α―XXXIII. キューブ
煙は段々と晴れていき、天井の穴からの光が二人の人影を照らし出す。そして、煙が完全に晴れた瞬間、谷崎一也は笑みを浮かべた。
「待ってたよ……敬治」
腕を広げて歓迎するのは、憧れを抱いていた先輩。しかし、今の彼には目の前の男は雪乃を利用した人物にしか見えてはいない。
そして、そんな彼の目に映るのは、地面に座り込んで涙を流す彼女の姿だった。
拳を握り締める彼は一歩一歩、腕を広げる男の方へと近づいていく。
捜し求めていた先輩との距離が一メートル以内に入った時、彼は自らの拳を後ろに振り上げ、男の顔を思いっきり殴り飛ばした。
何も抵抗する事無く、殴られて地面に叩きつけられた魔術委員会会長を殺そうとした男、谷崎一也。
彼は笑みを浮かべながら立ち上がって、自分を殴った男を見る。
「悪いとは思ってるんだ。だから、大人しく殴られてやった。けど、次に俺に攻撃した時にはたとえお前であっても――敵と見なす」
明らかな殺意を向けられた敬治は気圧されそうになるが、堪える。そして、彼の目に映ったのは血の広がる地面に倒れている一人の男。
目を見開くのと同時に呟く。
「どういうこと……?」
その言葉に答える者はいない。近くに寄って男の顔を確認すると、すぐさまその視線を谷崎一也に向ける。
「どういうことですか……谷崎先輩? あなたが棚木を……殺したんですか……?」
その問いかけを嘲笑うかのように笑みを浮かべる犯罪者。
「ああ。棚木は俺が殺したも同然だ。だから言ったじゃないか。『悪いとは思ってるんだ』ってな。それに彼は自分の望みを果たしたと思って満足気に死んでいった。復讐心をもって生き地獄を味わうよりもこの方が彼にとっては救いだったと思うがな」
返す言葉が見つからない。
目の前の男が言っている事が間違っているのは分かっている。だが、谷崎は自分の意思を曲げようとはしない、そういう男だった。
話しても意味が無いのだ。そして、それを自分自身でも分かっており、彼は予め釘をさした。次攻撃すれば、敵と見なすと言って。
つまりは今の敬治は何もできない。
「桐島尚紀も負傷してるから単刀直入に言わせて貰う。亡霊を抜けて、俺の方につけ」
そんな彼に追い討ちをかけるように言葉は紡がれる。
完全にペースを持っていかれていると思い、一番気になっている事を尋ねかける。
「……なんで、去年のような事件を起こしたんですか……?」
「あの時はそこにいる老人を殺す必要があったからだ。歳を重ねているだけあって、そいつは余計な事を色々と知りすぎている。その中には言いふらされると、厄介なものもあった。だから、殺そうとした。まあ、今となってはもうどうでもいいけどな。“残りの二つ”ももう手に入れたも同然だし」
そう谷崎が口にした時に反応したのは敬治と共にこの階に現れた二階堂壱。
自らの首を傾げて、ポケットの中から何かを取り出して、谷崎に見せ付けてみせる。
「はて? 君は足し算もできない小学生以下の低脳な人間なのかね? キューブは残り三つのはずだが?」
ポケットの中から取り出したのは黄金に輝くルービックキューブのようなもの。それは紛れもなく、大量の魔力が納められたキューブであった。
そして、彼のキューブを合わせると、谷崎が手に入れていない数は三つ。
「お前の事は裏切り者とでも呼んだ方がいいか?」
「裏切ると分かっていながら私を使った君も悪いとは思うのだが違うかね?」
睨みあう二人。
初めに動いたのは二階堂の方で、自らの眼を異様なものに変化させる。
五つの円が描かれている眼。
その時、彼は自分の置かれている状況に気がつく。
「……血……?」
キューブの握っている右手とは逆の左手で腹を触ると、そこには液体が付着していた。
前にも味わった事のあるような状況。だが、それは雷が落ちた時のような轟音と共に起きた事。
しかし、今のは何の音もしなかった。
「“反応”……こんなにも差があるのか。勉強になった……」
「此処は地下。お前の能力は間違ったら、自分まで生き埋めになる可能性がある。だから、本来の力は出せないだろう?」
