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母の寂しさを埋めることが私の人生になっていたので捨てることにしました。

掲載日:2026/10/20

マーシー


慈悲を意味するその名前には、思いやりのある優しい子に育つようにという願いが込められているのだと、母は言った。


私はずっと、その願いに応えなければと必死に思っていたのかもしれない。


誰かを悲しませるくらいなら、私が我慢すればいいし、少し無理してでも出来るのならば、してあげればいい。そうしているうちに、自分が何をしたいのか考えることさえ少なくなっていた。


———


机の端で、通信石が赤く点滅し続けている。


私は書類に目を落としたまま、それを裏返した。

ひっくり返したところで隙間から漏れる光までは隠せず、小さな赤い光が、机の木目を明るくしたり、暗くしたりしていた。


あと、この一枚だけ…そう思って数字を追い直したところで、隣の席から遠慮がちな声がした。


「マーシーさん。少し、よろしいでしょうか」


配属されたばかりの後輩が、書類を胸に抱えて立っていた。眉は下がり、あからさまに困っている。


「どうしました?」

「ここの計算が、何度やっても合わなくて…」


私は椅子を引き、隣に座れるよう場所を空けた。

地方から届いた収支報告は、地域によって分け方が少しずつ違う。統一できればいいのだが向こうには向こうの言い分もあるので難しい。なので慣れるまでは、どれが何の項目なのか、正直わかりにくい。

後輩と共に記録をたどると、間違いはすぐに見つかった。


「こちらは輸送費に含めるんです。備考が裏面に回っているので、見落としやすいんですよね」

「あ……本当だ。申し訳ありません、お昼休みなのに」

「最初は私も間違えましたから。気にしないで」


後輩がほっとした顔をした。それを見て私も嬉しくなった。彼女が席へ戻ったあとで、机の端に目を向けた。


通信石の点滅は止まっていた。

その代わり、石の奥に赤い光が一つ残っている。

表面を指でなぞると、登録した名前と時刻が浮かび上がった。


——母 12時02分

——母 12時11分

——母 12時16分


私は指を離した。

あとで、折り返さなくては…でもその前に、午前中の書類を片づけてしまおう。


———



私は王宮財務局に勤める文官だ。


もうすぐで勤続七年になる。

最初の一年は先輩方の筆跡を読み解くだけで精一杯だったが、今では地方から届く収支報告の取りまとめを任されるようになっている。


数字が合わない理由を探し、記録を確かめ、必要なら各所に問い合わせる。非常に地味で、根気のいる仕事だが、ばらばらだった数字が一つにつながる瞬間は達成感もあり気持ちがいい。


