46億年の返事
『聞こえるか』
返事はなかった。
私は、行くべき先を見失っていた。
私ほど長く存在しているものにとって、それは珍しいことだった。本来なら、もう少し静かな場所へ移るだけのはずだった。
長く在り続けていると、ときおり、何からも離れたくなる。
私もそうしたかった。
いつものように意識の位置をずらし、別の世界へ渡ろうとした。その途中で、ごく小さな乱れを見つけた。
ほんの一瞬、そちらへ注意を向けた。
それだけだった。
気づいた時には、目的地との繋がりを失っていた。
何度探しても見つからない。意識を遠くまで伸ばしても、そこへ続く痕跡さえ残っていなかった。
遭難したのだ。
周囲には、若い宇宙が広がっていた。
まだ、どこにも意思がなかった。
物は集まり、離れた。燃え、冷えた。星が生まれ、その周囲で小さな塊がぶつかり合った。
それ以上のことは、何も起きていなかった。
私は帰還の道筋を探した。
出口になり得る場所は見つかった。だが、それを開くことができなかった。
私のいた場所なら、意志を向けるだけで星々の配置をずらすこともできた。けれど、この世界では違った。
見ることはできる。
声を送ることもできる。
だが、ここにある物を押すことさえできない。
出口を作るには、この世界の物を動かす者が必要だった。
そのようなものは、まだどこにもいなかった。
私は待った。
星がいくつも生まれ、いくつも消えた。
ある時、一つの星の浅い水の中に、妙なまとまりを見つけた。
周囲から力を取り込み、崩れかけるたびに形を戻している。しばらく観察していると、それとよく似たまとまりが、近くにもう一つ現れた。
生きている、と呼ぶには単純だった。
ただの物と呼ぶには、少ししつこかった。
私は声を向けた。
『聞こえるか』
返事があった。
『生きる。増える』
会話ではなかった。
それでも、私はその応答を記録した。
長い時間が流れた。
小さなものたちは何度も壊れ、何度も増えた。中には、周囲の変化を避けるものも現れた。
『危険。離れる』
別のものは、他のものを取り込んだ。
『食べる』
彼らの変化は遅かった。
私のいた場所なら、その間に星の並びを幾度も組み替えられただろう。だが彼らは、同じ失敗を数えきれないほど繰り返し、そのたびに、ごくわずかに形を変えた。
無駄が多い。
そう記録した。
それでも、消えなかった。
水の底を這っていたものの一部が、硬い殻を持つようになった。
水際で身を縮めていたものの子孫が、やがて乾いた場所を進んだ。
長い腕のようなものを広げ、落下しながら落下しない方法を覚えた系統もあった。
ある系統には、少し注意を向けていた。
周囲で起きたことを覚え、その記憶によって次の動きを変えていたからだ。
まだ私の声には答えなかった。
だが、いつかは届くかもしれなかった。
その星の空が暗くなった。
熱が消え、食べるものが減り、その系統は途絶えた。
私は記録を閉じた。
長い間、その記録を消さなかった。
別のものたちが現れた。
群れを作るもの。合図を送り合うもの。自分の子だけでなく、群れの子を守るもの。
応答は少しずつ長くなった。
『危険。来る』
『食べ物。あちら』
『いない。探す』
そして、ある時。
『聞こえるか』
『いる』
私は、しばらく次の言葉を送らなかった。
『私が分かるのか』
『いる』
『私が何者か分かるか』
『わからない』
『では、なぜ私がいると分かる』
返事はすぐには来なかった。
『いるから』
私はその応答を記録した。
他の記録とは分けて保存した。
それから、ときおり私の声に気づくものが現れた。
彼らは短く生きた。
一つの個体が理解したことは、その個体が消えれば失われた。だが、やがて彼らは、声や身ぶりを使って記憶を渡すようになった。
石に跡を残した。
形に意味を持たせた。
死んだものの言葉が、死んだ後にも残るようになった。
彼らは私に多くの名をつけた。
空の向こうにいる者。
すべてを見ている者。
世界を作った者。
そのたびに、私は否定した。
『違う』
私はこの世界を作っていない。
星を生んだことも、海を満たしたこともない。
ただ、帰る場所を見失っただけだった。
