7週目
七度目の衝撃。歯車が噛み合う鈍い音。しかし、今回はそれに続いて、暗い塔の室内の光景が、より鮮明に、より長くエイジの視界に焼き付いた。無数の光る糸に繋がれた小さな人形。それを操る、長いローブをまとった人物――サリエルの後姿。それはもはや幻影ではなく、ほとんど「記憶」と呼べるほどの確かなものだった。
エイジはベッドの上で目を開けた。体は六度目の死の際の激しい消耗感で重く、頭にはサリエルの「儀式場」の光景がくっきりと残っている。しかし、彼の心には恐怖よりも、むしろ高揚感に近い感情が渦巻いていた。ついに、敵の本体をはっきりと目撃した。そして、その仕組みの一端を理解した。
「七ループ目……」
彼の声には、疲労の中にも確かな手応えが込められていた。
「サリエル……お前の“人形劇”は、もうバレている」
窓の外から、パン屋の主人の声が聞こえてくる。もはや日常の風景ですらある。
「おーい、エイジ! 今日も元気がないな!」
エイジは窓辺に立ち、大声で返事をした。今回は、これまで以上に具体的に。
「オットーさん! 今日は王城の方用の大きな荷物の仕事が入ったかもしれない! 昼過ぎまで戻らないから、パンは預かっておいてくれ!」
少し詳細な嘘をつく。これによって、自分の行動にある程度の説得力を持たせ、不審に思われるのを防ぐためだ。もはや、単なる観察や準備の段階は終わった。今回は、いよいよ「実行」のときである。
身支度を整え、宿を出る。まず最初にすべきことは、これまで以上に念入りな「情報収集」だ。今回は王城そのもの、それも「星見の塔」に潜入する必要がある。そのためには、城の構造や警備の配置、さらにはサリエルに関するより深い情報が必要不可欠だ。
彼はまず、城下町の古本屋へと向かった。ここには、王都の歴史や建築に関する古い資料が数多くある。特に、王城の改修工事の記録や、過去の設計図の写しなどが役立つかもしれない。
店主に「星見の塔」に関する古い図面はないかと尋ねると、店主はしばらく考え込んだ後、奥から埃っぽい羊皮紙の巻物を取り出してきた。
「これだな……これは百年前の大改修のときの、塔の下層部の図面の写しだ。今とはだいぶ違っているかもしれんが、基礎構造は変わっていまい」
エイジは感謝して図面を開き、記憶した。塔には通常の階段の他に、メンテナンス用の狭い螺旋階段や、かつて天体観測機器を設置するために使われた外部の足場が記されている。それらは今は使われていないかもしれないが、潜入経路として利用できる可能性がある。
次に、彼はかつて日雇いで働いたことのある石材屋を訪ねた。王城の修繕を請け負っているこの店では、現在の城の警備の状況について、職人たちの間で噂になっていることがあるはずだ。
親方と雑談する中で、エイジはさりげなく塔の周辺の警備について尋ねてみた。
「あの塔の周りは、最近やけに警備が厳しいらしいな。何かあったのか?」
親方は首をひねった。
「ああ、ほんとだ。俺らが仕事で近くを通る時も、二重三重にIDを確認される。しかも、どうも奴ら、普通の衛兵じゃないみたいだな。動きが……なんていうか、ぎこちないってのか?」
「ぎこちない?」
「ああ。まるで人形みたいな動きだ。不気味なんだよ」
(やはり……サリエルに操られた“監視者”たちが配置されているのだ)
エイジは内心でうなずいた。これは予想通りだが、潜入の難易度が格段に上がることを意味する。
最後に、彼は「忘却の礼拝堂」へと向かった。今回の計画はあまりにも危険だ。クロノス老婆の助言なしには踏み切れない。
礼拝堂に到着し、扉を開けると、クロノスは待ち構えていた。彼女の表情は、エイジの覚悟を悟っているようだった。
「七度目の“輪廻”……あなたの魂は、ついに“源”を見つめましたね」
「はい、クロノスさん。サリエルが塔で何をしているか、はっきり見ました。無数の人形を、光る糸で操っている……あれが“儀式”の本体です」
「まさに……“運命の糸紡ぎ”です」クロノスの声は緊張に張りつめている。「サリエルは、この街全体の運命を、いや、時間の流れそのものを糸のように紡ぎ、書き換えようとしているのでしょう。そして、あなたの“刻の輪廻”は、その完璧な糸の中にできた“ほつれ”なのです」
