α―XXXIV. 七つの罪源
感情が流れ込んでくる。それはキューブによって伝わってくるもの。
傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。七つの罪源。
(頭が……痛い……)
直接頭にぶち込まれる感情に頭がおかしくなりそうだった。
その中でも一際、強く流れ込んできた感情は憤怒。
意味はよく分からなかったが、頭に直接響く声によってそれを知る。
(……キューブは全部で……七つ……?)
キューブの数は流れ込んでくる感情と酷似している。そして、一つだけ強く流れ込んでくる憤怒と言う感情。
それらを結びつけた結果、ある仮説に辿り着く。
(キューブにはそれぞれの感情が……――――!?)
その先を考えようとした瞬間、彼の意識はある場所に連れて来られている事に気が付いた。
そこは先ほどまでいた深淵よりも深い、闇に飲み込まれてしまいそうな場所。
だが、そこにも一つだけ目に見えるものがあった。
大きな眼球。
それは悪魔のように大きな眼だった。いや、本当に悪魔なのかもしれない。
何故なら、それは彼の意識を闇に引き摺り込んだのだから。
キューブから伝わるのではなく、彼の中から一つの感情が、水が沸騰するのように湧き上がってくる。
その感情は憤怒。
◇
「う、撃てぇええ!!」
その声と共に放たれた銃弾と静寂な夜に鳴り響く銃声。
同時に鳴り響くは雷が落ちた時のような轟音と、カメラのシャッターよりも眩しい光。
その場にいた全員が反射的に目を瞑って、十数秒後に眼を開けると風景は何ら変わっておらず、銃を向けている方向には平然と男子高校生が立っていた。
その時、銃を握っていた者たちの殆どが一斉に気がつく。構えていた銃が全員、使い物にならなくなっていることに。
そして、使い物にならなくなった銃の銃口はコニーデから噴き出したマグマのように赤く光り、溶け出していた。
驚きのあまり、瞬きをする事もままならない警察官たちと同様に谷崎一也と言う存在も驚いていた。だが、それは違う意味での驚き。
(……銃だけを溶かしたという事は、キューブに意識を呑まれていない……!?)
キューブに意識を呑みこまれていない事実は、キューブを意のままに操っている事を現しているようだった。
キューブの代償。それはキューブから流れ込む感情に呑まれること。感情に呑まれ、味方も敵もなぎ払って、その場にいた全ての者を失うこと。
それが行われないのにはちゃんとした理由があった。
流れ込んでくる感情は憤怒。そして、敬治が今、怒りを抱いているのは谷崎一也。
つまり、感情に呑まれたとしてもその狙いは――――
「――たにいいざきいいいいい!!!」
咆哮は午前零時を回ろうとしている静寂の夜に鳴り響いた。
その時、谷崎の中にある確信が生まれる。
(敬治を呑んでいる感情は憤怒……? なら、あいつを本当に呑みこんでいるのは――)
瞬間、谷崎の見ていた光景は星が一つも見えない夜空に変わった。
自分の身に何が起こったのかすら分からないほどの速さ。腹部の痛み。そして、視界に入るキューブを握った“赤い眼の悪魔”。
「……悪魔が……」
そう呟いた瞬間に光速の拳が彼に向けて振り下ろされた。
血が飛び散って、顔が地面に食い込んだ絵になると思われたが、彼の拳が殴ったのは地面で、そこに谷崎の姿は無い。
食い込んだ右手を地面から離す。
次の瞬間、敬治の顔に格闘家のそれを凌駕した蹴りが襲い、敬治の体はパトカーのフロントガラスに叩きつけられた。そのまま地面に転げ落ちるが、左手に握ったキューブは絶対に手放さない。
「俺が高校生になって、中学の魔術部を見に行った時から、敬治、お前が俺と魔術で並べる存在だと分かっていた。だから、お前には俺の為に働いてもらいたかったんだけどなぁ……」
固まった警察官に囲まれている谷崎はパトカーの下に転がった高校生へと足を進める。その最中、彼の右手は先ほど、敬治に殴られたであろう腹を押さえていた。
「しかたがない……お前が俺の抑止力として働くんなら、お前をここで殺して、力ずくでキューブを奪わせてもらう」
瞬間、谷崎は警察官の前から姿を消すと同時に、敬治の転がっていた地面を電撃を纏った拳で殴った形で現れる。
