α―VI. セーラー服と日本刀
その夜。
敬治は月曜日の朝課外、0限にある現代文の予習をしようと、学校の鞄の中を探った。しかし、鞄の中には肝心の現代文のノートだけが存在しない。
(……あれ? もしかして、学校に忘れてきた? しかも、現代文って月曜の朝課外からじゃん! 朝早く行って、やるのも嫌だし……)
顎に手を当てて思案する敬治が辿り着いた答えは、
(仕方ない……日曜だけど、部活はあってるから学校は開いてる……と思う……午前中の内に取りに行こ!)
というものだった。
自らの頭から飛び出したアンテナを揺らしながら、敬治は意味もなくベッドへと横になる。そんな彼の目に映ったのは、いつもと相変わらぬ白い天井であった。
◇
翌日
その朝、敬治は八時半にセットしておいた目覚まし時計の音で重い瞼を開き、いろいろと準備をした後に午前九時には制服をその身に纏って、家を出発していた。
自転車で通学しているので、敬治の家と東坂高校の距離はそう遠くはなく、所要時間は三十分前後。荷物が無ければ、二十分前後で行く事ができる。
(眠い……)
だが、そんな事を思いながら、自転車のペダルをゆっくりと漕いでいる為、学校に辿り着いたのは二十分前後ではなく、三十四分となった。
U字型の校舎の横にある体育館。その更に横には三階建ての駐輪場が存在し、敬治はその二階に駐輪して、体育館横の道を進んでいく。そして、一分経つか経たないかくらいの時間で校舎へと辿り着いき、廊下を歩いた。
敬治の教室はU字型の縦の二本の建物。その左側の校舎の一階である為、廊下を歩く時間はそう長くは無い。
教室の前に辿り着いた彼だったが、勿論鍵が開いている訳もなく、二階の職員室へと鍵を取りに行く。
長い間、先生に絡まれる事無く鍵を手に入れると、一階に戻って教室の鍵を開けて、自分の席の引き出しの中を覗く。
「あった! あった!」
そう声を上げながら、現代文のノートを引き出しから取り出して微笑んでみせる。
無事、目的を達成した彼が職員室に鍵を返しに行こうと教室を出ると、誰かが小走りしていくような足音が誰もいない廊下に響く。
その瞬間、敬治の眼に二階への階段の方へと走っていく魔術部部長の姿が映った。
「部長……? どうしたんだろう……」
何か焦っているような表情だったのを不審に思いながら、教室の錠を閉めて、その場に立ち尽くす。
血相を変えた表情で小走りでどこかに向かっていった部長の姿がどうにも気になる。
(階段の方に行ったって事は、部室に向かう途中……? じゃあ何であんなに急いで……)
職員室に鍵を返しに行った後、部室に寄ってみようと思った瞬間には、既に右足を一歩、前へと踏み出していた。
◇
二階――魔術部部室――
敬治が小走りで階段の方へと向かっていった部長を目撃する数分前。一人の人物が魔術部部室のドアの鍵を無理やりこじ開けて、不法侵入していた。
その人物は東坂高校の“セーラー服”をちゃんと身に纏っており、上靴に入った二筋の線の色が緑である事から、今年入学したばかりの一年生と言う事が分かる。
中に入って、ゆっくりと部室のドアを閉めた女子生徒は誰かいないかを確認するように部室の中を見回して、最終的にその視線を部室にある棚の方へと落ち着かせた。
そして、棚の方へと近づいていった女子生徒はその棚にあった“あるもの”へと手をのばす。
その“あるもの”と言うのは、敬治がこの部室に一人で入った時に見入ったもの――――ガラスケースに入れられた全ての面が金色に輝く、ルービックキューブのようなものであった。
女子生徒は金色のそれの入ったガラスケースに触れたとき、何かの詠唱――Araiを唱えてみせた。つまりは、魔術部部室に侵入した彼女は魔術の使える人物であった。
すると、その瞬間、キューブを囲っていたガラスケースは粉々に飛散し、何も囲まれるもののない完全に無防備な状態となる。
「これで……終わる……」
女子生徒は何か、ほっとしたような笑みを浮かべてみせる。それと同時に金色のキューブを右手で鷲掴みにした。
「――ッ!?」
だがしかし、次の瞬間に金色のキューブを中心にして、光を発する大きな円が彼女の足元に現れ、彼女を囲むようにその円はキューブから広がっていき、半径二メートルの位置で広がりを止めた。その後、今度はそれよりも小さな円が六つ、彼女と大きな円の間を埋め合わせるように、ホイヘンスの原理のように並んでいった。そして、各円の中に異様な文字が現れだす。
