α―XXIX. 内通者
「……君はそこまでしてNO2を発生させて、酸性雨を福岡に降らせたいのかね? それとも、電気うなぎの真似事なのかね?」
二階堂が言っている酸性雨と言うのは、二酸化窒素と水が硝酸になる事で、二酸化窒素は雷で発生する。
しかし、酸性雨になる原因の二酸化窒素を排出している主なものは車であり、雷によって発生するくらいの二酸化窒素の硝酸は植物の肥料になる。
それを知っていた敬治は二階堂の発言に反論しようとも思ったが、自分の怒りがどこかへと消え去ってしまった事に溜息を吐く。
「酸性雨の話はこれくらいにしておいて、二十八日の作戦について話し合いましょうか?」
「作戦ですか……?」
普通に魔術委員会に入れると思っていた彼はそう発言した瞬間に自分が犯罪者である事を思い出す。
その原因は桐島雪乃にあると言ってもいいのだが、彼はそんな彼女を助けようとしているのだ。
「作戦です。魔術委員会に入るのは容易ではありません。先ずは会長の結界を突破しなければならないでしょうから……」
敬治と二階堂の二人を交互にまじまじと見つめる小野原は彼らに聞こえない程度の溜息を吐いた。それは何かに呆れるような溜息。
「二人三脚は……無理ですの?」
一瞬、目の前の壇上に立つ生徒会副会長の言っている事の意味が分からなくなり、首を傾げたが、その意味が分かった瞬間、敬治は険悪な表情を浮かべる。
そして、その表情の変化を見ていた二階堂が口を開く。
「何とも不満を抱いているような表情をしているが、君の気持ちも分からなくはない。君と私との身長差は十センチ程度。二人三脚をするにはやはり、君も差を五センチ程度に収めたいと思っているのかね?」
本当の二人三脚についての話をしだす勘違い男に二人は同時に呆れるように息を吐いた。
◇
数日後 約束の日まであと四日
東京の今日の天気は晴れ。梅雨の中休みとも言うべきこの日に、晴れが一番嫌いな男が、外を出歩いている風景に異常さ感じる山田愛沙はその背中をじっと見つめる。
その背中の人物は白雨の魔術師である棚木淳で、何事にも面倒くさそうに対応する彼が、今日ばかりは焦りさえ見える。
こんなにも急いでいる理由に関係している事柄は彼女も見当はついている。
“正義”。
正義という言葉に拘る男。
何かしらの理由があるのだろうが、尋ねる気にはならない。
そんな二人が歩くのは二車線ずつの大きな道路が真横に位置する歩道で、到底、彼女には谷崎が停泊していた場所があるとは思えない。
これくらい自然な場所の方が逆に見つかりにくいのかもしれないが、気になるのは建っている建物の殆どがマンションのような一世帯が住む場所では無いということ。
つまり、顔を見られて見つかる可能性は高くなるはずだ。
「ここだ」
だがしかし、そう言って棚木によって指し示された場所は十階建ての茶色いマンションであった。
訝しげな表情で首を傾げるが彼女の表情を見ても、気にする事無く棚木はそのマンションへと足を踏み入れた。
それは多分、説明がめんどくさい為にわざと無視したのであり、それが分かっていた彼女は子供っぽく、べろを出した。
マンションのエントランスに入っていく男の背を追って、自分も足を踏み入れる。
どうやってオートロックの自動ドアを開けるのとだろうと様子を窺っていると、棚木は彼女の方に振り返る。
「壊せ」
「…………それ、本気で言ってるの?」
彼女の尋ねかけに答える事無く、腕を組んで睨みつける。
その行動で肯定の意を表しているのは鈍かったりする彼女にも分かった。
溜息を吐きながら、仕方なくガラスと合金でできたそのドアから遠ざかって、そこに向けて自らの右手を翳す。
そして、Araiを唱えようとしたのだが、棚木はそれをやめさせた。
「ちょっと待て! ……結界張るの忘れてたな」
そう言って、結界のAraiを唱える棚木が此方に合図を送るのを待ってから、彼女はAraiを唱える。
「Ricelect chosk」
その瞬間、エントランスのドアは彼女の手から放たれる電撃によって、粉々に砕け散った。
ガラスの散った音は結界で覆われていないマンション内には響いたはず。だが、棚木はそれを承知して、外側にだけ結界を張った。
つまりは――。
