-人面犬-
「人面犬って知っているかい」
神一が、帰り仕度をしている俺に言ってきた。またこのパターンか。すでに嫌な予感がする。
「あれだろ? 人の顔した犬の事だろ?」
俺の言葉に、神一が驚いた顔をした。
「意外だな。お前が知っているなんて」
どうせ知らないっていったら、こいつは話し出すだろう。そのほうが面倒だ。
「この学校の七不思議の一つでさ、放課後学校横の通り道で、人面犬に追われるって話らしいぞ」
出た。お決まりの七不思議。またくだらない事を言い出したよ。
「そんな顔して……現実主義者め」
「わかったよ。何だよ。その人面犬がどうしたって?」
「探しに……」
「断る」
学校を出た俺は、焦る気持ちを抑えながら帰還した。急いで部屋に戻ると、イヴがいた。気に入ったのか、最近毎日のように図鑑を読んでいる。
「お帰り。どうしたの?」
「人面犬を出せ」
我ながら意味もわからん事を言っている。でもきっと既にいるんだろ? 俺だって馬鹿じゃない。神一が俺に七不思議の話をすると家に来るお決まりなパターンにする気だろ?
「ごめんなさい。何の事だかさっぱり」
とぼけている様子では無いようだ。ただの早とちりで済めばそれで良い。
俺は混乱しているイヴを残し、リビングへ向かった。
リビングに入ると、母が洗濯物を畳んでいた。俺に気が付くと笑顔でおかえりと言った。冷蔵庫から牛乳を取り出すと、コップに注ぎ、それを飲み干した。
ソファを見ると、杏の鞄が置いてある事に気が付いた。
「あれ? 杏帰ってきてるの?」
「そうよ。今日部活が休みだったんだって」
珍しい事もあるもんだ。俺はリビングの先にある庭を見た。庭は芝生が敷き詰められ、それを囲むように母の趣味である家庭菜園がある。トマトや胡瓜などを栽培しており、育ってきた野菜を近所の人に配ったり、サラダにして食卓に並べていたりした。そしてその家庭菜園に囲まれた芝生で杏が人面犬と戯れていた。
「お前が全て悪いんじゃ!」
犬が俺に怒鳴った。凄くご立腹だ。自分の部屋なのに何故か床で正座をさせられている。イヴも流れで同じ様に正座をさせられている。勉強机の椅子に座っているブルドックが、俺達を見下している。
そう、ブルドックだ。そうに違いない。あの短い手足。可愛らしい尻尾。たるんだ腹部。あのフォルムはブルドックに違いない。たまたま顔が人間のお爺さんに似ているだけで。たまたま、そいつが何か嫌な事があって、たまたま俺に怒鳴っているだけだ。
「何だその顔は、お前は自分が悪いって思ってらんのか!」
そう。たまたま犬が、人間の言葉を言葉を覚えただけだ。
「有……イヴは昔聞いた事があるのだが。この方は地球の愛玩動物の犬でしょ? しかし、ミィは知らなかった。犬が地球人と同じようにしゃべるのだとは」
「普通はしゃべらない」
「お前達! 何しゃべってるんじゃ! 今時の若いモンは、教育がなっておらん。わしが質問した時だけ口を開け!」
ブルドックは顔を真っ赤にして怒ってる。何が気に入らないのだろうか。というか、何故俺は怒られているのだろうか。
話は十分前に遡る。
杏とブルドックが庭で仲良く走り回っているのを、俺は窓の中から冷たい視線で見ていた。俺に気が付いた杏は、窓を開け、ブルドックを抱きしめ、俺の前にブルドックを差し出した。
「お兄ちゃん、このワンちゃん迷って家の庭に来ちゃったみたい。可愛いでしょ」
可愛くない。だって怒ってるもん。さっきまで、杏と凄い笑顔で走り回ってたのに、俺と目が合うなり、怒ってるもん。すっごい睨んでるもん。何か目が飛び出るんじゃないかって心配なくらい見開いて睨んでるもん。