勿論、その殴った地面に敬治の姿はなく、すぐに周りに意識を向ける谷崎の横に赤い眼の悪魔は現れる。
電撃を纏った自分に向かって振るわれる拳をアスファルトの地面に食い込んだ右手を引き抜いて、その右手に電撃を纏って防ぐのと同時に、そのまま拳を掴んで、背負い投げの要領で敬治の体を地面に叩きつける。
無防備なその体に手刀を突き刺そうとしたその瞬間、彼は自分の身に危険を感じて、敬治の拳を握っていた手を離した。
「Sundob of a cserad lapec」
五メートルの距離を一瞬にしてとってから、周りを取り囲んでいる警官たち。いや、その周りにあるパトカーへと視線を向けて、十二円陣結界を自分を中心に半径一メートルに張る。
同時に敬治から発せられた電撃は地を這うように進んで行き、一秒も掛からずにパトカーの元へと辿り着く。
その瞬間、不幸にもエンジンを回しっぱなしだったパトカーは巨大な爆発音と共に空へと飛んだ。しかも、一台ではない。その場にあったパトカー全てが爆発し、激しい炎と黒煙を振りまいた。
結界を張った谷崎以外のその場にいた全員がその炎に巻き込まれる。勿論、敬治も。
炎の勢いは一分ほどの時間が経過しても治まらず、敬治は一向に姿を見せないため、段々と死んだ可能性が浮上してくる。
しかし、その可能性もあっけなく打ち砕かれた。
炎の中で立っている一つの黒い影が谷崎の目に映る。
その影は段々と結界を張った谷崎の方へと近づいていき、血のように赤く光る眼が迫る。
敬治の全体の姿が見えた時、彼は再確認する。目の前の人間が握っているものは常識など通じないと言う事を。そして、その事を身に染みて理解している事を。
右手が谷崎の結界に触れるが、破壊されない。
その瞬間、二度目の大きな爆発の炎が谷崎の結界の外にいる敬治を襲う。だがしかし、炎は彼を包む直前で何か見えない壁のようなものに阻まれ、結果として無傷。
目の前に存在する抑止力をどう処理しようか谷崎が悩み始めた時、その声は鳴り響いた。
◇
地下八階
敬治と谷崎が消えたそこに残された人物は桐島兄妹、二階堂、魔術委員会会長と副会長の五人。そして、地面に倒れた棚木。
谷崎のいない、そして桐島尚紀が負傷をしている今ならば、彼を殺すことができるかもしれないと思う会長だったが、自分も負傷している為、それは叶わない。
隣にいる副会長と雪乃は谷崎の仲間で、二階堂は亡霊。
二階堂なら今の桐島尚紀を殺せると読んだ会長が口を開こうとした時、その笑い声は地下八階に鳴り響いた。
「クックック……アハハハッハッハッハッ――――!」
誰もがその声の聞こえた方に振り向いて、口元を歪めて壁に背をつけて座っている男を視界の中に入れる。
すると男は立ち上がって、長い髪の間から狂った眼を覗かせる。
「何だよ、あの速さはよぉ……ふざけてんのかぁ?」
棚木によって内臓の血管を破壊されたはずの男はその痛みが消え失せてしまったかのように笑みを浮かべている。
その表情は誰が見ても底知れない恐怖を抱くようなものだった。
「お前さん……怪我は……!?」
「会長さんよぉ。俺は最強で、お前らに創られたも同然なんだ。知ってるだろ? 俺の中にある魔力の量が桁違いなことぐらい。それを使えば傷を治すことだってできんだよ」
魔力での自己治癒。
聞いた事はあったが、会長さえもやった事はない。
歩みを進め始める桐島尚紀を怪我を負い、魔術も使えない今の状態では止められない。
「……あれは俺の獲物だ」
その瞬間、桐島尚紀は地下八階から姿を消した。
向かった先は地上。だが、その前に彼は地下四階でその足を止めた。何故なら、そこにはちゃんと立っている人間が三人いたから。
地下七階と地下六階には人はたとえ死体であったとしても存在せず、地下五階には倒れている人間が多く存在していた。
そんな中、地下四階には倒れている人間の中で立っている人間が三人。
少し気になって足を止めた彼だったが、その行動は一人の人間を救う結果となるのか、それとも――。
「……こいつのは――――異常だ……」
「何ゆーとんねん。アボノー……? なんかよーわからへんけど、俺を一言で表す言葉はそれやない」
関西弁の男は左手で顔の左側を押さえた男の方へと足を進める。
だが、二人の距離が一メートルを切ろうとした時、その間に髪の長い男が割って入った。
