4週目
エイジはベッドの上で静かに目を開けた。もはや混乱も恐怖もない。そこにあるのは、確固たる目的意識と、わずかながらも希望の光だった。三度の死を経て、彼はこの理不尽な状況を受け入れ、そして戦うことを選んだ。
「四ループ目……」
窓の外からは、いつものようにパン屋の主人の声が聞こえてくる。
「おーい、エイジ! 今日も元気がないな!」
エイジは窓辺に歩み寄り、主人に向かって手を挙げた。
「ああ、今日もよろしく! パンは後で受け取りに来るよ!」
少し早めの対応に、主人は少し驚いた様子だった。エイジはそれを気にせず、素早く身支度を整えた。今回は、これまでのループで得た全ての情報を駆使する。目的は二つ。一つは、魔物の首に光る「あの首輪」の正体を確かめること。もう一つは、あの老婆――彼女の名を聞いていなかった――から、さらに多くの情報を引き出すことだ。
宿を出る前に、彼は机の上にあった木炭の切れ端と裏紙を使い、簡単なメモを取った。
・魔物の首輪(人工物? 誰がつけた?)
・衛兵の不自然な行動(誘導?)
・老婆の言葉「刻を紡ぐ者」「運命の修正力」
・礼拝堂の隠蔽(常人には見えない?)
記憶が曖昧にならないうちに、要点を書き留める。これは三度目のループの最後で思いついた作戦だ。もしもこのメモが次のループでも残っていれば、それは大きな助けになる。残らなくとも、記憶の整理には役立つ。
彼はメモを机の引き出しにしまい、宿を出た。パン屋では素早くパンとリンゴを受け取り、「東の商業地区の礼拝堂について、何か思い出したことはありませんか?」と重ねて尋ねてみた。しかし、主人の答えは前回と変わらず、有用な情報は得られなかった。
(まずは、情報収集だ。事件の背景を知らなければ、表面をなぞるだけになる)
エイジはまず、街の雑踏の中へと身を投じた。今回は、広場や商業地区を避けるだけではない。むしろ、人々の会話に耳を傾け、町の噂を積極的に集めることにした。
酒場の片隅では、熟練の傭兵たちが談笑している。
「……で、西方国境の件、どうなった?」
「騎士団が本格的に出動したらしいぞ。だがな、噂ではよ、あの魔物の群れ、自然発生じゃないって話だ」
「ふん、またどこかの黒魔術師か、隣国の陰謀か?」
「知らん。だが、奴らが王都にまで斥候を送り込んでくるとはな……油断ならんわ」
エイジは耳をそば立てた。魔物の群れが「自然発生じゃない」。これは、三度目のループで見た「首輪」や「衛兵の不自然な行動」と符合する。
別の路地では、商人らしき男が衛兵に話しかけている。
「おい、今日は随分と警戒が厳しいじゃないか。いったい何事だ?」
「上からの命令だ。不審者を厳重に警戒し、特に……魔術関連の物品や、不自然な動きをする者を通報せよとのことだ」
「魔術? ますます物騒な話だな」
「魔術関連の物品」。これも「首輪」を連想させる。エイジはこれらの断片的な情報を頭の中で組み合わせていく。どうやら、この魔物襲撃事件は、単純な魔物の暴走ではなく、何者かによる「人為的なもの」である可能性が極めて高い。だとすれば、衛兵の不自然な行動も納得がいく。彼らは魔物を「処理」しているのではなく、「管理」しているのかもしれない。そして、その標的の一つが、あの礼拝堂なのか? それとも……自分なのか?
