β―I. ケチャップ少女
男性――柏原哲郎は今年で三十路なのにも拘らず、未だに独身である事から、親には「早く結婚しろ」などと言われて、今を一生懸命に生きていた。
彼が働いている場所は一流とまではいかないが、一応、世間には名の通った会社で彼自身も自分の役職に満足していた。
――そう思っていた。
七年間、就いてきた職業。休日以外、一日も休む事無く、働き続けてきた職業。おかげで通帳の桁は満たされていくが、その心は満たされてはいかない。
子供の頃に自分にたくさんの夢があった事を彼は覚えている。しかし、大人になるにつれて不可能な事の方が多い事を知り、自らの天井が見えた彼に夢は消え失せた。
そんな哲郎は今、会社を終え、帰路に着く途中であり、満員電車に乗らなければならないという事実が彼の歩幅を狭くしていく。そして、そんな哲郎の足を止めるように彼の背中に悪寒が走った。
後ろを振り返る哲郎の後ろにはただ、急に立ち止まって後ろを振り返った彼の事を不審な目で見て、通り過ぎる人々の姿しかない。
(なんだ……? この幽霊でもいるかのような悪寒は後ろからじゃないのか……?)
そう思った哲郎は前へと向き直り、足を進めようとした瞬間にその場のある異変に気付いた。
広い道なのにも拘らず、人々は建物と建物の間へと繋がる道を避けるように進んでいた。
(なんで……この道の前だけ……? 何かあるのか……?)
そう思った哲郎はその道を立ち止まって覗き見る。すると、その暗闇から一人の人物がのそのそと歩いてくるのが哲郎の目に見えた。
誰が近づいてくるのかと、身構える哲郎の期待を裏切るようにその姿が制服を着た女子だという事が分かる。しかし、期待を裏切られたと思った哲郎の少し安堵したような表情が、その制服の女子の姿を見て、驚愕の表情へと変貌を遂げる。
「ち……血だらけじゃないか!」
そう言って、制服姿の女子のいる道の方へと足を踏み入れた瞬間に彼に激しい頭痛と吐き気が襲い掛かる。すると、哲郎は口元を右手で押さえながら、四つん這いに倒れこんだ。
(やばい……ホント、吐く……)
そんな三十路のおじさんの姿を目の前で見ていた血だらけの制服の女子はかかとを地面につけたまま、お尻を地面につけないよう、しゃがみこむ。
「血だらけって私のこと? これ、血じゃないよ。ケチャップだよ」
「……えっ?」
吐き気が少し引いて来た哲郎であったが、その一言を聞いて、俯けていた顔を上げて、呆然と彼女の方を見た。すると、彼女から微かにケチャップの匂いが漂っている事を嗅覚を通じて感じ取った哲郎は少し、ほっとする。
「なんで……身体にケチャップ被ってるの……?」
「えーと……」
その理由を考えているように顎に手を当てる彼女は考えついたようで、口を開いた。
「実は私、ケチャラーというものなんです」
「それ、今考えたでしょ」
「ギクッ」と言う効果音が出るくらいに驚いてみせる彼女は、哲郎から目を逸らしながら言う。
「う、嘘ではないよ。と言うか、おじさんはなんでこの空間に入って来れるの? ここは私の私有地だよ?」
「私有地?」
辺りを見回す哲郎の目に映るのは二つの建物の壁の間の風景しかなく、そこに彼女の私有地と言えるものは無く、哲郎は訝しげな表情で彼女へと視線を戻す。
「どこに君の私有地が?」
「ここ」
そう言って、ただ、哲郎を見つめ続ける彼女の周りを見る哲郎だが、私有地と言うものは建物以外、見つからない。
「この建物の事?」
「違うよ。この道が私の私有地。結界張ってるから、魔術師が解かない限り、誰も入れないはずなんだけど……おじさんって魔術師なの?」
(魔術師……? と言うか、なんで、ずっとこの姿勢なんだ、僕は!)
ずっと、四つん這いの姿勢を保っていた自分に気が付いて、地面に置いた鞄を持って立ち上がる哲郎に倣って、彼女も立ち上がってみせる。
「えーと……魔術って僕が高校生くらいの頃に流行り始めたあれの事? 一度もやった事、無いけど……?
