第三十八話
コンコン、コンコン……。
扉を叩く音が響く。
優しく撫でる様に、時に激しく殴る様に。
扉はずっと叩かれ続ける。
それが何を意味しているのか。待ち人か招かざる客か。
はたまたは、その扉を叩くのは死の存在かも知れない。
コンコン、コンコン……。
時が満ちる。
陽が落ちる。
世界が曇る。
心が砕ける。
扉を叩く存在は?
それは箱に入れられた猫の様に、開けてみないと分からない――。
†††††††††
敵の姿を見る事なく、五人は狭い通路を黙々と進む。
右の先を歩くナイアは左に集中し、左の先を歩くウィルは右に集中し、パウザはキョロキョロと頭を振って周囲の音を探っている。殿である耶江と龍司は常に後ろ向きのまま、時折、前の三人との距離を開かせない様に確認しながら、ただ進む。そこに言葉はない。
コツ、コツ……。
行進していると、不意にパウザが踵を二度鳴らした。行動時は殆ど言葉を交わさない、特殊作戦群のハンドサイン並に常套な通達方法で、『止まれ』を意味している。
「……この壁が薄い」
スッ、と。四人の視線が集中する中、パウザは静かに呟きながらウィルの後ろの壁を指さす。
耶江はふむ、と声を漏らし、壁を軽くノックしてみる。
ゴッ、ゴッ。
鈍い音が通路に響く。壁を叩いて鈍い音がすると言う事は、向こう側に空間があって、叩いた音が反響していると言う事だ。どうやらこの壁の向こうには隠し部屋があるらしい。
耶江はナイアに向かってクイッと手を拱いて『来い』のポーズをすると、壁を親指で指し、そのまま親指を下に向ける。
『来い』のポーズは『出番だ』の意、親指で指す事で『標的』を表し、親指を下に向ける事で『撃て』の意となる。これも公式的なハンドサインであり、世界各国の軍で使われている。ちなみに、相手の両目にピースの人差し指と中指を差し、ワイヤートラップの高さに持っていくのは『見えているか?』の意である。
しかし、あらゆる知識に精通した耶江ならまだしも、軍事行動の『ぐ』の字も知らないナイアは首を傾げるしかない。
耶江はため息を吐き、アーティファクト・重清永を取り出して壁を射抜いた。けたたましい爆音を轟かせて、壁が盛大に砕ける。
「……ふむ」
壁の向こうの空間は、完全な『闇』だった。明かりの一つも存在しない深淵の暗黒。
「この部屋……何だと思う?」
ボソリと耶江が訊ねる。
「さぁな。調べるしかないだろう」
答えたのはパウザだった。その両手にはいつの間にやら、音叉のアーティファクトを二つ握りしめている。
「視界の利かない暗闇じゃ、アンタらは役に立ちそうにないわね。私とパウザで調査するからアンタらはここで待機ね」
「確かに暗闇じゃ俺が有利なのは分かるが……アンタが来るのか?龍司の方が心強そうなんだが?」
「駄目よ。龍司の強さを理解してない訳じゃないけど、暗闇の中で戦闘が起こって仕舞った場合、そうそう通常通りに戦えるもんじゃない。気配が読めるからと言って、それ=強さとは違うのよ」
呟きながら、耶江は背負っていたリュックをガサゴソと漁りだした。
「それなら、お前も駄目なんじゃないのか?」
険しい顔で告げる龍司。何故かは知らないが、あまり耶江を戦闘に参加させたくない一心でそう告げたのだ。
「ハッ。私をアンタみたいな、この企画を嘗めてる奴と一緒にしないでもらいたいわね」
「……何だと」
「だってそうでしょ。特に何の対策も装備もなくこの島に来てんだから。実力者に陥りがちな話ね。いるのよねぇ、自らの力を過信し過ぎるあまり、サポートアイテムに頼らない奴って」
耶江がリュックから取り出したのは、灰色のHMDだ。それを見たウィルは驚愕した。
「そ……それは!AN/PVS−14!?さ、最新装備じゃねぇか!何でそんなもんを!?」
しかしウィルの驚愕を無視して、耶江はヘッドセットを頭に装着し、HMDにカメラのアタッチメントアクセサリを取り付け、配線を繋いでHMDの側面をいじる。どうやら視覚視の光彩量を増やす暗視モードに切り替えているらしい。
確かにこんな装備があるのなら、暗闇でも問題なく活動できるだろうが……龍司は何となく釈然としない。
「いいからそこにいなさい。大丈夫よ。命の危険がない程度なら、アンタ達は私が守るから。ヤバそうだったらさっさと逃げるけどね」
お姉さんに任せなさい、と言葉を残し、耶江は長弓を、パウザは二つの音叉を手に持ったまま暗闇へと足を踏み入れた。
「お姉さん、て……アイツは一体、何歳なんだ?」
「二〇だそうだ」
龍司の呟きに、ウィルは即答してみせた。
†††††††††
「なっ……何なの、ここは」
暗視フィルター越しに見える景色に、耶江は驚愕を露わにしていた。
その部屋には、たくさんの円筒型のガラスケースが並んでいた。床はそこから伸びるコードで覆い尽くされている。まるで、ジャングルの蔓だらけの地面の様な錯覚さえ覚えて仕舞う。
そして、ガラスケースの中に浮かぶ姿は……、
「しゃ、写真で見た事がある……これ、『あの』コワルスキー博士じゃない?」
生物培養用の弱塩基性赤合水に浮かぶ姿は間違う事なく、狂気の天才と謳われたコワルスキーの姿。それがズラリと並んでいる。
「あっちにはダイアン……それに悟も!他にも化け物もいるし……。これは一体、何なの!?」
「俺は目が見えないからカプセルの中の姿は見えないが……恐らくクローン素体と見て間違いないだろうな」