「なんだか面白い話してんなぁ」
その男の姿を見た瞬間、二人はそいつがどういう人物であるかを理解した。
「桐島……尚紀……!?」
関西弁の男は呟くのと同時に、一気に距離をとった。
左顔面を押さえている男も同様に距離をとろうと思ったが、勝手に膝が地面に着いてしまう。年齢と流れ出る血の量が彼の体をそう仕向けた。
そんな男に背を向けた桐島尚紀は距離をとって、眼の中に何個もの円を刻み込んだ男と対峙する。
その異様な眼を訝しげな表情で見ると、にやりと口を歪めた。
「十五の円の描かれた眼……あんたのその魔眼、“時間”か“時空”のどっちだ?」
その質問に答える者はおらず、言葉を続ける。
「まあ、どっちでもいいんだ……どうせ俺より格下なんだからよぉ!」
長い髪の間から覗かせるその眼に一つの円が現れる。それ以上増えることもなく、減ることもない。
そんな彼の眼を見て、十五個の円を眼に浮かばせた男は笑いだす。
「はっはっはっ! ホンマかいな。自分、なんもわかっとらんのやな! 魔眼の強さは円の数に比例する。つまり、自分のが一番最弱で、俺のが最強や」
関西弁の男の言葉を桐島尚紀は鼻で笑う。
「違うな。円の個数の違いは単なる能力の違いだぜ? おっと。こんなところで話してる暇なんてないんだよ。あんたよりも強そうなのが上にいる。そう言えば、あんたも“自称”最強なんだっけかぁ?」
天井に空いた穴へと目を向ける桐島尚紀が嘲笑うように関西弁の男に目を向けたその瞬間、桐島尚紀の体全体が黒い炎に包まれる。
その黒は関西弁の男が発した魔術でさえ、呑みこんでしまう。
そして次の瞬間、目を大きく見開かせている男の地面から黒い炎が唐突に現れ、彼を天井に空いた穴、その先の穴にまで吹っ飛ばした。
そのまま地下二階の地面に倒れた人々の上に落ちた関西弁の男。黒い炎が直撃した胸の辺りは、服は燃やされ、皮膚は焼きただれている。
深手を負わされた男をいとも簡単に倒してみせた目の前の犯罪者に、警察の男は手が届く距離なのに何もできない。
左顔面からの血は止まらず、目の前の光景が大きく歪み始め、意識は闇に落ちた。
黒い炎の中から出てきた桐島尚紀は地面の穴を挟んだ反対側に動けずに突っ立ったままの男に目を向ける事無く、“暗黒”の電撃を発しながら地下四階から姿を消した。
◇
魔術委員会本部前
地上に辿り着いた桐島尚紀の眼が捉えたのは炎の中に展開された結界の外にいる一人の男。そして、叫ぶ。
「楽しそうにやりあってんなぁ!? 俺も混ぜろよ!!」
彼が眼をカッと見開くのと同時に炎は全て黒に染まる。
その声の聞こえた魔術委員会本部の方へと二人が振り向いた時には桐島尚紀の姿はなく、敬治の真横に存在していた。
桐島尚紀の黒い炎を纏った右手が後ろに引かれ、敬治の胸倉に向けて振るわれる。
谷崎の攻撃のように空気を殴ると思われたその右手は彼の胸へと直撃し、体を魔術委員会本部まで吹っ飛ばした。
あっさりと攻撃が当たってしまい、期待外れといったような表情を浮かべる桐島尚紀。
結界を張ったままの谷崎も訝しげな表情で煙を発する本部のエントランスを見る。
その数秒後、何かを壊したような轟音と共にエントランスからは数倍の煙が夜空に上がった。
煙に包まれる自らの光景と、血だらけの体を見ても敬治は何も思わない。左手にしっかりと握られたキューブがそうさせない。
(なんだ……? 俺に攻撃してきやがった……――)
流れ続ける憤怒の感情。
自分を攻撃した者へと向ける怒りは殺意に変わり、頭の中で鳴り響く声は告げる。“殺せ”と。
その声は悪魔の囁きという言葉を最も良く表している。何故なら、それは本当に悪魔の声なのだから。
ルシファー、レヴィアタン、ベルフェゴール、マンモン、ベルゼブブ、アスモデウス。そして、サタン。
そのサタンの声は尚も敬治に囁き続ける。
瞬間、谷崎と桐島尚紀の目にはエントランスの方から歩いてくる存在が映る。
金色のキューブを左手に持って、焼き爛れたところからボタボタと血を落としながら進んでくる人間と呼ぶのには些かの疑問を感じるモノ。
そして、二人は彼の胸の傷が治りつつある事に気付く。
その二秒後、二人の周りに存在していた黒い炎は消え失せる代わりに目の前には激しい放電の音と共にその存在はゆっくりと足を踏み出しながら近づきつつあった。