α―XXXII. 正義
「知ってるかぁ……人間は六割が水でできてんだよ……――」
突き出した右手を握り締める。
ただそれだけの行動であり、右手の先にいる男の外見は何の変化も無い。
だが、確実に変化は起きていた。外見ではなく、内面で。
急に血を吐き出す男は笑みを浮かべる棚木を睨みつける。
「何……しやがった……?」
質問に答えない棚木に対し、男は睨みつけるほかに行動を取れない。
取らないのではなく、取れないのだった。
自分の身に何が起きたのか分からない男の目の前にはその何かを知る男がいる。
瞬間、男は再度自らの口から血を吐き出した。そして、自らの体の中で起こっている事が段々と掴めて来る。
(こいつの魔術は水……ってことは俺の内臓の血管でも破壊したか……? やるじゃねえか……だが――)
棚木と同様ににやりと笑みを浮かべる。
(――こいつは死ぬな)
男の思っている通り、怪我の状態からこのままだと棚木は三十分と持たずに死ぬ。だが、男の思っている死は今すぐ死ぬと言う事だった。
魔術の中には代償を伴うものが存在する。
魔眼がその中のひとつの例であり、棚木が使用したのもその一種。
だが、決定的に違う事があった。
代償は非情になるか否か。
非情になれば代償は必要なく、非情にならなければ死ぬ。
簡単に思われることだが、非情になる事は難しい。何故なら、人間には感情というものが存在するのだから。
そして、人間である棚木も例外ではない。
男が作り出した、棚木の体を貫く黒が抜き取られる。
「……正義は……人それぞれ……違うんだよ……」
一歩一歩、足を進めていく棚木からは大量の血が垂れ落ちる。
「……これが――――俺の正義だ…………」
そう言って踏み出そうとした右足が地面に着く前に、棚木は地面に倒れこむ。
空気は固まった。
静寂が包み込み、息をする音、衣擦れの音すらも聞こえない。
棚木の体から地面を伝って広がっていく血のみが時の刻みを示していた。
◇
地下一階
その床に空いた大きな穴から覗かせているのは囚人たちの顔。
それらを見る度に敬治の中に存在する何かが主張する。まるで洪水時のマンホールから溢れ出る雨水のように。
這い上がってくる囚人に自らの右手を翳し、Araiを唱える事無く、電撃を発する。
電撃は三人の囚人たちを襲い、失神した彼らはそのまま地下二階に落ちる。
だが、囚人たちはゴキブリのように次から次へと湧き出てきた。
それはじわじわと敬治に疲労を蓄積させ、同時に魔力を少しずつ失わせていく。
そんな事まで頭が回っていないのか、彼は地下二階へと降りて、電撃の音を奏でてる。
嫌でもその音が耳に入っていた二階堂は、次の瞬間に女性の声が聞こえる。
『そちらはどんな感じでしょうか?』
敬治が答えるだろうと無視して、電撃の音を聞いていた彼の耳に殺気の篭った声が聞こえてくる。
『今はあなたにしか聞こえていません。無視をしないでいただけます?』
「失敬失敬。てっきり、私は斉藤敬治の方にも聞こえていると思って無視したが、思えば今の彼は応答できるような状態には無かった事を忘れていた。
今は地下二階で斉藤敬治が一人で暴れているところだ。だが、少し“暴れすぎている”と言ってもいいのかもしれない。このままの状態だと、私の出番もすぐに来そうだが私も極力、魔術を使うのは避けたいとも思っている」
敬治が暴れている事以外は聞き流すと、もう少し詳しい説明を求める。
『暴れているとは、どういうことでしょうか?』
「私の選んだ“暴れている”と言う言葉が表現方法としては一番、最適の状態と言うことだ。いや……それよりももっと最適なのがあるのかもしれないが、これは私個人の意見であって、全ての人々が彼の行動を見てそう表現するとは限らないと言う事をご了承した上で私の言葉に耳を傾けて貰いたい」
望んでいない言葉ばかりを並び立てる相手に少し、イラついているのか、ゆっくりと言葉を発する。
『……今の状況を詳しく教えていただけますか?』
背中に悪寒を感じ取った二階堂は後ろを振り向くがそこに通信相手の女性の姿などあるはずもない。
「電撃の魔術を使用して、囚人たちを一人で倒していると言う状況にある」
『……あの彼が、ですか……』
思案するような沈黙の後、にこやかで明るい声色で彼女は、
『では、そのままあなたは絶対に手を出さないで、彼の事を見守っていてください』
と言った。
何故そんな事を言ったのかと思案する二階堂はその答えに辿り着いたかのように左手に右拳をくっつける。