それより、ここに住んでるって事なの? 家出中?」
「じゃあ、なんでここに入れたんだろう……
私、家出中なんかじゃないよ。福岡からお父さんを探して、一人でここまで来たの。だから、住む場所無いから、ここに住んでる」
「福岡から一人で!? それに加えて、ここに住んでるの!? じゃあ、その制服についたケチャップどーすんの!」
思案するような素振りを見せる彼女は五秒くらい経ってから、口を開く。
「このまま」
「いやいや。そのままだったら、染み付いて落ちなくなるよ」
その事実を聞いて、驚いたような表情を浮かべる彼女は再度、思案に入り、二十秒ほどの時が経ってから、告げる。
「じゃあ、おじさんのとこに住まわせて?」
「……はい?」
予想もしていなかった言葉に首を傾げる哲郎に対して、彼女は真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「結界張ってたところに入れたのも気になる。だから……おじさんが私のお父さんって事で」
「ちょっと、待ってくれ! こんな見ず知らずの女の子を僕の家に入れるなんて、できるわけ無いだろう!? それに僕はまだ、独り身なんだよ!」
「だったら、お父さんは私をここに見捨てて、自分だけ家に帰るって事?」
輝かしい眼差しを哲郎に向けて訴える彼女に哲郎は自らの意志を折るしかなかった。
(それにしても、お父さんって……)
「はぁー」と溜息を吐いてみせる哲郎は彼女に尋ねかける。
「それで、名前は?」
「山田愛沙。おじさんは?」
「……さっきから『おじさん、おじさん』って……言っとくけど、僕、まだ三十になったばかりだからね!?
柏原哲郎。電車乗って僕の家行くよ。早くしないと、制服の汚れが落ちない」
と歩き出す哲郎についていく愛沙であったが、哲郎が不意にその足を止めた事によって、哲郎の背中に
鼻を激突させる。
「痛いー!」と手で鼻を押さえる愛沙の方へと振り返る哲郎は尋ねかける。
「君……もしかして、荷物はそれだけ?」
愛沙が持っている学校指定の鞄を見る哲郎に対して、愛沙は淡々と頷く。
「着替えは? ご飯は?」
「この制服だけだよ。ご飯はお金で買おうと思って、塩とこしょうとマヨネーズとケチャップくらいしか持って来てない。そして、ケチャップは先程、ご愁傷様に……」
「それで、お金は何円持ってきてるの?」
「福沢諭吉に十のマイナス四乗を掛けたのが数枚……」
変な表現の仕方に少し、考える哲郎はその答えが分かり、溜息を吐く。
「つまりは一円が数枚なんだな……」
「そーゆーこと」
「……お金は僕が持つから、まずは服を買わないと、制服洗濯している間、着る物が無いしね……」
その一言に目を輝かせる愛沙は哲郎に向けて、尋ねかける。
「高級な服を買ってくれるの!?」
「ジャージで十分」
そう言って、足を動かし始める哲郎に頬を膨らませながらついていく愛沙。そんな自分の姿を客観的に考えてみる哲郎は自分の事を“お人好し”と表現するしかない。
(そう言えば、高校の頃はこのお人好しのせいで彼女にふられたんだっけ?)
学ばない自分に少し、厭きれながらも、その足を動かすのを止めず、後ろにちゃんと愛沙がついてきているのを確認しながら、服の売っている店へと辿り着いた。
店に入るのと同時に「いらっしゃいませ」と言う店員の声が聞こえ、哲郎は店員の方を見るが、その顔は微笑んでいるだけであった。
一応、哲郎は自らの後ろにいる愛沙の姿を確認してみる。愛沙の制服は相変わらず、ケチャップ塗れであった。
不審に思う哲郎は愛沙に向けて店内を歩きながら尋ねかける。
「全然、ケチャップに対して店員の反応が無いんだけど、仕事だから……?」
「違うよ。私が結界張ってるだけ。だから、哲郎は今、透明人間と話してる事になってる」
「そうなのか……」と哲郎がジャージを探し始めるのに気を向けようとするのと同時に愛沙は呟く。
「嘘。あの人たちにとってはどうでもいい事だから、反応なんてしないんだよ」
と言う先の発言を否定する言葉を言われ、「紛らわしいなぁ」と思いながら、ジャージを見つけ、買ってから満員電車に乗って、自らの家へと辿り着いた。
「こ、これは……!?」
「このマンションの一室を借りてる。家賃はまあまあ安い」
七階建てのマンションを仰ぎ見る愛沙はその中へと入っていく哲郎についていく。
「もう、哲郎が本当のお父さんでも良いような気が……」
「そう言えば、お父さんを探して東京まで来たんだったけ? お父さんの情報はあるの?」
エレベーターの上へ行くボタンを押す哲郎の質問に愛沙は答える。
「東京にいるとだけしか聞いてない。そして、お母さんに私が東京にいる事は伝えてない」
「え!? 早く伝えないと警察に通報とかしてたら、僕が誘拐したって疑われるかも……?」
エレベーターの前で立ち止まっている愛沙を横目で見る哲郎。愛沙のその表情はにやりとした笑みを浮かべていた。
「まさか、確信犯!?」
「お母さんは私が六歳の頃にご愁傷様です。何を被害妄想してるの、お父さん?」
(この子……――黒い!!)