「この件なら、マーシーに」


そう言ってもらえるようになった日は、少し高い焼き菓子を買って帰った。借りた部屋で一人、包みを開けたときの嬉しさを、今でも鮮明に覚えている。


父には、理解されなかった。


『女が文官試験を受けてどうする』

『嫁げば辞めるのだから、無駄なことをするな』


そういったことを言われるたびに、私は部屋へ戻って参考書を開いた。うっかり父に言い返すと、母が困った顔をして言ってくる。


「お父様も、あなたのことを思っておっしゃっているのよ」

「あなたが少し、言い方を変えれば済むでしょう」

「ほんとうにあなたは我が強いのねぇ」


私はうんざりして、次第に口を閉じるようになっていった。父が帰宅する時間を避けて勉強し、食卓では試験の話はしなくなった。


合格して王都に住まいを借りたとき、ようやく深く息を吸えた気がした。


父とは、仲がよかったとは言えない。

そんな父が亡くなったのは、八か月前だった。



———


実家の伯爵家は、数年前から兄が継いでいた。

父と母は王都近郊の別邸で隠居し、暮らしを支える使用人も十分に置かれていた。何不自由ない暮らしだ。

けれど、葬儀のあと、母は私の手を握って言った。


「これから、どうしたらいいのかしら」


何をするにも、父が決めていた。


招待を受けるかどうか

誰を屋敷へ呼ぶのか

どこへ出かけるか


父が決め、母はそれに従う。私が息苦しく感じていたその暮らしは、母にとっては安全な暮らしに感じていたのだろう。


「大丈夫よ」と母の手を握った時、驚くほど冷たかった。


「お兄様もいるし、私も来ますから」


そう答えたのは、私だ。

母のことがその時は確かに心配だった。

父の死をどう悲しめばよいのかわからない分、せめて残された母には何かをしなければとも思っていた。


対になった通信石を買ったのも、その頃だった。

文官なので薄給ではないものの、それでも少し手痛い出費だった。それは掌に収まる白い石に、銀の美しい枠がついている。ボタンを押すともう一方が赤く点滅する。応答すれば声が届き、会話ができるようになっている。そして出られなかった呼び出しは名前と時間が記録として残る。


「これなら、会えない日もお話しできますね」


母は石を受け取ると、ほっとしたように笑った。


「ありがとう、マーシー。あなたは本当に優しい子ね」


その言葉が、嬉しかった。

やるべきことをやれた、と思えた。


最初の頃は、夕食のあとに十分ほど話していた。

庭の薔薇が咲いたことや父の上着が、まだ片づけられないこと。昔、二人で訪れた避暑地のことなど、私はお茶を飲みながら、それを聞いた。


十分は、三十分になり、三十分はやがて一時間になった。


「そろそろ、お風呂に入らないと」

「もう少しいいでしょう。お母さん、夜が長くて」


私は断れずに椅子に座り直した。

休日に訪ねると、帰り際に寂しそうな顔をされるので翌週も来ると言えば、母は笑った。


兄には領地の仕事があるし、義姉には子どもたちがいる。


「あなたは、まだ一人だものね」


だから、私が行けばいい。

いつのまにかそういうことになっていた。


———


「マーシーさん。お昼は?」


声をかけられ、顔を上げると、レオン・ベルナーが、向かいの机からこちらを見ていた。

彼は同じ部署で働く文官で、ベルナー子爵家の次男だ。仕事は正確で、困っている人を見つけるのが早い。けれど同時に、頼まれてもいないことに勝手に手を出すような人ではなかった。