(そうか……もしこのループ能力が稀なる力なら、それを狙う者だっているかもしれない)
ひとしきり情報を集めた後、エイジは東の商業地区へと向かった。今回は、魔物の襲撃が起こる前に、礼拝堂にたどり着き、老婆と十分な話し合いの時間を持つことが目標だ。
前回と同じく、細い路地を辿り、空間の歪みを感じ取ろうと集中する。三度目の経験があるため、今回はより容易にその感覚をつかみ、あの質素な礼拝堂を見つけ出すことができた。周囲を通り過ぎる人々の視線は、相変わらず建物を認識していないようだ。
エイジは深呼吸してから、扉を開けた。
中には、前回と同じく老婆がいた。彼女は祭壇の前で祈りを捧げているところだったが、エイジの入ってくる足音を聞くと、ゆっくりと振り向いた。その表情には、多少の驚きと、期待に似たものが浮かんでいる。
「……今回は、随分とお早いですね、“刻を紡ぐ者”よ」
「時間がありません。前回、ここを出た後、死ぬ前に重要なものを見ました」
エイジはすぐに本題に入った。
「あの魔物の首に、光る首輪のようなものがついていました。それは明らかに人工物です。そして、衛兵たちは、魔物を本気で倒そうとしているのではなく、むしろこちらの方向へ誘導しているように見えました」
老婆の目が鋭く光った。彼女は深く頷いた。
「……ついに、あなたは“表面”の下にある“真実”に目を向け始めたのですね。ええ、あなたの観察はおそらく正しいでしょう」
「つまり、あの魔物襲撃は、事故でも自然現象でもない?」
「その可能性は極めて高い。これは、“儀式”の一環なのか、あるいは“何者か”による意図的な“攪乱”なのか……」
老婆は祭壇のほうへ歩み寄り、ろうそくに火を灯した。
「我々がいるこの場所は、“忘却の礼拝堂”と呼ばれています。俗世の喧騒から隔絶され、時の流れから少しだけ外れた場所。普通の人々はその存在を認識できません。しかし、“刻”に関わる者――例えばあなたのような方は、それを感知できるのです」
「“刻”に関わる……? あなたも、このループ能力を持っているんですか?」
エイジは核心を突く質問を投げかけた。
老婆は少し間を置き、遠い目をした。
“刻の輪廻”……そう呼ばれる禁忌の力は、私は持ち合わせてはいません。しかし、過去にそうした“紡ぎ手”たちと接し、その運命を見守ってきた者です。私はクロノスと呼んでください」
「クロノスさん……では、あなたは僕がこの力に目覚めたことを最初から知っていた?」
「いいえ。あなたが二度目の“輪廻”を経験した時に、初めてその“波動”を感じ取りました。そして三度目に、あなたがこの礼拝堂を見つけ出した。それは偶然ではなく、必然だったのでしょう」
クロノスはエイジをじっと見つめる。
「あなたの繰り返すこの“日”は、単なるループではありません。そこには、何かしらの“目的”が隠されている。あなたがその“目的”に気づき、達成した時、初めて“輪廻”は終わりを迎えるのかもしれません」
「目的……? それは、あの魔物を倒すことですか? あるいは、陰謀を暴くことですか?」
「それは、あなた自身が探し出さねばならない答えです。しかし、ヒントは与えましょう。あなたが目にした“首輪”。それは“従魔の呪具”と呼ばれるものです。魔物を特定の命令下に置き、操るための呪いの品。通常、これを扱える者は限られています」
「魔物を操る……? そんなことが可能なのか?」
「ええ。高い代償を伴いますが、可能です。そして、衛兵が魔物を誘導しているのであれば……これは王国の上層部、あるいはそれに連なる何者かが関与している“内部の事件”である可能性があります」
エイジの背筋が寒くなる。もし王国自体が関与しているなら、これは個人の力でどうにかなる問題ではない。
「そんな……僕に何ができるというんですか?」
「“刻の輪廻”は、あなたに“失敗を許す”力です」クロノスの声は強く響いた。「あなたは何度でも挑戦できる。たとえ相手が王国全体であっても、あなたは時間を巻き戻し、その弱点を探り、わずかな可能性を見つけ出すことができる。これこそが、あなたに与えられた最大の武器なのです」
その言葉に、エイジの心に灯がともった。確かに、このループは苦痛だが、それは同時に「試行錯誤」を無限に繰り返すことを可能にする。失敗を恐れずに行動できる。
「……わかりました。では、今回はあの“従魔の呪具”を詳しく観察し、それを操っているのが誰なのか、手がかりを探ってみます」
「それが良いでしょう。ただし、注意を。あなたの行動が“運命の流れ”を変えれば変えるほど、修正力は強く働きます。襲撃のタイミングや規模、経路がこれまで以上に激しく変化する可能性があります」
クロノスは警告を発した。
「承知しました。……もう一つお聞きします。この力……“刻の輪廻”には、副作用や制限はないのですか? 無限に繰り返せるわけではないですよね?」
クロノスの表情が曇った。
「良い質問です。記録によれば、“紡ぎ手”は通常、数度の“輪廻”でその運命を変えるか、あるいは……精神が耐えきれずに崩壊するかです。また、“輪廻”を重ねるごとに、時間の流れとの“軋轢”が大きくなり、体や魂に負担がかかるとも言われています。あなたが感じているあの“歯車の衝撃”も、その表れの一つかもしれません」
エイジは自分の臍を思わず撫でた。あの感覚が増幅していくのだろうか?
