第1話 プロローグ
本来は蒼く美しいはずの空は重く灰色の雲が垂れ込め、清浄なマナが泳いでいるはずの空気は邪気と毒気を孕み、息を吸う事すらも人を苦痛へと導いた時代がありました。
闇が、世界を包んでいたのです。
しかし、闇がそこにあるとき、それを照らす光もまた生まれるものです。
そんな苦しい受難の時代を終わらせようと四人の英雄たちが立ち上がりました。
勇者をはじめ、人族を代表する彼らは、神より授かりし最強の力を持ち、一人一人が一騎当千の英雄でした。
生まれも、育ちも定かではありませんでしたが、彼らはその存在と力を持って、功績を重ね、英雄として認められていきます。
そうして、彼らは際限なく現れる魔族たちを蹴散らし、魔王の住む城へとたどり着いたのでした。
城は、荒野の中心にぽつん、と建っていました。
その様子はどことなく寂しげで、また暗い雰囲気に満ち満ちていました。
世界のどこにも開かれていない、その破壊の権化の住まう城は、確かに世界のどんなところにある建築とも似ても似つかない、異様な形をしていたと言います。
そんな城を象徴するように、偉大なる邪悪を象徴すると言われる魔王は、世界で一人ぼっちでした。
ありとあらゆる魔族が彼に従いましたが、それは彼を好きだったからではありませんでした。
魔王は、全ての魔族を上回る力を持って、魔族を支配していたのです。
そんな魔王の住む城は、まるで一人ぼっちの魔王の心のうちを映し出すような、禍々しい彫像や彫刻に装飾されていました。
勇者たちは魔王の城を前に構えると、眼光鋭く敵の住むその場所を見つめます。
すると、いつの間にか、その城に一匹の蛇が絡みついていることに勇者たちは気づきました。
あれはなんだろう。勇者たちが首を傾げていると、その蛇は、ちろちろと舌の覗く口を大きく開きました。
一瞬、光が集束したかと思うと、眩しいほどに輝いたそこから、一筋の光線が地面をなぞりました。
巨大な蛇――魔王の口から放たれたそれは、辿った道を溶解、爆破させ、荒野の大地をどろどろとした赤い溶岩の流れる川へと変えていきます。
魔王の地形を変える強大な一撃に脅威と絶望を感じた勇者は、仲間達と相談して決めました。
あの子は、この場から逃がそうと。
勇者には、勇者と同じくらい強い仲間たちが三人いましたが、他にもたった一人、とてもか弱い女の子がいました。
勇者たちがなぜ、そんなか弱い女の子を連れて旅をしていたのか、それは分かりません。
けれど、魔王を前に、勇者たちは禁断と言われる時空転移魔術を使い、彼女を遥か彼方の時空へと飛ばしてしまいました。
魔王は、世界を破滅させるもの。
この世界のどこにいても、彼女に逃げる場所はないからです。
勇者たちは、彼女がこの世界でないどこかであっても、生きていられるならそれで本望だと思いました。
勇者たちは、それほどまでに深く、彼女を愛していました。
けれど彼女の名前は伝えられていません。
どんな本にも、その名前は残されていないのです。
彼女が誰で、どうして彼らと共にいて、そしてどこへ行ってしまったのか。
それを知るのは、彼女ただ一人だけ……
童話『四人の英雄とひとりの少女』より抜粋
◇◆◇◆◇
――私はどうしてこんなところにいるのだろう?
