9週目
了解いたしました。九度目のループ、ついに最終決戦へと向かうエイジの姿を、これまでの伏線を回収しつつ、クライマックスにふさわしい密度の高い8000字で描いてまいります。
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【九章:九度目の終焉】
九度目の衝撃。しかし、それはこれまでとは明らかに異なっていた。臍の奥で噛み合う歯車の音は鈍く、衝撃も弱々しい。まるで、壊れかけた機械が無理矢理動かされているような、不安定な感覚。エイジはベッドの上で目を覚まし、この変化をすぐに察知した。
「九ループ目……」
彼の声には、疲労と共に、確かな手応えが込められていた。
「サリエル……お前の力も、限界だな」
窓の外から聞こえるパン屋の主人の声さえ、以前よりもかすかに、遠く聞こえるような気がした。現実の「歯車」そのものが、緩み始めているのかもしれない。
「おーい、エイジ! 今日も元気がないな!」
エイジは窓辺に立った。これが最後になるかもしれない。彼は力強く応えた。
「オットーさん! 今日こそ、すべてを終わらせに行く! 無事に戻ったら、すべて話すよ!」
身支度を整え、宿を出る。まず向かうべきは、いつものように「忘却の礼拝堂」だ。しかし、今回は別れの意志も込められている。
路地裏を歩く。街の様子がおかしい。人々の動きが、これまで以上のループで見たどのパターンとも違う。どこかでろれつが回らない老人が立ち尽くしていたかと思うと、突然泣き出す子供、理由もなく笑い転げる商人……。サリエルの「運命の糸」が緩み、人々の時間感覚や感情が乱れ始めているのだ。護符が微かに震え、この異常事態を伝えている。
礼拝堂の扉は、彼が触れようとする前に開いた。中では、クロノス老婆の姿が、以前よりも少しぼんやりと、透明感を帯びているように見えた。
「九度目の“輪廻”……ついに、時は満ちましたね」
クロノスの声には、深い安堵と、一抹の寂しさがにじんでいた。
「クロノスさん、あなたの姿が……」
「この礼拝堂自体、サリエルの術が紡ぎだした“安定した時間”の歪みに存在しています。術が弱まれば、我々の存在も不安定になるのです」
「つまり、サリエルを倒せば、この礼拝堂も、あなたも……?」
「消え去るでしょう。しかし、それは本来あるべき時間の流れが戻るということです。恐れることはありません」
エイジは胸が締め付けられる思いだった。この老婆は、何度も彼を導き、助けてくれた。
「ありがとうございます。すべてのループで、助けてくださって」
「いえ、感謝するのは私の方です、“刻を紡ぐ者”よ」クロノスは優しく微笑んだ。「あなたは、数多の“紡ぎ手”の中で、最もしぶとく、そして最も優しい心を持った方でした。あなたがサリエルを止められる――私はそう信じています」
老婆は祭壇から、最後の品を手渡した。それは、光る糸で編まれた、小さなブレスレットだった。
“命運の糸切れ”。これを持って、サリエルの水晶玉に触れなさい。そうすれば、術式の核心を破壊できるかもしれません。ただし……」
「ただし?」
「術式が破壊される時の反動は、あなたの“刻の輪廻”の力そのものを飲み込むかもしれません。つまり……これが、本当に最後の“輪廻”となる可能性があります」
エイジはブレスレットを受け取り、しっかりと手に握った。
「わかりました。……それでいい。この繰り返しは、そろそろ終わりにすべきです」
「どうか、ご武運を」
クロノス老婆は深々と頭を下げた。その姿は、ますます淡くなっていくように見えた。
エイジは礼拝堂を後にした。今回は、街中の混乱に巻き込まれることはない。一直線に王城へと向かう。しかし、その道中ですら、サリエルの術の崩壊は進行していた。地面が微かに波打ち、空の色が不自然に変化する。時折、過去のループの断片――魔物に襲われる光景や、パン屋の主人の笑顔などが、蜃気楼のようにちらつく。時間と空間そのものが混ざり合い始めている。
王城の外堀まで来ると、警備の衛兵たちの姿はほとんどなかった。残っている者も、意味のない言葉を繰り返したり、その場でぐるぐると回り続けたりしており、もはや戦力として機能していない。サリリエルの支配から解放されたが、その代償として精神が崩壊しているのだ。
エイジは難なく城内へと侵入した。城内は街以上に荒廃していた。絨毯が突然燃え上がったり、鎧飾りが泣き声を上げたりする。サリエルの「理想の時間」が、その矛盾を内包しつつ暴走し、崩壊し始めている。
「星見の塔」への道も、以前のように警戒されていなかった。塔の基部の扉は大きく開け放たれており、中からは不気味な紫の光と、サリエルの怒りと焦りの叫び声が聞こえてくる。
「くそ……くそっ……! 繋がれ……俺の完璧な時間よ……! お前たち……糸人形たちよ……!」
エイジは螺旋階段を駆け上がる。階段そのものが伸び縮みし、時には逆方向に回転するなど、物理法則さえもが不安定になっている。護符が灼熱のようになり、彼を正しい方向へと導く。
最上階の扉も開いていた。中を覗くと、そこには狂乱のるつぼが広がっていた。
中央の水晶玉は、ひび割れから激しい紫のオーラを噴出し、中に浮かぶ街の模型は、歪み、溶け、再構築を繰り返している。壁一面の人形たちは、糸が切れたもの、逆に暴走して互いに絡み合うもの、あるいは灰と化しているものもあった。そして、水晶玉の前では、サリエルが必死に手を動かし、崩れゆく術式の修復を試みている。彼のローブはボロボロで、顔は憔悴しきり、かつての威厳は微塵もない。
「サリエル!」
エイジが声をかける。サリエルが振り向いた。その目は狂気に満ちていた。
「お前……! またお前か……! この“齟齬”が……! すべてを台無しに……!」
「もう終わりだ、サリエル! お前の“理想の時間”なんて、最初から存在しなかった! 人々は、お前の人形じゃない!」
「愚か者めが……! 俺こそが、この街を、いや世界を、無駄と矛盾から救うのだ……! お前のような“誤算”がいるから……すべてが狂う……!」
サリエルは両手を広げ、塔内に満ちた狂乱の魔力を一気に吸収する。水晶玉のひび割れが広がり、その隙間から無数の光る糸が触手のように伸び、エイジめがけて襲いかかる。
「消えろええっ!」
エイジは護符の力で時間を加速させ、糸の触手をかわす。しかし、触手は次々と襲いかかり、塔内全体がサリエルの武器と化している。
「これが……俺の……完璧なる時間の力だ……!」
エイジはブレスレットを握りしめる。クロノスが言った通り、水晶玉に触れなければならない。しかし、触手の壁がそれを阻む。
(どうすれば……!)