計算の内と言わんばかりの笑みを浮かべて、自らの右手を前に突き出す。
「そのキューブ。大人しく渡してはくれないか? 二階堂壱」
今の自分には敵わないと諦めるのは簡単。そこで、諦めないのには勇気がいる。なら、勇気はどこから――。
キューブを谷崎の方に投げようと右手を後ろに持っていく二階堂。そして、彼が投げる行動に至ろうとした瞬間、雷が落ちた時のような轟音が鳴り響く。
二階堂の右手を握って、投げるのを止める存在――
――それは正しく、雷が地に降り立ち具現化したような魔術師だった。
敬治が何の為に此処に来たのかと問われれば、谷崎の会長を殺そうとした理由、変わってしまった理由を聞きに来たのだ。
だが、決してそれだけではない。
『お願い……わたしを助けて……』
その言葉を決して忘れる事はできない。
「雪乃……あの時の言葉はどういう意味……?」
二階堂の後ろで座っている桐島雪乃に目を向けて、尋ねかける。
彼女は本音を吐き出してもいいのか考え、自らの顔を俯けた。
呪縛。
絶望していた自分に手を差し伸べてくれた恩人。
だが、それを利用して、そんな自分を利用した人間。
呪縛。
左眼を与えてくれた恩人。
だが、その左眼を扱える道具としてしかみていない人間。
呪縛――。
「……わたしを……谷崎一也から救い出して……敬治くん!」
右眼から涙を流して、崩れた泣き顔でそう叫んだ。
二階堂の手の中にあったキューブを奪い、それを力強く握り締める。
「最初から、そう言ってくれればよかったんだ……そうすれば、刺されずに、痛い思いせずに済んだし」
そう言った後、敬治は谷崎一也を睨みつける。
その眼は完全に敵を見る眼をしていた。
「亡霊に留まるか……?」
「分かりません……でも、あなたはもう、俺の知ってる谷崎先輩じゃないって事は分かりました……けど――――」
自分に殺意を向けてくるような人ではなかった。そして、何よりも魔術で人を傷つけるような人でも。
本性を隠していたのかもしれないが、敬治の中で谷崎一也と言う人間はそういう人だった。
変わってしまったと、そう割り切るしかない。
「――これ以上はもう変わって欲しくない」
『キューブにはそれ自体に一生をかけても使い切れないくらいの大量の魔力が封印されていて、それを持っただけで、魔法が使えるようになってしまう。そして、“広島・長崎に落とされた原子爆弾ほどの威力”を持つ魔法も使えてしまう……』
いつか魔術部部長に説明されたキューブのことについて思い出す。
そして、敬治は自らの手に握っているそれに目を向けた。
(……これを使えば、勝てるかもしれない……)
「やめるんじゃ……それは使うな……」
その声は部屋の中の光の届いていない場所から聞こえた。そして、それは聞き覚えのある声だった。
「大きな力には大きな代償を……伴う……」
マラソンを走り終えた後のように息を切らしている老人の声はそう告げた。
それは自分でも重々、承知の事。だから、彼は自らの手に握り締めているキューブを谷崎に向ける。
「何としてでも、あんたを止めてやる――」
その瞬間、その階全体に雷が落ちた時のような轟音が鳴り響き、同時に発せられた光によってその場にいた全員が眼を閉じた。
そして、ゆっくりと眼を開けるとその光景はある事態に陥っていた。
「……二人が……消えた……!?」
◇
地下四階
D級程度の囚人たちの倒れた地面を進む二人の男。
その二人ともがスーツを身に纏っており、一人は銃を構えながら歩んでいる。
そんな二人が辿り着く下の階へと繋がっている無理やり空けられた穴。
するとその瞬間、轟音と共に二人の横を誰かが光速で通り過ぎて行ったかのような風が通り抜け、二人同時に後ろを振り返るがそこには誰も存在しなかった。
「雷…………? 谷崎!?」
銃を持っていないほうの男が振り返った方へ走ろうとしたその時、銃を持っている男が叫ぶ。
「ちょっと待て……!」
後ろを振り返ると、銃を蛍光灯が切れている為に作り出された暗闇に構えて動かない男の姿があった。
「誰かいる……」
そう呟く男の握った銃が向けられた暗闇に眼を凝らすが、何も見えない。しかし、男はある異変に気がついて、彼の部下である金城に言葉を発した。