「可愛いね。杏、そのワンちゃん。お兄ちゃんとも遊ばしてもらっていいっかい?」
杏は少し不満そうな顔をした後、杏が宿題を終えるまでという時間制限を条件に、ブルドックを俺に手渡した。
俺は杏にブルドックを借りた後、急いで部屋に戻った。
「イヴ! お前やっぱりこいつを連れてきたな」
俺が言うと、イヴは首を横に振った。
「とぼけるな!」
俺はイヴに近付くと、イヴの胸倉を掴んだ。
「放せ!」
「何だと! イヴ、もう一回言ってみろ!」
「違う! ミィは言ってない!」
そう言って、イヴは恐る恐る俺の胸元に指を刺した。俺が下を向くと、ブルドックが俺を睨むつけて言った。
「放せと言っているだろうが!」
それから、何だかんだで、今の状況だ。未だに、何故こんなにも怒っているのかわからない。
「お前のせいで、俺がどんな目に遭ったか……」
そう言って、今まで怒っていたブルドックが泣き始めた。
「あの……お言葉ですが、貴方に会った事は今日が始めてでして……」
俺がそう言うと、ブルドックの泣き声が止んだ。ゆっくり顔を上げ、俺を睨んだ。
「お前……まだわしが誰だかわからんか……昔からこうやってお前を叱っていたのに」
叱っていた? 俺は記憶の中をその単語で検索した。そして、ある人物に行き着いた。思い出した俺の過去の映像と、目の前に座るブルドックの顔が、リンクした。
「や……山田のお爺ちゃん」
山田のお爺ちゃん。正式名称山田魂三郎さん。俺の隣の家に住んでいたお爺ちゃん。イヴが始めて家に来た日に、イヴがいたずらをした山田のお婆ちゃんの旦那さんだ。亭主関白。小学生の俺がその言葉を知ったのは、このお爺ちゃんの影響だった。怖いお爺ちゃん。優しいお婆ちゃん。二人で外出する際は、決まってお爺ちゃんの後ろをお婆ちゃんがついて行くのをいつも見ていた。お爺ちゃんが誰かを怒鳴り、後でお婆ちゃんが謝る状況も、俺は何度も見ていた。
俺は子供の頃から、悪さをする度に、このお爺ちゃんに叱られていたのを思い出した。
そんなお爺ちゃんだが。俺が中学に入った年に死んだ。お婆ちゃんと散歩中に信号無視をしてきた車に轢かれて亡くなったらしい。
「そう、わしは死んだんだ。それはわかっている」
お爺ちゃんが言った。さっきまでと違い声に覇気が無い。顔も俯いている。
「じゃあ、何故そのような姿に?」
イヴが質問した。
「わしは死んだ。そして、幽霊になった」
幽霊……。そう聞いて、俺は嫌な予感がした。その話を聞いて真っ先に思い出したのは、例の幽霊、花子さんの事だった。幽霊。俺は今まで信じていなかった存在。お爺ちゃんはその存在になったのだと言うのか。
「しかしな、自分の姿が消えそうになっている事に気が付き、慌てて野良犬の身体に入った。まさか入れるとは思わんかったが、気が付けばこんな姿じゃ」
うわぁ……。なんとなくお爺ちゃんがなんで怒ってるかわかってきたよ。認めたくないけど。
「いろいろ幽霊仲間に聞いて情報集めてたら、お前の能力とやらに行き着いた。だからわしはお前が憎いのじゃ」
ほら来たよ。俺恨まれてるよ。何でこうなるんだよ。ほんと。っていうか幽霊仲間って……。
「まぁまぁ、有も好きでそんな事をやっているわけではないので……。実際彼は自分の能力を知ったのはごく最近です。そんなに責めないでいてあげてください」
そう言って、イヴは土下座した。俺の代わりに。俺は少し嬉しかった。こんなに近くに、俺の理解者がいる事を。
「まぁ替わりといっては何ですが、今日は彼を好き勝手使って下さい。何だかんだ言っても、彼が全て悪いんですから」
前言撤回。こいつ、いつか殺す。
「そのつもりさ」
そのつもりなのかよ! 何やらせる気だよこのブルドック!
