β―IX. セントエルモの火
痛みで気を失った彼女が誰かの声によって目をゆっくりと開けると、そこには血だらけの床が存在していた。
今の彼女にはそれが血であると暗くて判断できないのだが、臭いで分かった。
体は重たく、今すぐにでも眼を閉じたい。
だが、それは許されない。
何故なら、目の前に銃を構えられた柏原哲郎の姿が彼女の目に映ったから。
(助け……ないと……)
そう思うが、体は言う事を聞かず、何もできずに残酷にも銃の引き金が引かれ、銃声が鳴り響いた。
悔しさと自責の念から、目から涙が零れ落ちる。
自分が捕まったりしなければ、こんな事にはならなかった。
そうやって自分を責めていた時、ドライアイスが気化するときに出るような冷気が体全体に降りかかったような気がした。
それは決して寒気ではないと確信できる。
その理由は目の前に存在していた。
銃を構えていた男から白い冷気が滲み出ており、男は“まるで固まったかのように”動かない。
(誰かいる……?)
その冷気が魔術であると思った彼女が出した答えは三人以外にも誰かがいるというものだったのだが――――。
↓
自分を客観的に見ていた。
嗤う自分は紛れもなく、自分なのだが違うように感じる。
そして、誘うように手招きをする。口をパクパクさせて何かの言葉を呟きながら。
それが耳に届く事はなく、足を一歩踏み出そうとした瞬間に闇は目の前から消え失せた。
目を開けると、そこは暗い場所ではない。
ここがどこかの部屋であると気付いた時、眠る前に何をしていたのか疑問に思った。
それを確かめる当てを探そうと体を動かそうとするが、全くと言っていいほど体は言う事を聞かない。
哲郎は体に目を向けることもできず、自分の置かれている状況が分からない。
拘束されているわけではないので、体が動かないのは怪我のせいなのだろう。
痛みが無いということは鎮痛剤を打たれている。
考えた結果、ここは病院だという答えに辿り着く。
その後、彼は顔を天井から右に移す。
するとそこには一人の少女が椅子に座って眼を閉じている。
「愛……沙……」
それは小さな呟きだったのだが、眠り姫を目覚めさせるには十分だったようだ。
彼女は目を開けてベッドに横たわる男が目を覚ましているのを見るや否や、彼の包帯まみれの体に抱きついた。
「バカ……バカバカバカ!」
一生起きないのではないかと思っていた彼女に一つの安心が生まれる。
そんな彼女の頭を撫でようとも思ったのだが、腕が上がる事は無い。
「バカアホ! おっさん、死ね!」
「死ねは、言いすぎだよ……」
苦笑いして、彼女の顔を見た瞬間、何かが弾けたように眠る前の記憶を思い出す。
自分が選択を誤った事で彼女を傷つけてしまった。
「ごめん、愛沙……僕のせいで――」
と言葉を紡ごうとした時、あることに気が付いて紡ぐのをやめる。
それは彼女の体の状態。
「――――傷は……?」
ごくりと唾を呑みこんだ。それは先日の経験から齎される疑いから来るもの。
目の前の存在が愛沙という少女ではなく、敵に見えてくる。
そしてその瞬間、知らない人間が彼女の隣の視界に入ってきた。
「どうも、柏原哲郎さん」
茶髪で緩いネクタイとYシャツを着て、下は黒のジーパンの男は深々と頭を下げるが、その顔に一切の感情は無かった。
背筋が凍るほどの不気味なその顔に目を逸らしたくなった時、その眼が異様な事に気が付く。
(円……?)
その眼は十三個の小さな円と、一つの大きな円から構成されていた。
「一つ言っておく事がある。あなたのその傷は――――医療技術では治りえない」
唐突に事実を医者でもなさそうな見ず知らずの男に言われても、実感が湧かない。
首を傾げる彼の態度を見ながら無表情の男はある事を伝える。
「しかし、この眼でならあなたのその傷を治せる。信じられないのなら彼女に聞くといい。彼女の傷を感知させたのは、この眼だ」
そんな勝手のいい眼ならば、人を救う事は単なる奉仕活動では無いはずだ。
何かの見返りを求めているとしか思えない。
そして、その予想は的を射ていた。
「しかし、あなたには一つの条件を呑んでもらわなければならない。
その条件は、六月二十九日まで、外に一切出ない事だ。そうすれば、“あんな事”にはならない」
外に一切出ないという簡単な条件。だが、彼が最後に発した最後の一言が哲郎の頭を掻き回す。
あんな事。それは自分も知っている事なのか、目の前の男だけが知っている事なのか。
「一体……君は何者なんだ…………?」
――――ドクン――――
尋ねたその瞬間、歯車が噛み合ったような感覚と同時に心臓の鼓動が聞こえた。
(なんだ……これ……?)
