β―III. 最強を演じ続ける
会社での昼休み。社内にある食堂で定食を食べていた哲郎の頭の中を支配しているのは昨日の電話の件であった。
(今日僕が行かなければ、愛沙は死ぬ……けど、なんであの女性は僕に電話を掛けて来て、そんな事を言ったんだ、って僕に用があるからなんだろうけど……)
哲郎には自分に何の用があって、指定された場所へと導くのかがよく分からない。だが、それが何らかの利益になるものなのだとしたら、それは明確であった。
(僕の魔力……それが、狙いなのか……?)
動かしていた箸を止めて、溜息を吐く哲郎は愛沙を助けなければ良かったと、少し後悔している。だが、今頃そんな事を考えたところで後の祭りである。
(何が目的だろうと、行くしかないんだ。もう、考えるのはやめよう……)
◇
会社の勤務時間を終えた哲郎は携帯電話で地図を見ながら、指定された廃ビルへと向かう。そして、辿り着いた際にはその時刻は午後二十一時を回っていた。
(こんな時間になるんだったら、夜ご飯のお金も渡してくるべきだったな……)
と思いながら、暗くて良く視認できないビルと携帯電話の画面を交互に見る哲郎はやっとの事でこの廃ビルが指定の場所である事を確信する。そして、哲郎はそのビルを見て自らの首を傾げた。
(いつか……僕はここに来た事がある……?)
頭の中にある記憶がそう告げているのが分かった瞬間にその暗闇の中に人影が紛れ込んでいる事に気が付く哲郎。
(誰だろう……?)
そう疑問に思って、暗闇に目を凝らす哲郎の努力も虚しく、その人物は口を開いた。
「お待ちしておりました。柏原哲郎様」
しかし、その声を聞いたのと同時に哲郎は自らの首を傾げてみせた。何故なら、その人物の声は電話の時のような女性の声ではなく、男性の少し高い声だったからである。
「あなたは……電話の人ではないですね……」
「いいえ。私が昨日、あなたに電話した本人です。ですが、昨日は警戒心を少しでも、失くすために女性の声に変えて電話致したまでです。
女性からのお誘いとあらば、独り身のあなたは希望を抱いていたかもしれませんね。裏切るような真似をしてすみませんでした」
深々と頭を下げられて、少し、自分が情けなく思えてくる哲郎はその人物に対して、単刀直入に尋ねかけた。
「僕を此処に呼んだのは何故ですか?」
「何の前置きも無く、聞いてくるとは思いませんでしたが……まあ、いいでしょう。私があなたを此処に呼んだのは、あなたに手伝って欲しい事があるからなんです」
(ただ、それだけの為に僕を呼び出したのか……?)
訝しげな表情で暗闇と同化している男を凝視する哲郎に対して、男はゆっくりとその口を歪めてみせる。
「色々と疑問に思う事もあるでしょうが、私はあなたに危害を加えるつもりは毛頭もございませんよ。勿論、『あなたが手伝ってくれれば』の話ですがね」
男の言葉から発せられる奇妙な重みに哲郎は息を呑む。そんな哲郎の様子を察した男だったが、何を告げるでもなく、哲郎に背を向けて、廃ビルの中へと入ろうとする。しかし、その男に哲郎はついていく事無く、突っ立ったまま動かなかったため、男は哲郎の方へを振り返ってみせる。
「どうしたんですか? 早く済ませれば、その分、早く帰宅できますが?」
その言葉につられて廃ビルの方へと足を進め始める哲郎の目に不気味に佇む廃ビルの姿が映る。
(やっぱり僕は、このビルを一度、訪れた事がある……!?)
再度、そのビルを見つめた瞬間にそう分かった哲郎はそのビルの入り口へと足を踏み入れた。
何も映る事はない深淵の闇がそこには存在しており、男についていこうにもその姿を捉えること事態が無理であった。
すると、その瞬間に自らの手にいつの間にか持っていた懐中電灯を点けて、足元を照らし始める。
「さて、行きましょうか。目的の場所に着くまでの数分間、何か尋ねたい事があれば、できる限り、お答えしますよ」
歩き出す男の歩幅に合わせて足を進める哲郎は男の言葉に甘えて尋ねかける。
「何故、僕のケータイの電話番号を知っていたんです?」
「それにはお答え致しかねます。俗に言う企業秘密というものですよ」
本当に質問に答える気があるのか疑問に思う哲郎は次の質問を投げかける。
「今から、僕は何をして手伝えばいいんでしょうか?」
「妥当な質問です。お答えしますよ。
あなたにはただ、ある場所に触れていただくだけでいいのです。そこは、あなたの目には何も無いように見えるでしょうが、私たちにとってはとても、重要なものがあるんです」
男のその言葉を聞きながら、男と同様に階段を上っていく哲郎はその言葉の何かが引っかかった。
(僕には見えない何か……? 最近、どこかで体験した事があるような……?)
