第十四話
サラサラサラ。
目映いばかりに月明かりを帯びた粉雪は、大気中で霧散して小規模のオーロラを象る。白く銀く煌めく、神々しささえ魅せるダイヤモンドダスト。
雪。世界は白銀に染まる。
そんなひたすら白い世界に、少女が一人。
短い銀髪。碧色の双眸。気温は氷点下だと言うのに、身につけている衣類は真っ白なワンピースただ一つ。
少女は、ただ、立ち尽くしていた。深紅の雪の中に。
白銀と深紅。二つの相反しつつも共存した世界。
――アナタの大切なモノは、何?
無表情な少女の足下には、
無数の、屍体。
スルリ。少女の手に握られていた、安物の短機関銃・ウージがボサリと雪に落ちて埋まった。熱を帯びた銃身がジュッと僅かな雪を溶かす。
――アナタの大切なモノは、何?
少女は嗤う。
それは、この上なく残酷で、残虐で、残忍な微嗤み。
††††††††
「さて。何か釈明か遺言があれば聞くけど、どうする?」
口端を吊り上げて歪め、耶江はアクション映画の黒幕みたいな笑みを浮かべた。粘糸によって動けない龍司を見下し、仁王立ち。
「ちょっと待て。あのさ、これ先に解いてくれよ。いくらでも土下座するからさ。これ、ギッチリ縛ってあるみたいで身動き取れないんだよな。関節も外せんし、ポケットまで手が届かないからアーティファクトも使えない」
「聞く耳は持たない。……さ、それがアンタの最期の言葉でいい訳ね?」
ゴキゴキベキゴキ。耶江は指の関節を鳴らしながら、ゆっくりと龍司の頭に手を伸ばす。
「ちょっ待っ、チョト待ッテクーダサーイ耶江サン!落ち着いて話し合おう!復讐からは何も生まない、世界平和にラブ&ピース!」
「ああんっ☆これは復讐じゃなくて、制裁よん。ウフフ、腕が鳴るわねぇ」
比喩ではない。耶江は実際に腕を鳴らしている。
「いや待て!何かマジで怖い!その薄ら笑みが本格的に怖すぎる!ウィル、悟、ダイアン、そこの銀髪!誰でもいいからコイツ止めてくれ!」
「耶江、俺も手伝う(ウィル)」
「あたし縛られてるし〜(悟)」
「同じく(ダイアン)」
「僕は基本的に耶江ちゃんの味方だから(キーファ)」
「という事。この場にアンタの仲間はいないみたいよ(耶江)」
「こッ、ンの役立たず共が……ッ!!」
今まさに、龍司の頭に土をかける『泥責め』という古風な拷問をしようとしていた耶江は、ふむ、と声を漏らして再び立ち上がった。
「そんなに制裁が嫌なら、もう一度アンタにチャンスをあげるわ」
「本当か!?」
「えぇ。私の心はヴァナ・○ィール並に広いのよ」
「待て!とりあえず待ってそこに直れ!そのセリフは著作権的に危ない!やめとけって訴えられるぞマジで!」
「ふむ。じゃあ界○星あたりでいいや」
「だから待てっつってんだろがテメェ!しかもそこ狭い!恐ろしく狭い!車のドライブで一分かからず一周だよ!」
フフンと耶江は笑みを漏らし、仁王立ちした。龍司が(何かおかしい……)と思う間もなく、
「さて。何か釈明か遺言があれば聞くけど、どうする?」
「ッ!戻ってる!?セリフが戻ってますよ耶江サン!?しまった読み違えた!チャンスってそっちか畜生!あ、読めた。助かるかもって喜ばせといて絶望に陥れるって魂胆か畜生!もろに喰らっちまったじゃねぇか!!」
「ハッ。私と戦略の読み合いで勝てると思ってんの?私を誰だと思ってんのよ」
龍司は俯いて心中で嘆息を吐き、耶江を見上げ、
(あ……)
とっても素敵な光景が見えた。
耶江は動きやすい様にTシャツの上にデニム生地のジャケットを羽織り、下はキュロットを履いていた。そして立ち上がって仁王立ち。さらに付け加えれば、龍司は縛られたまま寝かされている。
素敵な光景とはつまり――。
「言う事はもうない様ね。それじゃあ……」
「待て。最期に一つだけ言わせてくれ」
「……どうぞ」
龍司の真剣な表情に何を見たのか、耶江は素直に促した。
黙祷したまま深呼吸をし、龍司は口を開く。
「こんな状況だから仕方ないとして、……お前ってスポーツブラしてても結構胸あるな」
――時が止まった。龍司、耶江、ウィル、悟、ダイアン、キーファ。その場にいる全員の時が、氷河期の様に凍てついた。
そんな中、耶江は言葉の意味が分からなかったらしく、暫し逡巡し、次の瞬間には頬を真っ赤に染めながらTシャツの裾を両手で押さえた。
「ごちそうさまでした」
しれっと龍司が唯一動く頭だけでお辞儀をする。
「ア・ン・タ・はぁ!反省してるなら粘糸を解いてやってもいいかもと思っていたのに……ッ!!」
激情からか羞恥からか。耶江は真っ赤な顔をしたまま、痙攣した様に口端をピクピク震わせながらニヘラと嗤った。ニュアンスとしては、溶けたチーズにナイフで切り目を入れた感じだ。
(あ。怖い)
龍司が思うも束の間、
ゴズムッ!ベゴッ、ガスッズゴッガスゲシベシグシャ!!