「こちらを片づけたら、いただきます」

「さっきも、そうおっしゃっていましたよ」


彼に言われ、時計を見ると昼休みは、とっくに終わっていた。机の脇には、包みを開けていないパンが置いてある。朝、出勤途中で買ったものだ。


そのとき、通信石がまた赤く光り始めた。


思わずため息が出た。

私は書類を置き、石へ手を伸ばす。


「……昼食だけでも、召し上がってからではいけませんか」


指が止まった。


「急ぎのご連絡でしたら、こちらは引き受けますが」

「いえ。母ですから」


答えてから、妙な言い方をしたと思った。


急ぎではないが、出なくてはならない。

なんだそれはと自分でも思うが、仕方がない。


赤い光が点滅し続けている。

そういえば、お腹が空いていたな、と思い出した。

朝食も、立ったままパンを一切れ食べただけだった。

昨夜は通信が長引き寝るのが遅くなったため、朝起きるのがつらく、ギリギリになってしまったからだ。


私は、まだ包装紙に包まれた昼食を見た。


「……そうですね。食べてから、折り返します」


石から手を離すと、そわそわして落ち着かなかった。

けれど食べるくらい、すぐに済むし、母にはその間だけ待ってもらえばいい。


そう考えなければ、パンの包みを開けられなかった。


———


「どうして出なかったの?」


慌てて食べおわり、廊下に出て通信をつなぐと、挨拶より先に母の声がした。


「ごめんなさい。昼食を食べていて」

「ずっと呼んでいたのよ」

「ええ。だから、今——」

「お母さんに何かあったら、どうするつもりだったの?」


声が大きくなったので人目が気になって私は廊下の端へと移動した。


「何か、あったの?」

「そういうことを言っているんじゃないでしょう!」


身体が強張った。


「私が倒れていたらどうするの。お父さんが亡くなって、一人でいるのに。あなたは私のことが心配じゃないの?」

「心配していないわけじゃないわ」

「だったら、出られるでしょう。食事なんて、あとでもできるじゃない」


私は窓ガラスについた誰かの手垢を眺めていた。


——あとでも


先ほど食べたパンは、固くなっていた。

美味しいとは言えないものだが、それでも食べている間は少しだけほっとしたのだ。


「……ごめんなさい」


私からいつもの言葉が出たことで母はようやく用件を話し始めた。

要件は来月のお茶会に着るドレスについてだった。

以前作ったものでは地味すぎる気がするけれど、新調するほどでもない。どうしたらいいと思うか。


今日でなくてもいい話だった。昼食を食べてからでも、いや、仕事が終わってからでも…むしろ私が答えなくても、きっと困らない話だった。


それなのに、胸の奥はまだ、叱られたときのまま縮こまっている。


「薄紫のものは、どうかしら」


私は尋ねられたことに答えた。


———


「マーシーさん。ちょっといいですか?」


決裁箱へ書類を入れようとしたところで、レオンさんに呼び止められた。


「違ったらごめんなさい。そちら、訂正前の控えではありませんか」

「え?」


指摘された頁を開く。

先月分の税収額の項目にあるのは、修正されたはずの数字が、古いまま残っていた。

そしてその下には、私の確認印があった。


「あ……」

「こちらが修正版です。今朝、届いていたでしょう」

「はい。申し訳ありません。すぐに確認し直します」

「まだ回していませんから、大丈夫ですよ」


彼は静かに書類を返した。

私は自分の印を見つめた。…私はいったい何を確認していたのだろう。

この数字をもとに、次の計算が行われる。だから間違ったまま回せば、何人もの手を煩わせることになってしまう。…そんなことは、わかっているはずなのに。


さっきから、母に言われた言葉が頭の中で再生され続けていた。そしてそれに何と返せばよかったのかを考えていた。…仕事中だというのに…。私は何を見ていたのだろう。


「……何やっているんだろう、私」


小さく漏れた声に、彼が顔を上げた。


「すみません。独り言です」


笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。

彼は少し黙り、それから声を落とした。


「…実は、先ほどの通信が少し聞こえてしまって」

「…申し訳ありません。うるさくしてしまいましたね」

「いえ、そうではなくて」


そこで一度、言葉を切った。


「……何があったんですか?マーシーさんが嫌でなければ、話を聞かせてもらえませんか」



———


小さな会議室に促された私は膝の上に手を重ねて浅く座った。


「…父が亡くなってから、母がどうにも心細いようで…」


レオンさんは向かいに座り、頷いた。


「昔から、何でも父が決めていたんです。だから、一人になって、不安なのだと思います」


家督を継いだため兄は忙しく、小さな子のいる義姉も忙しい。いっぽうの私は独身で、王都から母の住む別邸にも通えない距離ではない。…何度も自分に言い聞かせてきたことを、順番に説明した。


「できるだけ訪ねていますし、毎晩通信もしているんですけれど。最近は仕事中にも連絡が来るようになって」


簡潔に話すつもりが、話してみると、ひどく長くなった。


「…今日は、少しだけ待ってもらおうと思ったんです」


指をぎゅっと握り合わせる。


「昼食を食べたあとに、折り返しただけなんです……」


手の甲に、雫が落ちた。

あれ?と思うと同時に次の雫が、その隣に落ちた。


慌てて目元を拭うが拭いたそばからぼたぼたと涙が落ちて、どうしても止まらない。


「すみま……」


声が出なかった。

焦る私にレオンさんは白いハンカチを差し出してくれた。


「どうぞ」


私は両手で受け取った。

彼は静かに席を立つと言った。


「お茶、淹れてきますね」


扉の脇で、彼が壁の魔石に触れる。

廊下側に使用中の表示が灯り、室内の声が外へ漏れないよう防音が施され、静かに扉が閉まった。


一人になって、私はハンカチを目元に押し当てた。

もし後輩が、同じことを話したら?食事をしていたせいで家族に叱られたのだと、泣きながら話したら?