哲郎はその事を思い出そうとし、そして、階段を上り終えて階段と階段の中間点に差し掛かった際に思い出す。
「結界……?」
「……察しが良いですね。それなら話は早いです。あなたにはその結界に触れていただき、そして、『破壊しよう』と思っていただきたいのです」
首を傾げる哲郎だったが、その様子に男も気付いたようで補足し始める。
「あなたはただ、魔力が高い為に結界を肌で感じ、結界の存在を認識できるだけではないのです。あなたが結界を破壊しようと言う意思を持てば、結界を破壊する事ができる能力も同時に持っているんですよ。私たちの上に立つ人のように」
哲郎は次の瞬間、自らの口と鼻を両手で塞いで足を止めてみせる。しかし、それを行ったのは男の言動からではなく、周りから放たれる異様な臭いからであった。
(このにおい……鉄みたいで何かが腐ってるようなにおいだ……)
「どうしたのです? 先を急ぎましょうよ」
後ろを振り返る男は懐中電灯を自分の足元に向けたまま、動かさない。何の違和感も無い光景の筈なのに、哲郎にはその懐中電灯をわざと男の足元から動かさないと思ってしまう。
「その懐中電灯……僕の足元に向けてくれませんか……?」
「もう、察しはついているようなので質問致しますが、あなたは自分の足元が見たいのですか?」
その臭いから哲郎の中ではこれなんじゃないかと言う予想はついていた。だが、それを否定する自分も存在する為、答えるのに躊躇いを覚えていた。
そんな哲郎の様子を察したのか、男は男にしては高い声で告げ、話を変えた。
「……あなたはこのビルで何を見ましたか?」
「え?」
「昔の話です。あなたが此処を訪れたという昔話」
男にそう言われた瞬間に哲郎の中にある、此処に来たという記憶が確信的なものへと変わる。
(やっぱり僕はこのビルを訪れてる……けど、いつ? 何歳の時だ……?)
刹那――何かが弾けるような音と共に哲郎の頭の中に誰かの声が響き渡った。
『最強を演じ続けろ、少年』
それは哲郎が少年であった頃に言われた言葉の記憶、と勘違いしてしまう哲郎は自らの首を横に振った。
(違う……これは僕が誰かに言った言葉……?)
鞄を持っていない右手で頭を押さえ、自らの記憶から必死に何かを引き出そうとするが、それも男の言葉によって中断せざるを得なくなる。
「まあ、思い出せないのなら無理に思い出さなくてもいいですけどね。それで、あなたは見たいのですか?」
再びの質問に哲郎は息を呑みながら、首を縦に小さく動かした。そして、男の懐中電灯によって哲郎の足元の地面が照らされ、それを見た瞬間に哲郎は胃の中のものを吐いた。しかし、胃の中には胃液しかなく、その苦さで表情を歪める。
懐中電灯によって照らされた哲郎の足元には、二つの人の死体があった。
そう。さっきから放たれていた異様な臭いはそれが原因だった。
無残にも地面に転がされたままのその死体は大量の血液を地面に伝わせており、腕が変な方向へと曲がっている。
「あなたが……殺したんですか……?」
「はい。邪魔だったので殺しました。どうせ、魔術委員会が置いた此処の番人でしょう」
「どうせって……人を殺したんですよ……?」
右拳を強く握り締める哲郎を嘲笑うように男はそれに答えた。
「だからなんです? 逆に質問させていただきますが、あなたは絶対的悪の手下を前にして、絶対に殺さないと言い切れますか?」
その質問に頷けない哲郎は自分が情けなく思う。
「そうだとしても、あなたのやった事に賛同するわけにはいかない!」
「では、私の手伝いはもうしたくない、と?」
頷く哲郎の姿を見た瞬間に、にこりと微笑んでいた表情を一変させて、哲郎を睨みつける男。
「なら、無理やりにでも手伝って貰うしかないようですね……」