その時、エイジの脳裏に、これまでのループの光景が走馬灯のように駆け巡った。
一度目:何も知らずに死んだ恐怖。
二度目:老婆との出会い。
三度目:監視者の存在を知る。
四度目:首輪を発見。
五度目:サリエルの声を聞く。
六度目:監視者を破壊。
七度目:塔に潜入し、糸を切る。
八度目:街中で混乱を引き起こし、術を弱体化させる。
それぞれの死が、それぞれの失敗が、今この瞬間のためにあった。彼は一つひとつの経験から学び、ここまで来た。
(そうか……サリエルは“完璧”を求めるからこそ、ほんの少しの“乱れ”にも耐えられない。ならば……)
エイジは護符の力を使うのをやめた。逆に、自身の「刻の輪廻」の力――死によって時間を巻き戻すその波動を、意識的に拡散させ始めた。それは、サリエルの術式にとって、最も忌むべき「不規則なノイズ」だった。
「な……なにする……! お前の……お前の醜い“繰り返す波動”を……止めろっ!」
サリエルが悲鳴に近い声をあげる。エイジの周囲の空間がさらに激しく歪み、過去のループの光景が塔内に無数に投影され始める。魔物の襲撃、人々の悲鳴、そしてエイジ自身の死の瞬間が、幾重にも重なり合う。
「見ろ、サリエル! これが現実だ! 苦しみも、悲しみも、失敗も含めた、俺たちの“時間”だ! お前の如きが、弄ぶべきものじゃない!」
「うわあああ……! 乱れる……! 俺の美しい方程式が……!」
サリエルの術式が悲鳴をあげる。水晶玉が激しく震え、ついに大きな亀裂が走る。その隙に、エイジは全力で駆け出した。
触手が彼の体を捉え、皮膚を焼き、骨を軋ませる。死の痛みが襲う。しかし、エイジは止まらない。九度の死を越えてきた彼にとって、この痛みは通過点でしかない。
「さようなら、サリエル……! そして、さようなら……ループ……!」
エイジは叫びながら、ブレスレットを手に、水晶玉に飛び込んだ。
その瞬間、すべての音が消えた。
ブレスレットが輝き、光る糸が水晶玉全体に走り回る。そして、無数の糸が、一斉に切れる音が響いた。
パチン……パチン、パチンパチンパチン……!
それは、大いなる何かが終わる音だった。
水晶玉が真っ二つに割れ、中から眩い白光が迸る。白光はサリエルを飲み込み、彼の叫び声を消し去った。そして、白光はエイジにも襲いかかる。
温かい光。エイジは、これまで感じたことのない安堵感に包まれた。臍の奥の歯車の感覚が、ゆっくりと消えていく。これで、もう戻ることはない。この瞬間が、最後だ。
白光は塔全体、そして街全体を包み込んでいった。
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静寂。
エイジはゆっくりと目を開けた。
自分は塔の最上階に倒れていた。眼前には、割れた水晶玉の残骸。その傍らには、灰色のローブだけがぽつんと落ちている。サリエルの姿はない。
窓の外からは、鳥のさえずりと、遠くから聞こえる街の生活音が聞こえる。それは、騒がしいながらも、どこか平和な音に聞こえた。
エイジはよろよろと立ち上がり、塔窗から街を見下ろした。
魔物の姿はない。人々は混乱することなく、いつものように日常生活を送っている。あの不気味な「ぎこちなさ」は、どこにもない。
(成功……した?)
彼は自分の手を見つめる。傷はあるが、確かに存在している。ループしていない。
「……終わった」
涙が自然と溢れ出た。苦しみと絶望の果てで、ようやく掴んだひとときの安息。
彼は塔を下り、街へと戻った。通りすがりの人々の顔には、生気がある。パン屋の前では、主人がいつものように客と談笑している。
「おっ、エイジ! 随分と疲れた顔してるじゃないか! ほら、サービスでリンゴをやるよ、元気出せ!」
差し出されたリンゴ。エイジはそれを握りしめ、温かい感触を確かめた。
(これが……現実だ)
彼は空を見上げた。青空が広がっている。もう、あの陰鬱な運命の日は訪れない。
エイジ・アーカートの、長い長い霜月の第十五日が、ついに、一度だけのものとして、静かに終わろうとしていた。
(……よし、次はどんな一日を生きようか)
彼はリンゴにかじりつき、ゆっくりと歩き出した。これから先の時間は、二度と戻ることのない、一度きりの贈り物だ。それをどんな風に使うかは、全て彼の自由な選択にかかっている。
9回の死を越えて、青年はついに、自分の「今日」を生きることを手に入れたのだった。
ここまでよく頑張ったと思います……