「ちょっ、待っ!ごめんなさいもうしません死んじゃいます助けてッ!なっ、マジで痛いって、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!!」
無言のまま、耶江は何度も何度も踏みつけ続けた。力一杯、一撃一撃を全身全霊で。
(うわぁ……何この惨劇)
というのは、傍観していたその他の人々の心の声。
耶江による惨劇は随分と続いた。
††††††††
耶江が龍司のM要素を開発せんとばかりに蹴りつけている間、キーファが声を漏らした。
「あ。黒霧の森の変異生体、誰かに殺されちゃったみたいだね」
「何ですって!?」
真っ先に反応を示したのは悟。キーファのアーティファクト能力を知っているからこその反応だが、それを知らないウィルやダイアンは怪訝な表情をした。
「どうしてそんな事が分かるんだ?」
「そうよ。アンタずっとここにいるじゃない」
一斉に詰め寄る二人だが、不意に周囲の異変に気付いた。
あれほど、身体に纏わりつく様に存在した黒霧が、霞さえも残さずに消失している、異常――ッ!
「ちょっ、何だこれ!?」
「どうして!?あんなに黒霧が充満していたのに……ッ!」
「それともう一つ。ようやく粘糸の変異生体のお出ましみたいだ」
ひたすら嬉しそうにキーファが呟いた瞬間、
かさかさ、かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさ!
衣擦れの音にも似た、言いしれない不快感を醸し出す音が聞こえてきた。
「これは……」
「蜘蛛……?」
ウィルとダイアンが揃って呟く。悟は頬をひきつらせたまま固まっていた。額からは脂汗が滲んでいる。
六人を取り巻く様に、蜘蛛が現れた。それも、数は一〇や二〇ではない。恐らく五〇は越える、全長二メートルはあろう蜘蛛の大群だ。ウジャウジャと互いの身を擦り合わせる様に。
「うっわ、ちょっと何事よこれ」
ようやく事態に気が付いたのか、耶江は龍司を引きずりながらキーファに歩み寄っていた。ちなみに「痛い痛い痛い!スッゲ痛ェんだから引きずるな!オイ、聞いてんのか!?」という龍司の抗議は無視されていた。
「龍司、男前の顔つきになったじゃねぇか」
「黙れ!殺すぞ!」
顔はもの凄く腫れていた。
「で、どうする?」
キーファが訊ねる。無論、その問いは耶江に対するものだ。
「……アンタが殺りなさい」
耶江はぶっきらぼうに答えた。
「ご褒美は?」
「ほっぺにキス。ただし条件がある。私達全員、掠り傷も負わせない様に。出来なかったらご褒美はなし」
「……そりゃ厳しいね」
「やるの?やらないの?どっち?」
「やりますよ〜☆耶江ちゃんのお願いは何だって聞いちゃうよ。それにほっぺにキスはとんでもなく魅力的だし」
すっくと立ち上がり、キーファはニヤリと嗤う。
「まずは、一匹」
そして一閃。とは言っても、裏拳気味に拳を振るっただけだ。
にも拘わらず、最前列にいた蜘蛛の一匹が、弾けた。文字通り爆散したのだ。
緑色の体液をまき散らしながら死んだ仲間に驚いたのか、蜘蛛は蠢くのをやめて硬直した。しかしそれは龍司たちも同じ事だ。
「な……ん、だよ、今の……」
「アーティファクト、か……?」
「で、でもでも、そんな素振りは見えなかった!」
三者三様、驚愕を口にする。驚いていないのは耶江と悟だけだ。
(蜘蛛とキーファって奴の距離はざっと見て一〇メートル。にも拘わらず、殺した。アーティファクトを使った様には見えなかった。……だったら、)
キュバン!キュバン、キュババン!
