α―XXVIII. 三つ巴
(六月二十八日……魔術委員会……)
自分の言いたい事だけ言って、切れた携帯電話。それを持った手を耳元からぶらんと下ろす。
手から零れ落ちそうだったが、辛うじて手の中に存在していた。
去年の夏から追い求めた真実を知る事のできる絶好の機会。
しかしそれは一週間も先の事で、まずは自分の足元で倒れている男をどうするかを考えなければならない。
雪乃を駒扱いし、谷崎の上に立つという男。
そんな男に目を向けたとき、間に小野原が入ってきた。
「言いたい事は山ほどあるでしょうが、ここは耐えていただけないでしょうか? 彼は敵ではなく、味方です」
彼女の言葉に自らの首を傾げる。
「……谷崎の上に立ってるんじゃ……?」
「何を言っているのかね、君は? そんなものは嘘に決まっているではないか。私の言った事すべてが嘘だと思ってくれて構わないよ。
ところで、私の顔はどれくらい不細工になっているかね?」
敬治に殴られた左頬がパンパンに腫れ上がっている二階堂の顔を見て、思わず笑ってしまう小野原につられて、敬治も吹き出してしまった。
そんな彼を横目で見て、微笑む彼女は二階堂との一戦を見て、思う事があった。
まずはたった一週間で電撃の三つ目の性質である反応を習得し、その前には一週間もせずに山田愛沙のアドバイスを聞いて、光速の性質を習得している。
(このままいけば彼は近い将来――――最強の魔術師になるでしょう。いえ。なってもらわないと困りますわね)
しかし、その為には絶対的に必要な条件があった。
それは亡霊に斉藤敬治が入って、“魔術委員会と谷崎”を敵とすること。
そして、入ってもらう為には魔術委員会が裏で行っていた事を言わなければならない。
「それにしても……」
小野原は自らの周りの状況を見て、深い溜息を吐く。
「あなた方が破壊したこれはどうしましょうか……」
◇
翌日
斉藤敬治は犯罪者。つまり、裏でこっそりと生活するしかなく、自らの家に帰る事もできない。
二階堂壱には賃貸の部屋があるが、その部屋に帰るのは面倒くさいらしい。
そんな二人がその夜泊まった場所は小野原聖花の大きな家で、二人は隣同士の部屋。
当然、外に出れば鉢合わせる事だってある。
「どうしたのかね、その最悪な出来事を目前にしたような顔は? 私もできれば、今の君には会いたくなかったのだが、仕方ないではないか。広い部屋には肝心の用を足す場所が存在しない上に、この廊下にはここ一つしか用を足す場所は無い。
さて、運命のじゃんけんをしようではないか?」
長々とそう話した二階堂の左頬には大きな白いガーゼが当てられており、その頭は寝癖のためか、ボサボサである。
そんな彼の提案に聞く耳を持たずにトイレのドアを開けてその中に入り、鍵を閉める。
「なるほど。君は良い手段でトイレを確保した。だが、私の能力を忘れたわけではあるまい」
そう言って自らの眼に五つの円を映し出そうとした瞬間、背後からの殺気を感じて振り返るとそこにはニコニコと微笑む少女の姿があった。
「あなたはどれだけの物を壊せば気が済むのですか?」
「失敬失敬。君がいないと思って油断していた」
その言葉を聞いて、少女――小野原聖花の顔に血管が浮かび上がったように二階堂には見えた。
「それはわたくしが来なければ、壊していたと受け取ってもよろしいですね?」
その後、敬治の耳にはドア一枚を挟んで骨が軋むような音と二階堂の叫び声が聞こえ、用を済ませても出る気にはなれない。
トイレの便器に座って何も考えずにいるのも暇だったのか、頭の中では二階堂の正体について考えていた。
谷崎の上に立つ男というのは嘘で、敬治もそれには少しだけ納得している。
しかし、何故嘘を吐く必要があったのかは今日説明すると言って、昨日は聞けなかった。
(やっぱり、理由が分からないんだよなぁ……)
頭を悩ませる彼は音がしなくなったのを見計らってトイレのドアを開ける。
いるとしたら床に倒れているだろうと下に目線を向けていると、やはり、その人物は床にうつ伏せに倒れていた。
その見事なまでの寝そべり方は殺人事件の現場と言われても納得できるほどのものだ。
