第十七話
汚れたモノ。醜いモノ。見たくないモノ。
世界にはそういうモノが多すぎた。
陽光。一時的な光。
斜光。消えゆく光。
蛍光。疑似的な光。
光は罪の原因だ。そんなものがあるから、影が浮かび上がる。見たくないモノが見える。
「この世は、黒い」
誰かが言った。少女が言った。――かけがえなく大切な親友が、言った。
この世は黒い。この上なく適切な表現だと思う。
「これまでも、これからも。ずっと二人きりでいよう。……私はいつまでも、アナタの傍にいてアナタを護るから」
マウントポジションを取る様に、少女は腹に乗ってきた。両手は足で押さえられて身動きが取れない。
「嫌でしょう?見たくないモノを見るのは、嫌でしょう?」
強引に、キス。触れるだけのフレンチではなく、濃厚なディープ。
汚い。ギトギトに混ざり合った唾液が口端から洩れ、頬を伝う。ベトベトのそれは、ナメクジの粘液じみて気持ち悪いと思えた。
「汚いモノはね。見なくていいの。私の姿だけを覚えていてくれれば、それだけで――」
嗤う。歪つに澱んだ笑みを浮かべる少女。長い銀髪は逆光により暗色に染まっている。にも拘わらず、その碧色の双眸だけが歓喜に爛れていた。欲望に忠実な人間だけがたまに見せる、眸の光。
少女は。手をかざす。やがてそれは両目を覆い、視界が暗黒に支配される。
暗い。
怖い。
――黒い。
そう、黒い。少女の手は、固まった赤黒い液体で染色されていた。
目元を覆う手が、ドロリとした嫌な感触を醸した。
††††††††
「……ン」
男は、目を覚ました。寄りかかっていた樹の幹から背中を離し、頭を振る。低血圧なのか、それ以降はじっとしたまま微動だにしない。
ちなみに、目を覚ました、という言葉は彼にとっては比喩だ。事実、彼には目はない。頬骨より上には黒いボロ布を敷き、それを大型犬の首輪だろう革のベルトで固定している。故意に双眸を隠してあるのだ。
「……あぁ、クソ。あの女の夢かよ」
腰までありそうな長い銀髪を一括りに黒いニット帽で纏める。もみあげだけが胸のあたりまでだらりと伸びている。
ポケットの中には、二〇面体の謎物質。この男も参加者である。
「あの女……ってのは誰かな?」
不意に耳元に囁かれた英国語に、しかし男は驚く事はない。頭の中で英国語のファイルを開き、ダウンロード。男も英国語で返す。
「……昨日の情報屋……道化師か」
「ご名答。目が見えなくても分かるモノなんだね。ねぇ、ジョ――」
「その名前で俺を喚ぶなッ!!」
一閃。男は声のした方に向かって、二〇面体を持ったままの腕を振るう。
ゴシャア!という鈍い音が響き、道化師の男は右肩から先が押し潰されていた。パシュー、と血が噴水みたいに吹き出る様は、ホラーと言うよりはむしろコミカルな印象さえ醸し出している。
「昨日も言った。俺の名前はパウザ・シュトーレンだ。昔の……あの女が呼んだ忌まわしい名前で、この俺を、喚ぶんじゃない!」
犬歯を剥き出しに、盲目の男・パウザが吼える。利き腕なのだろう左手には、メタリックブラックに輝く音叉が握られている。
「あ。もしかして初恋の君だったりする?いやーそれは失礼。美しい思い出を壊されたくはないよね」
右腕を破壊されたにも拘わらず、道化師は嗤っていた。
「美しい……思い出、か」
少しは落ち着いたのか、パウザはリュックから水の入ったボトルを取り出し、一口含む。
「最初はな。……最後は、最悪だ」
話す気はなかった。一刻も早く道化師から離れたかったが……話し込んで仕舞ったのは、真の意味で独りだったからかも知れない。
「君は、その女を見つけて、どうしたいのかな?」
「お前には関係ない」
「その女ね。この島に来てるよ」
ブッ。パウザは飲んでいた水を盛大に吹き出した。目の見えないかれには分からないが、霧状のそれは小さな七色のアーチを作り出していた。
パウザは道化師に詰め寄り、血に染まった胸ぐらに掴みかかる。
「アイツはどこにいる!?おい、クソ道化師!教えろ!」
