β―V. 契約
しかし、愛沙が首を傾げた理由は哲郎の言葉ではなかった。
そう。さっきまではそこに存在していたはずの倒れていた男の姿が無かったのであった。
「あー……やられた……あいつもA級犯罪者だったのに……」
と、哲郎から懐中電灯を奪い、哲郎を無視して歩き出す愛沙。
「……僕の話はスルー?」
「斉藤敬治って人に会った事があるって話? はっきり言って、タクローがそいつと会っていようが会っていまいが私にとってはどうでもいいことなの。それよりも……――覚悟しといてね?」
何かを哲郎に忠告するように愛沙は呟き、相変わらず淡々と足を進めていく。一瞬の沈黙が二人を包むが、すぐに哲郎がそれを掻き消した。
「それで、君はなんで犯罪者なんかと親しげに話していたんだ……?」
恐る恐る尋ねかけた哲郎の中には「愛沙が犯罪者の仲間なんじゃないか」と言う言葉が浮上していた。
「……私はあいつと同じ高校で、しかも同じ部活の先輩、部長だった」
「――ッ!?」
哲郎は自らの目を大きく見開き、その事実に驚いた。そして、哲郎はその事実について冷静に考え、愛沙に尋ねかける。
「君はその谷崎って人を……恨んでるのか?」
淡々と歩んでいたその足を止める愛沙は後ろにいる哲郎の方へと振り返る。
「恨んではないけど、私はあいつのやろうとしてる事が何なのか、分からないところが怖いの。さっきのキューブを手にして、何をしようとしてるのかも分からないし……」
溜息を吐く愛沙に対して、哲郎は自らが発した質問を思い出し、再度、愛沙に問いかける。
「それで、あの“キューブ”って言うのは一体何なんだ?」
すると、愛沙は自らの足をまた、動かし始め、階段を一段一段降りていく。
「キューブは大量の魔力が押し込められた物体で、それを持つだけで、誰でも魔法が使えるようになる。そして、その魔法の威力は原爆を超える」
「げ、原爆を超えるだって……!?
……今思ったんだけど、こんな大変な事を僕なんかが聞いていいの?」
「今頃、気付いてももう遅いよ。タクローは知ってはいけない事の多くを知ってしまった。だから――今までと同じような生活を送れるなんて思わないほうが良い。タクローのその結界破壊能力は色々と、利用できるから」
そう言った愛沙は廃ビルの一階へと辿り着き、廃ビルの出口にその足を進め、廃ビルから出る直前でその足を止めた。そして、目の前にいる数人の人影を睨みつけながら尋ねる。
「“魔術委員会”に連れて行く気なんでしょ?」
愛沙が懐中電灯のスイッチを押して、ライトを切るのと同時に数人の人影の中の一人が答える。
「流石に“尾行”にはお気づきだったようで……だったら、話は円滑に進みますかな?」
◇
魔術委員会本部
「こちらの書類にサインをお願いします」
愛沙が何も言わずに車へと乗り込むのと同時に哲郎も何も言えぬまま、車へと乗せられ、魔術委員会本部へと連れられていき、現在哲郎のいる個室に入れられる。
個室には一脚の机と二脚の椅子があり、その風景は犯人が警察官に事情聴取を受ける所のようであった。
そして、二脚の内の一脚の椅子に腰を下ろす哲郎の目の前には一人のニコニコと笑顔を振りまく男がおり、目下の机上には一枚の書類とボールペンがある。
(愛沙の『――覚悟しといてね?』はこういう事だったのか……)
と、愛沙を感心する哲郎は口を開く。
「これは……どう言う事ですか……?」
何の説明もなされないまま、書類にサインをしろと言われても、いくら哲郎がお人好しでもそれを了承する事はできなかった。
そんな哲郎に笑顔を作るのが上手い男は説明し始める。
「言わば、これは契約書という事ですよ。あなたは色々と知り過ぎた。その為、その情報の漏洩を防がねばならないのです。これはあなたが情報を漏洩しないようにする為の契約書であり、あなたのサインによって契約は成されます。契約の内容はその書類に書いているとおりですよ」
目下の一枚の書類を右手で指し示す男に従って、哲郎もその書類に目を落としたが、すぐに男の方へと目を移す。
「あのー……」
「何ですか?」
「これ、英語で書かれてて、読めないんですが……」
哲郎の言うとおり、書類は英語で書かれており、人間翻訳機などではない哲郎はその英語を日本語に訳す事ができない。
男は哲郎の言葉に、ただ一言で答える。
「それは不幸でしたね」
哲郎の目に映るのはさっきと同様の男の笑顔であったが、今の哲郎にはその笑顔が悪魔の笑みに見えていた。
(……詐欺って、こういう風にやるんだ……)
ボールペンを手に取る哲郎はボールペンのけつを右手の親指でノックして、書類に名前を書こうとするが、愛沙によって磨かれたつっこみはノリつっこみの段階にまでレベルアップしていた。