「フフフッ」と笑う愛沙の表情を見て、哲郎が反論すると同時に目の前のエレベーターの扉が開いた。
「そして、僕は君のお父さんじゃない!!」
エレベーターの中に入って六階のボタンを押す哲郎に愛沙は上機嫌でついていく。そして、六階に辿り着いたエレベータから降り、左に曲がったところにある『六○四号室』のドアへと持っている鍵を差し込んで回す哲郎。
すると、愛沙は哲郎を押しのけるように玄関へと入って行き、「おおー!」と歓声を上げた。
「手洗って、バスルームでジャージに着替えて。制服はそのまま洗濯機の上に」
「分かったー」
と言って、靴を脱いで洗面所へと行き、手を洗い始める愛沙に対して、哲郎はリビングへと赴き、スーツのジャケットを脱いで、ハンガーに掛け、そのままソファに腰を下ろす。
(2LDKだから、一つの部屋はあの子に使わせるとして、寝る場所は……このソファにでも寝てもらうとしようかな……)
「何を考えているんだろう」と溜息を吐く哲郎に合わせて、ジャージへと着替えてきた愛沙が登場し、ソファへと座る愛沙と同時に哲郎はソファから立ち上がる。
「テレビ見よー」
とリモコンを取って、目の前に存在するテレビをつける愛沙。その姿を確認してから哲郎は洗面所へと赴き、手洗いうがいを済ませて、自分もジャージに着替えてから、洗濯機の前に無造作に置かれた制服尾を見つめる。
(ケチャップ汚いなぁ……これは落ちんだろう)
ティッシュなどで拭き取りもしなかった制服に付いたケチャップをティッシュで取り、ポケットに何か入っていないか確認する哲郎。すると、その手はポケットの中にある何かに触れる。
(なんだ……? 生徒手帳?)
ポケットの中から取り出した手帳には生命の樹が描かれていた。そう。その手帳は紛れも無く、魔術委員である証であった。
そんな事なんて知らない哲郎は気にする事無く、愛沙の制服を洗濯機の中へと突っ込んで、洗濯機を回した。
「おーい。こんなものがポケットの中に入ってたけど、ちゃんと出してないと駄目だろ?」
とリビングに戻って、その手帳を愛沙へと渡す自分をまたもや、哲郎は客観的に考えてしまう。
(……僕はどこぞのお母さんか!)
手帳を手に取る愛沙は哲郎の姿を見る事無く、テレビを見続けている。そして、哲郎はリビング横のキッチンへと足を踏み入れ、冷蔵庫の中の物と睨めっこする。
「何か嫌いな食べ物でもある?」
愛沙へと尋ねかける哲郎に対して、愛沙はテレビを見たまま、首を横に振ってみせる。
「食べられないものが嫌い」
(要するに食べられれば何でも良いってわけか……)
にやりと笑みを浮かべる哲郎はペットボトルに入った水を冷蔵庫の中から取り出して、その扉を閉め、やかんの中に水を入れていく。そして、やかんをクッキングヒーターの上に乗せて、熱しながら棚からあるものを取り出した。
◆
「はい。出来上がり!」
そう言って、キッチン横のダイニングにある机に出来上がった料理をのせる哲郎を見ながら、愛沙は眉をひそめる。
「出来上がりも何も、これは三分待てばいいだけの手抜き……」
「食べられるなら何でもいいって解釈をさせるような答え方をしたのは君だよ。一人分の食材しかないし、今日はこれで我慢してくれ」
椅子へと座る愛沙は頬を膨らませた表情のまま、椅子に腰をかけて、カップ麺の蓋を開けて、箸を取った。そして、少しその表情を引き締めながら、哲郎に尋ねかける。
「じゃあ、いくつか質問したいんだけどいい?」
哲郎は麺を啜りながら首を縦に振った。