第三十五話
耶江に組み伏せられ、最初は騒いでいたが、龍司には結局どうでも良い事だった。少し力を解放すれば形勢逆転も簡単できた。ただ、それをしなかっただけだ。
「そういえば、あの老人は結局、誰なの?」
通路へ歩みを進める前、耶江は龍司に聞いた。
しっかりと重要な事は覚えていたらしい。
「……知りたいか?」
今まで、耶江に向けた事のない真剣な目つきで、龍司は問うた。
「え? そりゃあ、まぁ……」
耶江が口篭る。
「まぁ、異界の扉を開けるなら、最後に越えないといけない試練のようなもんだ」
「おじいさんだって聞いてるけど?」
「間違いじゃない。俺に確認する術なんて無かったけどな」
耶江の問いに、龍司は目を鋭く細めて告げた。
龍司は自分の両親を知らない。
物心ついた時にはシャオの下で修行していた。優牙と共に。
何があったのか、龍司は知らない。何故、そこで修行していたのか、両親はどうしたのか、聞いてもシャオは答えなかった。ただ、自分から修行を望んでいた事だけは確信として心にあった。
「どうでもいいだろ、そんな事。時間食ってるとサマンサが死ぬぞ」
ぶっきらぼうにそう言って、龍司は一同を急かした。
ウィルには効果覿面で、性根の甘い耶江も従わざるを得ない。そして、通路へと一旦入り込んでしまえば、私語は控えなければならない。軍隊移動術においては、特にパウザの聴覚をレーダーとして使うためには雑音は少ない方がいいのだ。
(じいさんと、優牙……。忘れてねぇぞ、俺は……)
通路を歩きながら、龍司はあの日の出来事を振り返っていた。
修行場の最高峰、洞窟の中で、龍司は優牙と対峙していた。
「話って、何だよ?」
松明を持って、龍司は向かい側に立つ優牙に尋ねた。
暗闇の中、視界に頼らずに相手と戦う修行をする場所だ。当て所を間違えば相手を殺してしまいかねないために、最後の修行場とされている。
「龍司、両親の事、知りたがってたよね?」
「え? ああ……」
優牙の言葉に、龍司は生返事を返した。
「僕も、知りたかったんだ。自分の両親の事」
笑みを浮かべて、優牙は言った。
「知りたいでしょ?」
目を細める優牙に、龍司は頷いていた。
「僕の両親と龍司の両親には繋がりがあったんだ……」
そうして、優牙は語り出した。
今、龍司の前に存在している世界とは異なる『異界』の住人だったシャオは、人間の娘に恋をし、様々な苦難の末に彼女と結ばれ、龍司の父親となる子供を生んだ。
混血である彼は、『異界』に快く思われなかった。『異界』は、一部の人間と密約を交わし、彼を追い詰める。
本来「存在してはならない存在」であった龍司の父親は、自身が生き抜くために戦った。その中で龍司の母となる女性と出会い、結ばれたのである。
龍司を身篭ってから間もなく、二人は『異界』の存在を使役できる人間と戦う事を余儀無くされた。
それこそが、優牙の両親だった。
シャオが駆けつけた時には、既に遅かった。龍司の父親は優牙の両親と刺し違えて命を落としており、母親の方は瀕死の重傷を負っていた。
死の間際、シャオは龍司を託される。
同時に、シャオは優牙の存在も見つけていた。二人の母親の胎内から、シャオは龍司だけでなく優牙をも助け出していたのだ。
それから、二人は家族として、修行仲間として、共に育つ。
「皮肉なもんだね。まさか、両親の仇の親に育てられていた、なんてさ」
感情を交えず、優牙は淡々と述べた。
「師匠、いや、シャオも言える訳がないよね、こんな事」
暗い洞窟の中であるにも関わらず、優牙は空を仰ぎ見るようにして言う。
「嘘、だろ……?」
