推しの配信者に、裏アカで恋愛指南している件
「今日のデートで、さりげなく髪を褒めてみて。心理学的に、パーソナルスペースの外側から始める褒めが最も受け入れられやすい」
推しの配信者に、匿名DMでそうアドバイスした翌日。
駅で会った桐生蓮が、私に言った。
「真島さん、今日の髪、いいね」
心臓が、喉から飛び出るかと思った。
順を追って説明する。
私、真島遥、二十二歳。T大学文学部四年。恋愛経験ゼロ。ただし恋愛心理学の知識に関しては、おそらく同世代の上位〇・一パーセントに入る自信がある。
匿名ブログ「恋愛工学ラボ」。月間PV八万。「告白の成功率を三倍にする認知バイアス活用法」「ザイオンス効果を最大化するLINE頻度の黄金比」——そんな記事を書いて、そこそこ読まれている。
理論は完璧。実践はゼロ。
笑えるでしょう。笑っていい。私も自分で笑ってる。
そしてもう一つ。私にはVTuberの推しがいる。「桐生蓮」。登録者四十二万人。低音のイケボで雑談するだけの配信が毎回一万人を集める、男性VTuberの新星。
推しは推し。画面の向こうの存在。それでよかった。
——三月の配信で、蓮が素顔を公開するまでは。
「今日はオフコラボ配信です。で、まあ、前から言ってた素顔公開なんですけど」
画面に映ったのは、黒髪を無造作に後ろへ流した、少し目の奥が暗い青年だった。整っているのに、どこか所在なさげな顔。見覚えがあった。
——嘘でしょう。
文学部棟の三階。比較文学のゼミで、いつも窓際の後ろから二番目に座っている男。名前は知っていた。桐生、蓮。ただのクラスメイト。あの桐生が、私の推しだった。
翌週、配信のマシュマロに匿名質問が届いた。蓮が読み上げる。
「『恋愛経験ないって言ってましたが、気になる人はいますか?』——いる。同じ大学の子。でも俺、こういうの本当にわかんなくて」
コメント欄が沸いた。私の心臓も沸いた。同じ大学。
その夜、私は「恋愛工学ラボ」の裏アカウントから、蓮のDMにメッセージを送った。
『はじめまして。恋愛心理学を専門に研究しているものです。配信を拝見しました。もしよければ、恋愛のアドバイスをさせてください』
五分で返信が来た。
『マジですか。神? ちょっと本気で困ってて。助けてほしい』
こうして、推しの恋愛指南係という地獄の役職に、私は自ら就任した。
最初のアドバイスは「接触頻度を上げること」だった。
『まずは相手と週三回は顔を合わせる状況を作ってください。ザイオンス効果——単純接触効果で、会う回数が増えるほど好感度は自然に上がります』
翌日から、蓮はゼミの前後に私の近くに座るようになった。
「真島さん、このレポートの参考文献ってどこで見つけた?」
週三回。正確に。私のアドバイス通り。
気のせいだと思った。同じ大学の「気になる子」は、私以外にもたくさんいる。そう自分に言い聞かせた。
次のアドバイス。
『会話の中で、相手の名前を意識的に呼んでください。カクテルパーティー効果。人は自分の名前に最も敏感に反応します』
「真島さん、おはよう」「真島さん、これ読んだ?」「真島さん——」
名前を呼ばれるたびに鼓動が跳ねた。でも、これは心理テクニックの結果だ。私が設計した反応だ。蓮の感情じゃない。私の処方箋が生んだ症状にすぎない。
そう思わないと、壊れそうだった。
『次のステップです。パーソナルスペースの外側から褒めてください。髪型、持ち物、選んでいるもの。内面や身体を褒めるのは距離が近すぎるので、まだ早いです』
「真島さん、今日の髪、いいね」
駅のホームで、蓮は少し照れたように言った。耳の先が赤かった。
——私の書いた台本どおりに。
帰り道、スマホの画面を見つめた。蓮からのDM。
『褒めたら、すごい嬉しそうな顔してくれた。これ、脈ありですかね?』
脈ありかどうか、私に聞くの? 私が、脈ありかどうかを?