「では、僕がこのループを終わらせるためには、あの“人形”たちの糸を断ち切ればいい?」
「そうです。しかし、それはサリエル本体に直接挑むことに等しい。先ほども言ったように、極めて危険です」
「他に方法はありません。今回は、塔に潜入します。そして、あの“儀式場”を直接見て、何ができるかを探ります」
エイジの口調は揺るぎなかった。
クロノスは深く息を吸い、しばらく沈黙した。そして、ようやく口を開いた。
“時の歯車の護符”を……もう一度貸しなさい」
エイジは首から護符を外し、老婆に渡した。クロノスは護符を祭壇に置き、静かな祈りを捧げた。すると、護符が微かに輝き、その複雑な歯車の模様が、ほのかに青白い光を放ち始めた。
「これで、護符の力が一時的に強化されました。あなたが“時の流れ”の大きな“歪み”――つまりサリエルの術の影響を強く受ける場所に近づくと、護符が熱く震えて警告を発するでしょう。また、ほんの一瞬ですが、あなたの周囲の時間の流れを“加速”させることができるかもしれません。逃げる時に使いなさい」
強化された護符を受け取ると、エイジはその温かみをより強く感じた。
「ありがとうございます。……これで行きます」
「どうか、無事でありますように」クロノスの声には、深い祈りが込められていた。
エイジは礼拝堂を後にし、いよいよ王城へと向かった。城壁の外堀まで来ると、その威容に圧倒される。しかし、彼の頭の中には、古い図面の記憶が鮮明に焼き付いている。通常の門からでは潜入は不可能だ。彼が目を付けたのは、外堀に通じる排水路だった。かつては大きな水量が流れていたらしいが、今はほとんど干上がっているという噂を聞きつけていた。
慎重に周囲を見回し、物陰から排水路の入り口へと潜り込む。中は暗く、じめじめとしているが、確かに水はほとんどない。這うようにして進み、城内への抜け道を探す。図面の記憶を頼りに、何とか城内の地下倉庫へと続く古い通路を見つけ出すことに成功した。
城内は、外から見る以上に警備が厳しかった。しかし、その動きには、石材屋の親方が言ったように、ある種の「ぎこちなさ」があった。衛兵たちの動きが一定のリズムで、まるでプログラムされているかのように規則的だ。サリエルの術に操られている証拠である。しかし、規則的であるがゆえに、そのパターンを見破れば、隙を突くことは可能かもしれない。
エイジは物陰に身を潜め、護符に集中した。護符は微かに震え、周囲の「時の流れ」の異常を教えてくれる。衛兵の視界から外れる瞬間を見計らい、影に沿って移動する。目的地は「星見の塔」の基部だ。
塔の入り口は、予想通り、通常の衛兵ではなく、動きの不自然な「監視者」たちが固く守っていた。正面からは入れない。エイジが目を付けたのは、図面に記されていた「メンテナンス用の螺旋階段」の外への入り口だ。それは塔の外壁にあり、通常は見えない場所にある。
彼は城壁の影を伝い、なんとか塔の外壁までたどり着いた。そこには、確かにごつごつとした石積みの隙間を利用した、非常に狭い通路が隠されていた。這うようにして中に入ると、内部は埃っぽく、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。どうやら長い間、誰も使っていないようだ。
螺旋階段をひたすら上る。塔は非常に高い。息が切れるほどの階段を上り続け、ようやく最上階と思われる階にたどり着いた。そこには一つのみ扉があった。分厚い樫の扉で、鍵はかかっていないが、何かしらの魔術の封印が感じられる。
護符が熱く震え、警告を発する。この扉の向こうに、強大な「歪み」の源がある。
エイジは覚悟を決め、扉をゆっくりと押し開けた。
そこには、六度目の死の瞬間に見た光景が、そのまま広がっていた。
広い円形の部屋。天井はガラス張りで、空が見える。部屋の中央には、エイジの背丈ほどもある巨大な水晶玉が置かれ、その中には街の微縮模型のようなものが浮かんでいる。そして、その水晶玉からは、無数の光る糸が伸び、部屋の壁一面に並べられた無数の小さな人形に繋がっている。人形は、街の人々、衛兵、魔物――そして、エイジ自身をかたどったものまでもが含まれていた。