「人が住んでないってこと?」
その質問に答える事無く、棚木はロビーの中へと入っていき、エレベーターのボタンを押した。
瞬間、世界は歪み始める。
「――――ッ!?」
エレベーターのドアが渦を巻き、吐き気を催しそうな全てのものが歪んだ光景が支配する。
そして、愛沙の限界が頂点にまで達した時、光景は歪むのをやめた。
「……エレベーターのボタンが鍵ってことかぁ?」
目の前の光景に驚きを抱いていても、その表情には笑みが浮かんでいる。そして、そこには怒りも混在していた。
二人の目の前にあったエレベーターのドアは存在せず、ついでに周りのロビーの光景も全くの異なるものになっている。
「何……これ……?」
口を両手で覆っていた愛沙はその光景を見て、唖然とする。
そこは、光が一切存在し得ない闇の空間だった。
「魔術で光を作れ」
そう言っている棚木の姿さえ見えないその空間で彼女は右手に電撃の魔術を纏って、目の前を照らし出す。
すると、二人の目の前には奥まで照らす事のできない一本の道があり、横と後ろは黒い壁によって塞がれていた。
「罠に閉じ込められたって事だが……谷崎がいたって証拠にもなる」
一本道を歩こうとする彼に対して、雷鳴の魔術師は突っ立ったまま動かない。
そんな彼女に痺れを切らし、後ろに回りこんで蹴りを入れる。
「早く進めってんだよ、クソ野郎が!」
彼のその対応に不満を抱きながらも、前に足を進め始める愛沙は進んでいくと、二つの分かれ道に差し掛かった。
分かれるとなると、棚木は勿論光無しで壁を伝って進んで行かなければならず、愛沙はそれを「ざまあみろ」と思いつつ、提案する。
「二手に分かれた方が効率良い」
「ああ。俺は左に行く。てめえは右だ」
そう言って、左手で黒い壁に触れながら淡々と進んでいく彼の姿にまた、べろを出しながら、彼女は右の道を行った。
壁に沿って、道を進んでいく棚木はその先に一筋の光を見た。
段々とその光は近くなってきて、それが電球の光であると分かった瞬間に、その向こうにあるドアも視認する。
そして、そのドアの目の前にまで来た棚木は黒いドアノブに手を掛けた。
◇
「お兄さまぁー!!」
そう言いながら一人のツインテール少女が、椅子に座っている男性の元へと近づく。
その男性は彼女の兄であり、彼女は兄の事が好きだった。
「好き」と言うのは「家族だから好き」という意味ではなく、れっきとした「愛」である。
兄妹愛。それは歪んだ愛であり、歪んだ愛だと言う事を分かっていても尚、彼女は愛する事をやめない。
「お兄さま……どうしたんです? そんな難しい顔なさって」
栗色の髪の毛を揺らしながら、水晶玉のように輝く綺麗な眼差しで、兄の顔を窺う。
すると、兄は微笑んでみせ、それを見た瞬間に彼女は頬を赤く染めた。
「いや、やっぱり使えなくなったと思ってただけだ。そこまで重要視する能力じゃなかったけど、使えなくなって初めて必要なものだと気付いたよ。まあ、今回は別の方法で結界を壊すさ」
「使えなくなった……?」
恥ずかしそうに兄から目を逸らして、そう尋ねかける。
「結界破壊能力の事だ……おっと? お客さんが来たようだな。お前はちょっと席外してろ」
兄の言う事を聞いて、彼女がその部屋の二つのドアの一つから出て行った後、彼女が出て行った方ではないドアが、静かに開いた。
◆
黒いドアを開けると、隙間からは眩しいほどの光が差し込んできて、そのドアを完全に開けたときには眩しすぎて目が見えないほどだった。
暗闇から光のある所に来たせいだろう。
六畳ほどの小さい部屋に椅子とデスクの並んだ部屋には外の景色が見える大きな窓が存在していた。
そして、段々と光に目が慣れ始めた時、彼の目に映ったのはその椅子に座る男の姿。
「相変わらずの格好をしているな、棚木」
「てめえこそ、そのクソ吐き気がする顔は整形でもして直せねえのか――――谷崎」
二人の間に緊迫した空気が流れること三十五秒。
その時、谷崎は自らの靴が水に浸っている事に気が付いたが、もう遅かった。
「Dulped」
棚木がAraiを唱えた瞬間に谷崎の足元の水は谷崎の口と鼻を塞ぎ、酸素を吸えなくする。
「窒息死しろ、クソ野郎が!!」
そう言い放った棚木は谷崎から情報を得る事など、毛頭考えていなかった。