男の周りの闇が蠢き始めるのを感じ取る哲郎は自らの足を後ろへと、じりじりと移動させていく。そして、その闇が哲郎に迫ろうとしたその時、哲郎の背後から聞き覚えのある声が響き、男はその闇を止める。
「絶対的悪はあなた。会長を殺そうとした人に肩入れしてるんだから」
ゆっくりと、哲郎の背後の闇から現れたケチャップの跡が落ちていない制服を着た女子は正しく、山田愛沙の姿であった。
「愛沙!? なんで、此処に!!」
「タクローをずっと付けてた。浮気しな……誰かに狙われて無いか心配で」
「浮気をしないように」と言おうとした事につっこむ事無く、ただ、そこに愛沙が存在しているのに驚いている哲郎。それと同時に男も睨みを一層、強くする。
「招かれざる客ですね。お引取り願いましょうか? 委員会の犬には」
「私、犬よりかも猫の方が好きだから、どうせなら『委員会の犬』じゃなくて『委員会の猫』がいいにゃん?」
右手を手招きするように手首から曲げる愛沙に不快感を覚える男。
「猫なら猫らしく、猫じゃらしと戯れていてはくれませんか?」
「それはできない。あなたが向かっている先にはとても、大事なものがあるから。それを奪われるわけにはいかないの」
「だったら、戦うしかありませんね?」
構える男に対して、愛沙は自らの右手を突き出して、動きを止める。
「その前に一つ。質問したい事がある。
何故、あなたは委員会を絶対的悪と表現したの?」
その質問を聞いた男は愛沙と哲郎を睨むのを止め、嘲笑った。
「魔術委員会の事を何も知らないのにあなたはそこに所属しているのですね。実に滑稽です。まあ、知ってしまったが最後、あなたは委員会によって処理されるでしょうが。それでも聞きたいですか?」
そう言われて思案する愛沙は十秒後に口を開く。
「と言うことは、あんまり委員会を信用しない方が良いってことかな……」
「そうですね。信用しない方が身の為ですよ。そして、委員会が行おうとしている事に気付いたのなら、あなたも我々が正義だという事を理解できるでしょう」
「正義ね……本当に正義なんてものが存在すると思う?」
愛沙の質問に口元を歪める男は淡々と答える。
「言葉だけの幻想ですよ。正義と名乗り、悪を明確にすれば、皆が正義の方につこうとするでしょう? さて、会話はここまでにしておきましょうか」
「ふーん」と聞き流す愛沙は横にいる哲郎の方を向く。
「タクローはちょっと下がっておいた方がいいかも」
「駄目だ。女の子一人を戦わせるわけにはいかないし、彼はもう、二人も人を殺してしまっているんだから!」
「大丈夫。私はこう見えても、強いから」
哲郎の言葉に従う事無く、一歩前に足を踏み出す愛沙は哲郎の方を見て、にこりと微笑んでみせる。
「私は称号を持った五十人の魔術師たちの中で一番強い自信がある。だから、あなたなんて敵じゃない。眼中に無い」
「そうやって良く吠える犬ほど、実際弱いのですけどね。そう言えば、猫が良いと言う事なので『良く鳴く』の方がいいですか!」
瞬間、闇の中から現れる何本もの黒く鋭いものが愛沙に向けて、地を這った。だがしかし、その何本もの黒く鋭いものが彼女へと突き刺さろうとしたその時、その黒く鋭いものは空を切った。
そう。愛沙は哲郎の目の前にはおらず、男の視界からも完全に姿を消していた。
「ど、どこへ!?」
と辺りを見回す男であったが、次の瞬間には愛沙は男の視界の中、哲郎の目の前に姿を現していた。
「さて、問題です。私はどうやって消えたでしょうか?」
「……魔術でしょう?」
「ブッブー! 正解は私の足が速いから」
その冗談に溜息を吐く哲郎。
「死ぬかもしれないのになんで君はそんなに能天気なんだ……」
「何言ってるの、タクロー! あの人が私の動きを捉えられてない時点で、負けは決定」
その一言を聞いた男は愛沙への怒りを露にする。
「なら、今度は――――逃げ切れる事のできない速さで君を貫けば、いいだけです!」