第二十九話
空には白く輝く月。
周りには血に染め上げられた鮮血色の雪景色と死体の山。
隣には快楽に溺れる少女と、暴行される少年の姿のシルエット。
私の胸からは、滴り落ちる血。外の寒さと失血による体温の低下。今にも凍えて死にそうだ。
いや……あるいはもう、私は死んでいるのかも知れない。ただ『紅い人魂』になって仕舞ったのかも知れない。ここロシアだし。ピッタリだし。
……怖い。死にたくない。傷口が痛い。死にたい。寒い。死ぬのはイヤだ。暗い。死なせて。
グルグルと渦巻く思考。螺旋は交わらない円であり、それは永久に回り続け、進み続ける円である。
死ねない。死にたくない。死なない。死なせて。
……死んでたまるか。
心に、そう決めたと同時。
――『私』の心臓は動きを止めた。
††††††††
カツ、カツ、カツ、カツ……。無機質な足音だけが、一切の音の死んだ洞窟内に流れる。龍司は、その足音が不気味だと思わずにはいられない。
「行けども行けども同じ景色……もううんざりだ」
半ばだれた様子で、龍司が呟く。パウザは隣を歩く龍司を感じて、思わず苦笑を漏らした。
「……何だよ?」
「そう腐らなくても、俺達は着実に前に進んでいるハズだ。そんなに気を落とすなよ」
同年代の筈なのに、その大人びた態度が、龍司は何となく気に入らない。
「……なぁんか釈然としないけど、まぁいいや。それより、何か話しながら歩こうぜ。暇で暇で仕方がねぇ」
「話?」
「そうだな……例えば、……ぁ〜。あ、そうだ。パウザってさ、目が見えないのに、どうしてそんなにしっかりと歩けるんだ?とか」
「……ストレートだな。もっと歯に衣着せないと、お前、友達なくすぞ?」
呆れ顔で答えたパウザは、特に気にした様子もない龍司を感じて、一つわざとらしいため息を吐き「まぁいいや」と語り始めた。
「ほら、よく言うだろ?身体機能の欠けた人間は、その壊れた機能への電気信号を一切遮断して、別の機能に回す分、より優れるって話。俺はその例外中の例外でな。異常に発達した耳で空気の音を感じ取る事が出来るんだよ。風が流れる音、風がぶつかる音、風が交わる音。それらを感じ取って、擬似的に脳内にその光景を思い浮かべる事で、どんな障害物があるのかとかを見出している訳だ。
俺のコレは天然じゃなくて事故でだからな。目が見えていた時の感覚ほどじゃないが、まぁ、それなりに表現できる訳だ」
「事故……?」
「……そ。事故」
そう言って、パウザは笑った。完璧な、非の打ち所のない穏やかで優しい微笑み。
だからこそ、龍司は、それが作り笑顔だと言う事が分かった。
「……そっか」
追及はしない。どうせ聞いて何かしてやれる訳じゃないし、なにより話したくない事というのは誰しもある。勿論、龍司にも。
と、そうこうしている内に、通路の先の灯りが強くなってきた。ようやく次の関門(?)かと、龍司とパウザはお互いのアーティファクトを形成しながら、忍び足で光の方向に向かった。
ふと、何かの異臭を感じた。
血ではない。血ではない、が……同じくらい背筋をゾッとさせる、形容しがたい何かの悪臭。
「……」
「……」
二人は顔を見合わせる。といっても、パウザには見合わせる眼がないのだが。
「たぁ〜〜〜〜!!」
という、少女らしい叫び声が聞こえたと同時、
《ズグチャッ》という、音だけで吐き気を催す様なグロテスクなノイズが響いた。
「……今の、ナニ?」
「かけ声じゃないのか?」
頷き合い、二人はそろりと入り口から顔を覗かせ、中の様子を探り見た。
そこには、身長一七〇強はありそうな、長身の女性がいた。
髪は金髪で、恐らく天然だろうパーマがかかっている。前髪は、右側が短く左側が長いという、いわゆるアシンメトリーと呼ばれる髪型で、短め。ファッショナブルなのか杜撰なのか。いまいち判断つかない。
ダークブルーの、どこぞの国の軍用コートを着ていて、その中には無地の白いシャツが見える。下は、素材不明のゆったりとした真っ黒なズボン。実はこれは特殊な軍用パンツなのだが、龍司とパウザにはそれが何なのか分からなかった。
