LIII. 一線を越えた
三人はいつだって一緒だった。
小学校も中学校も高校も。だが、大学からは離れ離れになってそれぞれが異なる仕事に就いた。
一人は警察。一人は大手企業。そして、あと一人は――――。
喧しい目覚まし時計が鳴り響くのと同時に、男性はベッドから体を起こす。
家に帰り着いたのが午前三時で今の時刻が午前六時。
三時間も睡眠をとってない。
こんな状況が一週間くらい前から続いていた。
原因は先日に起きたドームでの大量殺人。
その後処理と、偉い人の頼みごとに力を入れていた。
ベッドから降りて床にあったスリッパを履く。
頭が働かずにぼーっと突っ立って瞼が重くなっていくのを懸命に堪えながら部屋を後にする。
リビングに向かうと隣のキッチンからは香ばしい匂いとフライパンで何かを焼く音が聞こえてくる。
「おはよ!」
「……うん。おはよう……」
キッチンにいる女性の挨拶に応え、椅子に座ると、机の上にはトースターで焼いたパンとバターが置いてあり、あくびをしながらパンにバターを塗っていく。
「昨日は何時に帰ってきた?」
「三時くらい……」
「一週間もそんな感じじゃ……休んだほうがいいよ!」
「僕もそう思う。いただきます」
そう言うと彼はパンを食べ始め、彼女はさっきまで焼いていたウインナーを皿に乗せて彼の方によこしてきた。
「でも、僕は委員会の中じゃ若い方だから色々と仕事を任されてしまって……それにこの前のドームの一件だってある」
彼の目の前に座って朝食を食べ始める彼女は、心配そうな顔で彼を見る。
「この前のドームって五千人が一気に消えた話でしょ? たっくんって高校の時から魔術とかオカルト的なのに手を出したり、就職先も“魔術委員会”って良く分からない所だし……心配だよ……」
「大丈夫。ちゃんとした組織だよ、魔術委員会は」
食べ終わった彼が皿をさげて、歯磨きやら洗面やら着替えやらを済ませる。
「ごめん……この頃、家事の分担がうまくいってなくて……」
「いいよー。仕事頑張って! いってらっしゃい」
「舞も頑張って! いってきます」
外に出ると、眩しい日差しと寒さが彼の眠気を吹き飛ばした。
「……さむ……」
黒い鞄の上に乗せていたマフラーをすぐに首に巻いた。
彼と彼女は同棲していた。結婚はしていない。
先日の事件が起こるまでは順調で、彼女の両親も積極的だったが、先の事件のおかげで彼女の両親が急に反対し始めたのだ。
彼の就いている仕事がこんなに危険なものだとは思っていなかったようで、理解してもらうには時間が掛かりそうだった。
それに彼女が勤めているのは大企業であり、対して彼の仕事は訳の分からない委員会。その差も影響していた。
◇
向かうのは勤務先である魔術委員会本部。
そのビルの地下には大量の魔術の犯罪者たちが収容されている。そして、彼の向かおうとする最下部には先日、ドームにて五千人もの人々を消し去った一人の少年が捕まっていた。
真っ暗闇に降り立った彼は、その少年の元へと近づくのと同時に睨みつけられる。
「よぉ。かしわオニギリィ!? 毎日顔見せにきやがってご苦労なこった!」
「僕も好きで君と顔を合わせているわけじゃないんだ。こんな真っ暗闇の中、五千人を消した少年と二人きりだなんて頭がいかれそうだよ」
「その割には平気そうなツラで仕事してるけどなぁ!?」
彼はそんな笑う余裕のこいた少年を睨みつける。
「君はもっと発言に気をつけた方がいいよ。僕のさじ加減で君の命はどうとでもできる」
「いいや……お前勘違いしてるよ。お前らに俺は殺せない! それにお前らも俺に構ってる暇なんてすぐになくなる」
睨みつけていた彼の表情が訝しげなものへと変わると、犯罪者は肩を竦める。
「まだ分かってねえのか? 能天気で平和な頭してんなぁ、かしわオニギリ!?」
侠気に満ちた笑みに彼は悪寒を覚える。
「俺が一線を越えちまったんだ。魔術で犯罪を犯すっていう線をなぁ? これから俺みたいな奴らがうじゃうじゃ出て来る。それに忘れんじゃねえぞ? お前はこの深淵に一番近い男だってことをなぁ!?」
