α―XXI. 一対一で
「はぁ……うっ……」
天井を見つめながら、痛みを堪える敬治は顔を傾けて、自らの腹の方へと視線を向ける。すると、その腹からは大量の血が床を伝って流れ出ていた。
(痛い……なんで……? 雪乃が……待てよ……雪乃は元々……敵だった……)
天井が段々と霞んでいくのを意識すると同時に、敬治はそれに抗う事無く、目を瞑っていく。現実から逃れようとするように。
(違う……夢だ……眼を閉じれば、元に戻る……この痛みも……雪乃の泣く姿も……)
完全に眼を閉じた敬治は意識を闇に落とした。そして、敬治が意識を落とす前、その耳は誰かの足音を聞き取っていた。
◇
体育館
「敬治君、早く名札持ってきてくれないかなー」
結界の中で何をする事もなく、ただ敬治が帰ってくるのを待っていた部長と江藤と神津の三人。しかし、その三人は体育館に現れた人物の目を奪われる事となる。
いや、全員がその人物と、その人物が持っていた“人”に目を奪われた。
体育館の床にごみを扱うかのように投げ捨てられるその人を見た瞬間にその場にいた全員が凍りついた。そして、一生徒の悲鳴により会場がパニック状態になった時、部長は声を上げる。
「敬治君!!!」
その刹那、体育館は男の足元から伸びる黒いものに囲まれ始め、完全に黒いものが覆う事によって、体育館から出る術を絶つ。
その為、体育館の中にいた生徒たちは必然的に敬治を床に置き、黒いものを発生させた人物から遠い、体育館の壇上の方に集まる事となった。
「こいつの身を心配して、突っ込んでくるかと思ったが、良い判断だ。下手に突っ込んだら俺に何されるか分からないからな?」
にやりと笑みを浮かべるその人物は、先日、生徒会副会長を密約を交わした男子生徒であった。そして、男子生徒は制服に大量の血が染みている敬治の体に足を置く。
男子生徒がそんな行動を取ったとしても、三人は動けずにいた。神津は三人の周りに張っている結界を解いて、他の二人と一緒に男子生徒を睨む。
動けば、敬治の命も三人の後ろにいる部活生達の身も危険にさらす事となる。そして、男子生徒が態々、この状況を作り出したのには何か理由があると察した部長は尋ねかける。
「何が……目的だ……?」
「察しがいいな。流石、部長とでも言っておこうか?
そう。俺はお前の持ってるキューブをもらいに来た」
三人は目を大きく見開かせ、部長は自らのポケットの中から金色に輝くルービックキューブのようなものを取り出し、苦い表情を浮かべながらそれを凝視する。
「考える猶予なんて無いと思うがな」
男子生徒が自らの足元へと視線を移すのに倣って、部長も男子生徒の声によって移した視線を敬治へとまた移す。自らのキューブを持っていない方の左手を握り締める部長はキューブを男子生徒に投げようとした。だがしかし、江藤はそんな部長の手を止め、耳元で叱りつける。
「何してるんですか!? あいつにキューブを渡したとしても、敬治君や後ろの皆を無事に解放してくれかは分からないでしょう!?」
その言葉で自分が冷静さを欠いていたのを知る部長はゆっくりと息を吐き出して、江藤に耳打ちをした後、男子生徒を睨んだ。
「一対一で戦らないか……?」
「四の五の言わずにキューブを渡せ」
次の行動を違えば、自分ではなく周りの生徒の命が危ない。
苦渋の選択が強いられるであろうこの状況下で部長が選択したのは、男子生徒への挑発であった。
「勝つ自信がないのか? 谷崎の部下はお前みたいな臆病者ばっかりか?」
「部長!!」
江藤がすかさず部長の言動を止めに入るが、部長は言葉を止めない。江藤の行動は正しいともとれるが、それは違った。
人質を使ってキューブを奪う形の今の状況下、男子生徒はプライドを抑え込んで計画を実行している。そして、先の部長の発言により男子生徒は無理やり、プライドを引き出された事となる。
つまり、男子生徒がここで部長に応じなければ男子生徒は部長に負ける事を認めた事となり、プライドを破壊されかねない。
「いいだろう。だが……早く片付けなければ、こいつは死ぬだろうがな」
敬治の身を蹴る男子生徒は体育館を覆っていた黒いものを空中に飛散させる。
「この眼鏡以外が動いたら、問答無用で全員殺す、いいな?」
「沙智ちゃん。体育館の壇上側に結界張っといて。十一円陣くらいのね」
ニコリと微笑む部長に心配の色を覗かせる二人は後方へと下がった。
「さて……俺が死んで君が生き残ればキューブを奪えばいい。俺が生き残って君が死んだら、一件落着。そして、君が負けを認めても一件落着。大体、こんな感じでいいかな?」
「三番目は消せ」
