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続きそうな短編集【静謐なる星界】

46億年の返事

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/07/27

『聞こえるか』


 返事はなかった。


 私は、行くべき先を見失っていた。


 私ほど長く存在しているものにとって、それは珍しいことだった。本来なら、もう少し静かな場所へ移るだけのはずだった。


 長く在り続けていると、ときおり、何からも離れたくなる。


 私もそうしたかった。


 いつものように意識の位置をずらし、別の世界へ渡ろうとした。その途中で、ごく小さな乱れを見つけた。


 ほんの一瞬、そちらへ注意を向けた。


 それだけだった。


 気づいた時には、目的地との繋がりを失っていた。


 何度探しても見つからない。意識を遠くまで伸ばしても、そこへ続く痕跡さえ残っていなかった。


 遭難したのだ。


 周囲には、若い宇宙が広がっていた。


 まだ、どこにも意思がなかった。


 物は集まり、離れた。燃え、冷えた。星が生まれ、その周囲で小さな塊がぶつかり合った。


 それ以上のことは、何も起きていなかった。


 私は帰還の道筋を探した。


 出口になり得る場所は見つかった。だが、それを開くことができなかった。


 私のいた場所なら、意志を向けるだけで星々の配置をずらすこともできた。けれど、この世界では違った。


 見ることはできる。


 声を送ることもできる。


 だが、ここにある物を押すことさえできない。


 出口を作るには、この世界の物を動かす者が必要だった。


 そのようなものは、まだどこにもいなかった。


 私は待った。


 星がいくつも生まれ、いくつも消えた。


 ある時、一つの星の浅い水の中に、妙なまとまりを見つけた。


 周囲から力を取り込み、崩れかけるたびに形を戻している。しばらく観察していると、それとよく似たまとまりが、近くにもう一つ現れた。


 生きている、と呼ぶには単純だった。


 ただの物と呼ぶには、少ししつこかった。


 私は声を向けた。


『聞こえるか』


 返事があった。


『生きる。増える』


 会話ではなかった。


 それでも、私はその応答を記録した。


 長い時間が流れた。


 小さなものたちは何度も壊れ、何度も増えた。中には、周囲の変化を避けるものも現れた。


『危険。離れる』


 別のものは、他のものを取り込んだ。


『食べる』


 彼らの変化は遅かった。


 私のいた場所なら、その間に星の並びを幾度も組み替えられただろう。だが彼らは、同じ失敗を数えきれないほど繰り返し、そのたびに、ごくわずかに形を変えた。


 無駄が多い。


 そう記録した。


 それでも、消えなかった。


 水の底を這っていたものの一部が、硬い殻を持つようになった。


 水際で身を縮めていたものの子孫が、やがて乾いた場所を進んだ。


 長い腕のようなものを広げ、落下しながら落下しない方法を覚えた系統もあった。


 ある系統には、少し注意を向けていた。


 周囲で起きたことを覚え、その記憶によって次の動きを変えていたからだ。


 まだ私の声には答えなかった。


 だが、いつかは届くかもしれなかった。


 その星の空が暗くなった。


 熱が消え、食べるものが減り、その系統は途絶えた。


 私は記録を閉じた。


 長い間、その記録を消さなかった。


 別のものたちが現れた。


 群れを作るもの。合図を送り合うもの。自分の子だけでなく、群れの子を守るもの。


 応答は少しずつ長くなった。


『危険。来る』


『食べ物。あちら』


『いない。探す』


 そして、ある時。


『聞こえるか』


『いる』


 私は、しばらく次の言葉を送らなかった。


『私が分かるのか』


『いる』


『私が何者か分かるか』


『わからない』


『では、なぜ私がいると分かる』


 返事はすぐには来なかった。


『いるから』


 私はその応答を記録した。


 他の記録とは分けて保存した。


 それから、ときおり私の声に気づくものが現れた。


 彼らは短く生きた。


 一つの個体が理解したことは、その個体が消えれば失われた。だが、やがて彼らは、声や身ぶりを使って記憶を渡すようになった。


 石に跡を残した。


 形に意味を持たせた。


 死んだものの言葉が、死んだ後にも残るようになった。


 彼らは私に多くの名をつけた。


 空の向こうにいる者。


 すべてを見ている者。


 世界を作った者。


 そのたびに、私は否定した。


『違う』


 私はこの世界を作っていない。