「龍司が信じるか信じないかは僕が決める事じゃない。ただ、僕はこれを事実だと信じているだけさ」
「だからって、何も変わらない、よな?」
龍司は動揺を隠せなかった。身体や声が震えているのが、自覚できていた。それを抑える事もできず、ただ、不安を拭い去るように、龍司は優牙を見つめる。
今まで過ごした時間は何も変わらない。そう、信じたかった。
「そういえば、僕は龍司を尊敬していたんだよ」
「え……?」
「毎日、同じぐらいの修行をしているのに、僕は龍司に勝った事がなかった」
困惑する龍司の前で、優牙は小さく笑みを見せた。
「悔しかったけど、いつも龍司が寝る前に自分一人で修行しているのを見つけた時、僕は心から龍司を尊敬した」
過去を懐かしむように、優牙は言葉を紡ぐ。
龍司が個人で訓練を積んでいたのは、今まで誰にも言っていなかった。シャオにさえ黙っていた事だ。負ける度に優牙は悔しそうにして、龍司と同じ時間内の修行をいっそう真面目に取り組んで行った。
それに追い越されるのが厭で、龍司は自主トレーニングをしていたのだ。同じ時間、同じだけの修行内容で、優牙は龍司に追いついていくのが判ったから。それに見合うだけの修行時間を、龍司は自分で確保した。
「けれど、本当は、それだけじゃなくて――」
その、優牙の次の言葉が、龍司の心を打ち砕いた。
「――龍司は、人間じゃなかったんだよね」
蔑むような、憐れむような、優牙の瞳に、龍司は凍り付いた。
「皆、僕を騙していた」
優牙の視線から感情が消える。
「シャオも、龍司も」
憎悪に近い炎が優牙の瞳に宿る。
「僕だけが、一人だけ、取り残されていたんだ」
真っ直ぐに龍司の眼を見つめ、優牙は言った。
龍司は、視線を逸らす事しかできなかった。
「……違う」
大きく間を開けて、ようやく龍司が言えた言葉はそれだけだった。
「違わないよ。僕は、人間なんだから」
優牙はきっぱりと言い切っていた。他に事実などないかのように。
「だから、僕は、お前を倒さなきゃならないんだ」
「優牙――!」
優牙が一歩を踏み出した。
「お前も、シャオも、化け物は僕がこの世から消してやる!」
精神状態が不安定になっていた龍司は、優牙の接近をいとも簡単に許してしまう。繰り出される突きをかわすだけでも心が締め付けられ、反撃ができなかった。
優牙の言葉が龍司の体中に突き刺さり、地面に縫い止めているかのように、身体が重い。
「優牙!」
「気安く呼ぶなよ、化け物!」
龍司の呼び掛けを、優牙は冷たくあしらった。
その瞬間から、少しずつ、龍司の中で感情が変化して行った。攻撃をかわす度に、龍司の身体は軽くなっていく。
身体を縛っていた悲哀の鎖は、敵意という炎によって溶かされていた。
「優牙ぁぁぁあああああっ!」
叫び、龍司は全力で拳を振るっていた。
優牙の突きをかわし、懐へ入り込み、至近距離から優牙の左頬へと、龍司は拳を突き込んでいた。そのまま優牙を殴り付け、吹き飛ばす。後方の壁に優牙は背中を打ちつける。
「俺に出生が選べる訳ないだろうが馬鹿野郎!」
飛び掛かった龍司を、優牙は倒れたまま回し蹴りを放つ。脇腹を蹴飛ばされ、龍司は背中から地面に激突した。そのまま数回地面を転がりながらも直ぐに飛び起き、飛び掛ってくる優牙に肩からぶつかった。
優牙が壁に激突し、龍司に腹を圧迫されて血を吐いた。優牙が龍司の鳩尾に膝蹴りを減り込ませる。吐血しながらも、龍司は肘で優牙の首筋を殴り付ける。寸前で腕を挟んだ優牙が頭突きを放ち、龍司は左手で優牙の頭を押さえた。同時に、足払いを仕掛け、優牙を押し倒す。
