第10話 生活力とは
しばらくの間、何が起こったのか分からずに私は放心しながら水に映る美貌の女の顔を見つめ続けた。
これほどまでに美しいものを、私はあの四人以外に見たことがなかった。
比べて私の顔など、ちんちくりんの平凡狸顔もいいところで、たまに物好きが愛嬌があるねと言ってくれるくらいの、美貌などとは程遠いそれであるはずだった。
けれど、実際に水面に映っているのは、紛れもなく現在の私の顔なのだ。
それ以外に人間など存在しない。
私が驚愕を表すと、水面の女も同じように驚いて目を見開き、一体これはどういうことなんだと言っている。
つまり間違いなく、水面に映っている女は、私の顔であった。
そして、ふと考える。
この顔が私だとして、それによって起こる問題とはいったいなんだ、と。
何か問題が発生するのだろうか、と。
そこまで考えて、驚愕と混乱に満ちていた私の思考は、徐々に冷静なものへと変わっていく。
そうだ。
そんなこと、考えるまでも無い。
私の顔が唐突に美しく変わったからと言って、それは。
「何の問題も発生しない、わね……」
ぽつり、と呟いた。
水面の女の口が意味ありげに動いた。
もしもここが地球の日本だったら、こんな風に顔が変わってしまったことは私にとって大きな問題となっていただろう。
次の日に学校にいってもお前誰だと言われるだろうし、個人証明をしようにも前の日からいきなり変わってしまっているからそれも難しい
整形したのと言い張ることも出来ないではないが、その場合、髪が問題だろう。
脱色したわけでも染めた訳でもなんでもなく、根元からはっきりと銀色なのだ。
数日過ごせば、それが完全な地毛であることは知れるだろう。
そして気味悪がられるか、事情を聞かれることになるだろう。
そうすれば、なんて説明すればいいのか。
まぁ、そんなことを言い始めたらそもそも学校に通える可能性もゼロなのだから、家から一歩も出ないくらいしか方法がなくなるのだが。
そうしようとしても、家族が私を私だと信じてくれるのかどうかというところも問題になるだろう。
次の日起きたら、娘の顔が絶世の美女に変わり、髪の毛が銀色になっていました。信じますか?
信じる奴なんてこの世に存在するとは思えない。
現実はそれほど甘くは無いのだ。
人間はその視覚によって情報の八割を仕入れている。
したがって、視覚的に間違っていると判断したら、八割方間違っていると判断したに他ならない。
よくある物語のように、姿かたちがかわったとしても、「あなたは私の娘よ……愛してる!」みたいな展開はありえない。
我が家の家族はみな、そのような感動的な性格をしていないのだ。
それどころか、冷めた顔で「お前は誰だ、出ていけ、警察呼ぶぞ」と言いかねない。
日本でなら、そんな風にありとあらゆる問題の発生が考えられた。
けれど、この世界なら、このどこともしれないどこかなら、私のこの容姿についていかなる問題の発生も考える必要はないだろう。
まぁ、襲われる可能性は上がるのかもしれないが、それこそ前にいた世界ではちんちくりんであってもそういう危険性は女であるというだけであった。だから今さらな話だ。
個人証明は、前の世界では地球とは異なってもっと簡素なもので行われており、それは成人がもっていなかったとしても問題ないと判断されるような微妙な品物だった。ただその場合税金が高くなったり店の割引がなかったりなど、不利益はあったのだが、即しょっ引かれるとかそういう事態の心配はする必要がなかった。
この世界でもそうであるといい。
人の姿すら今のところ認められないこの世界だが、どこかにはいることをまず前提としよう。
その場合、私の姿は、いかなるものであったとしても状況的には変わらない。
もともと個人証明を持っていないという意味では同じだからだ。
そして私の以前の姿を知る者もいない。
そうであるとすれば、私を見た者は私のことを今の容姿が本来のものだと無意識に考えるだろう。
それならば、何の問題もないではないか。