自分でも分からない突然の感覚に襲われる。そして、その感覚を確信する。
(僕はこの男に……――――)
◇
相変わらずの無表情男――時枝元宏が病室を出ると、目の前には音楽機器を片手に持ってイヤホンで音楽を聴いている人物の姿があった。
病室から出てきた時枝に気付くと、イヤホンを外してにやりと笑みを浮かべる。
「やっと見つけた――時枝」
「“紅炎”が何の用だ?」
紅炎の魔術師がいたことに驚くことなく、淡々と尋ねかける。
だが、すぐに察しがついて歩き出した。
「どこ行くんだよ!?」
「話し合いをする気は無い。“戦争”でこの眼を求めるのなら、実力で勝ち取る事だ」
全てを見透かしたようなその言動に相当、頭のキレる人物であると分かる紅炎の魔術師。
二人は病院を出てから、タクシーを用いて時枝の指定した場所へと向かう。
今日の日付は六月の二十四日。
谷崎が魔術委員会に攻めるまであと四日。攻めると言っても、一人の男子高校生と待ち合わせるだけなのだが、その他にも目的はある。
そして、魔術委員会はこの事を未だに知りえておらず、呑気にも時枝のところに戦力である紅炎の魔術師をよこした。
そんな時枝は六月二十八日のことを知っている。何故なら、彼は魔術委員会のある人物と関わりがあるから。
一時間走り続けたタクシーが止まった場所は山のふもとにある広大な敷地であった。
そこは木を伐採したような後と、沢山の土が人為的に山のように積み上げられている。
「村を呑みこんでのダム建設だったが、資金が足りずに途中で破綻になった場所だ」
梅雨の中休みとも呼べる晴天の空の下、二人の人物が茶色い土の絨毯の上に存在している。
一定の距離を保った二人は対峙し、時枝は自らの眼の中に十四個の円を浮かばせ、紅炎の魔術師は自らのポケットから黒い手袋を取り出して両手にはめる。
何も仕掛けない二人の間に風が吹く。
そして、その風が吹き止んだ瞬間に時枝の方から仕掛けた。
「Crouelens」
魔眼の持ち主としては珍しい、Araiを唱えると、彼を中心に十五メートル四方の半球空間が形成される。
その圏内に入っている二人。
紅炎の魔術師は彼の魔眼の能力については聞いているが、実際に見た事はなく、この円が重要なものだとは知るはずもない。
実力を試す為に、自らの黒い手を目の前の男に向け、Araiを唱えた。
「Cremonpine」
それはAraiを唱える隙など与える事無く、炎が対象を包み込むのだが、今回の相手はAraiを唱える事は無い魔眼な上に、その魔眼の能力は――――。
時枝を包み込むかに思われた炎は彼の目の前でその動きを停止していた。
そして、停止した炎の向こう側にいた筈の時枝はいつの間にか自分の目の前に存在している。
「Felliher!」
この至近距離なら、質量のでかい魔術を使えば、自分への反動も大きい。そのため、彼が選択したのは少し、抑え目の炎だったのだが、右手を向けた人物に炎は当たる事無く止まる。
次の瞬間、それは逆再生でもするかのように黒い手袋の中に吸い込まれていった。
かと思えば、自らの頬に向けて茶髪の男の拳が振るわれた。
(こいつ……!? 光速より……速い……!)