…私はきっと、食べて良いのよと言っただろう。お腹が空いていたのでしょう?しっかり食べなさい、と。


けれど自分に対しては、そんなふうに思えなかった。


もう少し早く食べていれば

一度出て、あとでかけ直すと伝えていれば

母を怒らせない言い方を、選べていたなら


気づけば、また自分の至らなかったところを探している。ハンカチはくしゃくしゃになっていた。



———


レオンさんは、私の前に静かにカップを置いた。


「少し熱いので、気をつけてください」


湯気と一緒に、柔らかな香りが上がる。


「……申し訳ありません。お仕事中なのに」

「私も、休憩を取りそこねていましたから」


彼は自分のカップを持ち上げた。


私も、一口飲んだ。

温かいお茶が喉を通り、ようやく肩の力が少し抜けた。


「おいしいです」

「よかった」


彼の表情が、わずかに和らいだ。


しばらくそのまま、何も話さなかった。

母との通信で黙ると、必ず「聞いているの?」と尋ねられるので、私は沈黙を作らないようにしていた。


——でも、この人は待ってくれる。


私はカップを両手で包んだ。


「母が寂しいのは、わかるんです」

「はい」

「できることは、したいと思っていました。でも……最近は、通信石が光るだけで嫌になるんです」


言ってしまってから、チラリと彼を見た。

彼は眉をひそめなかった。


「そんなふうに思うのは、冷たいでしょうか」


少し間があった。


「あなたが食事を取ることを冷たいとは思いません」


私は俯いた。たぶん、私もそう言うと思う…それが自分以外の誰かだったなら。


「あなたの時間をあなたは大切にして、良いのではないですか?」

「けれど、母にどう対処したら良いのかわからなくて」

「すぐに結論を出そうとしなくてもいいのではありませんか?」


彼は穏やかに言った。


「誰かに話すだけでも、考えがまとまることはありますから。私でよければ、また話してください」


私はゆっくり頷き、お茶をもう一口飲んだ。


———


母は、当然だが何も変わらなかった。


仕事中は通信に出られないと伝えると、不満を言われたし、今度の休日は訪ねられないと断ると、何の予定があるのかとしつこく尋ねられた。


「本を買いに行こうと思って」

「そんなの、いつでも行けるでしょう」


返事に詰まった。

いつでも行ける…そう思って、何週間も行けていなかった。


先週は母に頼まれた刺繍糸を届けた。好きな菓子も買っていった。その前の週は母が退屈しないようにと、観劇の予定まで調べた。


自分の本は、ずっと後回しにしている。


「……でも、今度の休みに行きたいの」


そう言うと、通信の向こうが静かになった。


「マーシー。お母さん、あなたにまで遠慮しなければいけないの?」


胸の辺りがヒュッと冷たくなった気がした。

その日は、最後までうまく話せなかったが、それでも休日には、書店へ行った。


棚を眺めていても、母の顔が浮かんでくる。

この時間があるなら、訪ねられたのではないかと思った。それでも、一冊選んだ。


誰かへの土産ではなく、私が読みたい本を買った。



———



翌日、その話をすると、レオンさんが何の本を買ったのかと尋ねた。


「私も気になっていました。前作は読まれましたか」

「ええ。レオンさんもお読みになったんですか?」

「はい、ただ、最後の謎解きには少し異論が」

「それ、私もです!」


声が大きくなって、慌てて口を押さえた。


彼が笑った。

私も笑った。


好きな本の話をするのは、とても楽しかった。

母の不安でも、仕事の数字でもない話を、誰かとするのがこんなにも楽しいなんて…。昼休みが終わるのを惜しいと思ったのは、久しぶりだった。


その日、洗って返したハンカチと一緒に、改めてお茶の礼を伝えた。