端的に答えたのはパウザだ。一つ一つ、ガラスケースに触れながら歩いていく。
「優牙の策略か、TDCの陰謀か、それともまた別の何者かの趣向か……どれにしろコワルスキーのクソアマが関連してる事はまず確定だな。……あれから、また道を踏み外してるのか、コワルスキーは……」
「……その口振り、まるでアンタはコワルスキーを知ってるみたいな言い方じゃない?」
ピクリ、と。耶江の言葉に肩を反応させたパウザは、しかし悠々と振り返りながら呟く。
「……まさか。赤の他人だよ。ニュースで知ってるだけさ」
耶江はナイトスコープをいじりながら、コードに沿って歩く。
「ところで知ってる?コワルスキーは昔、施設にいた頃に施設の人間全て……大人も子供も虐殺したって話だけど、その時に生き残った子供は両目を潰されたんだって。その後、どっかの裕福な家庭が引き取ったって話だけど……ロシアでのちょっとした話。アンタもロシア人だったわよね?なんか心当たりはない?」
「……何が言いたいんだ、貴様は」
「さぁね。強いて言えば……私は嘘が嫌いなの。特に自分すらも偽ってる奴は大嫌い。だから、そろそろ私にぐらいは正体を現してもいいんじゃない?ねぇ……ジョシュア・ナルセビッチさん?」
ゾグン、と。パウザは心臓が抉り取られる様な衝撃を受けた。
「……知らないな。人違いだ」
心なしか声が震える。
それを聞いた耶江は「そっか。人違いか」と小さく呟き、再びコードの行く先に向かって歩きだした。
部屋は意外と広く、コードが入り組んでいた事もあって、二人が最果てへ辿り着くのに一〇分もかかった。そこは部屋の角の隅で、これなら壁伝いに歩いた方が早かったかも知れない、と耶江は呟きたかった。
しかし。
それはかなわなかった。
「なっ…………、に、よ……こんなのって……嘘っ……!!」
「おい、チビ女!これは何なんだ、説明しろ!」
部屋の片隅にあった、コードの伸びる先にあった物。それは……、
「く、クァンタムコンピュータ……」
そこにあったのは、巨大な機械だ。機械は企業用パソコンなんて目じゃないくらいに巨大で、壁のところどころには乳白色な半透明の球体が埋め込まれている。
さながら、『機械仕掛けの魔神』と言ったところだろうか。
「クァンタムコンピュータ?何だそれは?」
「Quantum computer。日本語に訳せば、そのままの通り量子コンピュータよ。説明しろと言われても難しいわね……。そうね、貴方、樹系図って知ってる?」
「あぁ。枝分かれしたアレか。孤児院にいた頃、まだ目が見えていた頃に習ったな」
「これはその理論を使用した、究極のマシンスペックを誇る超高度演算型コンピュータよ」
耶江は愕然と、慄然としながら、放心した様に淡々と語る。
「例えば……5+8は幾つ?」
「……は?」
「5+8よ。足し算してみなさい」
「……13だが、それがどうした?」
よろしい、と頷き、耶江は続ける。
「こうした繰り上がる足し算の場合、人間は無意識の内に脳内で公式を単純化しているの。5+8の場合、8に繰り上がりの数字を足すなら2。つまり3+2+8って具合にね。
でも、この量子コンピュータは違う。膨大なマシンスペックと強大な演算能力を駆使して、分解して解くのよ。1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1って感じでね。別にこれでも間違いはないからいいんだけど、はっきり言ってこの行為は無駄だわ。
でも……それでも量子コンピュータは、人間では辿り着けない領域の計算さえ可能なのよ」
「……例えば?」
「魔術の一つ、錬金術の究極の産物『賢者の石』や『練成丹』の作成とか。人類のミッシングリンクの謎を解き明かすとか、これから先の人類の進化論を知るとか。あらゆる『可能性』を樹系図に表し、『確率』を演算する事でそこに辿り着く手段を弾き出す。
あらゆる可能性を数値化する量子コンピュータ。……これはまさしく、作られた『パラレルワールド』なのよ」
「作られた、パラレルワールド……?」
「樹系図の世界。世界は様々な可能性と隣り合わせていている、量子力学では有名な話よ。尤も、量子力学ではそういったパラレルワールドは決して交わらないって話だけどね」
淡々と語りながら、量子コンピュータをまさぐっていく。スイッチを探しているらしい。
パウザは口をへの字に曲げて頭を捻りながら、耶江の言葉を噛み砕いていく。
(隣り合わせた世界……パラレルワールド……決して交わらない世界……。
ちょっと待て……何かが引っかかる。この胸の引っかかりは一体何だ……?何かが引っかかってる筈なのに、俺は一体何に引っかかったって言うんだ?)
カチン、という金属音により、パウザの思考は中断された。耶江は立ち上がり、パウザに向き直る。
「こんな不気味な研究室なら、どこかに電灯のスイッチがある筈よ。アンタはそれを探して、みんなをここに呼んで!」
量子コンピュータの起動音が響く中、耶江はどこか険しい表情で告げる。
「私の推測が正しければ、とんでもない事が分かるわよ……ッ!」
†††††††††
コンコン、コンコン……。
扉を叩く音。
希薄なそれは幻聴の様にも、そして死神のノックにも聞こえた。
「どうぞ」
ギィィ、と扉が開く。
「あぁ、やはり……僕にはお似合いだな」
扉の向こうに現れた存在を見て、僕はただ微笑んだ。