ただ、一つだけ違和感を感じさせるのは、彼女の右腕。
そこにはメタリックグレーに輝く、何ともSFチックな鉄製篭手が、彼女の右腕全体を覆う様に装備されていた。
そして、もう一つ。彼女の足下には、全長一〇メートルはあろう変異生体の死骸が、大量に倒れていた。ざっと見て八体はある。
「……何だ、アイツ?」
「参加者なんだろ」
困惑気味の龍司に対し、パウザは平然と答えた。
「……ふむ」
ピッ、と女が軽く腕を振るう。ガントレットにこびり付いていた緑色の液体が、《パタタッ》と床に張り付く様に落ちた。
女はおもむろにリュックを開け、中をゴソゴソと探っている。
何か出すのか……と二人が喉を鳴らす。目の前の女はゴソゴソと鞄をまさぐり、中から『何か』を取り出した。『何か』を見た二人は、思わず呆気に取られた。
女は『何か』の包みを剥がし、それを口にくわえた。
「……棒付きの飴?」
緊張感のない光景に二人が固まっていると、不意に女が入り口に振り返った。反射的に陰に隠れる二人。
「ん〜。ちょいちょい。そこのお二人さん?別に取って食おうって訳じゃないんスから、そんなに警戒しなくても大丈夫ッスよ?」
というか、バレていたらしい。
女は、自分が敵じゃない事を証明する為か、右腕を包んでいたガントレットを正二十面体の物質に戻し、両手を胸元まで挙げて降参のポーズを取った。
「……どうする?」
「って言われてもな……」訝しむ二人に対し、一向に姿を現さない事にムッときたのか、ややひきつった笑顔を浮かべてリュックの中から二本の棒付きキャンディを取り出し、そして差し出しながら、
「ほぉれほれ。お姉さんが飴をあげよ〜う」
チッチッチッと舌を鳴らし始めた。
「……隊長。何か餌付けしようとしてますよ?」
「……俺らは犬猫か」
「頭が弱いのか、あらゆる意味で強すぎるのか……」
「何かそんなことわざが日本になかったか?」
「バカとハサミは使いよう」
「それだ」
笑い、パウザは広場に足を踏み入れた。龍司が制止する間もなく、ツカツカと軽やかな足取りで女に近付いていく。
「俺はパウザ・シュトーレン。アンタはなにもんだ?」
「ん〜、ウチ?ウチはナイア・コンコルス・メンシス。よろしくッス」
「へぇ。『みんなで仲良く見上げる月』ね。いい名前じゃないか」
「君のは物騒ッスね。『鮮血の機関銃』なんて」
「……ま、そりゃなかなか言い得て妙なんだがな」
歩み寄っていたパウザが、途中でピタリと立ち止まった。お互いの距離は一五メートル。アクションも二つ程度なら取れる距離だ。
ナイアは手に持ったままだった棒付きキャンディを、パウザめがけて放り投げる。頭上を通り過ぎようとしていた飴をキャッチし、包みを剥がす。
「毒とか入れてねぇだろうな?」
「リュックの中がこんななのに、そんな事したらウチも死ぬッスよ」
そう言いながらリュックの中身を見せてくる女。中身は、棒付きキャンディが大半を占めていた。というか坩堝ってた。
「あぁ。見ての通り、俺は眼ぇ見えねんだわ。音だけでアンタが何してるかは分かるんだけどな」
「ふむ。何か変なアイマスクしてまスから、おかしいとは思ったんスけどねぇ」
ふむ、とため息を吐き、パウザはおもむろに棒付きの丸いキャンディを口に含んで舐め始めた。
……お互いの会話は、そこで止まった。
よくよく考えれば、隠れているのが『二人』と知れている以上、こうして伏兵みたいな真似事をする必要もない。龍司は気まずさに後頭部を掻きながら姿を現した。
「君も飴いる?」
「いらん」
「残念」
差し出してきた飴を渋々とリュックに戻すナイアだが、不意にリュックを投げ捨てて走り出してきた。
パキィン!ガラスの割れる様な音が響く。次の瞬間にはナイアの右腕に、先程のガントレット。
奇襲か、と二人がアーティファクトを形成しようとした瞬間、
「龍司、伏せろ!」
隣にいたパウザが、龍司の後頭部を掴み、頭を地面に打ち付けんばかりの勢いで押し倒してきた。一拍遅れて、ナイアが叫ぶ。