その上に馬乗りになった龍司が優牙の顔を殴り付ける。両腕で防御しながら、優牙がバランスを崩して逆に龍司の上に馬乗りになる。優牙の拳を食らい、防ぎ、龍司は再度体勢を逆転させる。
何回繰り返しただろうか。
お互いにボロボロだった。
息を切らし、血を流し、睨み合う。
「僕は、お前らから全てを奪ってやる! 今はできなくとも、いつか、必ず!」
そう叫び、優牙は姿を消した。
龍司は、一人になってから、涙を流した。あの優牙だけには、涙は見せたくなかった。だから、一人、地面に転がった松明の照らす暗闇に取り残されてから、龍司は泣いた。
あの日、龍司はシャオの下へ一度帰り、傷の手当てを受けた後、布団の中に入った。その翌日、シャオが起きるよりも早い時間に、龍司は荷物を纏めてその場を去った。
あれから四年、龍司は様々な場所へ赴き、あらゆる事を学んで来た。
優牙の語った過去が、事実かどうか、手がかりは何もなく、未だに真偽が掴めない。ただ、その真偽が判ったところで、それは龍司が納得するだけのものだ。シャオと血が繋がっている事は紛れもない事実なのだから、過去がどうあれ、もう優牙には関係ないだろう。
――願わくば、自身の身体に流れる『異界』の血を消し去りたい。
「どうしたのよ?」
耶江が問う。
「何でもねぇよ。昔を思い出してただけだ」
それ以上何も聞くな、そう言外に含ませて、龍司は告げた。
*
全ての元凶は自分自身なのだという事は、自覚していた。
この世界に興味を持たなければ、あのような悲劇は起こらなかったはずだ。そう何度も考えた。
――あなたがいて、良かった。
その度に、今は亡き妻の言葉が支えとなった。
自分の存在を、引き起こした全てから目を逸らさずにいられたのも、彼女のお陰だろう。感謝しなければならない。いや、今でも感謝している。
『異界』の存在は、この世界にとっては様々な事象に応用できる。
異空間との繋がりを、この世界の表に干渉させてはならない。
それが、掟だった。破ったのは、自分自身だ。
故に、報いを受けた。息子夫婦を失い、人間達にも多大な犠牲が出てしまった。
龍司と優牙。
二人は希望であり、自身の存在によって生み出された、「証」でもあった。
ただ、その二人でさえも報いを受ける事になるとは、予想外の事だった。
龍司は優牙に敵意を抱き、優牙は龍司を憎むように、仕向けられた。『異界』からの干渉により、二人は知らぬ間に二つの道標へと変えられてしまった。
即ち、優牙――全ての破壊――と龍司――新たな方向性――。
優牙は、『異界』の力を使って全てを破壊し、この世界をリセットする可能性。
龍司は、『異界』の存在を明るみに晒し、この世界を新たな方向性へと導く可能性。
今まで隠匿されてきた『異界』は、二人を用いて今後の「在り方」を決定しようとしているのだ。
どちらも、多大な危険を孕んでいる。
阻止できるのは、二人を見てきた自分しかいない。
扉に生贄を捧げる事で扉が開くとされているが、それは真実ではない。事実として扉は開くが、生贄を欲する『異界』の「存在」が扉を開けるだけだ。それは一瞬であり、完全な解放ではない。
「もう、わしにも先が見通せぬな……」
予想以上に力を付けていた龍司と優牙。他の者の存在も相まって、行く末の憶測すら立たない。
「だが、最悪の結末だけは、なんとしても防がねばなるまい……」
二つの可能性は、あくまでも可能性でしかない。他に道筋など、いくらでもある。良いものもあれば、悪いものもあるのだ。
「『異界』よ、わしは屈さぬぞ……」
シャオの呟きは、闇に溶けるように消えていった。