水晶玉の前には、長い灰色のローブをまとった痩せた人物が立っている。サリエルだ。彼は振り向いた。その顔は驚くほど老いており、深い皺に覆われているが、目だけは異様な輝きを放ち、強大な魔力を感じさせた。
「……ついに、ここまで来たか、“齟齬”」
サリエルの声は、これまでエイジの脳裏に響いていた声そのものだ。しかし、直接聞くその声には、途方もない重みと威圧感があった。
「サリエル……! この街で、何をしている!」
エイジは必死に恐怖を押し殺し、問い詰める。
「ふふ……何をって?“より完璧な時間”を創るためだ」
サリエルは水晶玉を撫でる。
「この街は、俺の“実験場”だ。人々の運命、時間の流れ……すべてを計算し、より効率的で、矛盾のない“理想の一日”を創り出すための。しかし……お前という“誤算”が現れた。お前の“繰り返す魂”は、俺の完璧な方程式を乱す“変数”なのだ」
「ばかな……人々を人形のように操って、理想だと言うのか!」
「人々は愚かだ。自ら過ちを繰り返し、無駄な時間を積み重ねる。俺が導いてやらねば、真の平和は訪れない」
サリエルは、エイジの人形に繋がった糸を手に取った。
「だが……お前のしつこさには、ある種の“価値”も認めよう。お前の“刻の輪廻”という力……それを俺の術式に組み込めば、“理想の一日”を何度でも試行錯誤できる。お前は、俺の“最高の実験材料”となるのだ」
そう言うと、サリエルは糸を強く引いた。
エイジの体が突然、意思とは無関係に動き出す。腕が上がり、足が前に出る。まるで人形のように。
「っ……! 動け……!」
「抵抗は無駄だ。この部屋の中では、俺が“運命”そのものなのだから」
サリエルは冷笑する。エイジは必死に抵抗するが、体は言うことを聞かない。護符が灼熱のようになり、周囲の時間の流れが歪んでいるのを感じる。
(くっ……ダメか……?)
しかし、その時である。エイジの胸元の護符が、これまでにない強さで輝き始めた。クロノスが込めた力が、サリエルの支配力に対して反発したのだ。
「なに……!? この護符は……“時の老女”の干渉か……!」
サリエルが驚いた声を上げる。その一瞬の隙に、エイジの体の支配がほんの一瞬、緩んだ。
「っしゃああっ!」
エイジはその一瞬を利用し、全身の力を振り絞って前に突進する。目標は、水晶玉から伸びる無数の糸だ!
「愚か者! 止まれ!」
サリエルが叫ぶ。魔術の閃光がエイジを襲う。しかし、エイジは護符の力で周囲の時間をほんの少しだけ“加速”させ、閃光をかわす。そして、手にしていた(かつて資材置き場で手に入れた)欠けた短剣で、光る糸の束をめがけて振り下ろした!
「断ち切れええっ!」
短剣が糸の束に触れた瞬間、激しい閃光と衝撃が部屋中を駆け巡った。糸の何本かが切れ、それに連動して数体の人形が崩れ落ちる。街の模型の中の一点で、小さな爆発が起こるのが見えた。
「ぐおおおっ……! 俺の……俺の完璧な術式が……!」
サリエルが怒りの咆哮をあげる。術式の一部が破壊されたことで、彼の支配力にほんの少しの乱れが生じた。
エイジはその隙に、もう一度糸を斬ろうとするが、サリエルの放った次の魔術が直撃する。
「消えろええっ!」
紫の閃光がエイジを包み込む。七度目の死が訪れる。体が分解されるような感覚。
しかし、エイジの唇には笑みが浮かんでいた。
(やった……少なくとも、傷つけることはできた……!)
そして、死の瞬間、彼ははっきりと見た。崩れ落ちた人形の一つが、あの「監視者」の衛兵をかたどったものであることを。そして、糸が切られたことで、街の模型の一部――魔物が出現する地点の光が、わずかに弱まっているのを。
(次は……もっとたくさんの糸を……)
歯車が噛み合う衝撃。八度目の朝へ。
エイジはベッドの上で目を覚ます。体は七度目の死の消耗でボロボロだが、彼の目は希望に輝いていた。
「サリエル……お前の術は、破れることがわかった」
彼は拳を握りしめた。
「次こそ……あの糸をすべて断ち切って、このループを終わらせてみせる」
七度目の死は、決して無駄ではなかった。それは、強大な敵にも弱点があること、そしてこの果てしないループに終わりが来る可能性を、初めて確信させたのだった。