目の前の光景を見ると、そんな疑問が私の脳裏にふつふつと湧き上がってくる。
どんよりとした、重く垂れこめた雷光纏う雲海の下、どこまでも果てしなく続いているかのように平坦で不毛な荒野。
その荒野の一部に、不自然に聳え立つ禍々しい色彩と装飾で飾られた、巨大な城が一つ。
そして今、その巨大な城にまるでそれが玩具に見えるような大きさの、背に蝙蝠のような翼の生えた赤と黒のまだら模様の蛇がぐるぐると巻きついているのが見える。
地の底から世を呪うような地響きを誘う暗い声で、蛇は言う。
「……貴様ら、此度の所業、我を誰か分かってのことだろうな……!?」
心の弱い者ならそれだけで魂を破壊されると言われるその声は、意外にも女性の声であった。老婆のような皺枯れた声ではない。若い……そう、むしろ少女のような高く清い声である。
けれど、それでもその声は、人の声とは呼べなかった。
正しく、悪を司る悪神の声。闇を纏う夜の使者の声だ。
美しいはずなのに、清廉なものに聞こえるのに、なぜかその声が形作る一言一言に皮膚の下をざらざらとした舌で嘗めれられたような気分の悪くなる感触を感じるのだ。
あの蛇の名前は、魔王。
そして私は。
「……ほら、女神様。そんな怯えてないで、あいつに答えてやれよ。勇者たちがお前を倒しに来たんだってよ」
そう言って太く笑うのは、私の横で銀色に輝く精緻な文様の描かれた甲冑を身に纏う大柄の騎士だ。
顔立ちは身長の割に甘く、けれどその魔王を見る瞳に浮かんでいるのは物騒な悦楽の色だった。
左手一本でいかにも重そうな大剣を把持しながら、今にもその大柄の彼をしてすら比較すると米粒ほどにしかならないであろう巨大な敵に襲い掛かろうと足に力を込めている彼。
彼の名前は、勇者と言った。
いや、名前と言ってしまうのは違うか。
彼の“称号”が勇者なのだ。
「私はあんたらと違って普通の人間なのよ! なんでこんなところであんなのと相対する羽目になってるの!?」
生き物の範疇を超えたあまりにも巨大な魔王を見て、私はほとんど泣いている。
あれを倒そうなどとどうして言えるのだろうかと叫びたくなる。
なのに、そんなことは何でもないことだと涼しい顔で魔王を見つめる者が私の横に、勇者以外に三人もいる。
「やれやれ。あんなの、大きさだけですよ。膨らんだ蛙のようなものです。針で突き刺せば一発です」
そこには世界樹で作られた巨大な魔水晶の嵌った杖を持ち、巨大な魔力を込める銀髪の青年がいた。
男性、と呼ぶことを躊躇しかねない儚げな美しさを体現しており、細身のその体はその動き一つ一つが優雅で気品に溢れている。彼は、森人王種。森人種の中でも最も高位に位置する彼に、その存在の美しさで敵う者などいない。
「全くその通りですわね。ほら、よく言いますでしょう? 弱い者ほど……弱い者ほど、なんとかと」
銀髪の青年に続いてそう言ったのは、純白のローブを見に纏った、金の髪を持つ美女だった。肌もローブに負けず劣らず白く、肌理細かい。顔立ちもやはり美しい。
けれど、決してその顔は儚くはなかった。むしろただ微笑んでいるだけなのに、そこには獰猛な何かが牙を見せているかのような強烈な存在感と威圧感が放たれている。
華やかでいながら、攻撃性を失わない、そんな真紅の薔薇のような存在が彼女だった。
「……それを言うなら、弱い犬ほど良く吠える、なの。馬鹿が知らない言葉を無理に使おうとすることないの……ただでさえ、馬鹿なの。余計馬鹿に見えるの……」
ぽつぽつとナイフのような言葉をいくつも叩き込んだのは、漆黒がそのまま形をとったかのような少女だった。肌は新雪のように真っ白だが、着ているものの殆どが黒く、ただ髪を二つに結ぶ紐と唇だけが赤い。背は低く、体形も凹凸が少なく、動きはゆっくりとして全く活動的ではなさそうである。
「ぬあぁぁんですってぇぇぇ!!!!!」
そんな少女の言葉に怒りをあらわにした美女は、口が裂けるような表情で少女を睨みつけ、そしてその感情そのままに徐々に体を巨大化させていく。
それは決して見間違いなどではなかった。美女の口は避け、爛々と輝く瞳には縦に亀裂が入り、そして肌理細やかだった女性的な肌にはぴしりと罅が入ってボロボロとその表面が崩れていく。この光景に一番近いもの、それは爬虫類の脱皮に他ならない。美女の皮を被っていた何者かは、その姿をあらわにし、本性を見せ、周囲を威圧して巨大化していく。
そこにいたのは、一匹の竜。黄金に光り輝く鱗を見せる、伝説の生き物の姿。
「……やっぱり所詮は爬虫類なの。たかがデカいだけで威張り腐れると思ってるの。馬鹿なの」
