3−2
◇
大学を出てすぐに向かったのは、コンビニだった。
もし真田が、俺も自覚していなかったように、かなりやつれている状態だったとしたら、食べるものなどあったほうがいいと思ったのだ。
ゼリー飲料やおにぎりなど、手軽に食べられそうなものを買い込み、ビニール袋を片手にあのアパートへと向かう。
ジリジリと熱に焼かれた大きな道を進んでいくと、脇のほうに建物の影のような狭い路地が見えて来た。
昼間だというのに、色濃い影を落とす細い道。
その道に入ってまっすぐ進むと、灰白色のコンクリート造りの建物が見えてくる。薄汚れた壁に、半分だけ開いたシャッター。上階の方には窓と小さなベランダ用の手すりが並んでいる。
久々に来てみたが、大きく変わった様子はない。あるとすれば、閉じられたシャッター前に植えられた紫陽花たちが、満開の時期を終えて、カラカラに茶色く枯れていたことぐらいだろうか。
どこから見てもよくありそうな古いアパート。なのに、なんだか妙に入るのを躊躇われる。
俺はあの大きな階段の出入り口をじぃっと見つめてから、よし、と意を決してのぼった。
階段を上がってすぐ、壁面にかけられた郵便受けが目に入った。銀色のアルミで出来た八個分の箱。そのうちの一つに、チラシや封筒などが差し込み口から溢れんばかりに大量に刺さっていた。
その郵便受けに書かれていた部屋番号は『二〇四』。
俺は真田の言っていた言葉を思い出していた。
『家から出られないんだよねぇ』
郵便受けに鍵などは特についていない。俺はぐっと小さく息を飲み込むと、郵便受けの戸を開けて、溜まりに溜まった広告や郵便物を取り出す。
そういえば、ここに通っていた時にも、こんなふうに郵便物がいっぱいになっている部屋があったな、と思い出した。
たしか一〇三号室。そのままチラリと一〇三と書かれた箱を見ると、今は特に何かが溜まっているような感じでなかった。やっぱりあれはきっと、住んでいたのがズボラな人だとか、長期の旅行に行っていたとか、そんな理由があったに違いない。
けれど状況が似ているせいか、俺はなんともいえない焦燥感を覚えた。
きっと偶然だ。そうに違いない。
俺はたくさんの郵便物を両手に抱え、相変わらず簡素な造りの階段をカンカンと踏み鳴らしながら二階へとあがる。
一番端にある二〇四号室のドアの前に立つと、俺はインターホンを押した。
ピーンポーン、と内側で小さく鳴っているのが聞こえる。
しかし、返事はない。
何度か押してみたが、やはり変わらなかった。
事前に連絡もしてあるし、俺が来ることは分かっているはずなのに。
「おーい、真田ぁ。俺だ、橋屋だ!」
何度かノックをして呼びかけてみるが、応答はない。家から出られないと言っていたくらいなのだから、絶対にいるはずなのに。
嫌な汗が首の後ろを伝う。この暑さで吹き出しただけの汗だと思いたい。
俺は試しに玄関のドアノブを回してみる。すると、ガチャリ、とあっさり開いてしまった。
「おーい、真田? 鍵かけてないとか不用心すぎるぞー? いるのかー?」
驚きつつドアを開け、俺は持っていた郵便物をぎゅっと握り締めながら部屋に入る。
しかし、俺はまたそこで驚くことになる。
あんなに綺麗に整頓されていたはずのキッチンは、パンパンに膨らんだゴミ袋が所狭しと積まれており、なんともひどい有様だった。
「……うわ、なんだこれ」
蒸し暑い熱とゴミ袋から漏れるひどい臭いが室内に充満しており、まさしくゴミ屋敷状態。まだかろうじて足の踏み場はあるものの、靴を脱いで入るのが少し躊躇われた。
しかし、他人の家ではあるのできちんと靴を脱ぎ、ゴミ袋でできた迷路を進む。くねくねと、まるで蛇が身体をくねらせながら這いずってできたような隙間を、爪先立ちでゆっくりゆっくり、少しずつ移動した。そうやって、なんとか奥のリビングへ繋がる中扉へと辿り着く。