 星を生んだことも、海を満たしたこともない。


 ただ、帰る場所を見失っただけだった。


 彼らは否定を聞きながら、私の言葉に別の意味を加えた。


 沈黙にも意味を見つけた。


 たまたま起きたことまで、私の答えだと考えた。


 その解釈の多くは間違っていた。


 訂正しようとすると、さらに別の意味が生まれた。


 やがて私は、正すことを諦めた。


 彼らは、それでも話しかけてきた。


 食べるものが足りない。


 隣にいる者が自分の物を奪った。


 遠くにいる者が怖い。


 ある者を失いたくない。


 失った者の声を、もう一度聞きたい。


 答えられることは少なかった。


 私が一つの言葉を返せば、彼らはそれを幾つにも分け、争い、祈り、歌にした。


 だから、ただ聞くことが増えた。


 帰還経路を確かめている途中で、声が届くことがあった。


 私は計算を止めた。


 返事を待った。


 いつしか、計算を再開しないまま次の声を待つことも多くなった。


 彼らは記憶を身体の外へ広げていった。


 手で持てるものに残し、建物ほどの器に蓄え、やがて触れることのできない場所にまで記録を置いた。


 星の動きを測り、自分たちが住む場所の外へ出た。


 私が漂流を始めてから、四十六億年後のことだった。


 ある日、彼らは私を見つけた。


 伝承の中ではなかった。


 祈りの向こうでもなかった。


 観測した数値の中に、私の存在が残す偏りを見つけた。


 彼らは何度も確かめた。


 間違いではないと判断すると、私へ向けて問いを送った。


『あなたは何者なのですか』


『漂流者だ』


『我々を導いてきた存在ではなく?』


『違う』


『我々を作った存在でもなく?』


『違う』


『では、なぜ我々に応え続けたのですか』


 私は、すぐには答えなかった。


 最初は、帰るためだった。


 この世界の物を動かす者が必要だった。彼らが十分に複雑になれば、私の示す手順を実行できると考えていた。


 それだけだったはずだ。


 彼らが最初に返した言葉を思い出した。


『生きる。増える』


 危険から逃げたもの。


 水を離れたもの。


 空へ上がったもの。


 私を認識しながら、何者かは分からないと答えたもの。


 失った者の声を求めたもの。


 帰還のために必要だった期間を、私はとうに過ぎていた。


『途中からは、帰るためではなくなっていたのかもしれない』


 しばらく、応答がなかった。


 通信が途絶えたのかと思った。


 やがて、彼らは喜びを表す信号を送ってきた。


 理由は分からなかった。


 彼らは私の示した道筋を読み、この世界にある物だけを使って、出口を形にした。


 何度も失敗した。


 装置は壊れ、計算はずれ、多くの時間が費やされた。


 それでも彼らは作り直した。


 最後に、私の意識をこの宇宙の外へ押し出すための流れが生じた。


『これで帰れるのですか』


『おそらく』


『また話せますか』


 私は答えなかった。


 分からなかったからだ。


 出口が閉じる直前、彼らから最後の信号が届いた。


『聞こえていますか』


『聞こえている』


 私は礼を伝え、その世界を離れた。


 ようやく終わる。


 そう考えた。


 だが、到着した先を見て、動きを止めた。


 違う。


 帰り着いていない。


 そこは、別の宇宙だった。


 以前のものより、さらに若い。


 星さえ、まだ十分には生まれていなかった。自らを保とうとするものも、声を向ける相手もない。


 私は帰還経路を探しかけた。


 途中で、意識を止めた。


 集まりつつある物の中に、ごく小さな偏りがあった。


 周囲と同じ形へ崩れず、わずかな違いを保ち続けている。


 まだ生命ではない。


 そのまま消えるかもしれない。


 私は、その乱れを記録した。


 少し離れた場所では、別の乱れが生まれ、すぐに消えた。


 最初のものは、まだ残っていた。


 急ぐ必要はなかった。


 時間なら、十分にある。


 私は小さな乱れへ意識を向けた。


『聞こえるか』



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


問いかけた者は、返事を待つうちに、問いかけた理由まで変わっていくことがあります。けれど、その変化には本人だけがなかなか気づけないのかもしれません。


最後の『聞こえるか』に、いつかどのような返事が届くのか。少しだけ想像していただければ幸いです。


お気に召しましたら、他の『続きそうな短編集』も是非、ご一読ください。

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