そう思ったときには地面にその体を叩きつけられていた。
それは今までに味わった事の無い圧倒的な強さ。
ゆっくりと立ち上がる彼の眼に映るのは無表情な顔。
「ふざけやがって…………Carnuel bmbo!」
両掌を合わせ、その両手を放しながらその中に炎の球を形成していく。
段々と大きくなっていくその炎の球をただ佇んでみているだけの時枝。
その振る舞いは「お前の魔術など効かない」と言っているような余裕の表れであり、紅炎の魔術師を逆撫でさせる。
両掌の中にある炎の球は半径一メートルほどの大きさになり、それを一気に野球ボールほどの大きさに圧縮する。
そして次の瞬間、炎の球を目の前の男に向けて放つと同時に、自らは十一円陣結界を張る。
「Sundob of a cserad lapec」
その結界が危うく破壊されてしまいそうな衝撃が彼の身を襲う予定だったのだが、何の衝撃も起こらず、炎の球は時枝に当たる事無く、先ほどと同様にその動きを止めたのだった。
「信じられねえが……やっぱりお前の魔眼は――――」
時枝の魔眼の能力を話す彼の姿を見て、無表情のまま答える。
「そう。だから、会長も俺の能力を欲しがっているのだろう」
(こいつは瞬間移動したわけじゃない……俺の――)
考えを巡らせていた彼の目の前に再度、時枝の拳が現れ、避ける事もできずに地面に叩きつけられ、そして、時枝の足によって体を踏みつけられる。
苦しい表情で悶え苦しむその姿を無表情で見つめ続けると、すぐに彼の元から大きく後方へと下がった。
「そこはお前の二つ魔術の終着点だ。これで、終わりだ」
自分の攻撃と位置の全てが計算通り。
自らの目を大きく見開くのと同時に、大きな炎と、炎の球が紅炎の魔術師目掛けて動き出す。
その二つが紅炎の魔術師に当たった瞬間に大爆発が起こり、時枝はそれを自らが最初に展開した
半球の外で見ていた。
そして、爆発と煙が収まった五分後、彼の無表情だった顔に変化が訪れる。
爆発の中心にいた人物の影がそこにあった。
だが、その体には酷い火傷もあり、もう戦える状態などではなかった。
魔眼の能力で半球を展開し、一瞬にして、紅炎の魔術師との距離を縮める。
「しぶといな」
そう言って睨める人物に向けて、紅炎は笑みを浮かべながら口を開く。
「見せて……やるよ……――――“セントエルモの火”を」
↑
柏原哲郎と札に書かれた病室に入る看護婦は彼の容態はどうなのかと見に来たのだが、扉を横に開いて唖然とする。
何故なら、もう体を動かす事はできないだろうと診断を受けた彼が、自分の目の前で立っていたのだから。
言葉を話せないほど驚愕して突っ立ったままの彼女に山田愛沙は自らのポケットに入っていた生命の樹が描かれた手帳を見せつける。
「少し、黙っていてもらえます?」
そう言って溜息を吐く愛沙は難しそうな表情をしている。
数十分前に起きた非現実的な出来事に彼女も哲郎も、頭の中が混乱していた。
「……人を再生させる魔術ってあるんだね……」
「違う。あれは常軌を逸している。再生なんて生易しいものじゃない」
顎に手を当ててその正体を必死に考える彼女だったが、思い浮かぶはずもなく、諦めかけようとしたその時、病室のドアが勢い良く開かれる。
即座に二人が振り返った先には髪の毛をワックスで立て、耳にピアス、首からは銀色の鎖のようなネックレスを提げた男が立っていた。
「よぉ、サボり女。おっさんと遊んで楽しいか?」
白雨の魔術師、棚木淳は笑みを浮かべながら、ずかずかと病室内に入る。
すると、その笑みが一瞬消えて、訝しげな表情になる。
「あぁ? そいつは確か、重症じゃなかったかぁ? なんで、立って――――」
何かに気が付いた棚木は途中で言葉を紡ぐのをやめた。
「誰か来たか、山田ァ?」
その質問に頷く二人。
「ふーん……なるほどな。てぇことは紅炎もここに来やがったな」
独り言を呟くと同時に納得したような表情をする髪がツンツンの男はにやりと笑みを浮かべて愛沙の方に目を向ける。
「谷崎の一つの停泊してた場所を見つけたんだがぁ、どうも魔術委員会は信用ならねえ。だから、てめえを誘おうと思ったが……機嫌わりぃし無理そうだなぁ?」
「……別にいいけど、それより一人で納得しないで」
「ああ。わりいわりい」と言って笑みを浮かべていた彼の表情が一瞬にして真剣なものになる。
「てめえらが会った奴は多分、“――魔眼”の野郎だろ。紅炎が捕えるとか言ってた野郎だ。まあ、今頃あいつの手で捕えられてんじゃねえか?」
そう予想した棚木だったが大きく外れていた。