「わしが今こんな姿なのはお前の責任じゃ。だから、わしを成仏させてくれ」
「え?」
成仏……。死んだ霊体がこの世から消える事。そう聞いた事がある。でも信じた事は無い。そもそも霊体なんて存在しないとずっと思っていた。それは死を恐れた人間の恐怖を緩和させるための偽り物語だ。死は無。俺はずっと思ってきた。でもわからなくなってきたのは事実だ。花子さんといい、お爺ちゃんといい。もしかしたら……そう考え直している自分が意外だった。
「お爺さんさんは成仏したいのですか?」
イヴが訊いた。お爺ちゃんは真剣な目で頷いた。
「この世に未練がある」
お爺ちゃんが言った。未練……一体何があるというのだろうか……。
「婆さんの事なんだが……」
婆さん。それはきっと山田のお婆ちゃんの事だろう。
「わしは、婆さんに何もしてやれないまま死んだ。それが気掛かりなんだ。だからわしは成仏出来ない」
さっきまでの表情が嘘であるかのように、お爺ちゃんの顔が暗くなった。真剣なんだ。真剣にお婆ちゃんの事を想っているんだ。お爺ちゃんの言動が全てを物語っていた。
「だから……せめて、こんな姿でも、少しは婆さんに恩返ししてあの世に行きたいんだ」
それがお爺ちゃんの未練……。最後の願いだった。
『ピンポーン』
インターホンの音が鳴った後、ドアがゆっくり開いた。山田のお婆ちゃんが顔を出し、俺に気が付くと笑顔になった。
「あら、有ちゃん。どうしたんだい?」
俺はお辞儀をしてお婆ちゃんの顔を見た。最近になって一段と痩せ細ったように見える。昔から心臓に病気を持っているらしく、激しい動きなどは出来ないと聞いたことがある。ドアから出たお婆ちゃんはゆっくり、俺に歩み寄ってきた。
「有ちゃん、今日はもう学校終わったのかい? 家においしいりんごがあるんだけど、食べてくかい?」
お婆ちゃんはこうやっていつも、ご飯やお菓子を俺や妹の杏にご馳走してくれていた。
「お婆ちゃん、ありがとう。あのさ、今日は俺の友達も一緒なんだけどいいかな?」
俺はお婆ちゃんにそう言った。
「あら、有ちゃんのお友達かい? いいに決まっているじゃないか」
お婆ちゃんの言葉に一安心した俺は、塀の陰に隠れていたイヴを手招きした。イヴの胸にはあのお爺ちゃんが抱かれている。
「あらあら、可愛いね。まるでお人形さんみたいだね」
イヴを見たお婆ちゃんは目を丸くして驚いた。
「人形? いやそれは違う。ミィはうちゅ……」
「そうなんだ。友達のイヴって言うんだ」
俺はイヴの口を塞ぎ、そう紹介した。宇宙人なんて言わせない。絶対。
「そうかね……」
そう言った後お婆ちゃんは、ゆっくり目線を下げていった。そして、ある一点を見つめた。イヴの胸に抱かれた、お爺ちゃんを見ている。
「まぁ……お入り」
お婆ちゃんはお爺ちゃんの顔を見つめたまま、そう言った。
家に上がり、居間に通された俺とイヴとお爺ちゃんは、台所へ向かっていったお婆ちゃんを暫く待っていた。きっと、さっき言っていたおいしいりんごを切ってくれているに違いない。お婆ちゃんに会ってから、あれほど五月蝿かったお爺ちゃんも静かに辺りを見回している。
「お待たせ。りんご持って来たよ」
お婆ちゃんがお盆に盛られたりんごとお茶を三つ乗せて運んできた。卓袱台に乗せると、お婆ちゃんが俺の前に座った。右隣にはお爺ちゃんを抱いたイヴがいる。そのお爺ちゃんを、お婆ちゃんはじっと見ている。
「その犬……」
お婆ちゃんが呟いた。やっぱりお爺ちゃんが気になっているのは確かなようだ。
「誰かに似ているような……」
お婆ちゃんの目線は、ずっとお爺ちゃんの顔を見続けている。お爺ちゃんも目線を一向に逸らさない。何だか今のこの状況を見ていると、何だか心が温かくなる。俺は素直にそう思った。
「抱いてみますか?」
イヴがそう言って、お爺ちゃんをお婆ちゃんの方へ差し出した。お婆ちゃんは暫く静止していたが、イヴから静かにお爺ちゃんを受け取った。さらに近くなった二人は、見つめ合ったまま停止した。