「僕はね。情報を提出する時、相手からも相応の情報を貰う事にしているんだ。フェアだろ?さて、君は女を見つけて、どうしたい?」
「……答えないと、ダメなのか?」
「君は女を見つけて、どうしたい?」
繰り返される。どうやら答えるまではずっと続きそうだ。
「君は女を見つけて、どうしたい?」
ニヤリと嗤う道化師。パウザには見えないが、彼はあらゆる音を聞く耳を疑似的に知覚するので、道化師の頬の筋肉の硬直の音を拾った。
まさにピエロの様に作られた笑みだな、とパウザは思う。
「アイツを見つけて、俺をこんな風にした復讐を受けて貰う。あらゆる箇所を刺して殺して目を潰し耳を削いで鼻を切り落とし唇を焼き両腕を引き千切り両脚をねじ切り内臓を掻きだして一つ一つこの手で潰して心臓を口に突っ込んで縫い合わせてから海に沈めてやる!さぁ答えたぞ、あの女はどこだ!?」
「よろしい。……案内する。僕について来てよジョ――もとい、パウザ」
道化師は嗤う。パウザはふと気付いた。道化師の右腕は、いつの間にか元に戻っていた。血のにおいさえ感じない。
「俺からも一つ聞きたい。……俺をアイツと会わせて、何のメリットがあるんだ?」
「僕が楽しい。ただそれだけだが、何か不服かい?」
††††††††
「遠当て?ってあの中国拳法の?」
「そう。キーファのあの遠距離不思議パンチの正体は、遠当て。中国には気孔術ってのがあって、人体の勁絡から放つ神通力を指す」
「聞いた事はあるな。見るのは初めてだけど」
「ようは空気の振動ね。超高速のパンチは空気すらも殴るって事。ほら、子供の頃によく蝋燭の火を拳風で消そうとしなかった?あれの凄いバージョンが遠当て」
「それは分かった。キーファが人間離れしたキモい奴だってのは理解した。……ところで、だ」
龍司と耶江の会話。
「どうして俺は、お前に関節技をかけられているのかについて問いたい訳だが」
「……私の顔、蹴ったでしょ」
そう。話を遡る事二話前。龍司は粘糸を解いて耶江の顔面に不意打ちのハイキックを見舞い、逃げだそうとした。
が、よくよく考えてほしい。現在、六人は周囲を巨大蜘蛛の群に囲まれている。隙を付いて逃げようとするにはタイミング的にまずかった。
「で、私が呆然とするアンタをうつ伏せて腕を取ったって訳。あ、動かない方がいいわよ?外れるんじゃなくて折れるから」
龍司は地面に突っ伏す様に倒れ込んでいて、耶江は腰に座っている。両脚の間に耶江の足が突っ込まれ、左手は後ろに回す様に伸ばされて耶江に掴まれている。関節技と言うよりは捕縛術である。
しかも厄介な事に、抜け出せない。身を捩れば逆方向に体重がかけられ、足を動かそうにも耶江の足が急所を狙っているので動かせない。
「っつーかテメェ重てぇんだよ!さっさとそこどけよ!」
「……さっきに引き続き、まぁだ反省してないみたいね」
「重たいっつってん、だ、ろ……重ッ!?重たっ、なんだこの重さは!?ちょっ、どんどん重くなってますがこれナニゴト!?重い重い重いッ、内臓が口からピュルッと出るって!!」
「環術仙靜。私の重心を一点に纏めてるだけよ」
「なっ、半端じゃねぇ重さだぞコレ!?お前の小っさい身体のどこにこんな重量が!重心を集めてるなんて言い訳してるからダイエット出来な…………嘘です出しゃばり過ぎましたご免なさい!!」
ギャーと馬鹿みたいな叫び声が続く中、キーファは迫り来る蜘蛛の群を迎撃していた。ウィル、悟、ダイアンは驚愕に目を剥いていた。
(なるほど。……耶江ちゃんが僕一人に退治を任せたのは、この為の伏線か)
秒間五発ものジャブを撃ちながら、キーファは冷静に微笑む。
(僕という唯一の味方の戦力を見せる事で、迂闊に攻撃をされない様に牽制する。……なかなかの策士だねぇ、耶江ちゃん。君の、人間を駒の様に動かそうとするそんなところが好きなんだよ)
一匹、また一匹と蜘蛛が爆ぜていく。緑色の粘液じみた液体をまき散らしながら。
「これで、ラスト」