「君達はそこを動いちゃ駄目ッスよ!巻き込むスから!」
言うが早いか、《ゴウッ!》という爆音がビリビリと広場全体を震わせた。何となく、最新鋭戦闘機のガス・タービン・エンジンに似ているなと龍司は思った。
フッと視界に影が差したのも一瞬で、タービン駆動音はそのまま背後の入り口めがけて通り過ぎていった。
《ゴシャッ!メキメキバキメキ、ゴキャンバキッ!ジュブチャ!》
グロテスクな音が響く。まるで、生きた子猫を踏み潰して楽しむ様な、残忍で、残酷で、残虐な骨と肉の悲鳴。思わず龍司は背筋を震わせた。
「生き残りがいるとは。お釈迦様でも予想できない大穴単勝倍率四五〇倍ッスよ」
背後からナイアの声。龍司とパウザがゆっくりと振り返ると、ナイアの足下に倒れている変異生体と同じタイプの奴が、壁に埋まっていた。恐らく絶命している。
「君達。異界の扉に用があるんスよね?」
あからさまに残酷な圧死という殺害方法を取ったナイアは、にも拘わらず普通に笑っていた。
まるで、それがどうしたと言わんばかりに。
「ウチの目的は扉じゃないんスよ。個人的な復讐。ある人物がここに参加するって聞いて、ウチも参加する気になっただけッス」
「……ふぅん。ま、心拍数も高くなってないし、嘘じゃなさそうだな」
何故かパウザは、服の裾を掴んだりアーティファクトをポケットから出し入れしたり、挙動不審になりながらも呟く。
「ま、信じてもらえる話でもないし、ウチとしてはどっちでもいいんスけどね」
「名前は?そいつの名前。もしかしたら俺らの知ってる奴かも知れねぇし」
パウザの言葉に驚愕したのは、他ならぬ龍司だった。ヘッドロックする様にパウザの首に腕を絡め、至近距離で小声で叫ぶ。
「(ちょっ!待てよ!こんな奴に付き合う義理はねぇだろ!何考えてんだお前は!)」
「(お前だってここにいる第一の理由は復讐なんだろ?俺だってそうだ。勿論、異界の扉を開ける事を前提にしてはいるが。それに奴に協力してやると、何かあった時に俺らの戦力にもなる。囮は明確な力が強い方がいいだろ?)」
即座にそう反応してくるパウザ。だがその口調はどこか焦っていて、パウザには似合わず、話自体も支離滅裂で建設的ではない。何より前提が『相手の言い分を信じる』なのだ。この島でその思考にたどり着く方がどうかしている。
「(……何?アイツ、お前の知り合いか?)」
「(いや、初対面だよ。『パウザ・シュトーレン』は、初対面だ)」
ますます意味が分からない。龍司が腕の拘束に力を抜いた瞬間、パウザは拘束を解いてナイアと向き直る。
「それで?名前。そいつの名前を教えてくれよ」
「ん?あぁ、二人なんだけどね」
プッ、とナイアはくわえていた棒を吐き、こめかみに指を添えて唸る。
「えぇ、と。何だったかなぁ。何せ六年前、ウチは九歳だったッスからね。あんま覚えてないんスよねぇ。
……こ、こ、……コルワスキー?コルスワキー?コワスルキー?……あっ、コワルスキーだ!
それと、ジョシュア。コイツはハッキリと覚えてる。この二人がウチの敵ッス」
ニコリ、と。ナイアは笑った。
ピクリ、と。パウザは動いた。
「……そうか。コワルスキーってのはあの天才博士だよな?…………残念だけど、ジョシュアってのは知らないな」
そう呟いて、口端をつり上げて笑った。
それは、決してケイ虐な笑みではなく、
どこか、自虐に満ちた微笑みだった。
「アンタがそいつらにどんな怨みがあるかは知らないけど、……復讐は、しっかりと果たさないとな」
††††††††
目が覚めると、白い部屋だった。
実は知覚出来ない程に薄く緑色が塗られているのだが、それを私が知ったのは後の事だ。
白い人に、白い服に、白いシーツに、白い白い白い……、
私の髪は、白かった。
白は、純潔を思わせる純白ではない。
白濁した、ひたすらに濁りきった、気持ちの悪い白だった。
白、白、白、白、白。
あの日の満月も、あの少女と少年の髪も、この部屋も、私の髪も。
何もかも白かったから、吐き気がする程に白かったから、私は髪を金に染めた。