そう言って、男子生徒が自らの足で地面を叩いた瞬間、男子生徒の周りを黒いものが覆う。それを見て、感心するような態度を見せる部長は数歩、男子生徒との距離をとった。そして、Araiを唱える。
「Morst」
瞬間、部長は自らの足に風を纏い、男子生徒の方へと自らの身を投げ出す。そして、男子生徒を覆う黒いものに左手が触れた時に再度、Araiを唱えた。
「Ria」
男子生徒の周りの黒いものが一瞬にして破れ、大きく目を見開く男子生徒の腹に部長は自らの右拳を振るう。
(……間に合わない)を男子生徒が心中で呟く途中で男子生徒は後方の体育館の出入り口のドアにまで吹き飛ばされた。
だがしかし、部長は男子生徒に触れる事無く、制服に触れるギリギリのところで手を止めて、男子生徒の腹をへこませて吹き飛ばしたのだった。
それをちゃんと目で捉えていた男子生徒は部長の魔術が風のものであると確信すると同時に口から血の混ざった液体を吐き出した。
部長が男子生徒を押しているこの状況に結界で守られている生徒たちは歓声を上げた。それを耳障りだと言わんばかりに不快な表情をする男子生徒はゆっくりと立ち上がろうとする。
しかし、立ち上がる前に部長は自らの目の前に存在しており、その右拳が男子生徒に触れる前にまた、横に吹き飛ばされた。
直されたばかりの窓ガラスに体を叩きつけられた男子生徒はその衝撃で窓ガラスを割った。
生徒たちの中で起こる悲鳴など今の男子生徒には聞こえておらず、ただ、部長の存在を訝しげな表情で見るだけだった。
そう。男子生徒は部長に疑問を抱いていた。
(こいつ……ここまでの力があって、走れないなら、魔術を使えばいいものを……
なんで……あの時、桐島にキューブを奪われた……?)
その答えは今の部長の行動の中にあった。
今、部長は敬治の元へと駆け寄って、傷の具合や呼吸などを調べている。
その姿を見て、男子生徒は笑った。
(そいつを試したって言うわけか……加えて、それを“監視”してた……
そして、こいつの魔術は――ただの風じゃない)
深呼吸をして、ゆっくりと右手で左脇腹を押さえて立ち上がる男子生徒は、
(肋何本かいったな……)
と呑気に心中で呟き、部長に尋ねかける。
「お前……魔術委員会の人間だな? しかも、魔術委員会会長直属の機関に所属してるんだろう? そして、監視していた」
にやりと口元を歪める男子生徒に対して、部長は額に冷や汗を滲ませていく。それに対して、江藤と神津は自らの目を大きく見開いて、部長の姿を見ていた。
そして、口を開く江藤。
「……どういう、事ですか?」
「俺が言ったとおりの事だ。こいつはお前らが前の部長と関係を持っていないか、魔術委員会会長、直々に任務を与えられたんだろう」
血の混じった唾を体育館の床に吐き出す男子生徒は自らの足元から黒く細長いものを何本も宙に浮かばせる。
「何も言わないって事は図星でいいんだな?」
瞬間、男子生徒の周りに浮かんでいた何本もの黒く細長いものが部長目掛けて襲い掛かった。部長は迫り来る黒く細長いものに対して、自らの右手を翳し、Araiを唱えた。
「Ria」
すると、部長に迫っていた黒く細長いものは部長の右手を前に粉々に砕け散った。
(風の魔術は『Nidw』や『Morst』。つまり、奴が扱えるのは風の魔術だが、『Ria』なんてのは聞いた事も谷崎様から貰った文献にも書いていなかった)
男子生徒は谷崎から貰った本について思い出しながら頭を回転させ、答えに辿り着いた。
「Air。つまり、空気か……」
何も答えない部長に男子生徒は口元を歪めた。
(空気を圧縮して、それを解き放ち、俺の魔術を破壊したというわけか……なら、Araiを唱えてから空気を圧縮する時間がいるはず……)
男子生徒はまた、部長に向けて黒く細長いものを飛ばした。部長はそれを魔術で防ぐ。
その攻防を幾度か繰り返すうちに男子生徒の中で確信が生まれ始めた。
その確信した内容とは、部長がAraiを唱えてから魔術が発動するまでにあるゼロコンマ数秒の隙。その隙、目掛けて黒く細長いものを飛ばした。
「Ria、うぐっ……」
痛みに耐えかねるような声を上げる部長の腹からは黒く細長いものが生えており、部長はそのまま倒れこんだ。
体育館にいる生徒たちから悲鳴が上がるのと同時に男子生徒は黒く細長いものを二本、部長の方へと伸ばし、ポケットの中から器用に黄金のキューブを取り出して、自らの元に持ってきた。
そして、男子生徒は体育館の中に紛れ込んでいた生徒会副会長の姿を一瞥し、体育館の出入り口へと足を一歩進めた瞬間、部長は男子生徒を嘲笑うように呟きながら、ポケットから取り出した携帯電話のボタンを押した。