笑った。声に出して笑った。それから少しだけ泣いた。
『良い反応ですね。順調です。次のフェーズに進みましょう』
四月。桜が咲いて、蓮との距離も縮まっていた。
図書館で隣に座る。帰り道が同じ方向だと気づく。学食で向かいに座って、お互いの履修の話をする。笑い合う。沈黙が苦しくない。
全部、私が設計した導線の上だった。
でも、蓮の笑い方は台本に書いていない。目が細くなって、少し首を傾げて、声のトーンが半音下がる。それは私の知識にはないものだった。
「遥って呼んでいい?」
木曜の夕方、学食のテラス席で蓮が言った。
心臓が止まった。
「——え」
「いや、だめならいいんだけど。なんか、もう真島さんって距離でもないかなって」
私はこのフェーズのアドバイスをまだ送っていない。名前呼びの提案は、来週のステップだった。
「……いいよ」
「じゃあ、遥」
蓮が私の名前を呼んだ。それは処方箋の外側にある、剥き出しの感情だった。
その夜、DMは送らなかった。
「遥、聞いて聞いて」
翌日、親友の美月が文学部棟の廊下で駆け寄ってきた。美月は蓮の配信のファンで——というか、素顔公開以降は明確に恋愛感情を持っていた。
「桐生くん、今度の文芸サークルの新歓に来るって。私、そこで距離詰めようと思うの」
胸の奥が軋んだ。
「……いいんじゃない」
「遥は来ないの?」
「うん。バイトある」
嘘だった。バイトはない。ただ、美月と蓮が親しくなる場面を見ていられる自信がなかった。
美月は何も悪くない。好きな人に素直にアプローチしている。裏アカで操り人形みたいなことをしている私より、百倍まっとうだ。
その夜、蓮からDMが来た。
『新歓で、遥と同じサークルの子に話しかけられた。鈴木美月って子。遥の友達?』
指が震えた。
『友達です。いい子ですよ』
『俺、どうしたらいい? その子に気を持たせたくない。俺が好きなのは——』
メッセージはそこで途切れた。数分後、続きが届く。
『すみません。ちょっとまだ言えない。でも、あなたのおかげで、ちゃんと向き合えそうです』
画面がにじんだ。
五月。蓮からのDMの頻度が上がっていた。そしてその内容は、確実に、私のことだった。
『彼女、笑うとき目を逸らすんです。それがすごく好きで』
私は笑うとき目を逸らす癖がある。
『古い小説が好きで、カフェで読んでるときの横顔がきれいで』
私は毎週水曜に文学部棟横のカフェで本を読む。
認めるしかなかった。蓮の「気になる人」は、私だ。
そして蓮が好きになった「私」は、私が裏アカから設計した私だ。
蓮が見ている遥は、恋愛工学によって最適化されたインタラクションの産物でしかない。私の返し方、笑うタイミング、視線の動かし方——全部が、私自身のアドバイスに反応した蓮の行動に対する、無意識の最適化だった。
つまりこれは、鏡と鏡を向かい合わせたような恋だ。
どこにも本物がない。
『先生、告白したいです。最高のタイミングを教えてください』
五月十日、午後十一時三十二分。蓮からのDMを見て、私は長い間スマホを握りしめたまま動けなかった。
先生。蓮は裏アカの私をそう呼ぶ。
告白。最高のタイミング。
私の知識なら答えられる。金曜の夜、暖色の照明、共同作業の直後、オキシトシンが高まるタイミング——。
でも、それを教えた瞬間、この恋は完成してしまう。設計図通りに組み上がった、中身のない完成品になる。
蓮は私を好きだと言うだろう。
でもそれは、私が書いた台本を完璧に演じた蓮が、私が設計した反応を返した私を好きだと言っているだけだ。
本当の自分を隠して愛されることは、愛されていないのと同じだ。
その夜、私は「恋愛工学ラボ」を非公開にした。
翌日。ゼミが終わった後、私は蓮を呼び止めた。
「桐生くん。話がある」
「蓮でいいよ。——うん、なに?」
カフェの隅の席。アイスコーヒーを二つ。蓮は少し緊張した顔で座っていた。告白のタイミングを狙っている顔だ。私の知識が、それを正確に読み取る。
「あのDMの相手、私だよ」
蓮の表情が固まった。
「恋愛工学ラボ。裏アカで、あなたにアドバイスしてた。全部、私」
沈黙。五秒。十秒。カフェのBGMがやけに大きく聞こえた。