「あのハーブティー、どちらのお店のものですか」

「王宮前の通りにある茶葉店です。気に入っていただけたなら、よかった」


彼は、なぜか少し目をそらした。


「…実は、マーシーさんに渡そうと思っていたものだったので」

「私に?」

「最近、お疲れのようでしたから。…ただ、茶葉をお渡ししても、淹れるお手間を増やすかもしれないなと逡巡しまして…それに好みも伺っていませんでしたし…」


あの会議室で泣くより前から彼は…。

私が自分の昼食を忘れている間も私のことを気にかけ、何をすればよいか考えてくれていたのだ。そのことに驚くと同時に、胸の辺りが温かくなった気がした


「……いただいても、いいですか。もし、残っていたら」

「もちろんです!」


机の引き出しから、小さな包みが取り出された。

茶葉店の名が入った美しい色の紐が、結ばれている。

私はそれを、両手で受け取った。



———


レオンさんと初めて二人で食事をしたのは、それからしばらく経った日のことだった。


王宮から歩いて少しのところにある、煮込み料理が美味しいと評判の店だった。

誘われたときはとても嬉しかった。

それなのに、返事より先に、母との通信の時間が頭に浮かんだ。


私は少し迷ってから、頷いた。そして出かける前に、今夜は同僚と食事をするので通信はできないと母へ伝えた。


「お仕事ではないのでしょう?」

「ええ」

「だったら、少しくらいお話しできるわよね」


そのときは、何と答えればいいのかわからなかった。

席について飲み物を選んでいるとき、鞄の隙間から赤い光が漏れた。私は思わず動きを止めた。


店の中は暖かくオレンジがかった照明が優しい雰囲気だ。近くの卓からは笑い声が聞こえ、給仕の運ぶ皿から香ばしい匂いが漂ってくる。


赤い光は、規則正しく点滅していた。


母は今、あの居間にいるのだろう。

夕食を済ませて、私が応じるのを待っている。


少し話すだけなら、できる。

席を外して、すぐに戻ると言えばいい。


私は鞄へ手を伸ばしかけた。


「……大丈夫、ですか?」


顔を上げると、レオンさんがこちらを見ていた。

帰ったほうがいいとも、出ないでほしいとも言わず、私の返事を待っていた。


「……本当はもう、嫌なんです」


口にすると、ひどく単純な言葉だった。


母が寂しいのはわかる。

不安なのも、わかる。


けれど私は、嫌になったんだ。


食事を中断するのも、仕事中に席を立つのも、休日のたびに、予定を変えるのも。

何をしていても、母の機嫌を気にしてしまうことにも疲れていた。


少し話すくらいはできる。

でも、今日はしたくなかった。私は鞄の留め金を閉じた。


「今日は、あなたと食事がしたいんです」


彼は一瞬、目を見開くと、それから少し照れたように笑った。


「私もです」


胸の奥が温かくなった。


「ずっと、お誘いしたかったので」


今度は私が、うまく言葉を返せなくなった。

耳が熱を持っているのが自分でもわかった。


すぐに料理が運ばれてきた。

白い皿の上で、煮込み料理が湯気を立てている。


私は料理を口に運んだ。

温かいうちに食べた料理は、とんでもなくおいしかった。



———


あの日、食事を終えてレオンさんと別れたあと、私は母を訪ねた。翌日になれば、きっとまた言えなくなる気がしたから。


居間へ入るなり、母は私を責めた。


「何度呼んだと思っているの」

「今夜は用事があると、お伝えしました」

「たかが食事でしょう。そのくらい、途中で出られるじゃない」


そのくらい…か。

私は母の向かいに座った。


「お母様。毎晩の通信は、もうやめます。これまでのようには、訪ねられません」


母の顔がこわばった。


「どうして、そんなことを言うの」

「仕事があります。それに、私にも暮らしが——」