自らの正義を遂行する彼の姿を見て、安心するように口を歪める谷崎。
刹那――彼の口を覆っていた水は空気中に飛散した。
「――――ッ!?」
目を大きく見開いて、すぐさま自らの右手を犯罪者の方に向けようとしたその時には目の前に人の姿はなく、代わりに自らの首には電撃によって形成された刃が突きつけられていた。
「俺はお前が正義に拘る理由を知ってる。それに俺にも妹がいるんだ。お前の気持ちは痛いほど分かってるって」
後ろから棚木の耳元で話をするその口は歪む。
「お前の復讐……協力してやろうか?」
「……どーゆーことだ?」
協力とはかけ離れた今の状況での言葉に棚木は尋ねかけると、谷崎はその名前を告げた。
「五年前。お前の弟を消した――――桐島尚紀に会わせてやる。だから、その為に――――」
瞬間、大きな窓ガラスが割れ、棚木は後ろの人物によって其方の方へと押される。
「――墜ちてもらおうかな?」
◇
「一体、どこまで歩けばいい……?」
そう言いながら、右手に纏った電撃で永遠に暗い道を照らしながら進む愛沙は段々と、歩くのに飽きてくる。
段々とストレスも溜まってくると、彼女は棚木への愚痴を頭の中で呟き始めた。
(可愛い女の子をこんなに歩かせて……何様なんだ、あのツンツン頭は! 正義正義って拘るくせに悪い事しかしてないし!)
頬を膨らませながら、歩く愛沙は彼の正義への拘りなど、知りたくもない。
だが、彼女はあとで知っていれば、こんな事にはならなかったと後悔する事となるのだった。
◇
約束の日まであと二時間
雨は降ってはいないものの鉛色の雲は空を覆っているようで、月を隠している。
梅雨もあと一週間で終わりを告げるだろう時期の夜は蒸し暑く、何をしていなくても汗が額を滲ませていく。
敬治も額に汗を滲ませて、頬にまで垂らすが、それは蒸し暑さから来るものだけではない。
谷崎に会うまで二時間と迫った今、彼の周りには緊迫した空気が流れている。
そんな彼の耳には何やら黒いものが付いており、彼の服にも同じように黒いものが付いていた。
その黒いものはイヤホンとマイク。つまりは通信機器だった。
彼の電撃の魔術によって壊れないようにその二つには特別な加工がされている。そして、敬治の今の位置情報を知るためのチップも埋め込まれていた。
『ザーザー』
イヤホンから聞こえる果てない雑音。
それが急になくなり、女性の声が聞こえてくる。
『聞こえます?』
「聞こえてます」
マイクの付いた襟を口元に引き寄せて、そう言った彼が今いる場所は魔術委員会本部の真横であった。
『では作戦通り、本部の後ろ側に回ってください』
「了解」
小野原の指令を聞いて歩き出し、本部の後ろへと回り込んだ。
すると、後ろからついてきていた人物が口を開く。
「こういうのを不法侵入というのではないかね? だが、正面から入ったとてそのドアを壊すことになる。不法侵入と器物損壊はどちらの罪が重いのかね?」
全く作戦とは関係の無い話をし始める二階堂にイラつきながらも、必死にそれを抑える。
「失敬失敬。空気を読めていなかったようだ。私は物忘れと勘違いが激しいが、実は空気を読むのも苦手なようでね。中学校の頃にはクラス全員が先生に起こられている最中に席を立って、トイレに行った事が……――――」
二階堂の話を聞くのをやめ、次の指令を待つことにした。
◇
魔術委員会本部内
そこには二十二時なのにも拘らず、何人かの魔術師たちと会長と副会長がいた。そして、会長と副会長は難しい表情の中、同じ部屋で話をしている。
その部屋は会長がいつも仕事をしている部屋であり、机の周りにはたくさんの本が並んでいる。
本の多くは魔術関連のもので、世界で一つしかない貴重な魔術書もその中に混ざっている。
暫くの間、押し黙っていた二人だったが、会長が口を開く。
「お前さんの言う事はよく分かった。魔術委員会に谷崎に内通している者がおると、そう言いたいんじゃろう?」
「はい。その目星はもうついています。まだ、本部内にいますから行きましょう」
福津哲也の言葉で重い腰を上げる会長。
そして、会長がドアの方へと向かった瞬間――――銃声が鳴り響いた。
後ろを振り返るそこで、銃を握っていたのは――――。