「金城くん……君の銃……」
その言葉を聞いて、金城が自らの銃を見ると、三十八口径のその銃の引き金から先の部分が、鋭い刃物で切り取られたかのように存在していなかった。いや。もはや鋭い刃物であっても切る事は不可能かもしれない。
現実離れしたことが起こっている。つまり、暗闇にいる者はここに収容されていた囚人の可能性が高い。
「自分、人にそんなん向けて危ないと思わんのかいな? 俺には分からへんわ、人に銃向ける気持ち」
関西弁で話す声がその暗闇の方から聞こえる。同時に地面に転がった囚人たちを踏んづけて進む足音も聞こえた。
そして、二人の男と暗闇から出てきた者に挟まれるのは下の階へと続く穴のみとなった。
見えなかった者の姿が露になり、壊れた銃を持った金城の隣の男は目を丸くする。その後、睨んだ。
睨まれた方は訝しげな表情を浮かべた後に独りでに納得した様子で口を開く。
「そーいえば、自分の“息子”。さっき――」
続きを述べるのを止めた理由は穴を挟んで存在していた男が存在しなくなったからだった。同時に男の左真横にはいなくなった男が存在している。
時にして一秒にも満たない。だが、彼らは確かに会話した。
「邑久清次。お前には此処で死んでもらう」
「警察に電撃使えるモンがおるって。やっぱ、自分の事やったんかいな。けど――――今日でそいつも仕舞いや」
邑久の眼に映るのは自分に向けられる電撃を纏った手刀。
男の眼に映るのは幾つもの円を描いた彼の眼。それが手刀が当たるであろう場所に作り出したのは何もかも呑み込んでしまいそうな黒い穴。
今更それを避ける事が叶わない男の手刀は黒い穴に呑み込まれる。
次の瞬間、黒い穴に呑み込まれた筈の腕が、そのまま彼の真横から現れ、彼の顔に迫った。
血が飛び散るような音と共に邑久の横にいた男は穴がある地面とは逆の右側に倒れる。
「……自分、息子より弱いんとちゃうか?」
倒れている三十代の男を見下す邑久はつまらなさそうに穴を挟んだ向こう側にいる使い物にならない銃を捨てた金城に視線を移す。
「それとも。あっこにおる人殺ったら、本気になるかいな」
金城が身構えるのと同時に、額から血を垂らしながら、手と膝を地面に着いて体を起こす男。
「そんな事は……させない……」
地面に垂れ落ちた血は広がるまでの量はなく、ただ、落ちた時の形のまま存在し続ける。
男は立ち上がると、左眼を瞑ったままの状態で血だらけの瞼の上を左手で押さえながら、口を開く。
「金城くん……早く……逃げるんだ……こいつのは――――異常だ……」
◇
「何が……起きた……?」
自分の身に何が起こったのか理解できていない谷崎が今いるのは数台のパトカーが到着したばかりの魔術委員会本部の建物の前。
パトカーの赤い光と本部のエントランスの光が彼の事を照らし、彼は目の前に存在する金色のキューブを手にした降雷の魔術師を見る。
「キューブの力か……」
敬治の手に持ったそれを睨みつけると同時にパトカーの傍にいた爆発音によってかけつけた警察官たちが一斉に二人に銃を向けた。
それも当然。一人は魔術委員会会長を殺そうとし、もう一人はつい先日犯罪者になったばかりの人間なのだから。
だが、そんな事を気にする素振りも見せずに谷崎は敬治だけにその視線を向けて動かさない。
「動くな! 谷崎一也と斉藤敬治だな?」
警察官の中の一人がそう尋ねかけるが、応答は無い。
「答えろ!」
そう叫んだ瞬間、谷崎の右手から放たれた電撃が警察官を襲い、黒焦げになって地面に倒れた。
「――黙れ」
谷崎の攻撃と言葉にその場にいた何人の警察官の心が折れたのかは分からないが、折れていないものは少数派なのは確実だろう。
そんな光景を目にしたら、すぐさま谷崎を殴りにいきそうな男であるあずの降雷の魔術師は顔を俯けて、ただ突っ立っている。
今度は訝しげに敬治の事を谷崎が見たとき、自然に吹く風とは少し違う異様な風が彼らの間に吹く。
「う、撃てぇええ!!」
その異様な風で正気に戻ったかのように警察官の中の者がそう叫ぶと、連続した銃声が鳴り響いた。