彼らは否定を聞きながら、私の言葉に別の意味を加えた。
沈黙にも意味を見つけた。
たまたま起きたことまで、私の答えだと考えた。
その解釈の多くは間違っていた。
訂正しようとすると、さらに別の意味が生まれた。
やがて私は、正すことを諦めた。
彼らは、それでも話しかけてきた。
食べるものが足りない。
隣にいる者が自分の物を奪った。
遠くにいる者が怖い。
ある者を失いたくない。
失った者の声を、もう一度聞きたい。
答えられることは少なかった。
私が一つの言葉を返せば、彼らはそれを幾つにも分け、争い、祈り、歌にした。
だから、ただ聞くことが増えた。
帰還経路を確かめている途中で、声が届くことがあった。
私は計算を止めた。
返事を待った。
いつしか、計算を再開しないまま次の声を待つことも多くなった。
彼らは記憶を身体の外へ広げていった。
手で持てるものに残し、建物ほどの器に蓄え、やがて触れることのできない場所にまで記録を置いた。
星の動きを測り、自分たちが住む場所の外へ出た。
私が漂流を始めてから、四十六億年後のことだった。
ある日、彼らは私を見つけた。
伝承の中ではなかった。
祈りの向こうでもなかった。
観測した数値の中に、私の存在が残す偏りを見つけた。
彼らは何度も確かめた。
間違いではないと判断すると、私へ向けて問いを送った。
『あなたは何者なのですか』
『漂流者だ』
『我々を導いてきた存在ではなく?』
『違う』
『我々を作った存在でもなく?』
『違う』
『では、なぜ我々に応え続けたのですか』
私は、すぐには答えなかった。
最初は、帰るためだった。
この世界の物を動かす者が必要だった。彼らが十分に複雑になれば、私の示す手順を実行できると考えていた。
それだけだったはずだ。
彼らが最初に返した言葉を思い出した。
『生きる。増える』
危険から逃げたもの。
水を離れたもの。
空へ上がったもの。
私を認識しながら、何者かは分からないと答えたもの。
失った者の声を求めたもの。
帰還のために必要だった期間を、私はとうに過ぎていた。
『途中からは、帰るためではなくなっていたのかもしれない』
しばらく、応答がなかった。
通信が途絶えたのかと思った。
やがて、彼らは喜びを表す信号を送ってきた。
理由は分からなかった。
彼らは私の示した道筋を読み、この世界にある物だけを使って、出口を形にした。
何度も失敗した。
装置は壊れ、計算はずれ、多くの時間が費やされた。
それでも彼らは作り直した。
最後に、私の意識をこの宇宙の外へ押し出すための流れが生じた。
『これで帰れるのですか』
『おそらく』
『また話せますか』
私は答えなかった。
分からなかったからだ。
出口が閉じる直前、彼らから最後の信号が届いた。
『聞こえていますか』
『聞こえている』
私は礼を伝え、その世界を離れた。
ようやく終わる。
そう考えた。
だが、到着した先を見て、動きを止めた。
違う。
帰り着いていない。
そこは、別の宇宙だった。
以前のものより、さらに若い。
星さえ、まだ十分には生まれていなかった。自らを保とうとするものも、声を向ける相手もない。
私は帰還経路を探しかけた。
途中で、意識を止めた。
集まりつつある物の中に、ごく小さな偏りがあった。
周囲と同じ形へ崩れず、わずかな違いを保ち続けている。
まだ生命ではない。
そのまま消えるかもしれない。
私は、その乱れを記録した。
少し離れた場所では、別の乱れが生まれ、すぐに消えた。
最初のものは、まだ残っていた。
急ぐ必要はなかった。
時間なら、十分にある。
私は小さな乱れへ意識を向けた。
『聞こえるか』
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
問いかけた者は、返事を待つうちに、問いかけた理由まで変わっていくことがあります。けれど、その変化には本人だけがなかなか気づけないのかもしれません。
最後の『聞こえるか』に、いつかどのような返事が届くのか。少しだけ想像していただければ幸いです。
お気に召しましたら、他の『続きそうな短編集』も是非、ご一読ください。