「あなた……」
静かにお婆ちゃんが呟く。そう、その犬はお爺ちゃんなんだ。お婆ちゃんもそれに気が付いたようだ。
「このワンちゃん……死んだお爺ちゃんに似てるわ」
そう。そっくりなんだ。お爺ちゃんそっくりの犬。いや、お爺ちゃんなんだ。お婆ちゃんの目が赤くなり始めている。感動の再会を目の当たりにして、俺の目頭も熱くなった。アダムは既に涙を流している。
「このワンちゃんを見ていると、お爺ちゃんを思い出して……」
そこでお婆ちゃんの言葉が詰まった。もうダメだ……その先を言わないで……。耐えられない。お爺ちゃんも目に涙が溜まっていた。
子供の頃、俺は何で山田のお爺ちゃんとお婆ちゃんは一緒にいるのだろうと考えた事があった。お爺ちゃんは時折お婆ちゃんにも怒鳴っていし、仲が良いとは思えなかった。でも違った。正真正銘二人は夫婦なのだから。良かった。本当に良かった。二人をこうやって再会させる事が出来て。
お爺ちゃんを抱き上げるお婆ちゃんの腕の力が、目に見えて力強くなっているのがわかった。そして、ゆっくりお婆ちゃんはお爺ちゃんに対して、こう呟いた。
「……ムカムカする」
え?
「ムカつく。マジムカつく。首絞めたくなる。本当に何でお爺ちゃんそっくりなの。あームカつく」
ちょ……待って。お……お婆ちゃん?
「やっと忘れられてきたのに。この犬のせいで思い出したわ。あー嫌な気持ち」
お婆ちゃん? なんか人格違うんですけど。あれ? 何かおかしい雰囲気だぞ。イヴも俺の目を見て困っている。お爺ちゃんも助けを求めるような表情で俺を見つめている。多分お爺ちゃんが一番驚いているんだろうけど……。
「死んでいい気味だと思っていたけど。またわたしの所に戻ってくるなんていい度胸ね。また死にたい? ねえ、また死に……」
暫くの間、言葉では言い表せない程惨い言葉が、お婆ちゃんの口からまるでマシンガンのように放たれ続けた。
俺とイヴ、それにお爺ちゃんは、公園のベンチに腰を掛けていた。お婆ちゃんの予測不可能な発言を目の当たりにしたお爺ちゃんは、あの後慌ててお婆ちゃんの腕から逃げだし、外に駆け出していった。俺とイヴもその後を追い、お婆ちゃんを一人残しお爺ちゃん捜索を開始した。近所を捜し、家の近くの公園のベンチで俯いて小さくなっていたお爺ちゃんを発見したのが数分前の話だ。
「ねぇ。泣いていいかな」
お爺ちゃんは呟いた。俺とイヴは、そっとお爺ちゃんの肩に手を置き、深く頷いた。
「これで、思い残す事は無いですね」
イヴが言った。
「うん。無いね。ある意味無いよ」
お爺ちゃんは低いトーンで答えた。
「これで成仏出来ますね」
イヴが畳み掛けた。
「うん。成仏出来る……かな。あの世で……幸せに暮らせる……かな」
お爺ちゃんが泣き出した。二人のやり取りを隣で聞いていた俺も、可哀相過ぎて泣きそうになった。
「あのさ、わしは成仏するべきなのかな」
俺に訊かないでくれ。そうだとしか言えないよ。
まさかこんな状況になるとは、俺もイヴも、お爺ちゃん本人も思わなかっただろう。お婆ちゃんがあんなにお爺ちゃんを恨んでいたなんて。何だかとても気持ちが重くなる。お爺ちゃんにどんな言葉をかけてあげたらいいのかわからず、言葉を失う。
「もういいさ……」
お爺ちゃんが弱々しい声で呟いた。気が付くとお爺ちゃんは空を仰いでる。
「婆さんはわしを必要としていない事が良くわかった。これでいいんじゃ」
そう言って、お爺ちゃんはベンチから降りると、力ない手足でゆっくり歩き始めた。
「どこに行くんです?」
イヴの言葉にもお爺ちゃんは無言だった。きっと行く当てなどないのだろう。
「ねぇ、このままお爺さんをいかせていいのかい?」
そんな事を訊かれても、俺にだってどうすればいいかわからない。俺は黙ってお爺ちゃんの後姿を見ていた。
お爺ちゃんが公園の敷地を出た時だった。俺は気が付いた。お爺ちゃんに向かって、一台のトラックが向かっていた。お爺ちゃんは気が付いていない!