ドアを閉めて、笑顔を振りまくお嬢様がいなくなっている事に安堵の息を吐いた時、ドアの影に隠れて未だに存在してきた事に気付く。
その方へ振り向くと、やはり彼女は微笑んで、
「では今から、一階で食事をお取りになって、同じ階の会議室に来てくださいね」
そう言うと踵を返して立ち去る。
小さくなる背中を眺めながら、朝ごはんを食べようと足を踏み出した時、その足は誰かの手によって掴まれる。
勿論、その誰かは見なくても分かる。
「何ですか?」
「……君がそこまで薄情だとは思わなかった。いや、私はちゃんと君がそういう人間だと言う事に勘付いていたのだよ。だが、君を信じていたかったと言うのが私の考えであり、君は――――……」
二階堂の長々と続く言葉に耳を塞ぎながら、足を掴んでいる手を払って、廊下を進み、一階へと降りていった。
◇
長テーブルに真っ白な布が敷かれており、その上には真っ白な皿一枚と水の入ったグラス、フォークとスプーンが置かれている。
そこに箸という物が存在しない事に驚きながらも、当たり前かと納得する敬治。
一階の食事を取る部屋。
部屋の中央には長テーブルがあり、それは二十人が一緒に食べられるくらい長い。
椅子もデザイン性があるもので、値段を聞きたいくらいの高級そうなものだが、部屋の外観を損なっていない。
そんな部屋にいるのは外観を損なう場違いな二人で、その目の前に執事によって朝食が運ばれてくる。
内心ひやひやしながら待っていたのだが、運ばれてきた朝食は至って普通のもので少し拍子抜けといった感じだ。
レタスの緑とトマトの赤、そしてシーザードレッシングの白で彩られたサラダ。
黄色い中心にパセリの緑がばら撒かれたコーンスープ。
フランスパンは掌ほどの大きさに切られており、その中心には包丁が入れられ、ベーコンとチーズとピクルスが挟まれている。
それを頬張りながら、険悪な顔つきをする。
決して、頬張ったものがまずいと言うわけではなく、目の前で一緒の食事を取っている、左頬にガーゼをした男がその原因だ。
「そんな嫌そうな顔つきをすると言う事は君はピクルスが嫌いなのかね? いや、ベーコンが嫌いという可能性もあり得る。私もベーコンかハムかと問われれば、ハムを選ぶ性質だから、君の気持ちは非常に分かる」
敬治は男の言葉に反応する事なく、食べ続ける。
その反応から自分が勘違いをしていると気付いた男だったが、
「失敬失敬。私はまた、勘違いをしていたようだ。君が嫌いなのはコーンスープか」
それも勘違いだった。
問題なくパンを食べ終わった敬治はサラダをフォークでつきながら、食べ進めていく。
「ところで君は犯罪者なわけなのだが、お父さんは何の仕事に就いているのかね? 迷惑が掛かっているのではないか?」
トマトを突き刺したまま止まるフォーク。
表情も同様に固まった。
今まで、そこまで考えが及ばなかった自分。
自分のせいで迷惑をかけてるかもしれないという事実は重く圧し掛かる。
「――大丈夫ですわ。あなたが、犯罪者になった事を知るのは魔術師のみ。お母様にはわたくし達があなたが戻ってこない理由を適切に伝えましたから、心配はご無用ですの」
背後から唐突に現れた小野原の言葉は敬治に圧し掛かった重みを軽減させるのには十分だった。
彼女もそれが狙いで言葉を紡いだのだが、それと同時に話に割り込んで、質問をしたいが為でもある。
そして、彼女は尋ねかける。
「あなたのお父様についてのお話ですが、わたくし達の方でも情報を調べているのですが、何にも出てきません。あなたのお父様は一体何者なのでしょうか?」
その質問に答えるのに時間を要す敬治。
どこまでを言って良いのかという事で頭を悩ませていた。
そして、一つの事実だけを話す。
「……ただの警察官ですよ」
その以上の言葉を言う事無く、彼女も追求する事はなかった。
数分後、敬治は朝食を食べ終え、目の前の男も食べ終わったところで、三人は一階にある会議室に入った。
そこは大学生の抗議を受ける講堂のような造りだが、その大きさは半分以下で、二十人ほどしか入らない。