「おーい真田ぁ、いるのかぁ?」
そう言いながら、開けっぱなし中扉からリビングを覗き、俺は三度めの驚きの声を上げた。
入ってすぐ、まるで室内を見せまいとするかのように、目の前に大きな本棚が置かれている。その横には一緒に飯を食べたり、ゲームをした時に使っていたテーブルが、なぜか縦向きに置かれていた。
「……なんだこれ」
呆然と呟きつつも、置かれた棚と壁の間には、人が一人だけなんとか通れそうな隙間があったので、そちらへと歩みを進める。テーブルの横にはさらに見たことのない細い棚がいくつも並べられ、壁に沿うように細い通路が続いていた。奇妙な家具の配置からして、部屋の中をぐるりと大回りしないと奥には辿り着けないようになっている。
こちら側にこれだけの棚があるところをみると、ベッドはまだ部屋の奥、中央の辺りにあるはずだ。具合が悪いのであれば、真田はベッドで寝ているに違いない。
「おーい、真田ぁ?」
そちらへ呼びかけつつ、まるで渦を巻く迷路のようになった室内をぐるりと周り込み、なんとか部屋の中央へ辿り着いた。そこはやはり色々なもので雑然としてはいるがぽっかりと空間が開けており、キッチン周りに比べると比較的涼しく、そこまで酷い臭いもしない。この猛暑で熱中症にでもなっているのかと思ったが、ちゃんとエアコンはつけていたようだ。
そして部屋の中央には予想通りベッドが鎮座しており、真田が横になっていた、のだが。
「真田……?」
絶句した。
ベッドに横たわっている真田は、以前の健康的な体格は見る影もなく痩せ細り、頬もげっそりと痩けて、目の周りは真っ黒に落ち窪んでいる。肌の質感も、なんだか生気を失って乾いており、なんだか人間の質感とは思えない。
真田はぼんやりと天井を見つめたまま、ゆっくりと気怠そうに口を開いた。
「よぉ、橋屋ぁ。久しぶりだなぁ」
電話で聞いた時と同じ、あのゆっくりとした間延びするような喋り方。
確かに真田に違いはないが、自分の知っている真田とはまるで違う。
あまりの変わりように、俺はしばらく言葉が出せなかった。
「どう……したんだ? なにがあった?」
ようやく出て来た言葉に、真田は虚な目をぐるぅりとこちらに向ける。
「べつにぃ? 何もないよぉ」
「そんなわけないだろ! そんな、そんな状態で……」
「本当だってぇ。ほらぁ、全然、元気だぞぉ」
そう言うと真田はゆっくりと上体を起こし、ほらぁ、と両腕を広げ、二の腕の筋肉を見せるように腕を立てた。しかし、あんなにがっしりしていたはずの身体は、Tシャツを着ていてもわかるくらい、全体的に薄く痩せてしまっている。けれど、本人にはその自覚が全くないらしい。
俺はかつての自分のことを思い出していた。
同じ文学部の友人たちに、学食で指摘されてようやく、自分の頬が痩せ落ちて、目の下にクマが出来ていると気付いたことを。
毎朝鏡を見ていたはずなのに、この家にいる間、俺はそのことに気付けなかった。
きっと、真田もそうなのだ。そうに違いない。
「この通り身体は元気なんだけど、なーんかやる気でなくてさぁ。家から出る気が起きないんだよねぇ」
「そ、そうか……」
本人は元気そうに振る舞うけれど、あまりに痛々しくて見ていられなかった。
郵便受けがいっぱいだったのも、キッチンにゴミが溢れていたのも、身体が弱りきっていて家から出られないせいか、と思い至る。
しかし、俺が今こいつに身体の状態を正しく指摘したところで、信じてはくれないような気がした。俺が自身の異変に気付けたのは、この家の外にいた時である。
きっと、この家にいる間は正しく気付けないのはないだろうか。なんだかそんな気がする。