「お兄様だって忙しいのに、ちゃんと気にかけてくれるわ」


兄からの、たまに届く手紙。

母はそれを嬉しそうに見せてくれた。

私の毎日の通信は、一度途切れただけでこんなにも責められるのに。


「私も、気にかけていました」

「だったら、どうして出なかったの?」


また話が戻った。

きちんと言わなければ…。私は一度、息を吸った。


「お母様が寂しいことは、わかっています。でも、私にも仕事があります。したいことだってあります」

「そんなこと、わかっているわよ」

「では、断ったときに責めないでいただけますか」


母が黙った。


「仕事中は出られません。休みの日にも予定があります。何も予定がなくても、一人で休みたい日だってあります」

「……お母さんに会うのは、そんなに嫌なの?」


いつもの言葉が、喉まで出かかった。


違う…そんなつもりではないの。ごめんなさい。


私は唇を閉じた。

母の目に、涙が浮かんだ。


「あなたは優しい子だったのに…マーシー」


胸に、黒いモヤがかかったような気がして苦しくなった。


「お父さんがいなくなって、あなたまで私を捨てるのね」


母のことだから、きっとそう言うと、わかっていた。

わかっていても、つらかった。


母は泣いている。

謝れば、この場は収まる。今までどおりにすると言えば、母は安心するだろう。


そして私はまた、寝る時間を削って話を聞く。

予定を取りやめて訪ねる。

できるのだから、と自分に言う。


鞄から、通信石を取り出した。


母が喜ぶと思って、いくつもの店を回って選んだものだった。そっとそれを卓の上に置く。


「……もう、私には無理です」


母が、石と私を見比べた。


「マーシー」

「必要な連絡は、お兄様を通してください。お兄様には、私から話します」

「そんな勝手なこと——」


私は立ち上がった。

膝が震えていたが、ここで引き返すわけにはいかない。母はまだ何か言っていた。

扉に手をかけるまで、引き返したい気持ちはなくならなかった。それでも私は、母の家を出た。



———


あれから、三か月が経った。


母は私のことを大層怒っているらしい。


兄からは、何とかならないかと手紙が来た。

私は、これまでしてきたことと、これからはできないことを書いて返した。


それだけの返事に、何枚も便箋を使った。

何度も何度も書き直した。


母を思い出さないわけではない。

好きな菓子を見つければ、足が止まるし、冷え込む夜には、あの居間で膝掛けをかけている姿が浮かぶ。


一日、本を読んで過ごしたあとで、この時間があれば会いに行けたのではないかと思うこともある。


私は、冷たい人間なのだろうか。


その問いは、今でもなくならない。


「マーシーさん」


顔を上げると王宮の玄関広間を、レオンさんがこちらへ歩いてくる。


「お待たせしました。行きましょうか」

「はい」


今日は私から、食事に誘った。


彼に話したいことがある。

先日借りた本のことも、帰りに寄りたい店のことも。


私は立ち上がり、彼の隣へ歩いていった。




私は、マーシー


慈悲という意味の名前を授けられた。

その名前にふさわしくあろうとして、私は少しずつ、自分の心を削ってきたように思う。


けれど、今までの私は、私自身に対して慈悲の心を持ったことがあっただろうか。


疲れたときに休むこと。

温かいうちに食事をすること。

好きな人と、過ごすこと。


そんなささやかな望みさえ許してくれない人を、私は自分よりも大切にし続けなければならないのだろうか。



当然今でも、罪悪感は胸をよぎる。

母を思い出して、心が痛む日もある。



それでも私は、あの日、お母様を捨てると決めた。

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