「お爺ちゃん! 危ない!」
俺はお爺ちゃんに向かって走った。お爺ちゃんは俺の声に気が付き、トラックを見たが、あまりにも突然だったためか、身体が動かないようだ。俺はとにかく走った。間に合うかわからなかったが、ひたすらお爺ちゃんに向かって走った。
その刹那だった。
路地から現れたお婆ちゃんが、お爺ちゃんを守るように抱きかかえ、その場で蹲った。それに気が付いたのか、トラックが急ブレーキを掛け、お婆ちゃんのギリギリ手前で停車した。
「あ……危ないだろ!!」
トラックの運転手が窓から身を乗り出してお婆ちゃんを怒鳴った。お爺ちゃんを抱きかかえたまま立ち上がったお婆ちゃんは、何度も申し訳無さそうに頭を下げ、公園の中に入ってきた。トラックの運転手はそれを確認すると、窓を閉め、トラックを発進させていなくなった。
「お……お婆ちゃん! 大丈夫!?」
俺の声を聞き、緊張の線が切れたのか、膝から崩れるかのようにして、地面に腰を下ろした。
「何やってるの!!」
お婆ちゃんは抱きかかえたお爺ちゃんに対して叫んだ。お爺ちゃんは怒鳴られて目を丸くしている。
「本当にお爺ちゃんそっくりよ! いつもいつも私を困らして……」
そこまで言って、お婆ちゃんは泣き出した。
「私が身体弱いからって、いつもいつも自分の事を後回しで、私の事ばかり気遣って。死ぬ瞬間だって、車に轢かれそうな私を助けて、代わりに死ぬなんて! 本当に馬鹿よ!」
知らなかった。そんな事があったなんて。ただ、事故死としか聞いていなかったから。まさか、お婆ちゃんを助けて死んだなんて。
お爺ちゃんを強く腕で抱き、お婆ちゃんは泣き続けた。お爺ちゃんの目にも薄っすら涙が浮かんでいる。
「私だってお爺ちゃんのお世話したかったわよ。死んじゃったらもう恩返し出来ないじゃない」
それがお婆ちゃんの本音だった。お爺ちゃんも声にならない小さな声で泣き出した。あんなに頑固なお爺ちゃんの涙を見るのは、これが初めてだった。一瞬、お爺ちゃんが光ったと思った次の瞬間、お爺ちゃんの霊体の様な物が浮かび上がり、空に上がっていった。ゆっくりと、お婆ちゃんの顔を見つめながら、今までに見た事が無いような笑顔で。
「成仏……出来たのかな」
イヴが呟いた。俺は空にゆっくり昇っていくお爺ちゃんの笑顔を、見えなくなるまで見つめていた。
ふと気が付くと、お婆ちゃんに抱かれたブルドックが、舌を出し、俺の顔をじっと見ていた。
「へぇ~。それじゃああのブルドック、お婆ちゃんが飼う事にしたんだね」
杏が朝食のスープを息で冷ましながら、俺に言った。俺はパンを口で加えながら頷いた。
「やった! それじゃあすぐ会えるね」
杏は笑顔でスープを口に流し込んだ。
朝食を食べ終わった俺は学校の支度をして家を出た。お婆ちゃんの家の前を通ると、お婆ちゃんの家の庭に犬小屋が設置されていた。その横には縄に繋がれたブルドックがお皿に盛られたドックフードを無我夢中で食べている。俺が足を止めてその犬を見ていると、犬も俺の気配に気が付いたのか、食事を停止し、ゆっくり顔を上げた。
「……まいった」
驚きのあまり俺がそう口に出すと、口周りに付いたドッグフードの欠片を舌で舐めながら『意地で戻ってきた』と小さな声でお爺ちゃんが呟いた。