それは一昨日、体育館でバスケ部と魔術部がバスケットボールの試合をした時に、神津がコート上に描いていたものとほぼ同じであった。
神津が描いたのと異なる部分を上げるとすれば、地面に現れた円の数だった。
(“七円陣結界”……しかも“地雷式”のようね……)
自らの足下に広がる円を睨みつけながら、キューブを持った女子生徒は舌打ちをしてみせる。
“七円陣結界”とは、その名の通り、七個の円から形成される結界の事である。
結界とはそれを形成する円の数によって、その強さは比例するもので、形成する円の数の最大は十五であり、十五もの円の結界を描ける魔術師は日本にはいないとされている。その事からも、十五の円の結界を張るのが難しいのは明白。
それと同時に、十円陣結界も描ける魔術師は過去を遡っても一人しか存在しないと、言われており、その理由を知る者は少ない。
そして、彼女が心中で呟いた“地雷式”と言うのは、そのままの意味合いである。何かの条件を付け、その条件を満たす事によって、魔術が発動すること。つまり、今回の結界が発動する条件は、ガラスケースが割られても結界が発動しなかった事から、キューブに触れる事でだったようだ。
(簡単には解けそうにない……)
そう彼女が思った瞬間に部室のドアが唐突に勢いよく開かれ、ある人物が魔術部部室に姿を現した。それは先程、斉藤敬治が目にした人物――魔術部部長の姿であった。
右手の中指を使って、銀色の縁の眼鏡をクイッと上に上げ、女子生徒を睨みつける部長は、溜息を吐く。
「まさか、君がキューブを狙っていたとは思わなかったよ……――」
眉間にしわを寄せる部長に対して、女子生徒は「にやり」とその口元を歪める。
「――桐島雪乃」
そう。女子生徒は昨日、魔術部を見学しに来たた身長一五四センチで左目に白い眼帯をしている桐島雪乃本人であった。
「やっぱり、簡単にはキューブを盗らせてくれなかったかー……そりゃあ、キューブは“重要なもの”だもんね……――人類の命運を分けるほどの」
その言葉を聞いた瞬間に部長は睨みつける視線をより一層、鋭くする。
「誰の命令でキューブを奪いに来やがった……!」
部長の尋ねかけに彼女は不敵な笑みを浮かべながら、「フフフ……」と声を漏らす。
「部長さんもご存知の“あの方”。その人の命令だよー? で、部長さんは何しにきたの……?」
その瞬間、目を大きく見開いた部長はその後、段々とその目の色を深い黒へと変化させていく。それは氷点下のように冷たい眼差しであった。
「……俺は魔術委員会にキューブを託された者の一人だ。だから、それを絶対に渡すわけにはいかない……! 大人しく退かないって言うんだったら、俺はお前を――迷わず殺す」
自らの右手を新入部員に向けて翳す部長。しかし、向けられた本人はそんな彼の言動を嘲笑う。
「できるの、部長さんに? 去年の夏もそれができなかったから、今、こうしてキューブが奪われようとしてるんだよ? それに部長さんも腹部に大怪我を負う事になったんでしょ?」
その発言を聞いて、自分の情報が相手にだだ漏れであると言う事を理解する。同時にさり気なく、彼は自らの右脇腹を右手で触れた。
彼女の言うとおり、彼は去年の夏に腹部に大怪我を負い、今でもその傷は癒えていない。激しい運動をする事ができない体になってしまった。
そんな彼を見ながら彼女は言葉を続ける。
「それに、この結界。わたしの脚だけを動けないようにしたのはそうすれば、部長さんが自分で捕まえられるって思ったから? だったら、部長さんは判断ミスしちゃったみたい。脚以外の部分全部動かせるんだもん。こんな薄っぺらい結界なんて、わたしの手で――――すぐに壊してあげる」
そう言った瞬間に、彼女はキューブを持っているために塞がっている右手とは逆の左手で、左眼の白い眼帯を外してみせる。
眼帯が外される事によって、露になったその左眼は未だ閉じられたままだったが、左手の白い眼帯をポケットに押し込むのと同時に開かれる。
普通の人と何ら変わりないように見えた彼女の左眼だったが、その黒目の部分は普通の人とは異なっていた。
大きな円と、その線に串刺しになった小さな円が並んだ紋章のようなものが刻み込まれている。