それでも、家にこんな場所があると言うのには敬治も驚き、二階堂はもはや此処が小野原の家だとは思っていない。
中へと入っていく三人の内、二人が椅子に座って一人は壇上に立つ。
壇上に立った小野原は指示棒を机の中から取り出して、息を吐く。
「さて、何からお話しましょうか?」
「……なんで、谷崎先輩の上に立ってるなんて嘘を吐いたんです……?」
間を空ける事無く、淡々とその質問に答える。
「二階堂とあなたを対立させ、あなたに本気を出させる必要があったのです。だから、嘘を吐かせて頂きました。そして、本気を出させてあなたを強くする為、実戦の経験を積んで貰う為に」
疑問はまだ、湧き上がってくる。
「俺を強くして何を……?」
「……わたくしたちが所属する亡霊に入っていただきたいだけです。そして、三つ巴の状況を作り上げたい」
彼女の眼差しが真剣みを帯びてくる。
「三つ巴って……」
「わたくしたちと魔術委員会と谷崎の三つの勢力ですわ」
彼女の言う三つの勢力は分かったが、三つ巴という言葉には納得がいかない。
何故なら、それは三つの勢力、つまりは魔術委員会とも争う事だから。
そんな敬治の疑問を予め呼んでいたようで、彼女は魔術委員会が裏で行っていた事について話し始める。
「魔術委員会は主に二つの派閥に分かれます。一つは今の魔術の在り方を肯定し、追求していく派閥。そしてもう一つは、今の魔術の在り方を否定し、科学よりも魔術を優位に立たせようとする派閥。つまり、右翼と左翼ですね。
左翼は科学よりも魔術の方が優れていると証明する為に、魔術師を戦争の道具と見なすのです。しかし、魔術師には戦争の道具として足らない部分が多すぎました。なので、彼らは戦争の道具――人間兵器を作る事にしたのです。それが、桐島尚紀」
敬治は目を大きく見開き、もはや、頭は驚愕で支配されていた。
魔術委員会が作り出した桐島尚紀。だが、疑問が残る。
「じゃあ、雪乃と兄は血が……?」
「いえ。二人は正真正銘の兄妹ですわ。作り出したと言ってもその体の中にキューブよりも強力な魔力根源を入れただけですから」
「入れただけ」という簡単な言葉で済ませて良い問題ではなかった。
強力な魔力根源を体の中に入れると言う事は、巨大な異物を体の中に入れるのと同義。
体が反発し、想像できないほどの苦しみを味わうはずである。
「それが敵対する原因ですか……?」
「それだけではありません。魔術委員会は未だに魔術師たちを戦争の道具として使おうと目論んでいます。称号を持った魔術師が利用されるはずです」
もはや、何を信じていいのか分からなくなってきている敬治は頭を抱えて、頭の中を整理していく。
整理が終わってから顔を上げると、壇上で小野原が笑顔を浮かべていた。
そして、話の方向を少し変える。
「あなたは谷崎一也を未だに潔白だと思っているのでしょうが、一つだけ言えることがあります。桐島雪乃にとって、彼は恩人であり、敵でもあるでしょうね」
(恩人でもあり敵……?)
真逆の言葉が並んだ事で首を傾げてしまうが、彼女の言っている事は概ね正しかった。
「兄によって左眼を奪われ、兄の行った事によって虐げられて彼女は生きてきた筈です。そんな彼女に手を差し伸べ、左眼を与えたのが谷崎一也。つまり、彼女は谷崎一也の命令をたとえどんなものでも聞くしかないんですの」
その言葉を聞いた瞬間、敬治の頭の中で鎖に縛られた雪乃の姿が浮かんだ。
恩人の命令だから、やらざるを得なかった。
鎖が邪魔をして、一つの道しか選ぶ事ができなかった。
そして、彼女が吐いた一言。それは心の叫び声だったのではないだろうか。
鎖を解き放って欲しい。そう願って、彼女はあの言葉を口にしたのではないだろうか。
敬治の中に段々と怒りがこみ上げてくる。
(それって、雪乃を駒扱いしてるって……そういうこと……? だったら、谷崎先輩は……先輩は……――)
命令したのは二階堂ではなく、谷崎。
雪乃を縛っているのは谷崎。
彼女が去り際に流したのは、涙。
『お願い……わたしを助けて……』
敬治は自らの拳を強く握り締め、思わず体から電撃を発した。