そんな光景を誰よりも近くで見ていながら、怯えもせず、むしろ先ほどよりも切っ先の鋭くなった毒舌を叩き込んでいく少女。彼女もまた、その静かな表情とは異なり、先ほどとはその様子が違っていることに、ある程度の危機感知能力を持つ者なら気付くことだろう。
見た目は、変わっていないように思える。
しかし、先ほどは晴れ渡る空のように青く輝いていた筈のその両の瞳が、今や鮮血のように朱く血走っている。そして汚れ一つない純白の綺麗な並びをしていた歯の一部が、不自然に伸びているのが見える。それはどう見てもその少女には似つかわしくはない、牙、と呼ばれる存在にしか見えない。
少女の周りには蝙蝠が飛び交い、そして少女と同化し、また離れ、を繰り返している。少女の存在と魔力により支えられているその蝙蝠たちは、少女そのものであり、また少女の眷属でもある。
少女は人間ではない。少女は吸血鬼であった。
「鳥でも哺乳類でもないどっちつかずが爬虫類なめんじゃないわよ!」
世にも恐ろしげな形相で少女を睨みつける竜は、天地に響き渡る声でそんなことを言った。
それに対して少女は目を見開いて驚きを示す。
そして心底感心した、という風に頷き、言った。
「……たまに頭を使ったことも言えるの。爬虫類でもそれくらいの頭はあるの。でも残念ながら蝙蝠は哺乳類なの。絵本でも読んでその間違った知識を身に着けたの? やっぱり馬鹿は馬鹿なの」
「くっ……ああいえばこういう!!」
忌々しげにそう言った黄金竜は一度吸血鬼の少女を睨みつけると、諦めたように魔王の方に向き直る。
少女の方も今はこんなことをしている場合ではないと思ったのか、竜と同じ方向を見ながら言った。
「まぁ、喧嘩なんて後でしてあげるの……今はあいつを倒すのが先決なの」
「貴女が吹っかけてきた喧嘩でしょうが! イライラする! イライラするわ!」
一向に終わらないその応酬にため息をついた男二人が、少女たちに言う。
「お前ら真面目にやれよ……」
「その通りですよ。魔王だってほら、待ちかねているではありませんか」
見ると、確かにぐるぐると喉を鳴らす巨大な蛇が、こちらを今にも射抜かんばかりの眼光で睨みつけている。自分が無視されていることが腹立たしいのか、それとも自らの巨体に比べれば蠅にも等しい大きさの生き物をうっとうしく感じているのか、魔王の心のうちは分からない。
竜へと変わった女性の大きさをもってすら、魔王の大きさの四分の一もないことからも、その大きさが分かろうというものである。大きさとは、それそのものが力だ。
いくら彼らとは言え、あの存在に勝つのは容易ではない。
そんな風に感じられる。けれど彼らは決して冷静さを失わない。まるでそんなことは簡単だと言わんばかりに、次々と魔王に攻撃を加えていくのだ。
黄金竜の背に他の三人が乗り、魔王の元まで飛んでいくと、黄金竜がそのまま魔王に突っ込むと同時に三人は飛び降りてそれぞれ魔王に攻撃を加えた。
騎士の剣は雷光を纏って紫電に光り輝いており、その剣を振れば雷が魔王へと殺到した。その破壊力はおそるべきもので、巨大な魔王城の城壁を粉々にしていく。
森人王種の彼は持つ杖を一振りし、空中にいくつもの巨大な魔法陣を作り出した。彼が呪文を唱えると同時に、いくつも浮かぶ魔法陣から様々なものが飛び出して魔王を襲う。それは雷だったり、氷塊だったり、漆黒の炎だったり、悪魔だったりした。そしてそのどれもが、荒野にクレーターを作り出すほどの悪夢のような威力を持っていることは明らかだった。魔王はその全てをその身体で受けることになった。
そんな中、魔王とて反撃をしないわけではない。魔王はその巨大な咢を開き、全てを噛み砕こうと辺りを飛び回る羽虫を追っていた。けれど、その噛み付きのいずれも、その羽虫を噛み砕くに至らない。いや、噛み砕いてはいる。だが、数瞬ののち、気づくとその羽虫は元通りになって復活しているのだ。黒い服を着て魔王の前を飛び回りその攻撃を一身に受けながらも一切のダメージを受けずにほんの数秒で復活する彼女。彼女は吸血鬼である。その復元能力に敵うものなどいないことの証左だった。
そんな一進一退の攻防が繰り広げられているのを、私はじっと見つめていた。
あんな神話染みた戦いに、私が参戦する余地などあるはずがないからだ。
けれど、ぱっと見、互角か騎士たちの押しているように思える戦いは意外なことに魔王が優勢であることに私は気づいていた。
四人がめずらしく攻めあぐねている。何度も彼らの戦いを見てきたからこそ気づいたその感覚。
それがどうやら間違いではなかったらしいと分かったのは、魔王の地響きのような声が大きな笑い声をあげたときのことだ。