そういう結論に至った。
だから、私は気にしないことにした。
たとえ姿が変わっても、私が私であることに何ら変わりはない。
誰も問題としない。
それなら別にどうでもよいではないか。
そう思った。
湖の水で顔を洗い、それから周囲に落ちている枯れ木なんかを拾って一か所に集めた。
それから腰に前の世界にいたときから刺していたナイフを取り出し、周囲にある木から弾性の比較的高そうなものを選び、長めに枝を切る。
大賢者と吸血姫から学んだ魔術を使いつつ、木に魔力的強化を付与しながらその形を変えていった。
しばらくすると、私の眼の前には木で作った弓が出来ていた。
弦の部分には同じく魔力的強化を施した植物の蔓を使っている。
一応、狩猟をするにはこれで十分だとあの四人は言っていて、実際以前同じようなものを作って試したこともあるので、問題はないだろう。
矢も木を削り出して十本ほど作り、これで準備万端である。
私の今いる森はあまり人の手が入っていないのか、動物たちの人間――というか私に対する警戒心は薄いようである。
私が水を飲んでいるにもかかわらず、かなり近くまでよってきて、同じく水を飲み始める動物たちが結構いるのだ。
これなら、狩猟もそれほど苦労することはないだろう。
そう思って、私は弓矢を手に取り、森の中へと歩き出した。
水場で狩りをするのは何となくルール違反のような気がする。
安心しきっているところだし、それに動物の血で水が汚染されるのもあまり良くない。
血の匂いにつられて何か危険な動物がやってくるのも困る。
だからこそ、狩りは森の中で行う。
森の中はそれほど暗くはない。
太陽の光が木々の葉っぱの間を通って地面まで降り注いでいて、それなりに光量は確保されているのだ。
そこここに動物の息遣いや気配が感じられ、私一人が生活するだけなら問題のない程度の獲物が確保できそうである。
そんなことを思っていると、一匹の獣が私の前方、大体7、8メートル先をのそのそと歩いているのが見えた。
警戒心の全く見えないその様子。
飛んで火にいる夏の虫、とはこのことか。
私はゆっくりと弓に矢を番えほくそ笑む。
「ありがとう。私のごはん」
そう言って、私は番えた矢を放った。
◆◇◆◇◆
ぱちぱちとたき火の炎が燃え盛っていた。
揺れる火の周りには、木で作った即席の串に刺さった肉と魚が焼けている。
肉はさっき狩猟した動物、そして魚は湖に入って獲ったものだ。
どちらもいい匂いをさせていて、美味しそうである。
前の世界にいたときから持ち歩いていた岩塩と手製のおろし金を使い、まだ焼く前の、捌いた肉と魚に振っていく。
思いのほか量がとれたので、今日はごちそうだ。
この森は豊かで、思った通り、私一人が生活していく分には食事に不自由することはないだろう。
「そろそろいい頃かな」
両面をしっかり焼いて、中まで火が通ったのを確認し、私は串を火の周りから抜く。
そして皿代わりにと探してきた大きめの木の葉に抜いた串を置き、それから第二陣にと用意していた肉と魚を火の周りに刺した。
焼けた肉と魚を口に運ぶと、その野性的な調理方法に似合わず、上品な味がした。
捌き方がよかったからか、それとも塩がいいのか。
しばらく考えてみたがまぁ、どちらでもいいか、という結論に達した私は、そのまま食事を続けた。
そして思う。
生きていくのに、この森は何の問題もない。
人がいないのがたまに疵だが、まぁ、それくらいはいいだろうと。
地球に帰る方法は探したいが、この世界で果たして見つかるのかどうかわからない。
探すにしても、まずは拠点が必要だろう。
ゆっくり休めるところを作らなければな、と。
「明日からは、おうち作りでもはじめよかな……」
全ての食事を終えた私は、辺りに結界を張って寝転がる。
布団は無いが、辺りはそれほど寒くないし、着ている外套で夜気は避けることができるだろう。
これからの生活にさして不安のなくなった私は、そのままゆっくりと眠りに落ちていく……。