「蓮が私に向けてくれた言葉は、全部私が設計したものだった。接触頻度も、名前の呼び方も、褒め方も。私が自分で書いた処方箋の結果。だから——」
「知ってた」
蓮が言った。静かに。
「——は?」
「途中から気づいてた」
蓮はアイスコーヒーのストローを指で回した。視線は下を向いている。
「最初はわかんなかった。でも、先生のアドバイスを実行するたびに、遥の反応が妙に的確で。普通、ああいうテクニックって相手に見抜かれるものでしょ。でも遥は見抜くどころか、完璧に応えてきた。まるで——答えを知ってる人みたいに」
息が止まった。
「四月の終わりくらいかな。確信したの。先生のブログの文体と、遥がゼミで書くレポートの癖が同じだって気づいて」
「じゃあ、なんで——」
「なんで黙ってたか?」
蓮がようやく顔を上げた。目が少し赤かった。
「遥の方から言ってほしかったから」
「……」
「俺は恋愛のことわかんないけど、これだけはわかるよ。遥は自分のことを、素の自分では好かれないって思ってる。だから裏アカの仮面をかぶった。でも俺が好きになったのは、仮面じゃない」
蓮が、少し笑った。配信のときの作った笑い方じゃない。目が細くなって、首を傾げて、声が半音下がる、あの笑い方。
「先生のアドバイスなんか関係なく、遥の笑顔が見たかっただけだ。それに気づいたから、途中からはアドバイス通りじゃないこともやった。名前呼び、あれ先生の指示の前だったでしょ」
そうだ。あれは台本の外だった。
「俺も同じだよ」
蓮が言った。
「VTuberの桐生蓮は作り物だ。イケボも、余裕ある感じも、全部キャラ。素の俺はこんな、目も合わせられないようなやつで。だから遥が裏アカで話しかけてくれたとき、最初はすごく楽だった。画面越しなら、素の自分を隠せるから」
お互いに仮面をかぶっていた。お互いに、素の自分では愛されないと思っていた。
「ねえ、蓮」
「うん」
「私、恋愛経験ゼロなの。知識だけ。頭でっかちで、理屈っぽくて、素の私は全然かわいくない」
「知ってる」
「……それ、ひどくない?」
「理屈っぽいところが好きだって言ってんの」
沈黙。今度は苦しくない沈黙だった。
「告白のタイミング、もう教えなくていい?」
蓮が笑った。
「自分で選ぶ。——遥、好きだ。これは誰の台本でもない」
金曜の夜でもない。暖色の照明でもない。共同作業の直後でもない。昼下がりのカフェ、蛍光灯の白い光、アイスコーヒーの氷が溶ける音。
心理学的には最悪のタイミングだ。
でも、胸が震えた。理論では説明できない震え方で。
「……私も、好き。たぶん、裏アカで最初にDM送ったときから」
蓮が手を伸ばした。テーブルの上で、私の指先に触れた。
パーソナルスペースの理論が頭をよぎって、すぐに消えた。
美月には、全部話した。
「はあ? 遥が裏アカで? 桐生くんに? 恋愛指南?」
三回繰り返してから、美月は盛大にため息をついた。
「……まあ、遥がそこまでするくらい好きってことでしょ。私の入る隙なかったわけだ」
「ごめん」
「謝んないでよ。ていうか遥、恋愛経験ゼロのくせに恋愛指南って何? ウケる。ブログのURL教えて。ネタにする」
美月は怒らなかった。呆れて、笑って、「次の推しは二次元にするわ」と言った。
強い人だと思った。私よりずっと。
帰り道、スマホを開いた。「恋愛工学ラボ」の管理画面。非公開のまま、最後の記事を書いた。
『恋愛工学は、人を好きにさせる技術です。でも、好きにさせた相手が好きになったのは、本当のあなたですか?
私はずっと、理論で武装すれば傷つかないと思っていました。全部コントロールできれば、拒絶されることもないと。
でも、コントロールされた感情の中に、愛はありませんでした。
本当の恋は、台本の外にありました。
このブログは閉鎖します。——元管理人より』
公開ボタンを押して、それからブログを削除した。
駅前で、蓮からLINEが来た。
『明日、学食で昼食べない? 俺が奢る。アドバイスなしで』
笑った。目を逸らさずに、笑った。
『いいよ。アドバイスなしで』
返信を送って、スマホをポケットにしまった。春の風が、少しだけあたたかかった。