(敬治君……巻き込んじゃうかもしれないけど、ごめんね)
「冥土の土産には、ちょうどいいだろ……?」
その刹那、男子生徒の持っていた黄金のキューブが光を放ち、半径三メートルほどの爆発を起こした。煙によって男子生徒の様子は分からない。しかし、部長は舌打ちをしながら男子生徒が死んでいない事を察した。
何故なら、キューブはもっと大きな爆発を生む予定だったからだ。つまり、結界で守られていない敬治と部長と男子生徒の三人はこの世にいない予定だった。
「部長!」
声を上げる江藤の目の前の景色は煙が割れた窓から出て行く事によって、一つの影を映し出していく。煙が晴れるとそこには何事も無かったかのような表情で、男子生徒が立っていた。
キューブが爆発する前に自らの魔術でキューブを覆ったようだった。
「これで証明されたな。これが本物だと」
そう言いながら、男子生徒は自らのポケットから黄金に輝くキューブを取り出して見せた。
「――ッ!? 部室から……奪っていたのか!?」
「ああ。だが、俺にはこれが本物だと言う確信が無かった。だから、お前の元に来たという訳だ」
悔しい表情を浮かべる部長を見下す男子生徒は、その手を部長に向けて翳す。
「お前。ここで死んでくか?」
『おっと、早く逃げた方がいいですぜ。あと十秒ほどでここの周りに魔術委員会の連中が来るようだからね』
その声は何も無い、誰もいないところから聞こえてくる声であり、男子生徒以外のその場にいた全員が訝しげな表情を浮かべた。
すると、男子生徒は割れた窓から飛び降りて東坂高校を後にした。
「部長!」
神津と江藤は結界を解いて、うつ伏せに倒れている部長の元へと向かう。心配そうな表情で部長を見つめる二人に部長は微笑んだ。
「ごめんね……一緒に戦わせてあげられなくて……」
部長の「一対一で戦らないか……?」の前に行った江藤への耳打ちはキューブが偽物で爆発する事を伝えたのであった。
『清二君と沙智ちゃんが一緒に犠牲になる事なんて無い……』
耳打ちの最後の言葉を思い出す江藤は部長にチョップを食らわせた。
「自分一人で背負い込まないでください……! 会長直属の機関に所属してるなんて、僕ら知りません。去年の夏に会長とどんな話をしたのかも知りません。監視されてるなんて事も僕ら知りません……だからって、去年の夏の事を……キューブを……一人で背負うのはやめてください!」
その言葉に部長は自らの目を潤ませながら、去年の夏の事を思い出す部長は、
(そうだよ……こんな近くに信用できる人が、仲間がいるじゃないか……)
そう思いながら緊張の糸が解けたのか、眼をゆっくりと閉じた。
◇
雪乃と男子生徒の二人は合流し、人通りの少ない路地を進んでいく。
暗い表情をしている雪乃を横目で見ながら、男子生徒は告げる。
「お前の行動は全て、魔術委員会の奴に監視されてた。つまり、お前はAかS級犯罪者は確定。斉藤敬治を殺さなかった報いだ」
頷く事無く、顔を俯かせたまま上げない雪乃。しかし、男子生徒は雪乃が敬治を殺せない事を分かっていた。そして、谷崎本人も雪乃は敬治を殺せないと踏んでいたのだった。
谷崎はそれを敢えて命令する事によって、雪乃を試した。
自らの駒に仕立て上げるために謀られた事。それに気付いていない雪乃はどんどんその足を、体を闇に沈めていく。
足を止める事無く、歩いていた二人の目の前に一人の男が現れ、同時に身構えた。そんな二人の様子を見て、怪しい者ではないと言葉を発する男。
「失敬失敬。私は君たちの敵でない。しかし、それを証明するものが無い故にここでは谷崎様と言う名前を使わせてもらうとしよう。
私は谷崎様の命令で君たちと一緒に行動を共にし、私の言う事を聞いてもらいたい。疑うのであれば、電話をしてみてくれて構わないが……ところで君たちは付き合っているのかい?」
首を振る雪乃に対して、電話を取り出す男子生徒は谷崎へと確認を取り、目の前の人物が二階堂壱と言う名前で白だと確信する。
「二階堂と言ったか……お前の言う事を聞くのは谷崎様の命令だと言う事を忘れるな」
「つまりは、度が過ぎた言う事は聞かないと言う事と取って構わないかな? そこまで高い要求をするつもりは毛頭無いと言っておこう。だが、君たちにとっては高い要求なのかもしれないから、そこは頭に入れておいてくれ。それで博多どんたくへ行くつもりだったんだが……どこであっているのか分かる?」
派手な法被をその身に纏った二階堂はその行事がゴールデンウィークで既に終了している事を知らなかった。