「なるほど。私の体調と年齢を考慮して休ませる為か。だが、君の目は節穴じゃないのかね? 私は頭以外のどこも悪くは無いのだよ。その分、頭は絶望的なのかもしれないが、そんな事は君に心配されずとも私は自負している」
自負しているのならば、自重して欲しいと思う通信相手であったが、そのようなことを口にすればまた面倒くさい言葉が発せられるので彼女はそのまま通信を切った。
そうとは知らずに二階堂は、誰も聞いていないマイクに対して話しかけ始め、それが終わる頃には地下三階まで制圧が完了していた。
◇
魔術委員会本部 玄関前
その中で起きた爆発の音を聞いた人が警察へと通報したおかげで、そこには一台の車が到着していた。
二人のスーツ姿の男がそこから降りきて、魔術委員会本部のビルを見上げる。
「金城くん……ここって魔術委員会のビル?」
面倒くさそうな表情で頷く金城と呼ばれた警察官。
その横にいた男は早速、中に入ろうと足を踏み出すのだが、横にいた金城に止められる。
「おい! あんたは行くな」
右横にいる金城の方を向く男。
「なんで?」
「……あんたの今までの行動を振り返ってみりゃ分かるだろ?」
顎に手を当てて考える男の素振りから、金城は次に彼が吐くであろう言葉の予想がつく。
「心当たりがな――ぐべぼぁッ!」
最後まで告げる前に金城は自らの足を使って、目の前に存在する男を蹴り飛ばす。
「何回言わせりゃ分かるんじゃああああ!! ホントにあんたは警察か!」
地面に倒れていた男はその台詞を聞いた後に立ち上がり始める。そして、鼻から血を垂れ流しながら、金城の方を向いた。
「……俺は警察である前に父親なんだよ」
「その台詞、かっこいいとでも思ってんの? 鼻血出しながら言う台詞でもねえし」
言い返せない男は踵を返して、スーツのポケットからハンカチを取り出して鼻血をふき取る。
「一つ……聞いていいかな? と言うか前にも聞いたけど……」
ハンカチをポケットの中に押し込んで言葉を続ける。
「俺って君の上司だよね?」
「……一応そうだな」
「じゃあ、上司としての命令をするよ――――銃を構えろ」
男の雰囲気が一瞬にして変貌する。
それを感じ取った金城も命令に従って、自らの内ポケットから銃を取り出して、構えた。
「普通は委員会の会長の結界が張ってるはずなんだが、今日はそれが無い。それに加えて謎の爆発音。何かがあったと考えるには十分な情報だ」
足を踏み出し始める男は開かない自動ドアから中を窺う。蛍光灯は点いている為、はっきりとその中を確認できた。
受付も誰もいない。
それは時間帯を考えると、特段不自然ではなく、男にとっても好都合だった。
「金城くん。ちょっと下がっててくれるかな?」
言う事に従って数メートル下がる彼は目の前の男が今からする事の予想はついていた。
男は目の前のガラスに自らの右手をつける。
そして、男は――Araiを唱えずに魔術を発動した。
ガラスは粉々に砕け散って、魔術委員会本部の中に入れるようになる。
「上司なんだから、勿論、責任はとるんだろうな?」
「……こういう時だけ上司扱いするってホントに君らしいと思うよ」
皮肉を漏らしながらも真剣な表情で建物に不法侵入する。
警報も何も鳴らない上に中にも結界は張られていない。
周りを見回す男についていくように、銃を構えながら中に入る金城もまた、あまりにも静かであるのを不審に思う。
そして、足を進めていった結果、ある場所に辿り着く。
「おい……どういうことだ……」
金城は目の前の光景に辛うじて声を発する。
「なんでこいつら……全員丸焦げになってんだ!?」
地面に空いた大きな穴。その中、地下一階には焦げ臭いにおいが漂っており、黒焦げになった人を一階からの光が鮮明に映し出している。
「……爆発によって穴が開けられ、地下から出ようとした囚人が何者かによって襲われた。いや……爆発で破壊されたのは檻の方か……?」
地下一階を覗き込みながら思案する男は金城をおいて、一人で地下一階に下りた。
「炎での攻撃じゃない……電撃……山田愛沙の可能性は低い。敬治? それもありえなくは無いがやはり低い。なら、谷崎一也か? そうなら、奴の目的は桐島尚紀……金城くん。これは緊急事態かもしれない……」
上を見上げる男のその顔からは冷や汗が流れ落ちる。
「ここには桐島尚紀と同等にやばいのが収容されてる……その名前は――――」
◇
地下六階
「――邑久清次。それが俺の名前や。それにしても、お前が人と一緒に行動しとるとこなんて、初めて見るわ。頭でも打ったんとちゃうか?」
流暢な関西弁で言葉を話す男の周りには人が二人しか存在しない。それはおかしな状況だった。