「……くっくっく、はっはっは、あっはっはっは!! 四人がかりでその程度か。人類の英雄、勇者とはその程度か!」
魔王の声に、騎士が獰猛な笑みを浮かべながら答えた。
「へっ……俺が言うのもなんだが、お前が化け物過ぎなんだよ、魔王!」
「ふん。貴様とて、その化け物に近い生き物だろう。それでよく人に与しようなどと考えたものよ……まぁ、それはいい。遊びはもう終わりだ」
そう言って言葉を切った魔王の口元から赤い光が漏れ始める。
その光は徐々に収束し、大口を開けた魔王の口から真っ赤な光線が放たれ、荒野の地面を嘗める様に一文字に横切る。すると、一瞬の沈黙の後、大爆発とともに、光線になぞられた大地が溶け、溶岩の突っ切る道へと変えられた。
「おいおいおい、マジかよ……」
あまりのことに騎士は苦笑する。明らかに、魔王の力は騎士たちのそれを超えるものだと明らかになったからだ。楽勝どころじゃない。事実魔王はあの大きさに見合う能力をもっているのだと認めるほかなくなった。
けれどだからと言って諦める者たちではないことは、それほど長い付き合いではない私でも分かっていることだ。
彼らは諦めずに、魔王と幾度となく魔法を放ち、剣を振り、豪炎を吐きながら戦った。
そんな場面が何時間も続いた。
けれど、そんな時間も、とうとう終わりに近づいているようだった。
魔王は意外にも、少し悲しそうな、寂しそうな声で言う。
「……これで、終わりのようだな。勇者たちよ」
見れば、その言葉通り、騎士たちは息も絶え絶えで、傷だらけであり、武器も鎧もほとんど壊れかけている。これ以上戦えそうもないことは明らかだった。
「……くそっ。強すぎんだろ……」
騎士がそう言うと、森人王種の青年が続ける。
「確かに……全く、世界は広いと言いますが、本当ですね。これほどの存在がいようとは……」
「残念だけど、仕方ないの……ここまでなの……」
黒色の服を纏った吸血鬼の少女もがっくりと呟く。
「くやしい、くやしいわ! けど、無理なものは無理よね。はー……竜に出会った人間の気持ちって奴がやっとわかったわ。これね」
ぴしゃり、と額に手を当てて空を見上げた黄金竜の美女は、しかし少し笑ってそう言った。
不思議なことに、負けそうであるのに、魔王に殺されそうであるというのに、その中の誰一人として悲壮な顔をしている者はいなかった。
むしろ、すっきりとして安心しているように思えた。
魔王も、なぜか彼らをもう憎々しげな目では見ていなかった。拳を交えた者同士でしかわからないものがあるのかもしれなかった。
「だが、命は諦めても、諦めるわけにはいかないものがある」
騎士がはっきりとそう言った。
「そうなの。……あの娘は、絶対に殺させるわけにはいかないの」
吸血鬼の少女が爛々と赤い目を輝かせていう。
「まぁ、最後なのです。すべての力をふり絞っても構わないでしょう」
森人王種の青年が、楽しそうに笑った。
「……みんな、あれをやるのね? あれなのね!?」
黄金竜の美女がわくわくとして笑顔になる。
「あれとか、馬鹿丸出しの発言なの。正式名称も、覚えてないの」
「いいでしょっ! こんなときくらい!」
ことここに至っても、吸血鬼と黄金竜の仲は変わらないらしい。
しかしそんな二人に、森人王種は、
「ほら、立ってください。やりますよ。……見ているでしょう? あなた。これからあなたを我々の力で転移させます……どこに行くかはわかりません。けれど、強く生きてください。あなたは我々の大事な人なのですから……」
その言葉は明らかに私に向けられていた。
彼らは転移をさせるという。しかも、その対象は私。
一体どうして、そしてどこに転移させようと言うのか。彼らは死ぬ気なのに。私一人に生きろと言うのか。魔王がいるのなら、この世界のどこに至って同じだ。だったら、この場で一緒に死んだ方が……。
そう思っていると、騎士が言う。
「大丈夫だ。魔王のいないところに送る……もっとも、どこに行くかは賭けだがな。それくらいしか座標指定ができねぇ。……元気でな、蓮見優理」
蓮見優理。それは、私の名前だ。ここに来る前の、こんな世界に来る前の……。
騎士がその言葉を言ったと同時に、四人の体から光が集束し、私のもとへと飛んできた。
白、黄色、闇、緑。
それぞれの放った光は、私のもとに辿り着くと決してまじりあうことなく螺旋を描き、私の体を包み込んでいく。
私は何かを彼らに言おうと口を開く。
けれど、その声が発せられる前に、私の眼の前は闇に染まった。
けれど、それでも、一瞬、何か聞こえた気がした。
「……そうか、そういうことか」
それは騎士の声だった。彼は何に気づいたのか。
そのことが分かるまで、私は長い旅をすることになる。