大きく振りかぶり、渾身の右ストレートを繰り出すキーファは、笑顔。最後まで生き残っていた蜘蛛が爆散し、一方通行虐殺は終結した。
「さ、耶江ちゃん。終わったよ」
「うむ、ご苦労」
大きく、殿様にでもなった様に耶江が頷く。その僅かな隙を見逃さなかった人間は、二人。
龍司と悟。
先に動いたのは悟だった。縦一直線に粘糸を斬り裂き、大きく跳び上がる。空中で華麗に舞い、落下速度をつけてキーファに襲いかかる。
龍司は肩を捻り、《ゴギンッ》と鈍い音を響かせて肩を外した。バランスを崩した耶江の身体を押し退け、立ち上がる。
「ヒュッ!」
「チィッ!」
キーファはレフトステップで踵落としをかわし、耶江は側転の要領で体勢を整える。その手には白木弓のアーティファクト・重清永が握られていた。
「悪いわね。私は行かせてもらうわよ。関門を突破できれば、もう用はないからね」
「俺も同じ考えだ。人と慣れ合うのは好きじゃない」
悟は横に跳び、着地する。五メートルは跳んでいる。靴底にバネ仕掛けのスケートエッジの様な物が見える。恐らくはそれが悟のアーティファクトなのだろう。
一方の龍司は、左手をだらりと垂らしたまま、右手で槍のアーティファクトを持って構えていた。
「ちょ、待ちなさいよサトル!私はどうすればいいのよ!」
未だ粘糸に縛られたまま身動きが取れないダイアンが、悲痛に叫ぶ。悟はニヤリと嗤い、答える。
「自分の事は、自分でなんとかしなさい。私に責任を押しつけるのはやめてよね」
それは。ひたすら冷淡で、残酷な言葉だった。ユダの裏切りにも似た絶望感がダイアンを襲う。
「それじゃあ、」
「またどこかで」
二人は嗤い、別々の方向へ駆けていった。共犯ではなく、同犯だっただけという話だろう。
「止まれ!」
耶江は矢をつがえた弓を――龍司に向けた。悟のアーティファクトは機動性に長けていて、とにかく速い。大体、ほんの一瞬の逡巡の内に悟の姿は見えない。前回はその有り得ない機動力に翻弄された耶江は、『槍』でしかない龍司に狙いを定めたのだ。
だが、龍司は止まらない。耶江は的を外し、龍司のすぐ隣の木に矢を放った。幹を抉り木片をまき散らし、とんでもない破壊力を魅せる矢。しかしそれでも龍司は足を止めない。どんどん走り去っていく。
(お前じゃ、俺は射れないよ)
龍司は左手を垂らしたまま、全力で走る。左肩の腱が伸ばされていく奇妙な感覚は、激痛だ。それでもなお走り続ける。
(耶江。お前は、甘い。こんな状況でも人を殺す勇気のないお前は、甘いんだ。だからお前は人を射れない)
一連の流れを思い出す。捕まえる度に安堵し、どう赦そうか考えていた傾向が見える。冷静沈着で頭のキレる優秀な人間である事は龍司も評価しているが、逆に言えばそれだけだ。指揮官としてはこれ以上の適任はいないだろうが、実戦では役に立たない。
(お前は、甘い。だから……)
走る。龍司は考えを凝り固まらせながら、走る。
「お前は、俺なんかと一緒にいていい人間じゃない。俺みたいに……汚い人間と一緒にいては、いけない」
心の中での呟きは、やがて声に出ていた。
そう思う俺自身も甘いのかも知れない、と龍司は心中で付け加えた。
††††††††
寒空の下で、少女は嗤う。
月明かりと、降り積もる雪。幻想的な白銀の世界は、いつの間にか深紅に染まっていて、今では暗黒だけが広がっている。
「ねぇ、―――」
少女が呟く。自分の名前は、聞こえなかった。
「辛い?苦しい?怖い?悲しい?―――、アナタは今、どんな気持ち?」
怖い。答えたかったが声は出ない。
「―――。アナタの大切なモノは、何?私はアナタを絶対に護る。だから、アナタには私以外に大切なモノがあっては、ダメ」
嫌だ。厭だ。否だ。イヤだ。いやだ。
「私の姿を目に灼き付けて……憶えていてね。私を忘れないで」
少女の手に力が込められ、《グシュリ》、両目に激痛が走った。
「これで、アナタは私がいないと生きていけない。……ねぇ、ジョシュア」
名前が、聞こえた。