少年の言っている事は意味が分からなかったが、それは何かを暗示しているような気がした。
逃げるように彼は地下から地上階に向かう。
彼の今作っているものが完成したらどうせ、少年もでかい口を叩けなくなる。
そう言い聞かせながらエレベーターで地上階に上がって廊下を歩いていると、ある人物に声を掛けられる。
「あ! 柏原くん! ちょっと!」
「……? おはようございます。副会長。どうかされたんですか?」
自分の名前を呼ばれて振り返る彼の視線の先にいたのは魔術委員会の副会長である福津哲也であった。
「ちょっと話があるんだけど……会議室で一緒にコーヒーでもどうだい?」
「……あのまだ、休憩時間じゃないんですが……?」
「何言ってるんだい。今日は会長がいない。つまり、僕が一番上の人ってことだ。僕の言う事を聞かなくて誰の言う事を聞くんだ?」
笑う上司に対して、彼は苦笑い。
上司の誘いを断るわけにもいかずに会議室で向き合うように座る。建物内にある無料のコーヒーを紙コップに入れて机に置くと、副会長は話し始める。
「会長の無理難題は順調かい?」
「順調……ではないですね。本当に無理難題なので……」
「そうか」
笑う副会長につられて彼も笑うが、一瞬にして副会長は真剣な表情になる。
「一つ。お願いがあるんだけど……会長の無理難題が解決したら、僕にその仕事を受け継がせてはもらえないだろうか? いや。君の業績を奪うとかそう言うのじゃないんだ。完成したら、その後の扱いを任せてほしい。まあ、今すぐ答えは聞かなくてもいいんだ。ただ、頭の隅っこに置いといて」
「分かりました。考えておきます……」
予想だにしていなかった頼みごとで戸惑いながらも、彼はそう応えた。
一瞬二人ともコーヒーをのんびりと飲む沈黙が訪れるが、そんな中、彼は先ほどの少年の発言について質問してみる。
「桐島尚紀が言っていたんですけど……自分が一線を越えた。だから、自分のような者たちが出てくる。と……どういう意味なんでしょうか?」
コーヒーを口に含みながら思案する副会長。
「なるほどね……彼の言うように彼は一線を越えてしまったんだよ。魔術って言うのは一般にはオカルト的なもので、表に出てこない代物だからね。それを表に出してしまった。つまりはその一線を越えてしまったって事だよ」
「それは分かるのですが……何故、彼のような者が出てき始めるのかが良く分からなくて……」
「そりゃ同類が表に出たって事は自分も表に出るきっかけにはなるでしょ。桐島尚紀の目的はこれだったのかもしれないね……もう既に出てき始めてるかもよ?」
そう話しながら上司はスーツの内ポケットの中から一枚の写真を取り出す。
「これはまだメディアにも出回ってない極秘の写真なんだけど、まあ君には見せても問題ないでしょう」
机に置かれたその写真は警察が撮るような現場写真。しかも、惨殺死体の。
「うっ……ごめんなさい」
口を押さえながら、その写真から目を逸らす。
すると、副会長は机の上に出した写真を元の内ポケットの中に戻した。
「写真を見て分かったとは思うけど、これは猟奇的殺人だよ。人間を自らの頭の中に描いたものをぶつけるアートとしか思っていない」
写真は死体の内臓を抉り出し、その中に死体の両手を入れて腹から手を生やし、その手の上に首を置いていた。
明らかに犯人は狂っている。
「これが魔術の仕業でありにしろないにしろ、桐島尚紀のような犯罪者が動き出しているのも事実」
桐島尚紀が起こした事件の影響を重大なものとして、理解していなかった自分が浅はかに思えてくる。
そんな中、彼の頭の中では今日、少年に言われた一言が響いていた。
(僕が……一番深淵に近い男……)
つまり、あの言葉は彼に対しての忠告。
彼自身にも危険が及ぶ可能性があるということ。だが、一つ見逃していることがあった。それは彼の周りも同様であるということ。
コーヒーを飲み終えた二人はそのままそれぞれの仕事に戻った。
◇
今日も魔術委員会本部を出たのは深夜二時半となった。
終電は乗り過ごしたので、タクシーで家まで帰ろうとする。
携帯電話でタクシーを呼び、本部の裏口から正面に来て、待つ。