「……それでも、やるしかありませんね」
「ええ。あなたの覚悟は伝わりました。では、これを持っていきなさい」
クロノスは祭壇の引き出しから、小さな銀のペンダントを取り出した。それは、複雑に絡み合う歯車を模したデザインだった。
“時の歯車の護符”です。これを持つ者は、ごくわずかですが“時の流れ”に対する感覚が鋭敏になります。あなたが“修正力”や“危険”を感知する助けとなるでしょう。ただし、これもまた、使いすぎれば“流れ”に気づかれる原因となるかもしれません。慎重に」
エイジは感謝してペンダントを受け取った。首から下げると、ほのかに温かく、周囲の空気の流れがこれまで以上に“意識”できるような気がした。
「ありがとうございます。……必ず、このループを終わらせてみせます」
エイジは礼拝堂を後にした。今回は、死を覚悟した観察ではなく、能動的な探求に向かう。護符が胸元で微かに温かい。
彼は商業地区の、ある程度見晴らしの良い倉庫の屋上へと向かった。ここからなら、広場方面と、礼拝堂への経路をある程度見渡せる。襲撃が始まったら、魔物と衛兵の動きを詳細に観察するつもりだ。
待つことしばし。やがて、予想通り、街の西側から悲鳴と轟音が響き渡った。襲撃の開始だ。時間は三度目と同じくらいか、あるいは少し早いかもしれない。護符が微かに震える。まるで「来た」と合図しているかのようだ。
エイジは息を殺して見下ろした。人々がパニックに陥り、逃げ惑う。そして、煙塵の中から、あの灰色の巨軀が現れた。衛兵たちがすぐに駆けつけ、魔物を取り囲む。しかし、その戦い方はやはり不自然だ。剣の刃を立てず、槍で突くふりをしながら、実際には魔物の進路を限定するように動いている。
(あそこだ……!)
エイジは目を凝らした。魔物の首元。陽光の下で、確かに何かがキラリと光っている。首輪だ。そして、その首輪には、複雑な紋様が刻まれているように見える。距離がありすぎて詳細はわからない。
(もっと近くで見なければ……)
しかし、無闇に近づけば、また死の危険に晒される。どうするか?
その時、エイジは衛兵たちのうちの一人が、他の者たちと少し違う動きをしているのに気づいた。彼は魔物の側面に回り込み、何かを手に取っている。小さな水晶玉のようだ。彼はそれに目を向け、口を動かしている……まるで指示を送っているかのように。
(あの男だ……! 魔物を操っているのは!)
エイジはその衛兵の特徴を必死に記憶しようとした。鎧のデザイン、身長、髪の色。しかし、距離がありすぎて細部まではわからない。
突然、その衛兵がこちらの方向――倉庫の屋上を見上げた。鋭い視線が、エイジを捉えたような気がした。
(見つかった……?)
あり得ない。この距離で、隠れているのに。
次の瞬間、魔物の動きが変わった。それまで適当に暴れていたのが、突然、方向を定め、倉庫めがけて猛然と突進を始めたのである。衛兵たちはそれを止めるふりすらせず、むしろ進路を空けている。
(まさか……あの衛兵の命令で、僕を狙ってきたのか?)
恐怖が脊髄を駆け抜ける。護符が熱く震え、警告を発している。エイジは慌てて屋上を駆け下りた。後ろから、魔物の足音と倉庫が破壊される轟音が迫ってくる。
(逃げ切れるか?)
路地裏を必死に逃げ惑う。しかし、魔物の速度は速い。そして、どういうわけか、エイジの逃げ道を正確に予測しているように思える。衛兵が指示を出しているのだ。
逃げ場を失い、エイジは路地の行き止まりに追い詰められた。振り返ると、魔物が巨軀を現し、咆哮をあげる。その口からは、不気味な紫のオーラが漂っている。
(これまでと、違う……!)
魔物はこれまでとは明らかに異なる、何かしらの力を使おうとしている。エイジは護符を握りしめ、覚悟を決めた。せめて最後まで、あの首輪と、衛兵の正体を見届けなければ。
魔物の口から放たれた紫の閃光。それは熱や衝波ではなく、時間さえも歪めるような、異様な感覚を伴っていた。エイジの体が痺れ、思考が停止する。
(これが……本当の力……?)
視界が紫色に染まり、意識が遠のいていく。四度目の死。しかし、今回はただ死ぬのではなく、新たな重大な疑問を抱えて死ぬことになる。
――なぜ、衛兵は自分を狙うのか?
――あの紫の閃光の正体は?
――そして、このループの“目的”は、果たして何なのか……?
歯車が噛み合う。五度目の朝へ。エイジの旅は、さらに深い謎へと足を踏み入れることになる。