そんな彼女の左眼を見て、自らの眼を疑う部長。
「それは……!?」
「驚くにはまだ、早いと思うけど? 部長さんがわたしの左眼に見とれてる内に、ほらっ」
そう言って雪乃は左手に握った日本刀を部長に見せつける。
その刀は何も持っていなかった彼女の左手から突然、姿を現したものだった。
笑みをより一層、濃くしていく彼女は握った刀を振り上げる。
「わたしの言ったとおりでしょ? 部長さんはわたしを殺せない――」
瞬間、彼女は振り上げた刀で空を斬り、足元を取り囲んだ円、つまりは結界を粉粉に砕け散らせた。そして、部長は雪乃と応戦するべく、Araiを唱えようとしたのだが、それよりも先に雪乃がAraiを唱えてみせる。
「Sundob of a cserad lapec」
その瞬間、彼女を中心として、大きな円が一つとその中に小さな円が七つの八円陣結界が展開され、部長はそれを見ても尚、Araiを紡ごうとした。
結界は一昨日、神津がしていたように自らの手で描いて展開もできるが、Araiを唱える事によっても、展開する事ができる。しかし、自らの手で描いた方が、を唱えるよりもより強力な結界を展開する事ができる(魔術師の力量によっては同等の場合もある)。
「Nidw」
部長の右手から放たれた風は彼女の展開した結界に当たった瞬間に飛散し、日本刀を持った女子生徒に届く事は無い。
「あらあら。風の魔術の中でも最低の魔術のAraiを唱えるなんて……もしかして、八円陣結界が見えなかった?」
「違う……俺の魔術はただの――――条件だよ」
その言葉を聞いた瞬間、雪乃はすぐさま自らの足元へと目を向けた。それと同時に、彼女の展開していた結界が砕け、もう一つ円の多い九円陣結界が彼女の周りに展開された。そして、彼女は完全に身体を動かせない状態になる。
「九円陣結界を発動する条件が風の魔術のAraiを唱える事だったってわけか……それに、今度は脚だけじゃなく、全身動かせない……」
結界を破ろうともがこうとする彼女だったが、体は動かせない。
部長はそんな彼女に一歩一歩近づいていく。
「キューブを渡して貰うぞ」
「フフフ……やっぱり、部長さんはダメだよ。勝利を確信したからってわたしに安易に近づいてくるなんて――」
その言葉を聞いた瞬間に部長は自らの身を後ろへと退けようとした。だがしかし、それよりも先に彼女を取り囲んだ結界はいとも容易く破壊され、自由に動けるようになった彼女は刀の切っ先を下に向け、眼鏡を掛けた男へ突っ込む。
「――観察力が無い。わたしの魔眼は――“具現”だよ」
振るわれた刀は部長の腹を斬り裂こうとしたが、部長が足を躓かせた事によって、その刃は部長の制服を切って、腹を掠るのみに留まった。
「運がいいですね。部長さんは」
そう言って、雪乃は左手に持った日本刀を一瞬で消し、床に尻餅を着いた部長を置いて、部室の扉を開くと、走り去っていく。
「待て!」
切り裂かれた制服から少量ながらも血が滲んでいく中、彼は侵入者を追いかけようと腰を上げ、開かれた部室の扉から外に出た。
その瞬間、目の前にはこの前、魔術部に入ったばかりの新入生の姿があった。
「――敬治君!?」
「部長! そんなに急いでどうしたんですか……? 桐島も今、走って出て行きましたけど……――って怪我してるじゃないですか!? 早く保健室に行かないと!!」
敬治の心配そうな表情を見て、部長は自らの斬られた腹ではなく、右脇腹を触った。
「俺の事はいい! 桐島雪乃を追って! 彼女の持ってるキューブが“あいつら”の手に渡ったら、人類が終わるかもしれない! お願いだから、彼女を殺してでも、キューブを奪わせないでくれ!」
その言葉を聞いた敬治は一つの単語が耳に残る。
(あいつら……!? まさか、谷崎先輩に関係のあることなのか……? だったら……)
廊下に血を垂らし、苦しい表情を浮かべて頼む部長の顔を見て、首を縦に振る。
「“あいつら”の説明は後でちゃんと、してくれるんですよね?」
「ああ……必ずする……だから、キューブを!」
「分かりました」
その言葉を聞いた敬治はすぐさま、雪乃が走り去った方向へと、走り出す。
雪乃が部長に対して、何をしたのか分からない敬治を突き動かしたのは、部長の真剣な表情から、状況が芳しくない事を察したことと、谷崎の情報を得られるかもしれないと言う希望であった。