何故ならここには、B級程度の囚人たちが収容されているところだからである。
しかし、そこには三人以外の人が存在していない。
「君もここに収容されているのを忘れていたよ。それと間違えないで欲しい。私は君の前で人と一緒にいるところを見せないだけで私にはたくさんの友達がいるのだよ。まあざっと……十人ほど」
邑久は自らの目の前にいる二階堂の言葉を聞いて、吹きだす。
その後、彼の横にいる降雷の魔術師に目を向けた。
それは獲物を見つけた獣のような視線。
「で、そのお友達は誰や?」
「君には関係の無いことだと思うんだが、そう言って説明しないのも悪い。しかし、私たちは早く下の階に向かわなければならない。だから、君が一人だけでS級犯罪者を収容する階でもないここにいる理由も問わなかったのだがね」
口元を歪めるS級犯罪者は自らの眼を異様なものに変化させる。
その眼を見ても敬治は驚く事無く、ただ、目の前の存在を睨みつけるのみだった。
「自分はほんま台詞がまわりくどいねん。最後まで聞いてられへんわ。で、隣のそいつ誰や? 血の気の多そうなやっちゃな」
「やめておいた方がいい。私の魔眼でも避けられたのだ。たとえ、君の魔眼であっても彼には避けられる」
「ほんなら、試したろか――――」
瞬間、邑久の十五個の円を浮かべた眼が大きく見開かれる。
直線状に波のように伝わる魔眼の力。
それは敬治目掛けて一直線に飛んだのだが、彼の姿はもう既に存在しなかった。
「お前が全員消したのか?」
その声は邑久の後ろから聞こえ、振り向くのと同時に電撃を纏った手刀が自分の目の前に迫っている。
直撃すれば死にかねない状況下で、彼は嗤った。
「せや。俺が消してもうた。んで――今度は自分や」
直撃すると思われた拳は何かに吸い込まれる。
そして次の瞬間、敬治は右側から何者かによって殴られ、左に吹き飛ばされた。
(今……ビリビリって……!?)
自分の身に何が起こったのか分からない敬治に対し、邑久は地面を勢い良く蹴って、敬治の方へと疾走する。
考える猶予を与えない目の前の男に向けて右手を翳す。
だが、構えた右手のその先に男は存在していない。
「瞬間移動できるんは自分だけやないで」
唐突にその声は背後から聞こえ、振り返る前に敬治は右横腹に回し蹴りを食らって、地面に体を叩きつけた。
右の脇腹を押さえながら藻掻き苦しむ中、その目は邑久の姿を睨みつける。
「なんや? まだ、かまって欲しいんかいな」
「消したって殺したってこと……? ……――――」
目の前のS級犯罪者の言葉に藻掻くことをやめた敬治は何かを呟く。
後半部分の言葉を聞き取れなかった邑久はもう一度、言うように促すような耳に手を当てる素振りをする。
「――なんで殺した! そうやって、魔術で人を傷つけて何が楽しいんだ!」
「楽しい? なにゆうてんねん自分。その台詞、そのまま返したるわ。自分ここまで来るのに何人の犯罪者に会った? そいつらを傷つけずにここまで来る事なんて言動から察するに、自分にはできへんやろ。つまり、自分はそいつらを傷つけてここまで来たって事や。最悪、殺したんとちゃうか?」
それは二階堂が話そうとしていた事。言っている事とやっている事の矛盾。
自分の質問に答えない敬治の姿を見て、溜息を吐くと、興を削がれたと言わんばかりに眼を元の状態に戻して、彼を見下す。
「図星かいな。自分も此処にいた奴らとどこも変わらへん――底辺や」
その言葉は敬治の心に突き刺さる。だが、ここで簡単に引き下がるわけにはいかない。
「犯罪をした奴を殺して……何が悪い。魔術で人を殺した奴を殺して! 何が悪いんだ!」
「人を殺したことに変わりあらへん。もう自分と語る事なんて一つもないわ」
そう言って歩き出す邑久は二階堂の横を通り過ぎる時に何かを尋ね、二階堂はそれに答えていた。
◇
地下八階
完全に瞳孔の開いている人間から溢れ出す血の量は死を物語っている。
廊下から差し込む光はそれを反射し、より一層鮮明に紅い色を映し出す。
目の前で人が死んだ。その事実は彼女の記憶の光景を引きずり出す。
五年前のドームにて、五千人が目の前で消えた光景。
その光景が引きずり出された原因は今、彼女の兄が彼女の近くにいるからなのかもしれない。
(もう……いや……)
涙が溢れ出し、膝をがくんと地面に着いて、そのまま座り込む。そして、目の前の現実から逃げるように目を瞑って、小さな声で告げる。
「誰か……助けて……――――」
瞬間、大きな轟音が鳴り響き、そこは煙に包まれる。