人通りは全くと言っていいほどない。
車も疎らで、魔術委員会の本部の中も暗く、光は点々と存在する街灯のみだった。
不気味。
殺人犯が現れるなら、こういう状況であろう。
白い息が口から出る。周りを見回すが人はいない。
桐島尚紀の言葉が頭を過ぎり、彼は自らの拳を握り締め、身を縮こまらせる。
その瞬間、彼の背後からコツコツと誰かの近づいてくる足音が聞こえてくる。
後ろを振り返る彼に対して、その足音が止まった。
よく見えない。だが、誰かいる。
ごくりと唾を呑み込んで、じりじりと後ろへと下がる。
「動くな! 殺られるぞ!」
その声は彼にとって聞いた事のある男性の声だった。
人通りの少ない通りから走ってやってくるその男性。
「こんな所で一人で何して――――ってお前……哲郎か?」
「ヒロ? 時枝元宏!?」
街灯の光で一メートルほどの距離になって初めてその顔を確認する事ができたが、喜んでいる暇もなく、やってきた男は人差し指を口元に持っていく。
見ているのは先ほど足音の聞こえてきた方で、その男はすぐにその方に走っていく。
彼も久しい友の後を追い、委員会本部横の暗い路地の方へと足を踏み入れる。
同時に漂う異臭に彼は口を塞いだ。
「哲郎……お前は来ない方がいい。これは……お前ら委員会に対する挑戦だ」
本部の壁の方を見る時枝に彼もその方向に目を向ける。
すると、彼の目に飛び込んできたものは血で書かれた文字だった。
『キリシマナオキヲカイホウシロ』
そう壁に書かれていた。
「すまないが、哲郎……お前も参考人として署に連れて行かなければならない。大丈夫か? 大丈夫じゃなかったら、一度家に帰ってもいいんだが……」
「これを見て、平然としていられる君よりは大丈夫だと思うよ……」
今にも吐き出してしまいそうな彼の表情と皮肉に少しだけ時枝も苦笑する。
彼はそのまま、パトカーに乗って警察署に出向く事にした。
取調室のような個室に連れて行かれ、他の警察の関係者に話を聞かれると思いきや、そのまま彼の友人である時枝が話を聞くようだ。
「体調はあまりよくなさそうだな……取調べが終わったらすぐに家に帰るといい。勤務時間を変更してもらう事はできないのか?」
「多分できない……委員会も忙しいんだ。この前の桐島尚紀の件で……」
「その少年が暴走したのにはお前も一枚噛んでるらしいな……まあ、その話は後だ。今日の事で何か気づいたことはなかったか?」
そう尋ねられてもすぐに出てくるものでもない。
だが、一つだけ確かな事はあった。
「あの路地にいたのは……多分女性だと思うよ。僕が聞いた足音はハイヒールのだった」
「それはいい証言になる。他には何かあるか?」
考えるがそれ以外のことは出てこず、彼は首を横に振った。
「そうか……分かった。今日はすまなかったな。俺が送ろう」
そう言われ、彼は友人に車で家まで送ってもらう。
その道中、助手席に乗った彼に対して、友人は口を開く。
「お前の勤めてる魔術委員会。あまり良い噂は聞かないな。裏では殺人を犯したり、人体実験をしたりしてるってな」
その発言に彼は黙り込む。
「お前は麻衣を幸せにするんだろ? そんな男が素性のわからない所に勤めていてはいけない事ぐらいお前の中ではわかってるはずだ。俺に話せ、魔術委員会の裏を」
「そんなやましい所じゃないよ……だから、裏だなんてそんな事もない」
「俺はお前の事を思って言ってるんだぞ? 警察が何も知らないとでも思っているのならそれは大間違いだ。お前らがやってる事の見当ぐらいならついてる」
車が止まる。彼と彼女が同棲している家に着いたのだった。
「分かってるなら……尚更、手を出さないほうが良い……退けなくなるよ……?」
そう言うと、彼は車から降りる。
「送ってくれてどうも……また聞きたいことがあったら、電話でもメールでもしてくれ……」
ドアを閉めて、家に帰る彼の表情は何かを背負い込んで隠しているようなものがにじみ出ていた。
「昔からお前は隠すのが下手だったな……すぐに顔に表れる……」
鼻で笑いながら、時枝は止めていた車を出す。
「退けなくなるって……お前みたいにか? 哲郎……」