするが……厳密にはただではなく、しっかり対価は払っているのだから、素直に受け取っておけばいいのだろうか。
染み着いた貧乏性は世界を越えたくらいで治癒することなく、日本にいたならば決して手に入れることなど出来なかったであろう理想的な一軒家におののいている私に、イヴォンヌは笑って言う。
「気にしすぎると禿げるわよ。住めば都っていうじゃない。そのうちなれるわよ」
私よりよっぽど堂々としているその態度はやはり高ランク冒険者であるが故なのだろう。
実際、この程度の家くらいなら問題なく購入できるくらいには稼いでいるらしく、中に入って家の内装を見るや否や「こういう生活もいいわね」とつぶやいて、家屋の購入を検討しだした。
しかし最後には「たまにここに来ればいいか……」などと言ってやめたので、我が家に入り浸る気満々なのだろう。別にいいけど。
家の内部もまたかなり整頓されていて、家具も基本的なものは備え付けられているようですぐにでも住めそうである。
清掃も行き届いていて改めて掃除する必要を感じない。
管理は冒険者組合できっちりやっていたということのようだ。
リビングに備え付けのソファに腰掛けながら、私よりよっぽどくつろいでいる妙齢の魔術師は案の定、
「たまに来てもいい?」
と言って私が入れた紅茶のカップを傾けたのだった。
◆◆◆◆◆
「……はっ……はっ……」
走っていた。
誰にも追いつかれないように、ただひたすらに。
追っ手は夜闇の中を無数の魔灯を揺らしながら物々しい鉄の音色を響かせて追いかけてくる。
裏道を組織的に攻め立て、逃げ道を封じ、少しずつ少しずつ、袋小路へと追い込んでいくその手法には感嘆を感じるほどに合理的だった。
けれど、どうしても捕まるわけには行かなかった。
いや、より厳密に言うなら、捕まる理由など、なかった、と言った方がいいだろう。
何も、悪いことなどしていない。
ただいきるために必死で走ってきただけだ。
そのことの何が悪い、と息も切れるくらいに身体を酷使しながら考えた。
口元から赤く垂れる血液がぼたりぼたりと地面にまるで足跡のように広がり、それが彼らに道を教えてしまっている。
先ほどまで食べていた食料から吹き出した血だ。
丁寧に拭っている暇などなく、軽く拭いたくらいで痕跡を消せるような量ではなかった。
だからそのまま走るしかなかったのだが……。
「いたぞ! こっちだ!」
――!?
男達の怒声が裏路地に大きく響く。
灯りが一斉にこちらを照して揺れた。
幾人もの追っ手が、こちらの場所を正確に掴み、距離を徐々に詰めていく気配に慄く。
まずい。
今にも追いつかれそうな焦りに背筋をなめられながら、それでもあきらめるわけにはいかないと走り出した。
この足を止めるわけには行かない。
止めたところで、どうにもならない。
死ぬわけには行かない。
だって自分こそが、一族最後の一人なのだから――