龍司が思考する間も、キーファは離れた蜘蛛を殺し続けた。ステップを踏み、拳を振るう。それはまるで、踊っている様にさえ見える。
(だったら、だったらコイツ、一体何者なんだよ!)
口には出せなかった。出せば、組み立てた仮説が現実になりそうで、怖かった。
見上げると、キーファは楽しそうに嗤っていた。
††††††††
同時刻。
ジャリ……。石を踏んで仕舞い、足音が響いた。
(おっと。やっちゃった)
長身の男は、心中で舌打ちした。尾行時にやってはならない常識は、音を立てる事だ。男は肩に掛かるほど長い銀髪を手櫛でかきあげた。
尾行対象は……いない。
「おや」
「 、 ?」
背後から聞こえてきたのは、男性とも女性とも取れない中性的で高い声。ただし言葉の意味は分からない。長身の男は、今度は音を出して舌打ちした。
「君は……そうか、ロシア人だったね。悪いけど、英国語か日本語は話せないかな?」
「 ? 、 。 、英語なら話す程度の事は出来る」
「それは重畳」
「……?それは日本語か?」
「失敬。最近、東洋の文化がマイブームでね」
クスクスと男は嗤う。背後から聞こえる中性的な声の持ち主に振り返る事もなく。
(というか……振り返れないんだよねぇ)
男の身体は、まるで金縛りに遭った様に動かせないでいた。指の一本さえ、動かす事はままならない。
「これが君のアーティファクトかい?」
「そうだ」
「正体は弦か」
ッ、と息を呑む声が背後から聞こえた。どうやら図星の様だ。
「……もう一度訊ねる。貴様は何者だ?」
「あ、最初の言葉はそれだったのか。分からなかったよ」
「ボクの質問には答えろ。貴様は何者だ!?」
「通りすがりの道化師さ」
背中越しの対話。相手の姿が見えないと言うのはなかなか精神的な負担がある筈なのに、男は嗤ってさえいる。心底からこの状況を楽しむ様に。
「道化師……そうか、貴様が、例の情報屋か」
「まぁ、そのつもりはないんだが、そう言う奴もいるね」
嗤う。
「名前は確か……フィオルト……何とか。長い名前だった」
「フィオルトレップ・キーファ」
「そう、それだ。貴様がそのキーファか?」
「そうだよ。厳密に言えば違うけど、僕が『キーファ』という個体の生命情報を持っている事に変わりはないからね。箱の中の猫みたいなものさ」
「言っている意味は分からないが、情報屋がボクに何の用だ?」
「ただの敵状視察。……殺したいならどうぞお好きに」
嗤う。互いに微動すらせずに、しかし男……キーファは嗤う。
「あぁ、その前に一つだけ聞きたい事があるんだけど、いいかい?」
「……何だ」
「君は男の子かい?それとも女の子かい?」
「女だよ」
「銀髪碧眼の美女。いいねぇ」
その言葉を合図にした様に、キーファを縛り付けていた弦に力が込められ、
まるでサイコロステーキの様にその長身が173の肉片に『分解』された。
††††††††
――アナタの大切なモノは、何?
少女は屍体に埋もれる少年に語りかける。
歳は少女より一つか二つ下、くらいだろう。銀髪碧眼という点だけは少女と同じだ。
――私はアナタを絶対に護る。だから、アナタには私以外の大切なモノがあっては駄目。
少女は、血にまみれた口端を舐めとり、嗤う。
――アナタの大切なモノは、何?
――私が殺すから、教えて。