「――ってサインできるわけ無いでしょ!」
ボールペンを机に叩きつける哲郎に対して、男は笑顔のまま、冷静に口を開く。
「では、サインはできないという事でしょうか?」
「……いや、英語が読めないのでサインできな――」
と哲郎が言おうとした瞬間、男は哲郎のボールペンを叩きつけた手を左手で捻り上げ、そのまま哲郎の背中を机の上につけさせ、椅子から立ち上がる。そして、極めつけには右手にいつの間にやら持っていた銃の銃口をその額に押し付けた。
「こちらとしても、あなたの能力は極めて強力です。敵に利用されると厄介ですから、契約書にサインをしないというのであれば、殺した方がよさそうです」
「ちょ、ちょっと待ってください! 僕はただ、英語が読めないから――」
「そんな事はどうでもいいんです。ただ、あなたの能力は本当に強力で厄介。ここで殺しておくに越した事は無いんですよ!」
瞬間、男は銃の引き金を引き、銃声を個室内に轟かせ、哲郎は目を瞑った。そして、恐る恐る目を開ける哲郎は、目が開けられる自分に疑問が浮上する。
(撃たれて……ない……?)
額から銃口を離し、椅子へと腰を下ろす男に対して、哲郎は自らの額を右手で押さえながら、机の上から背中を離し、床に靴の裏をぴったり着けて立ち上がる。そして、自らの右手を目で見て、血の出てない事を確認した。
首を傾げる哲郎に対して、男は微笑んで、机の上でくしゃくしゃになった一枚の書類を手に取りながら言う。
「空砲です。銃弾は一発も入れてません」
その一言によって、哲郎はもっと首を傾げる事となってしまった。
(なんで……空砲の銃を僕に向けて撃ったんだ……? 何かの考えがあって――)
と思案する哲郎の頭に一つの事柄が浮かび上がった。
「……鎌を……かけたんですか……?」
「よく分かりましたね。あなたの素性を調べさせて頂きましたが、ごく普通の経歴しか出てこなかったので、敵では無いか。先の行動で確かめさせていただいたというわけですよ」
(ごく普通の経歴で悪かったな……)
心中で文句を垂れる哲郎に対して、男は続ける。
「銃をあなたに向けて、何かで抵抗すれば黒。抵抗しなければ白。体を張って身の潔白を証明できてよかったですね」
男は「では」と言って哲郎に押しつぶされ、くしゃくしゃになった書類を引っ込めて、もう一枚の新しい書類を机の下から机上に置く。
「契約について説明しますから、どうぞお座りください」
そのにこりと微笑む男の表情は未だに哲郎の目には悪魔の笑みに映るが、このままずっと立っているわけにもいかず、まじまじと椅子に腰を下ろした。
その後、哲郎は、情報を口外した場合の処置や行動の制限などについての説明を男から聞きながら、最終的に書類にサインをする事となった。
◆
「よっ! タクロー!」
個室から出るのと同時に哲郎の耳には能天気な声が入ってきた。その声の主を見下ろしながら、哲郎は溜息を吐く。
「あからさまに溜息とは……そんなに“私と一緒にいること”が嫌なのか?」
「ちょっと、待ってくれ。僕は君と“一緒にいること”じゃなくて、“いつ何時でも一緒にいること”に溜息を吐いてるんだ……」
右手で頭を抱える哲郎の行動の制限がそれであった。
“いつ何時でも、山田愛沙と行動を共にすること”
つまりは愛沙が哲郎の見張り役なのである。
「こんな可愛い女子高生とずっと一緒って幸せもんだよ、タクローは!」
「自分で自分の事、可愛いって言うのはどうかと思うよ、君は」
すると、愛沙は眉間にしわを寄せて、人差し指を哲郎へと向けながら言う。
「“君”って呼ぶのは禁止! ちゃんと、“愛沙”とか“愛沙ちゃん”って呼ぶ事!」
「……はいはい」
その返事を聞いて、哲郎に背を向けて歩き出す愛沙に哲郎もついていく。そして、二人は魔術委員会本部を後にし、家へと帰るべく電車に乗ろうとするが、携帯電話で今の時刻を確認すると同時に諦めて、タクシーを呼ぶ事に決めた。
そして、タクシーに乗って哲郎の家へと帰る最中、哲郎は愛沙に質問する。
「僕が個室にいる間、き……愛沙は何をしてたんだ?」
「私は色々と、質問されてそれに答えてた。相手は大犯罪者だったから、どんな些細な事でも質問されて……疲れた……」
そう言って、タクシーのシートに全体重をわざとらしくかける愛沙を見ながら、哲郎はちょっとだけ安堵する。
(もう、心配はいらないみたいだな……)
そう心中で呟きながら、横目で愛沙を見ていた哲郎はあることに気が付いて、その顔を愛沙の制服へと近づける。
「……? あれ? ケチャップの跡が……無い……?」
「ああ。制服、汚れてたから替えてもらえた」
(替えてもらえるの、普通……?)
と疑問に思う哲郎はそれに連なって浮かび上がる疑問についても考え始め、自らの視線を窓の外の景色へと移す。
(そう言えば、あの廃ビルの死体のにおい……帰りにはしなかったけど、愛沙の電話が関係してるんじゃないか……? それに、あそこに連れて行かれるのも知っていたような口調だった……)
段々と、山田愛沙と言う少女を不審に思い始める哲郎は自らの頭を横に振って、その思いを消そうとする。そして、他の事を考えようとする哲郎の頭に過ぎったのは愛沙の目的であった。
「そうだ。明日からゴールデンウィークだし、ゴールデンウィーク中に愛沙のお父さんを見つけちゃおうよ」
「わかった」
と微笑みながら返事をする愛沙の顔を見ると、さっきまで疑っていた自分に何だか後ろめたさが湧く哲郎であった。
そして、二人は家へと帰り着き、一日を終えた。
◇
月曜日
土、日の両方とも、愛沙の父親を探す為に費やした二人であったが、愛沙の本当の目的はショッピングだったようで、哲郎はそれに付き合わされることとなり、同時に大量の出費をさせられる事となった。
いつものように目覚まし時計で目覚めた哲郎は八時を表示しているデジタル時計をじっと見つめて、体を起こす。その後、主婦のような家の仕事を難なくこなしていった哲郎は十時を表示している時計を見て、その眉間にしわを寄せる。
(愛沙はまだ、起きてこないのか……?)
土曜日まではリビングのソファで寝ていた愛沙を思い出しながら、哲郎はリビングのソファに愛沙がいないのを見て、溜息を吐いた。そして、リビングから廊下へと出てすぐの右横のドアをノックして開ける。
「愛沙。もう、こんな時間なんだけど、いつまで寝――――」
と自らの出費で買ったベッドの上で携帯電話を手に体を起こしている愛沙を確認するのと同時に言葉を止めた。
言葉を止めた理由は愛沙が起きていたのもあるが、もう一つあった。それは愛沙の表情が金曜日の夜、谷崎と会った時のような真剣な表情をしていたからだった。
そして、哲郎の存在に気づいた、哲郎のお金で買ったパジャマ姿の愛沙は口を開く。
「今日、出かけるから……タクローも少し、覚悟しといて。それと……――何があっても、この“勝負”には手は出さないでね。タクローが罰を受けちゃうから」
その言葉の重みを愛沙の表情から受け取った哲郎はゆっくりと、その頭を上下に動かした。
◇
二人が赴いた場所は敬治と西井が戦ったような人目のつかないような場所であった。しかし、二人が戦った場所よりも広い空間が二人の目の前には存在している。
今から何が起こるのか、さっぱり分からない哲郎は首を傾げていた。そんな哲郎を安心させるべく、微笑んでみせる愛沙は“対戦相手”が未だに姿を現さない為、哲郎に説明し始める。
「谷崎はまた、今年の夏も会長を殺しに来るって予告してる。そんな谷崎は今現在も仲間を増やして続けてるの。
だけど、谷崎と一対一で戦いたい会長は谷崎の周りの仲間が邪魔でしょうがない。その為に会長がとった対応が、今私がここにいる理由」
するとその瞬間、広い空間の奥から一人の人物が二人へと近づいていく。
「魔術委員会によって与えられた称号を持った五十人の中から、谷崎の仲間と戦う十人を選抜するトーナメント。そして、そのトーナメントの私の対戦相手が彼ってわけ。
……私が雷鳴の魔術師。あなたは……?」
哲郎の何かを言おうとする行動を手で制し、後ろへと下がるように促す愛沙は近づいてくる制服姿の少年に尋ねる。
「自分が称号を言った時点から始めていいんすよね?」
少年が質問を質問返すのに、にこやかに頷く愛沙の動作を見た少年は自らの学ランの内ポケットからあるものを愛沙へと向けながら、自らの称号を口にした。
「“水弾の魔術師”です――」
その瞬間、少年は手に持ったもの――水鉄砲の引き金を愛沙の方へと銃口を向けながら、引いた。
その刹那――地面を震えさせるほどの轟音の雷鳴が響き渡った。